あの日の学校へ
真由美との時間を満喫しきった頃にはもうすっかり日が傾き夜になっていた。
またねと別れた真由美とは明日も会う約束をした。
本来であれば、そのまま一度実家に戻るつもりだった。だが、私の足は全く別の所に向いていた。
今更行った所で、一体自分に何が出来るのか。出来る事なんてありもしない。
それでも足は止まらなかった。どうしても、行かなければと思った。
私は昼間見た学校の前に、再び立っていた。
ずっと頭の片隅に引っかかっていた。こちらに戻ってきたら訪ねようと思っていた。
私は一切の躊躇なく夜の校舎に足を踏み入れた。
大人がやってはいけない事をしている。私のしている行為は十分に不審すぎるし、罪にも問われかねない。了承も得ずに敷地内に踏み入っているのだから、立派な不法侵入だ。けど、そんな事は構わなかった。
その全ては、宮下先生にある。
私にとって、かけがえのない大切な恩師であり恩人だった。
嘘みたいに優しさに溢れた先生だった。
どうしようもない程に。
優しすぎたからだろうか。
いまだに誰もその答えを知らない。
知る術がもう、どこにも残っていないから。
宮下先生は、もうこの世にいないから。
*
宮下先生が私達二年の担任として過ごした一年後の事。
三年生になった私は真由美と別クラスになってしまった事を残念に思いながらも、新しいクラスの環境にちゃんと適応し始めていた。
それまでの自分であれば、殻に閉じこもって一人ぼっちになっていたかもしれない。そうならなかったのは宮下先生のおかげだった。
先生は当時引っ込み思案で絵ばかり描いている私の事を気に留め、優しく接してくれた。
「千恵、君は本当に絵が上手だね」
最初は緊張したけれど、次第に緊張はほぐれ、気付けばすっかり大好きな先生になっていた。
先生と喋れるようになったおかげで、引っ込み思案な性格は徐々に治り、元気いっぱいと言わずとも、それなりに明るい子供には今振り返ってみてもなれていたと思う。
そんな大好きな先生は、ある日突然消えてしまった。
今でもどうしてと思う。
当時は良く分からなかったが、ある程度成長してから私は先生が死んだ要因をちゃんと知った。
先生は自宅の浴槽で息を引き取った。浴槽の中に頭まで浸かり動かなくなっていたそうだ。
先生の体からは薬物が検出された。薬物と言っても、睡眠薬だ。だが、その量は本来の服用数を大幅に上回ったものだった。
薬の過剰摂取によって浴槽で意識を失った先生は、そのまま湯船の中に全身を沈めそのまま帰らぬ人となった。
つまり自殺という事だ。
誰に聞いてもそんな様子はまるでなかったと言う。
後に職員室の先生の机の中から遺書が見つかった。そこにはたった一言、先生の気持ちが書かれていた。
“みんな、頑張れ”
先生は優しい。優しすぎた。どうしようもないぐらいに。
でも、自分への優しさの使い方を先生は知らなかったのかもしれない。
先生が死ぬだなんて誰も想像していなかった。そんな様子はなかったから。
それもきっと先生の優しさのせいだ。
誰かに迷惑をかけたくないから、先生は誰にも弱い心を見せなかったのだろう。
自分は死んでしまうほど何かに圧迫されていたのに、最後の言葉さえも優しさしかなかった。
私は泣いて泣いて、泣き腫らした。
――どうして死んじゃったの。
先生が死んでしまった理由が、その優しさのせいだなんて幼い当時の私には考えもつかなった。
ただ、優しくしてくれた先生に自分は何も出来なかったという無力めいた感情がぐるぐるぐるぐる回って、悲しくて、辛くてたまらなかった。
戻ってきて欲しい。
先生がもうどこにもいないだなんて、信じたくなかった。
先生の事で心がいっぱいになった。
その時、私は思い出した。
この学校にまつわる、ある話を。
そしてあの日、私は夜の学校へ訪れたのだ。