第6話
静かな部室内に、カタカタとキーボードが叩かれる音が響く。
窓から見える空は薄い雲に覆われており、日が沈み始めたことにより一層暗くなり始めた。
オレたち4人は、1か月後に迫った文化祭のために、ゲーム制作の最終段階に迫っていた。
プログラム自体は完成しているので、後はそれが完全に動くか、ミスがないかなどを全員で実際にプレイしながら確認し、プログラムに問題があればそれをヒロキに、シナリオに問題があればオレに、グラフィックに問題があればミキにそれぞれ報告し、修正する。
そんなことをかれこれ1週間くらい続けていた。
「あ、固まった」
アスナが、PCの画面を見つめながら声を上げた。
オレとミキはゲームを中断し、様子を見に行く。
作業をしていたヒロキも席を立ち、アスナの元に向かった。
「どこ?」
ヒロキが画面を覗きこむ。
マウスをどれだけ動かしても、起動しているゲームのソフトは動こうともしなかった。
アスナがメモ帳を見ながら説明し始めた。
そのメモ帳には、どんな選択肢を選んだか、どんな行動をしたかが細かに書いてある。
「この選択肢で、こっち選んだらこうなっちゃった」
「うーん、最後に修正する前は動いてたんだよね……どっか余計な所いじっちゃったかな?」
ヒロキが頭を抱えながら再び自分の席に戻り、キーボードを叩きはじめた。
「じゃあ、ちょっとトイレ行ってくるー」
アスナが大きく伸びをしながらそう言って、部室から出ていった。
オレとミキも席に戻り、テストプレイを続行する。
「ああ!」
ヒロキがいきなり大きな声を上げた。
オレはびっくりして振り向いた。
「どうした?」
「いや、間違って違う所書き換えちゃってたみたいで……ここをこうしてっと」
そう言いながらヒロキは指をすごい速さで動かし、最後にエンターキーを勢い良く弾いた。
「よし、これで……。リョウたちは今どの辺?」
「オレは今ナツルートのルート5を通って、選択肢8」
オレは自分のメモ帳を指で追いながら報告した。
ミキもそれに続いて、ヒロキに言う。
「私はサヤルートの、ルート3の選択肢10」
オレは今日やるべきルートの再確認をした。
まだ、かなりの量が残っている。
この調子だと、あと4時間はかかるんじゃないか。
「なぁヒロキ、ホントにこれ全部やらなきゃダメか?」
「念には念を入れないと」
ヒロキは軽く笑って言った。
その時、ミキがオレたちの方を見て口を開いた。
「ねぇ、ここのBGM、ちょっと合わない気がしない?」
「どこどこ」
オレたちはミキの方へ近寄った。
画面では、主人公とヒロインが感動の別れを繰り広げていた。
だが、今流れているBGMは、何やら明るい感じのアップテンポの曲が流れていた。
「ホントだ、こりゃ無いな」
オレは思わず声を上げた。
「選曲はアスナの担当だし、もう1曲フリーの曲探してもらうか」
「そうだね」
窓の外を見ると、先ほどまでまだ明るさの残っていた空は、すっかり暗くなってしまっていた。
「――終わった!」
オレは思わず全体重を椅子の背もたれに乗っけて、大きく伸びをした。
外に見える青空は雲ひとつなく、この喜びを一緒に噛み締めてくれているようだった。
「これでとりあえず完成だね」
ヒロキが立ち上がってオレたちを見渡しながら言った。
アスナもミキも、それぞれの席で相当疲れたように目をこすっている。
文化祭まであと10日。
ゲームは完成した。
「でも喜んでられないよな」
オレは大きく息をついた。
そう、ゲームは完成したが、それだけでは終わらないのだ。
そのゲームをDVD-Rに焼き、さらには部室を展示ブースに改造しなくてはならないのだ。
「役割分担しよう」
ヒロキが口を開く。
アスナが鞄から紙を引っ張り出し、言った。
「あみだくじする?」
ヒロキは少し笑って言った。
「そうだね、お願い」
「りょーかい!」
アスナは、紙に4本の直線を引き始める。
オレは声を上げる。
「でもどう分担するんだ?」
ヒロキはミキの方を向き、声をかけた。
「前に描いた装飾の予定図ある?」
「ちょっと待って……あったあった」
そう言って、ミキは鞄から何やら1枚の紙を取り出す。
よく見ると、その紙にはどう展示装飾するかが細かに書いてあった。
思わず声を上げる。
「いつの間に……」
「ちょっと頼んでやってもらってたんだ」
「こういうの好きだから」
そう言って、ミキは笑った。
ミキから受け取った紙を見ながら、ヒロキが口を開く。
「とりあえず、装飾に必要な材料を買いに行かなきゃいけない」
「そうだな」
そこでヒロキが一旦見ていた紙を机の上に置き、自分の鞄から更に紙を取り出し、それを見ながら言った。
「あとはこのゲームを焼くDVDとそのケースを作らなきゃいけないから、それも買いに行かなきゃ」
「DVDにどうやって焼くんだ?」
オレは疑問を口にした。
ヒロキがそれに答えた。
「野田さんの家にDVDコピー機があるらしいから、それを使うことにする。1枚1枚PCで焼くと手間も時間もかかるからね。ジャケットも野田さんの家の大きいプリンタでやってもらう」
「なんか、何でもかんでもミキに頼りっぱなしで悪いな」
オレはミキに声をかけた。
すると、ミキはびっくりしたように声を上げた。
「い、いいの! その位……」
彼女の顔を見ると、少し赤くなっている。
「どうした?」
「な……なんでもないの……」
なぜか、ミキがもじもじし始めた。
すると、アスナのため息が聞こえてきた。
「できたよ」
そう言って、アスナはあみだくじの書いてある紙をペラペラと宙でなびかせる。
アスナはあきれ果てたように、オレを睨みつけているように見える。
ヒロキが口を開く。
「さて、どうするか……」
「とりあえず、DVDとそのケースを買いに行く班と、装飾の材料を買いに行く班で分ければいいんじゃないか?」
オレはそう言って、ヒロキの方を見た。
「そうだね、じゃあやろうか」
あみだくじの結果、オレとアスナで装飾の材料、ヒロキとミキでDVDとケースを買いに行くことになった。
「とりあえず100円ショップ行く?」
オレは横を歩くアスナに声をかけた。
オレたちは材料を買うべく、この辺では1番いろいろな店が集まっている駅前に来ていた。
アスナは表情ひとつ変えずに口を開いた。
「そうだね、安く済ませなきゃいけないんでしょ?」
「ああ、ただでさえ部費は少ないからな」
オレはそう言いながら、アスナの顔をのぞき込んだ。
「怒ってる?」
彼女の顔は、少しムスッとしているように見えた。
そしてアスナは、それを聞いて顔をそらした。
「別に」
オレはそれ以上聞かずに、100円ショップに向かうことにした。
店内には陽気な音楽が流れている。
所狭しと様々な雑貨が至るところに置いてある。
しかも、すべて100円だ。
オレは買うべきものをメモした紙を見ながら、材料を探し、かごに入れていく。
アスナはその後を黙って付いてくる。
オレは彼女の方を振り向いたが、何やら考え事をしているらしくアスナは宙を見ていた。
前に向き直り、そのまま後ろにいるアスナに声をかけた。
「ヒロキと一緒がよかった?」
「別に、そんなんじゃ……あるけど」
アスナはボソッとこぼした。
オレは棚から折り紙を手に取り、かごに入れる。
そして、次の目当ての物を探すために移動する。
アスナは相変わらず黙ったまま付いてくる。
かと思ったが、彼女はふと口を開く。
「内藤くん、まだミキのこと好きなのかな?」
「……どうだろうな」
オレは合宿の時のことを思い出しながら言う。
と言っても、夢だったのかもしれない出来事だが。
「まあ、こればっかりは本人に聞いてみないことにはわからないな」
「そうだよね……」
オレは後ろを振り返った。
アスナは肩を落としていた。
歩きにも、いつもの元気が感じられない。
オレは春頃にアスナとした約束を思い出した。
『よかったら、オレも協力するよ。何かあったら相談しろよ』
オレは口を開いた。
「聞いといてやるよ」
「え?」
オレの声を聞いて、アスナはきょとんとした。
「ヒロキがまだミキのこと好きなのか、聞いといてやるって言ってんの」
「いいの?」
「当たり前だろ。協力するって言ったじゃん」
すると、アスナは少し笑った。
「ありがとう」
オレは、画用紙をカゴに入れた。
「ところでさ」
アスナが、少し距離を詰めて声をかけてきた。
間近で目と目が合う。
オレはドキッとして少し身を引いた。
「な、なんだよ?」
「ミキと何かあったの?」
アスナはニヤニヤしながら、さらに距離を詰めようとした。
立ち止まっているとどんどん近寄られそうなので、オレは歩き始めた。
アスナは口元を歪めながら付いてきた。
「別に何もないけど」
「えー、本当? じゃあ何でミキのこと名前で呼ぶようになったの?」
「なんだろうな……気分?」
オレはそう言ってはぐらかした。
まさか夢のなかで付き合ってその名残で、とは口が裂けても言えまい。
確実に頭おかしいと思われる。
「ふーん、怪しい……」
アスナはそう言いながら、オレのことをジロジロと見てくる。
オレは耐えかねて声を上げた。
「な、なんだよ」
「もしかして、ミキの事好きになった?」
アスナは少し真顔になり、そう言った。
「そんなわけないだろ、行くぞ」
オレはそう言い、アスナを置いてズンズン先に進んでいく。
果たしてどうなのだろうか。
仮にも夢の中ではあるが、オレはミキと……。
自分で自分に嘘を付いているのだろうか。
オレは、自分の気持ちがわからなくなり始めていた。
買い出しが終わったオレたちは、学校に戻った。
部室にはすでにヒロキとミキが戻ってきており、ジャケットのデザインについて話し合っていた。
オレたちに気づいたヒロキが、声をかけてくれる。
「あ、おかえり」
「おう」
「ただいまー」
日は傾き始め、空は赤く染まっている。
カラスの鳴き声が辺りに響いていた。
「買えた?」
ミキが、オレたちの持って帰ってきた荷物を見ながら聞いてくる。
「一応な。出費もできるだけ抑えたつもりだ」
「おお、さすが!」
そう言ってヒロキが材料を机の上に広げていく。
オレはそんなヒロキたちに聞く。
「この後どうする?」
「まあ買い出しでみんな疲れただろうし、これで解散、明日から装飾はやるって感じでいいんじゃないかな?」
ヒロキは材料の有無を確認しながら言った。
アスナもそれを聞いて声を上げる。
「アタシも賛成……もう疲れちゃった」
「だな、じゃあこの後マック行かない?」
オレはみんなに声をかけた。
ヒロキが声を上げる。
「そうだね、パーっとやろう!」
「ありがとうございましたー!」
店から出るオレたちの後ろから店員の声が響く。
外はすっかり暗くなり、少し寒いくらいの涼しさになっていた。
「もうすっかり秋だな」
オレはポツリとこぼした。
ヒロキがそれを聞いて口を開く。
「そうだねー」
「ヒロキ、この後時間ある?」
オレは歩きながらヒロキに声をかけた。
「あるけど?」
「じゃあ、駅前まで歩きながらちょっと話しよう。ってことで2人は先に帰っててくれ」
オレはアスナとミキに手を振った。
「わかった、じゃあまた明日」
「またねー」
2人はこちらに手を振りながら、帰り道を歩いて行く。
オレたちは、それとは反対方向の駅前への道を歩き始めた。
「で、話って?」
ヒロキが歩きながら、顔だけオレの方を向いて聞いた。
オレは、軽く咳払いをしてから口を開いた。
「ヒロキってさ、まだミキの事好き?」
「いきなり何言ってるのさ」
ヒロキは軽く笑ってはぐらかした。
「いいから」
ここで引くわけにはいかないので、しつこく聞く。
すると、ヒロキは観念したように目を軽く閉じ、口を開いた。
「うん、好きだよ。そんな簡単に気持ちが変わるわけないじゃん?」
すると、ヒロキは不思議そうな顔をして、続けた。
「もしかして、リョウも野田さんのこと好きになった?」
「な、何でだよ?」
オレは突然の発言に驚いて、思わず声を荒げてしまった。
ヒロキはそんなオレをなだめるように続けた。
「いや、そう見えるだけ。なんとなくね」
「そう見える?」
「うん」
「うーん……」
オレは唸り声をあげた。
買い出し中に、アスナにも同じようなことを言われたのを思い出した。
「もしかして、僕が野田さんの事好きだからって遠慮してる?」
「そういうわけじゃないけど……」
オレはヒロキの言葉を聞いて、夢の出来事を思い出す。
あの時も、ヒロキはこんなことを言っていたっけ。
ヒロキが微笑みを浮かべながら言う。
「正直、僕よりリョウのほうが野田さんを幸せにできるなら、僕は応援するよ」
「それでいいのかよ、ヒロキは」
オレは少し眉間にシワを寄せる。
ヒロキはそんなオレを見ずに、言葉を続ける。
「他の人がどうかはわからないけどさ、僕は好きな人が笑ってくれればそれだけで十分なんだ。たとえ、その人が僕以外の誰かと付き合うことになったとしても、ね」
まただ。
やはり、ヒロキはそういうやつなんだ。
自分のことなんて、自分の視野には入ってない。
他人の事ばっかり考える。
そんなヒロキを見てると、オレは自分の存在がひどく小さなものに感じてしまう。
「変わらないな、お前は」
オレは、ぼそっと呟く。
ヒロキはそれを聞いてきょとんとした。
「あれ、この話前にもしたっけ?」
「いいや、気にしないでくれ」
オレは顔に入れていた力を抜き、前に向き直った。
そうして歩いているうちに、駅前の明かりが見えてくる。
ヒロキがふと口を開いた。
「リョウは野田さんに告白する?」
「だから違うってば」
オレは軽く笑いながら答えた。
ヒロキは少しムスッとした。
「嘘」
「いや、本当だって」
「ふーん」
ヒロキはこちらに怪しむような視線を向けてくる。
オレは苦笑いして顔を背けた。
そのまま無言で、オレたちは駅まで歩いて行った。
「じゃあ、オレはここで」
オレは駅の入口のところでヒロキに言った。
それを聞いて、ヒロキはこちらに手を振った。
「うん、また明日ね」
オレは振り返って、来た道を戻っていく。
と、1つ言い忘れていたことを思い出して立ち止まり、再び振り返って急いでヒロキの後を追いかける。
それに気づいたヒロキが立ち止まってくれる。
「どうしたの?」
「1つ忘れてた」
ヒロキは首を軽く横に傾け、こちらを見ている。
駅構内は家に帰ろうとする人たちでごった返しており、少しざわざわしていた。
オレは、その雑音の中でもギリギリ聞こえるような声の音量で、ヒロキに言った。
「アスナの気持ち、気づいてやれよ」
それを聞いたヒロキはきょとんとし、軽く口をぽかんと開けた。
「え?」
「それだけ。またな!」
オレは立ち尽くしているヒロキをそのままに手を振り、走って駅構内から脱出した。
人をかき分けながらしばらく走って、駅前の明かりが遠くなる。
軽く息が荒くなる。
駅前の明かりが見えなくなり、オレは走るのをやめた。
ゆっくりと歩き始める。
夜の冷たい風がオレの体をなぞっていき、火照った体を冷ましていく。
「何言ってるんだろうな、オレ」
オレは軽く自嘲的に笑いながら、長い家路をトボトボと歩いた。
「明日かぁ、文化祭……」
オレの横を歩くアスナが小さな星の輝く空を見上げながら言った。
薄暗い路地は街灯に照らされている。
アスナの横にいるミキも空を見つめ、口を開く。
「そうだね……でもなんとか間に合ってよかったね」
「一時はどうなるかと思ったけどな」
オレはそう言って、2人の方に顔を向け、苦笑いをした。
アスナが気まずそうに軽く頭を掻き、視線を宙に泳がせておずおずと口を開く。
「それは……結果オーライっていうか」
「ま、まあ全部がアスナのせいだけじゃないし……たぶん」
ミキが空笑いしながら言った。
それを聞いて、アスナはがっくりと肩を落とした。
「それ、フォローになってないよ……」
辺りには、オレたちの話し声と足音だけが響いていた。
薄暗い路地も住宅が多くなるにつれ、その窓から漏れる光によって少し明るく感じる。
そんなこんなでしばらく歩くと、少し大きな交差点に出た。
「じゃあ、また明日」
ミキが手を振りながらそう言って、オレとアスナが進もうとしている方向とは違う方向に向かって歩き出す。
「うん、また明日!」
「またな」
オレたちはそれぞれミキに手を振った。
そして、2人で家への道を歩く。
お互い何も喋らなかった。
少し冷たい空気だけがオレたちを包んでいた。
オレはふと違和感を感じて、空を見上げた。
薄い雲が頭上を覆っているのに気づく。
その時、ポツリと額に何か冷たいものが当たった。
かと思うと、急に空から大量の雨粒が降り注いできた。
雨による轟音が辺りの空気を震わせる。。
「うわっ、雨!」
アスナが頭を腕で覆いながら、声を上げる。
そして、そのまま急いで近くの木の下に避難する。
オレは鞄を開けて中を探りながら、それに続いた。
しかし少し小さめの木だったので、木の下にいても葉っぱの隙間からかなりの雨がオレたちに降り注いだ。
「早く早く!」
アスナが、オレの方を見ながら急かしてくる。
オレは鞄の中で棒状の物体を掴んで引っ張りだした。
「ちょっと待てって……」
そう言いながら、取り出した折り畳み傘をささっと開く。
そして、開いた傘をアスナの頭上に持っていく。
アスナはそれを見ると、ニッコリと笑って言った。
「じゃ、帰ろっか」
オレたち2人は、小さな折り畳み傘の中を半分ずつ共有して歩き出す。
「リョウ、肩冷たい!」
「はいはい」
オレは、持っている傘を少しアスナの方に傾ける。
すると、オレの肩に雨粒が降り注ぎ始める。
それを見たアスナが声を上げる。
「あ、リョウ、肩濡れてるよ」
そう言って、アスナはオレの腕を掴んで少し引き寄せる。
オレとアスナは傘の下で密着する形になったが、オレたちの体は傘内に収まらず、相変わらず冷たい雨がポツポツと2人の制服の肩を濡らす。
しかし、濡れている方とは反対側からアスナの体温が伝わってきて、少し暖かった。
雨の降り注ぐ音が鳴り止むことなく響く。
アスナが、オレを見上げながら言う。
「なんか久し振りだね、こうやって同じ傘に入るの」
「昔はしょっちゅう傘忘れてたもんな、お前」
オレは意地悪く薄笑いを浮かべる。
「小学生の頃は、この傘でも2人余裕で入れたのにね」
「ランドセルはびしょびしょになってたけどな」
その時、オレたちの間を冷たく強い風が吹き抜けていった。
「おっと」
オレは慌てて傘が飛ばされないようにしっかり持った。
が、その風に乗って雨粒が傘の中に侵入してきて、オレたちの全身を濡らした。
「冷たっ!」
もろに顔にかぶったらしいアスナが目をつぶって声を上げる。
「大丈夫か?」
オレは声をかけた。
アスナは濡れた顔を制服の袖で拭いながら口を開く。
「もう、しっかり持っててよ!」
「はいはい」
オレは適当に返事した。
すると、アスナは黙りこんでしまった。
不安になって、アスナの顔を覗き込む。
「ごめん、怒った?」
「ううん、違うの」
アスナは軽く首を横に振る。
そして、彼女は大きく深呼吸をした。
彼女が口を開く。
オレは雨音で聞き逃さないよう、耳を傾けた。
「内藤くんに……聞いてくれた?」
アスナはそう言いながら、少し照れたように体をくねらせた。
顔をうつむかせ、手を体の後ろで握っている。
「知りたいか?」
オレは道の先をしっかり見つめ、声を出した。
アスナの方を向こうとはしなかった。
しばらく黙った後、アスナは口を開いてこう言ってきた。
「うん、教えて」
それを聞いて、オレは口を閉じた。
迷ったわけではない。
むしろ、答えは決まっていた。
だが、それを言う勇気が足りない。
発音するための口が開いてくれない。
雨がコンクリートを打ち付けるうるさい音が頭の中で暴れまわる。
「……リョウ?」
グルグルと回る脳内に一筋の光のようにアスナの声が突き刺さった。
ふとアスナの方に目を向ける。
薄暗い路地、そして降り続く雨のせいで視界も悪い。
だが、アスナの姿は――オレに寄り添って歩いている彼女の姿だけは、鮮明に網膜に焼き付けられた。
彼女の綺麗な透き通っている目に、オレの姿が映っている。
アスナは軽く首を傾げた。
オレは動かしていた足を止めた。
アスナもそれに従って歩くのをやめる。
アスナの真剣な、それでいて不安の見え隠れしている目でこちらを見据えている。
オレも、その目を見つめた。
そして、持っている傘の柄をギュッと握り締める。
そう、言うんだ。
オレは口を開く。
「ヒロキはミキのこと、もう諦めたってさ。今は新しい恋を模索中だって」
しばらく、雨が傘を打つ音しか聞こえなかった。