壁の向こうの爆弾魔
「あのさ、急にすまんけど」
壁の向こうから声がしたのは、深夜一時を回った頃だった。
お湯を注いで二分半。カップラーメンの蓋を開けようとしていた俺は、割り箸を握ったまま固まった。
「いま部屋で時限爆弾作ってるんだよね」
あまりにも平然としたトーンだった。まるで「今夜のおかず、肉じゃがなんだよね」くらいの軽さだ。
「……は?」
思わず声が出た。このアパートの壁が薄いことは知っている。隣の奴がくしゃみをすれば「お大事に」と心の中で呟くくらいには薄い。だが、まさか壁越しに爆弾の進捗報告をされるとは思わなかった。
「いやさ、赤のコードと青のコード、どっち切ったら爆発すると思う? 映画だとだいたい赤切って助かるじゃん。でも俺、天邪鬼だからさ。赤を切ったら爆発する仕組みにしようか迷ってて」
「……あの、すみません。隣の佐々木さんですか?」
「そうそう。佐々木。覚えててくれたんだ。嬉しいねえ。で、どっちだと思う?」
「どっちでもいいですけど、なんでそんなもん作ってるんですか」
「社会への怒り?」
「疑問形ですか」
「だってさ、YouTubeの動画途中で流れるスキップできない広告、あれ多すぎない? 二回連続で流れると、もうこの街ごと吹き飛ばしたくなるよね」
「動機がくだらなすぎるだろ。通報しますよ?」
「通報してもいいけど、あと二十分で完成しちゃうよ。カチ、カチって音、聞こえる?」
耳を澄ますと、確かに壁の向こうから規則的な音が響いていた。
チクタクという古い目覚まし時計の秒針音と、ピピピッというデジタルタイマーの機械音。それらが合わさって、重厚な時限装置が作動しているかのように部屋の壁を伝って微振動を起こしている。
俺はスープの粉末を入れかけたカップ麺を放置し、震える手でスマホを掴んだ。
画面をタップし、迷わず「110」を押した。
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十五分後。
アパートの狭いワンルームに、息を切らした警察官が飛び込んできた。
中年で、少し白髪の混じった男だ。胸の名札には「安倍」とあり、警部補を示す階級章が付いていた。
「君が通報者の……」
「はい! 隣です! 隣の佐々木って男が爆弾を作ってて!」
俺が壁を指さすと、安倍警部補は制服の襟元を整え、ゆっくりと部屋の中を見回した。
机の上に置かれた冷めかけたカップ麺。散らかった漫画本。そして、俺の顔。
警部補の目は、なぜか爆弾捜査に来た警察官とは思えないほど、静かで、どこか哀しそうだった。
「状況は把握した。……だが、焦って隣の部屋に踏み込む必要はない」
「何言ってるんですか! あと少しで爆破されるんですよ!」
「大丈夫だ。まず君の口から状況を聞かせてほしい。……佐々木君とは、普段どんな会話をしているんだ?」
安倍警部補は俺の狭い部屋の真ん中に腰を下ろし、手帳を開いた。
「会話って……今夜が初めてですよ! でもあいつ、俺の過去をなぜか知ってて……」
「そうか。佐々木君のプロフィールなら、こちらでも調べてある」
警部補は手帳のページをめくり、書かれた文字と俺の顔を交互に見比べた。
「年齢三十二歳。無職。この部屋の家賃は半年間滞納……いや、おかしいな。隣の部屋の家賃は、半年前から君の口座で支払われている」
「え? 俺の口座から? そんなはず……」
「それに、彼の経歴だ。小学校は市立第一小学校、中学は第二中学。高校中退後、製菓工場でアルバイト……」
安倍警部補が読み上げる経歴を聞いて、俺の頭の中に奇妙な感覚が渦巻いた。
それは俺の経歴だ。俺が歩んできた、何一つうまくいかなかった惨めな半生そのものだった。
「おい、佐々木!」俺は壁に向かって叫んだ。「お前、なんで俺の過去を知ってんだよ!」
壁の向こうから、少し寂しそうな声が返ってきた。
「知ってるよ。だって、お前が夕飯に食べるカップ麺の味も、夜中に一人で泣いてる声も、全部知ってるもん。お前、昨日の夜も『誰でもいいから俺の存在に気づいてくれ』って思ってたろ?」
「な……」
「お前は真面目に生きてきたのに、誰にも評価されなかった。会社をクビになって、友達もいなくなって、この四畳半で消えるみたいに生きてる。……なぁ、俺がこの爆弾を爆発させたらさ、明日のニュースになるよ。『アパート爆破』ってさ。そしたら、世界がお前の存在を知るんだ」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
佐々木の言葉は、俺がずっと誰にも言えず、心の底に沈めていた泥のような感情そのものだった。
なぜ、会ったこともない隣人が、俺の痛みをここまで知っているのか。
「佐々木君」
安倍警部補が、壁に向かってではなく、俺の正面に立ち塞がり、静かに言った。
「もうやめなさい」
「俺に言わないでくださいよ! 佐々木に言ってください!」
「だから言っているんだ。……このアパートの隣の部屋には、半年前から誰も住んでいない」
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静寂が部屋を支配した。
チクタクという時計の針と、ピピピッという電子音だけが、やけに大きく響いていた。
「……は? 何言ってるんですか警部補。そこに佐々木が……」
「半年前に空き部屋になっているよ。佐々木という男は、君が勝手に作り出した存在だ」
安倍警部補はポケットから一枚の書類を取り出した。
「君の口座から引き落とされていた隣の部屋の家賃。あれは、君自身が不動産屋に行って『隣の部屋も借りたい』と契約したからなんだ。自分の中にいる『佐々木』というもう一人の自分を、そこに住まわせるために」
「嘘だ……」
「嘘じゃない。君は社会から孤立し、誰とも会話できない寂しさに耐えかねて、自分自身と壁越しに会話していたんだ。『佐々木』は、君の悲鳴であり、屈折した承認欲求の姿だ」
「そんなわけ……じゃあ、あの爆弾の音は!?」
俺は壁を指さした。だが、安倍警部補が指し示したのは、俺の足元だった。
机の脇に置かれた、古びた目覚まし時計と、俺が自作したデジタルタイマー。
重厚な時限装置などどこにもない。ただの目覚ましとタイマーの音。
「俺が……一人で喋ってた……?」
頭が真っ白になった。
じゃあ、さっきまでの会話は? 爆弾の相談は? 赤のコードと青のコードは?
全部、俺が自分の部屋で、一人で声を張り上げていただけなのか?
「あはは……」
壁の向こうから――いや、俺の頭の中から、男の声が聞こえた。
『バレちゃったか。なぁ、俺。悲しいねぇ。誰も話し相手がいないからって、爆弾魔の友達を作るなんてさ』
「黙れ……」
『でもさ、爆弾は本物だろ? ほら、足元を見てみなよ』
俺はハッとして自分の足元を見た。
押し入れの奥から引っ張り出されたカバンの中に、複雑に絡み合ったコードと、ペットボトルに入った水、そしておもちゃの導火線が詰まっていた。
俺は……俺自身が、爆弾の「フリ」をしたガラクタを作っていたのだ。
「社会への怒り」なんて大層なものじゃない。ただ、誰かに自分を見てほしかった。この惨めな人生を、派手な音を立てて終わらせたかった。
『さあ、切ろうぜ』
佐々木が脳内で囁く。
『赤のコードか、青のコードか。赤を切ったら爆発だ。青を切っても爆発だ。だって俺たちは、最初から壊れてるんだから』
「警部補……」俺はへたり込み、涙を流した。「俺、狂ってるんですよね」
だが、安倍警部補は手錠を出さなかった。
彼は俺の前に屈み込み、力強い両手で俺の肩を掴んだ。
「〇〇君」
警部補は、俺の本名を呼んだ。
「私はね、通報を受けて駆けつけた警察官じゃない。君のお父さんから頼まれて来たんだ。『引きこもっていた息子が、最近部屋で誰かと大声で喧嘩している。様子を見てきてくれないか』とな」
安倍警部補の目が潤んでいた。
「私は昔、君のお父さんと同じ交番に勤めていた。幼い君を抱っこしたこともあるし、お父さんからはずっと君の成長や、最近の悩みの相談を受けていたんだよ。だから君の名前も、君が警察官に憧れていたことも、全部知っている」
「あ……」
思い出が、遠い記憶の底から蘇ってくる。温かくて、大きかった手。
「君は狂ってなんかいない。ただ、少し疲れすぎて、自分を見失ってしまっただけだ。爆弾なんて、どこにもない。ここにあるのは、君の傷ついた心だけだ」
安倍警部補は、カバンの中のコードを、迷わず素手で引きちぎった。
バチン、と音がして、タイマーの音が止まった。
部屋の中に、本当の静寂が訪れた。
壁の向こうの音も、脳内の佐々木の声も、もう聞こえない。
「……終わったよ。さあ、帰ろう」
警部補が優しく言った。
俺は自分の膝に顔を押し当て、子供のように声を上げて泣いた。
冷め切ったカップラーメンの匂いと、薄暗いワンルームの空気の中で、俺は久しぶりに、生きている人間の温もりを感じていた。
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「あのさ」
一ヶ月後。実家へ向かう安倍警部補の車の助手席で、俺は静かに口を開いた。
「あの時、カバンに入ってたコード……もし本物だったら、警部補は赤と青、どっちを切るつもりでしたか?」
ハンドルを握る安倍警部補は、チラリと俺を見てふっと笑った。
「切らないよ。両方繋いだまま、君の話を最後まで聞くだけだ」
車窓の外には、抜けるような青空が広がっていた。
隣の部屋には誰もいない。だけどもう、一人で壁に向かって喋る必要はなかった。




