"抱擁"
陽は落ちて居なかったが、
打ち捨てられた納屋は昏く、埃っぽい
君は僕の"躰"を抱いて、泣きじゃくって居る
その音は、他人事のように僕の耳へ響く
僕の意識が、既に躰を離れて居るからだ
君がこんなにも泣いて居るというのに、とても安らかな気持ちだった
それを『道義に反する』と感じる心も、少しは僕の内に在ったが、生きて居た時よりも更に、いま自分の感情が希薄だと感じる
そして、僕はその事を『心地良い』とか『解放された』とも感じて居た
肉躰が無いせいか、笑う事は出来なかったが、そうしたい気持ちでいっぱいだった
───自分は今まで、何を恐れて居たのだろう?
今や、誰も僕を脅かす事は出来ない
殴ることも蹴ることも、罵声を浴びせることも出来ない
暮らしとか未来とか、そういうものに脅かされる事も無いし、外で寝ても野犬や悪いやつに殺されるとか、くだらない事を考えて眠れない夜を過ごさなくて良いのだ
『最初から僕はこうして居るべきだった』
薄れた筈の感情の中で、この事だけは紙に記したように鮮明に残って居る
「生まれて初めて、僕は安息を手にしたのだ」という確信が有った
君は、まだ『僕の死』などという、つまらないことに囚われて泣き続けて居る
哀れにも、このままでは泣き死ぬのでは無いかとさえ思われた
───助けてあげなきゃ
君の涙が怖かった
いま、明確に君は、完全に意味の無い事に対して絶望を感じて居る
救い出して、「僕は大丈夫だよ」と伝えなければならない
腐った木の棚から、針金を手に取る
ゆっくり歩き寄ると、僕は君の細い喉に針金を一周させ、力いっぱい紐の両端を左右に引いた
音も無く、血の球が君の汗ばんだ肌に膨らんでは割れて、首筋を赤く赤く染めていく
痛みと窒息の中
君は声を出す事さえ叶わず、直ぐにその両の眼は真上を指して、躰の肉の、その筋は、引き攣りながら様々な躰液や排泄物を甘やかに垂れ流した
君の生命が、躰から剥離し始める
僕はとうに喪失された口の端を釣り上げて、君の旅立ちを出迎えようとした
しかし、僕はその時になって初めて、自分の意識が希薄になり始めて居る事に気が付いた
感情が喪われて居たせいか、気付く事が遅れてしまったが、記憶の大半が喪われて居る
四肢や指先、そして「思考」の感覚も、今や麻痺したように何も感じられなくなった
そして、心には『自己がこの世界から、自分自身の中からさえ、完全に消失する』という事への根源的恐怖だけが、隙間を埋め尽くすように残った
「僕は……」
「死ぬのか………?」
誰も答えないが、答えは明白だ
崩折れて、呆然と己の手を視る
もう手など、何処にも存在して居なかった




