神父様ありがとうございます
本日もお利口さんでテレジアと留守番していたら、またまた神父様が現れた。この間は前もって知らせがあった事だけれど、今回のは予告なし。三十分もしないで帰って行かれたが。
どうも、わたしを元気づけてくださろうという魂胆だったらしい。「最近彼の顔色が良くないから神父様どうか有難いお話のひとつもしてやって頂戴」と伯母様が引っ張って来られたのだろうか。前回と同様、テレジアに薄い落雁ようの物を与えていらした。
毎週伯母様が持って帰る品と同じだろう。錠剤入れみたいな容器に入れて来る。帰って手を洗うとすぐにそれを容器から取り出してテレジアに与える。口を開けるように目まぜして舌の上にちょこんとそれをのせる。与えられたほうは言いようのない表情になる。ぜんたい何であるのか、まだ伯母様に伺わない──伯母と姪と二人ながら怖いまでに聖画的な眼差しで見つめ合う儀式ゆえ安易には聞けない──けれど、おそらく、教会で列に並んで受け取る食べものと同一ではあるまいか。違いは、教会へ行くと白くて丸い(御聖体と呼ぶらしい)物を口に運んでいるのに、テレジアの舌にのせるのは小指の爪大でもって角ばっている。施設にいた時も、日曜日に訪ねてくれば大概姪に向かって儀式を施していた。
神父様には旧約聖書を読んでみたらと勧められた。特に『詩篇』はなかなかですよと。自分の因果が他者に報う、過去にAさんが犯した過ちのせいで今のBさんが不幸を見る、の類は現に観察される事象かも知れないけれど、わたしがテレジアの認知症を発症させたと思い込むとすれば間違いだし、第一、テレジアが命のごとくにしている教えと相容れない発想だと、伯母様と同じように言われる。
心に想像して想像の上で行なう罪と、実際に行なう罪とでは、まるで次元を異にする罪である。キリストは二つが同罪だなんて教えなかった。もし同罪と考えるならキリストの言葉を早合点した証拠だ。キリストは人間の本性を説き明かした。人が悪さする時はその心に問題がある。悪をたくらむのは心を持つ者の本性だ。人間とは心を持つ者だから、心の中で起こす事件を手と体を使って起こさぬよう律せよ、さもなくば世の中は茶々滅茶のゲヘナ地獄。想像したことは想像の段階で踏みとどまれと、これをこそキリストは言わんとしたのだと、今日神父様が教えて下さった。




