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雪翅のための身代わりの魔女

作者: 猫村空理
掲載日:2026/01/01

 雪翅(ゆきはね)の住む里には雪の降るころ魔女の一団が訪れ、木の芽が萌え出すころに去っていく。里の中腹に湧く温泉を目当てとした、湯治も兼ねた滞在だった。

 かれらは揃って黒く豊かな髪のいく房かに木の珠を通し、また梟の風切羽を括った出で立ちで、近づけばカロカロと涼しげな物音がした。梟の神を崇め、怪しげな(わざ)を使い、年中諸国を巡業してまわる。神職のいない小さな村の祭祀には欠かせない存在だが疎まれてもいた。そのため一つところに居を定めることはなかった。

 女ばかりの集団と見えたために「魔女」と呼ばれたが、極端な女系というだけで男もおらぬことはない、ようだ。

 初雪が降り、景色が青く霞む。カロカロと木珠の音が風に乗って届く。薄く張った雪を踏み締め、魔女が里を訪う。

 一団の中に群を抜いて上背のある青年が混じっている。女たちと同じように長く伸ばした黒髪を珠と羽で飾って垂らし、抜けるような白皙と涼やかな目元の、美人画のような男だった。はだしに雪駄をつっかけて往来に出ていた雪翅は、ぴょんと飛び跳ねて手を振る。


「タカヒト!」


 声をあげれば、その瞬間彼は雪翅を見つける。黒真珠を思う謎めいた瞳とまっすぐに目が合う。とろけるようにほほえんだ彼が、そっと片手をあげる。












 雪翅とタカヒトがともに冬を過ごすのはこれで十度目になる。

 雪翅が薄着のまま稽古場から出ると、表門のそばで立ち尽くす痩身が目に入った。虚心にくもり空を見つめていた瞳が、雪翅を認めて焦点を結ぶ。雪翅を待っていたようだった。


「タカヒト?」


 ぴょこぴょこ、人慣れした子猫に似たむじゃきさで雪翅は彼に近づく。

 曇天の下にさらされた彼女の肌はばら色に上気し、冷えた外気とのあわいに湯気を立ち上らせていた。汗もひかぬままの少女の肢体に眉をひそめ、タカヒトは、自身の羽織から肩を抜く。夥しい量の糸が打ち込まれたぶあつい魔女の羽織は緞帳のように重く空を打つ。


「雪翅、あかんで。風邪引くわ」

「平気よ。雪翅、この時期風邪を引いたことないの」

「あのなぁ。莫迦は風邪を引かんの、なんでか知っとる?」

「ううん、なあにそれ。ばかでも風邪は引くでしょう?」

「そやね。けど莫迦やから、風邪引いとることに気づかれへんのやって」


 タカヒトの常から囁くような声は葉擦れに似ている。身長差もあって、雪翅にはひどく聞き取りづらい。無意識に距離を詰め、首を伸ばす彼女の肩に、タカヒトが自身の羽織を被せる。


「着とき」

「汗、染みちゃうわ」

「そんなんええよ」

「ところでさっきのってどういうこと? 急に関係ないお話をしたでしょう、ばかは風邪をひかないとかどうとか」

「自分の胸に聞いてみ」

「またそういう言い方して」


 タカヒトの、見た目通りずしりとした羽織をかき合わせ、少女はぷいとそっぽを向く。そのままあさっての方へ早足で歩き出した雪翅の後を、緩やかな大股が追いかける。


「あっは……怒った?」

「怒ってない」

「……どこ行くん?」

「沐浴所」

「ついてってええ?」

「中まではダメ」

「そ、れは……わかっとるよ」


 いかにも女好きのしそうな外見のくせに、タカヒトはうぶだ。急に静かになった彼の手を、雪翅がぱっと掴む。


「来たって面白いことないの、知ってるでしょ。外で待つだけよ?」

「あ……ええよ。待つの好きやし」

「タカヒトの言うそれ、雪翅はぜんぜん理解できないわ」


 頭ふたつ背の高い男の手を引き、下草の上に降り積もった雪をさくさくと踏みつぶして歩く。しばらく大人しく雪翅に付き従っていたタカヒトは、ふと少女の手の甲を撫でる。


「痣、できてんで」

「稽古でぶつけたの」

「痛いやろ」

「痛いけどへいき」

「あの」言い淀む間。垂れ眉をさらに下げ、口ごもりながら、細い声で問う。「雪翅はほんまに、折檻されたり、しとらんの」

「してないわ。雪翅より上手に舞える人、いないもの。いつも言っているのに、いいかげん失礼じゃなくて?」

「……そやね、ごめん」

「いいけれど。あなたはそういうひとだもの」

「うん……」


 手をきゅう、と引かれて雪翅は足を止める。ふりかえる前に、突然掌から全身へ掻痒感が広がった。目に見えぬほど微細な蟲が皮膚の下を駆けてゆくような、不快感。肌がざわりと粟立つ。


「う、タカヒトっ……?」

「うん、すぐ終わるから。ごめんな」

「……すぐ終わる、とか。そういう問題じゃないわ」


 はく、と溜めた息を吐き出したころにはざわめきもおさまり、雪翅の体から、タカヒトに見咎められた痣が跡形もなく消え去っている。彼女はちいさな指で、自身の指先をそっとなぞった。貝がらの内側のように滑らかな皮膚が指紋に吸いつく。雪翅の手はこんなふうなはずがないのに。

 タカヒトが自身の手を空に透かして唸る。


「雪翅……肌荒れすぎと違うか? 僕の軟膏、分けたげようか」


 タカヒトの、鶴の脚指を思わせる、長くうつくしい指先に生じたいくつかのささくれを雪翅はじっとりと睨んだ。

 タカヒトはいつも人のことばかり。雪翅にはそれが気に入らない。やめろと言っても困ったように笑うだけだ。


「嫌ぁ。だって手を洗うたび塗れって言うんでしょう? いらないわ」

「そっか、そやろね。今日はお湯上がったら、すぐ僕のところおいで」

「どうして?」

「世話したげるから。どうせ放っといたら髪も拭かんのやし」

「拭くわ。見てなさいよ」

「見るからはよ来なね。湯殿は滑るし転けんように」

「わかったってば」


 唇を尖らせながら、雪翅はタカヒトの小言を最後まで聞く。雪翅にそんな心配をする人は、この世にタカヒトだけだった。












 雪翅は天舞を継ぐ家の末娘として生まれ、兄弟弟子たちの誰よりも舞踏の才に恵まれた。背も伸びず肉も付かない、貧相で軽すぎる身体は目を見張るほど高く跳ぶ。この里でいちばん身軽な踊り子が、足を滑らす心配などをする人間はいない。

 ついでにいちばん生意気で減らず口の娘だから、あえて身を案じてやろうというものもいなかった。

 湯浴みを終え、肩に羽織、まだ湿った髪に手拭いをかぶった雪翅は、湯殿の縁側をひたひたと歩いていた。面した前庭ではイチイが天へのたくるように生え、赤く有毒の実をつけている。

 雪景に鮮やかな子実を、タカヒトが縁側に腰掛けながら眺めていた。手持ち無沙汰そうに掌の中でなにかをもてあそんでいる。魔女の外套は雪翅に貸したままだから、ふだんより嵩が減って華奢な背中だった。

 待ちぼうける姿が寂しげに見えて、雪翅はその背に声をかける。


「ほら見なさい、ついてきたって暇だったでしょ」


 憎まれ口にはこたえず、タカヒトは肩ごしに彼女を見上げ「雪翅」と柔らかく笑んだ。春を迎えた新芽が先から解けるような、その表情は妙に雪翅の胸をざわめかせる。


「フン……。どう? 髪はちゃんと拭いたわ」

「えらいやんかぁ。こっち座り」

「うん」


 素直にとなりにかけると、タカヒトは雪翅の解いた髪の房をそっと掬う。濡れてやわい髪から薬湯の青い香りがたつ。


「なにするの?」

「乾かすんよ。姐さんがいらん言うて、僕にくれた魔道具があって」


 タカヒトの手の中にあったのは細身の櫛だった。煮詰めた蜂蜜のような、とろみのある光沢を放つ赤銅。風切羽を模した意匠で、持ち手には三角錐と見える図形が彫り込まれていた。

 タカヒトはその刻印を親指の腹で擦り、毛先に櫛の歯を通す。とたん起こったぬるい熱が雪翅の頬を撫でた。


「わっ」


 目を丸くする雪翅へ宥めるように笑んで、タカヒトは美しい櫛で彼女の髪をといていく。普段はよく拭いても長い間ひやりと水気を纏ったままの髪が、(くしけず)られる端から乾き、さらさらと肩に落ちかかる。頭皮に春風のような熱がふれ、雪翅はくすぐったさに首を縮める。


「熱かった?」

「ううん、びっくりしただけ……。すごいわ、それ、なあに?」

「魔法の櫛。外つ国の魔女が作ったんやって。自分で魔法が使えれば、ただのがらくたなんやけど……僕には、できんから」

「そう。じゃあ、譲ってもらえてよかったわね」

「まあ……そうやね」


 歯切れの悪い答え方に、雪翅はあごをあげてタカヒトを窺う。彼の口の端に浮かんだ苦い笑みは、雪翅の視線に気づいてすぐに消える。恥じいるように伏せられたまつ毛が瞳を隠した。

 タカヒトが使える魔法はたったひとつだけだ。女所帯ゆいいつの男性で、落ちこぼれ。ただ舞うことを望まれ、望まれるだけ応えてきた、落伍者の気持ちを知らない雪翅にも「きっと苦労しているのだろうな」程度の想像はできた。

 雪翅は、ことん、と細い首をかたむける。


「タカヒト、旅団を抜ける気はないの?」


 彼女は遠慮を知らなかった。


「え……っと、」


 まっすぐな質問にタカヒトの手が止まる。その腕に手を触れ、雪翅は彼に向き直る。まるく、常に潤みのある目で、やはり遠慮もなくタカヒトの顔を覗き込んだ。小柄な雪翅よりずっと上背があるせいで、タカヒトは俯いても彼女の瞳から逃げられない。引く気のない雪翅に根負けして、そっと唇をひらく。


「僕……でも、できること、なんにもあらへんもの。団を抜けても、行く場所、ない……」


 言いながら、その頬にじわりと朱が差す。泣いてしまうかしら、と雪翅は思う。昔からこんなふうにして、雪翅のせいで泣かせていた。頬の曲線に、雪翅はそっと指を伸ばす。


「ねえ、抜けろなんて言ってないわ。そんな顔しないで。……できることがなくても、男手がほしい人はいっぱいいると思うけど」

「僕、魔女やもん」硬い声だった。軽薄な慰めを拒絶する頑なな声色だ。「ほとんど魔法使われへんけど、それでも。僕は魔女や。……魔女は嫌われ者なんよ。よそから来た、素性のわからん、ろくな魔法も使えん男の魔女……。そんなの受け入れる、莫迦はおらん」


 そう、と相槌を打って、雪翅は瞬く。

 雪翅のまだ熟さぬ胸ではかける言葉が見つからなくて、けれどなにか言わなければと心が急く。この、なんの咎もない優しい友人が、そうまで自分を恥じなければならないのは間違っていると思った。


「雪翅……雪翅は、いつかね、もっとおおきな舞台で踊ってみたいわ」

「そ、そうなん」


 いきなり変わった話題へ口ごもるタカヒトに、おかまいなしで彼女は続ける。


「天井が高いか、ないのがいいわ。里のお堂は天井に足がついちゃうの」

「……ゆ、雪翅、すごいんやなあ」

「そうよ。だから、それでね」


 雪翅は、その構想を誰にも告げたことがなかった。

 口にするまで、雪翅自身すら、まさか自分が本当にそのようなことを望んでいるとは思いもしなかった。


「雪翅は、ここではないところに行きたいわ」


 天舞とは神事であり、天ツ神へ舞踏を奉納する舞手は、生涯里の外を知らずに過ごす。里を囲む山中には縄が張られ、舞手たちはその外に出ることを禁じられた。雪翅も、里を出たことがない。山ひとつ向こうの隣村の景色すら知らない。行き交う旅人たちの噂話でのみ外界を知る。

 稀代の踊り子と称される彼女は、勝手気ままに見えながら、その実極めて不自由な存在だった。


「芸事がじょうずにできれば、外でも金子をもらえるのでしょう? 雪翅はきっとうまくやるわ。だからタカヒトも、一緒に来て」

「……僕、なんにもできひんよ」

「髪、乾かすの、じょうずよ」少女は首を傾け、その肩に、青年の指に慈しまれた細い髪が正絹のように流れる。「あなたをほしがるのがばかなら、雪翅、ばかでいいわ。タカヒトがいいの」


 息を詰め、彼は少女を見つめていた。望外の奇跡を見たように震えていた瞳がふと、陰る。


「そ、れは」


 タカヒトの薄い唇がわななき、不自然に吊り上がった。


「僕が、身代わりの魔法をつかう、魔女やから?」

「……ばかはあなたね」


 雪翅の小さなため息に、彼はびくりと肩をすくめる。


「あ。……ご、ごめん」

「いいわ。とりあえず、考えておいて。なんにしても今年は無理なのだし」

「……なにかあるん?」

「次の夏祭りの花形は雪翅なの。それだけは絶対にやりたい。十五でこの役が回ってくるの、雪翅が初めてだから」

「ほんまにすごいなあ。僕ら、夏は津玖摩にいるから、見ることできひんけど……。残念や」

「一緒に来たら、毎日だって見せてあげるのよ」

「それは……殺し文句やね」


 タカヒトはあいかわらず細い声で言って、眉を下げて笑った。

 雪翅は丸い目でじっとその顔を見つめていた。彼の笑みを、松葉を走る垂水(たるみ)のように思った。それは雪翅だけが知る、世界の小さな輝きだった。

 微笑みが消えるのが惜しくてただ見入った。

 雪翅が凝視していると、タカヒトは照れて顔を背けるのが常だった。けれど今回は、逸れかけた目がもう一度雪翅を向く。

 間近で雪翅を見返す黒々とした瞳はなにかを堪えるように細められている。


「ゆ、雪翅」


 頬がタカヒトのひやりとした掌に包まれた。雪翅からタカヒトの顔へ触れることはあるけれど、逆はめったにない。湯上がりの肌に冷えた手が心地よく、雪翅はうっとり瞬きする。


「なぁに、タカヒト?」

「雪翅、目ぇ閉じてくれへん?」

「わかったわ」


 言われた通りに瞳を閉じて、雪翅は白い瞼をさらす。衣擦れとともに影が差し、カラコロ、と耳横で木珠のぶつかり合うまろい音がする。耳殻を柔らかな羽飾りと木の感触が撫でた。


「きゃ、あは、なに」

「ごめん雪翅」


 笑みをこぼした唇が、柔らかな体温で塞がれた。

 びっくりして雪翅はぱちりと目を開く。至近にタカヒトの瞼があった。伏せたまつ毛の奥から雪翅をまっすぐ見つめていた。お腹の底が竦むような眼差しだった。

 名残惜しげに雪翅の下唇を甘噛みして、青年の薄い唇がわずかに離れる。は、と熱の籠った吐息が雪翅の舌にふれた。いつのまにか雪翅の息もほんの少し上がっていた。


「……タカヒト。口で口に触るのはどういう意味があるの? なにかの魔法かしら?」


 そのまま喋ると互いの唇が掠めた。タカヒトは困り眉になって目をそらす。


「なんや、食べてしまいたいくらいかわええとか、そういう、意味やろか……?」

「そうなの?」


 少女はくふ、と笑った。


「タカヒトから見た、雪翅はかわいい?」

「……うん」


 軽くあごを引く彼を満足げに見やり、それから雪翅は伸び上がって、もう一度唇を重ねた。


「雪翅も、タカヒトがかわいいわ」


 タカヒトはしばらくものも言えず雪翅を見下ろし、それから深いため息と共に顔を覆った。


「僕、一生敵わんのや……」


 うなだれたかと思えば、彼はおもむろに雪翅の身繕いを再開する。身の回りのことがからきしな雪翅は、大人しくタカヒトの手に身を委ねる。

 そうしていつのまにか雪翅の冬は終わる。梅の蕾が弾けそうに白く膨らんだ朝、魔女の旅団は姿を消している。春の訪れが雪翅から友人を奪う。寂しいのは幾つになっても苦手だった。












 酒宴の席、雪翅は折った膝をもじもじと揺らす。ふだん正座などしないから、つま先の痺れが人並み以上に堪える。

 いつもなら稽古や舞奉納を理由に欠席を決め込む雪翅だが、今夜に限っては必ず出るように、といつにない剣幕の姉弟子たちから厳命されていた。(うけが)う前に肩には金襴(きんらん)、髪は気づけば島田に結われ、朱塗りの高下駄以外の(くつ)も隠されてしまってどうにも行くしかなくなっていた。

 そうまでして、という時点で厭な気がしていた。

 浮腫んで太い男の指が雪翅の肩にかかる。甘酸っぱいような臭気のある、酔客の息も。


「お前が雪翅か、やっと見られた」


 一心に覗き込んでくる男の黄ばんだ瞳から、雪翅はわずかに顔を逸らす。


「あたしのことなど、昼間の奉納で好きなだけご覧になられたでしょう」

「しかしこれまで酒の席に現れたことはなかったろう。ほかの踊り子と違い、お前だけは。俺は、こうして間近で見たかった。おまえのその子猫のような澄ました顔を」

「それで、あたしの顔は面白いかしら」


 しゃがれた笑い声とともに、男のたっぷりとした腹が揺れる。密着しているせいで一緒に体を揺すられるのが鬱陶しく、彼女はわずかに眉を寄せる。


「紅も重ねているくせに子供みたいなおもてをしている。お前、本当に十五なのか」

「ええ」

「それは……はは。ますます興が乗った」

「どういう意味でしょう?」


 答えず、男は無遠慮に雪翅の華奢な手首を掴む。重い打掛の袖が音を立てて翻る。肩がきりりと痛んだ。


「細いな。(とり)の足のようだ。これからはもっと飯を食え」

「食べると動けなくなるわ」

「演舞など片手間でいいだろう。女には女の本分がある」

「なら雪翅は女じゃないのだわ。天ツ神さまに一等愛されているもの」


 ク、ク、と男は顎の肉を揺らす。


「跳ね返りめ」

「手を離してくださいな」

「離すものか。今宵、お前の水揚げの権利は俺が買ったんだ」


 はっとして辺りを見回せば、一人、二人と席を立った招待客が戻らない。仲居たちの足音が遠い。雪翅はいつしか、男とふたりきりになっていた。


 ──嵌められた。


 立ちあがろうとして縺れたつま先で打掛の裾を踏む。よろめいて膝を打ち、動けなくなる。転んだのは初めてだ、と雪翅は思う。今まで背中に生えていた翅が突然消えてなくなったみたいだ。本当はそんなもの一度だって生えていたことなどなかった。ぬるい水の膜が雪翅の瞳を覆う。雪翅は、理不尽に直面してただ涙をこぼしたのも初めてだった。衿に太い指がかかって引かれた。

 タカヒトは。タカヒトは、こんなふうに惨めになって、泣いたことがあるのかしら。

 雪翅はすがるように彼の顔を思い浮かべようとして、やめた。幸福な思い出を少しも汚したくなかった、今頼ればそれは、もう二度と温かな記憶として蘇らないような気がした。だから雪翅はひとりきりで我慢した。

 稀代の舞手と謳われた少女はその日を境に舞台から姿を消す。彼女の引き受けていた舞奉納は翌日より数名の妹弟子に引き継がれた。そうしてつつがなく里は回った。所詮よくあることだったのだ。












 霜が降り初めた、里の境を踏み越える。息が白い。冷えた空気を肺に入れると澄んだ心地がする。草鞋履きの密やかな足音とともに木珠の音が響く。

 タカヒトは冬が好きだった。冬に訪れる山あいの里が。

 けれど、その年は何かが違った。澱んだような嫌な空気があった。旅の一座の見学に集まった人垣の中、ひときわ小柄な少女の姿が見つからない。胸が騒ぎ、忙しなく見物人を見回しているところを彼よりいくつか年嵩の魔女に見咎められる。


「なにをキョロキョロしてみっともない。……あんた、まだ雪翅ちゃんに懸想してはるの?」

「……そんなん、姐さんが気にすることと違うやろ」

「あんたなぁ、こないな里の女にあまり入れ込むもんやない。あとでキツい思いすんのはあんたやで」


 聞きたくない、と俯いたタカヒトの耳へ姐魔女の声が明瞭に届く。


「ここは秘湯と、舞と、娼妓の里や。たったひと冬の間に、どんだけの女がウチらへ堕胎を頼むか知らんわけやないやろ」

「でも、雪翅はちがう……」

「違わん、あの子かてここで生まれた芸妓。ちいちゃくてお転婆で、ガキくさいから手篭めにするんはあんまり哀れで見逃されてきただけや。今度がどうかわからんよ」


 聞きたくない、考えたくない。

 ちいさな雪翅。最後に会ったときも相変わらず小さかったけれど、それでもわずかに大人びた。きっと誰が見ても愛らしいと感じる少女だ。淡いそばかす。案外大きな口とそこから覗く八重歯。イタズラっぽい眼差し、潤んだ黒目。

 里外れに旅団の天幕を張るあいだタカヒトは気もそぞろだった。作業の落ち着いたころ、旅装も解かないままふと集団を離れる。ひと目見て安心したかった。そのあと昔みたいに泣かされても構わないから。












 小川の薄氷を踏み割る。ほとりに、暮れかけの陽に照らされて藁葺(わらぶ)きの荒屋(あばらや)があった。(こも)の吊るされた入り口を、タカヒトは屈んでくぐる。小窓がひとつ設けられただけの内部は薄暗く、天井から一本の綱が垂れていた。

 土間の片隅に、少女の姿があった。手足を投げ出して床に座り込んでいる。


「雪翅……」


 彼女は静かだった。薄い胸がかすかに上下して、かろうじて息をしているのだけわかった。


「雪翅なんで、こないなところにおるん。ここ、産屋(うぶや)やろ……」


 彼女は億劫そうに首をもたげる。目を見つめてもその実感がない。底のない井戸を覗き込んだような心地がした。前に会ったときよりひどく痩せた。活力を失い、立ち枯れた幼木に見えた。

 乾いて切れた少女の唇が、うすく開く。


「孕んだからよ」か細い、鈴のような声が暗がりから響く。「雪翅はおかあさんになるの」


 薄闇の中、白い手がおのれの腹を撫でる。痩せた体に腹だけが大きく丸く膨れて、まるで餓鬼だ。タカヒトはこれほどに妊婦を悍ましいと思ったのは初めてだった。

 土間へ一歩、二歩、踏み入る。雪翅の前で膝をついた。


「産まんといてくれ」口をついて出た。「やめてくれお願いや、産まんといてくれ。できっこない。そないな身体で産んだら君、……死んでまう」


 額を床に擦りつけ、タカヒトは懇願した。

 土間からはこれまでに染みついた血や羊水や胞衣(えな)の生々しい臭いが立ち上ってくるようだった。この場所で胎児の頭を産道に詰まらせ冷たくなっていく雪翅の姿がタカヒトの脳裏に浮かんだ、吐き気がした。


「後生やから、雪翅……」


 涙声で哀願する青年のつむじを、雪翅は、ただ見つめていた。

 長い時間のあと、彼女はそっと体を起こす。苦しげに腰を浮かしてタカヒトの肩に手をつくと、耳元へ顔を寄せた。


「雪翅は、……産みたく、ない」


 そこで初めて目が合った。タカヒトの手が、臨月の腹に触れる。












 雪かと思えば梅のひとひらだった。

 どこからか滑り込んできた花弁を雪翅は不思議に見やる。閉じ切った蔵の奥底に、花など入ってくるかしら。

 雪翅の流産は変事として扱われた。一夜のうちに胎児が跡形もなく消え、腹の平らになった妊婦など前代未聞だった。

 懐妊の時期から取り乱しがちだったことも災いし、彼女はやがて生家より私宅監置を受ける。長い歳月、彼女は土蔵の奥の古い座敷牢で置き去りにされていた。

 床に座り込んだまま、雪翅は花びらへ手を伸ばす。つまみあげて目の前でくるくると回した。そうして、格子の向こうに人が立っていることにようやく気づいた。

 ゆらりと人影が動く。まろやかな木鈴の音。


「雪翅、やっと見つけた……」

「……タカヒト?」


 小窓からの陽がちょうど差す場所にタカヒトが立っていた。青年期を抜け出しかけの、相変わらずの白皙が光のなかにきらきらと浮かんでいた。本当に久しぶりに雪翅はなにかを綺麗だと思った。

 見上げて、目をすがめる。


「タカヒト、久しぶりね、こんなところでどうしたの?」

「久しぶりやないわ僕がどんだけ探したと、……いや、そんなんもうええか。雪翅、迎えにきた」


 檻の向こうからタカヒトが手を伸ばすから、雪翅は萎えた足でゆっくりと立ち上がる。掌で掌を受け入れた。ひんやりした手。


「雪翅はどこにも行けないわ。出られないもの」

「出れるよ」


 タカヒトの指に撫でられただけで南京錠はほどけた。原型のわからない滑らかな形になってごとりと床に落ちる。そしてあっさりと檻が開く。

 おいで、と手を差し伸べられて雪翅は怯んだ。


「い、行けない」立っているのが辛くなってぺたりと座り込んだ。「雪翅はここにいないとだめなの。いなくなったら探されてしまうわ」


 それは単なる口実だった。本当はただ怖かっただけ。いまさら扉が開いても、雪翅はもうかつての雪翅ではない。

 動かない彼女へ苦く笑み、タカヒトは土蔵の入り口を振り返って「おいで」と手招く。ごく軽い足音が牢へ近づいてくる。


「雪翅、紹介したいひとがおるんよ」

「紹介?」

「うん」頷き、かたわらまで来た人物の肩に手を置く。「この子。白羽(しらはね)っていうんや」


 九つほどの歳の、小柄な少女だった。

 丁寧に結われたおさげ髪。緊張したように引き結んだ口元と、雪翅を一心に見つめる潤んだ目。

 かわいい、と思った。少女の容姿は雪翅に生き写しだったけれど、彼女にはもうわからなかった。雪翅は自分の外見などとうに忘れていた。


「あなたはだあれ?」

「わたしは白羽、です。……会いたかった、お母様」

「……おかあさま?」


 予想だにしない呼び名に、雪翅は説明を求めてタカヒトを見やる。タカヒトは慈しむように微笑んで、雪翅と白羽を眺めた。


「雪翅からもらったややを、僕が代わりに産んだんよ。腹かっ捌かれて死ぬか思うた。……だから、この子は雪翅と僕の子ぉやね」

「なんで、そんなこと」

「あの時期の胎児なんか、受け取ってしもたら産むしかないやろ。……それにこの子は雪翅の役に立つと思った。な? 白羽」

「はい」


 白羽は膝を折り、いまだ牢の中の雪翅と目線を合わせた。


「お母様、白羽は、あなたになりにきました」


 ──あなたのための身代わりの魔女です、と少女は言った。


「探されるのがこわいなら、白羽がかわりに牢に入ります。あるいは里が憎いですか? 白羽はぜんぶ壊せます。あなたの娘の白羽は、すごい魔女なんですよ」


 誇らしげに、ふくふくとした幼い頬をほてらせ、白羽は言う。言葉を失い、雪翅はまたタカヒトへ助けを求めるように視線を移した。


「娘もこう言ってくれとるのやし……僕と来て、雪翅。白羽はよう死なんよ。この子は天才や」

「で……も」立ち上がれない。雪翅の背中に翅はもうない。「足、ぜんぜん動かないの。どこにも行けないわ」

「なら僕の足をあげる。それで歩けるやろ」


 言いながらタカヒトの手が脚に伸ばされるから雪翅は慌てて牢の奥へ退(すさ)った。勝手に与えられてしまうと思った。タカヒトの瞳が、初めて見るような情念を湛えて揺れていた。


「全部あげる。全部奪ってくれ雪翅。僕の手を取って、僕と一緒に来い」


 差し伸べられた手と、暴力的で一方的な誘い。

 昆虫のようにひたむきに自己犠牲へ邁進する、彼の姿が雪翅の目には恐ろしく映った。

 魔女は人ではない、と言われるのはこのためなのだろう。精神の構造が常人とはわずかに、決定的に違う。けれど。


「……初めは、雪翅が誘ってくれたのやろ。これが答えや。──僕は雪翅と行きたい」


 タカヒトが、自分の願望を口にするのはとても珍しい。雪翅はそれを知っていたから。


「わかったわ」


 と、ついに口にした。

 そもそも、タカヒトをほしがったのは雪翅だ。誰も、タカヒト自身すら彼のことをいらないのなら雪翅のものにしようと思った。

 彼の手を掴み、支えにして立ち上がる。ふらつきながら自分の足で牢を出る。手に触れても勝手に魔法を使われることはなかった。

 見上げれば、高揚のためかタカヒトの目尻が赤い。ついに手に入った、と感極まったような、掠れた声がつぶやいた。そんなものは雪翅の台詞だった。

 改めて並び立てば、白羽は雪翅の顎ほどの背丈だ。上目にもじもじと雪翅を見上げる。ちいさく柔らかな手を、雪翅は空いた方の手で掴んだ。


「ね、あなたも行きましょう? すごい魔女なのでしょ。雪翅とタカヒトはか弱いもの、あなたが守って?」


 白羽の大きな目が、きょとんと見開かれた。


「白羽は……でも、お母様の身代わりにならないと」

「あなたをこの里にくれてやるのは惜しい。雪翅、どうせなら全部がほしいの」


 言い切る。なにかを得るために対価を差し出すなど、元来雪翅の性に合わない。おずおずと、白羽のこまい指が雪翅の手を握り返す。

 そうして三人で手を繋ぎ、幸せな家族のように蔵を出た。

 外では白梅が見頃を迎え、里は馥郁(ふくいく)と薫っていた。煙るように咲いた梅花がまぶしい小春の日差しをはね返す。久方ぶりの甘い風を雪翅は頬に受ける。魔女たちと春を迎えるのは初めてだと思った。

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