第二話 編集室は、アイドルを見る場所じゃない
撮影はなんとか無事に終わった。
スタッフたちが機材を片づけ、助監督のカナと一緒に店主へ挨拶をする。
そのとき、ふと視界の端に入った光景に、俺は思わず目を細めた。
――やっぱりだ。
ミクは皿を抱え、ものすごい勢いで餃子を平らげている。
「ミクちゃん、そんなに食べたらお腹ぽんぽんになっちゃうよ〜!」
メンバーの一人が笑いながらからかう。
頬をパンパンに膨らませ、口いっぱいに餃子を詰め込んだまま、ミクはもごもごと反論した。
「だ、だいじょうぶだもん!」
その必死な様子に、周囲から笑いが起きる。
「はいはい、そろそろ片づけて帰ろ。最近さ、なんか疲れすぎて……吸い取られたみたいなんだよね」
誰かがぼやいた、その瞬間――
箸が、ぴたりと止まった。
ミクの手が、わずかに震える。
その瞳に、一瞬だけ罪悪感のような色がよぎった。
けれど次の瞬間、何事もなかったかのように、また箸が動き出す。
◇
その夜。
俺はソファに倒れ込み、そのまま沈み込むように目を閉じた。
頭の中を巡るのは、ミクの笑顔。
あのとき見えた赤い光。
そして、触れた瞬間に走った、電流のような感覚。
「……疲れすぎだな」
自嘲気味に笑い、意識を手放した。
夢の中。
俺は乳白色の霧に包まれていた。
足元は見えず、踏み出すたびに微かな反響だけが返ってくる。
どこまでも続く回廊を歩いているような感覚。
甘ったるい香りが鼻をくすぐり、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
「監督……」
霧の奥から、声がした。
耳に絡みつくような、柔らかくて、誘惑的な声。
振り向くと、ミクの姿がゆっくりと浮かび上がる。
――でも、昼間の“餃子が大好きな地方アイドル”じゃない。
額から小さな角が伸び、細い尻尾が揺れている。
赤く輝く瞳が、こちらをまっすぐ射抜いた。
一歩、また一歩。
彼女が近づくたび、霧が震え、甘い香りが胸を押し潰す。
「……助けて。監督」
甘えるような声。
尻尾が、俺の手の甲をなぞる。
その瞬間、細い電流が腕を駆け上がり、
痺れが神経を伝って全身に広がる。呼吸すら乱れる。
「……あなたが必要なの」
囁きとともに、赤い光が視界を満たす。
吸い込まれる――そう思った、その瞬間。
◇
俺は飛び起きた。
全身汗だくで、心臓が暴れるように鳴っている。
窓の外は、もう明るい。
「……最悪だ」
顔をこすり、慌てて身支度を整えると、電車に飛び乗って制作スタジオへ向かった。
◇
オフィスのドアを開けると、カナが同僚と何か話していた。
妙に気まずくて、声をかけられず、俺はそっと編集室へ逃げ込む。
中は誰もいない。
助かった、と息を吐き、ドアを閉め、照明を落とす。
モニターの光だけが、部屋を照らした。
メモリーカードを差し込み、再生。
画面に映るのは、ミクララのメンバーたち。
餃子を紹介する声は可愛らしい。
けれど、よく見ると――笑顔の奥に、疲労が滲んでいる。
視線が時折、宙を彷徨っている。
対照的に、ミクだけは違った。
何度も皿を盗み見し、子どもみたいに目を輝かせている。
俺は眉間を揉んだ。
「……ダメだな。テンポも表情も硬い。生きてない」
社長の「失敗するなよ」が、頭にこだまする。
そんなことを考えながら、ぼんやりと画面を見つめていると――
また、あの赤い瞳と感触が脳裏をよぎる。
……倒れ込んできたときの、あの柔らかさ。
そのとき、勢いよくドアが開いた。
パッ、と照明が点く。
カナだ。
「監督、戻ってたなら言ってくださいよ」
軽く責めるような口調。
俺は苦笑して、適当に誤魔化す。
「忙しそうだったからさ。カナ様は有能で多忙だから、無能な監督が少しサボってもいいだろ?」
冗談半分。
でも実際、彼女には助けられている。
仕事は早いし、愛想もいい。
あの“天使みたいな顔”で微笑まれると、厄介なクライアントも大抵折れる。
彼女がいなければ、俺はとっくに潰れていた。
カナは呆れたようにため息をつき、画面のミクに視線を向ける。
「正直に言いますけど。監督、この歳で若いアイドルに夢中って、ちょっとキツいですよ」
「仕事だよ。見なきゃ編集できないだろ」
軽く返しながら、胸が少しだけざわつく。
つい口が滑った。
「……じゃあ、代わりに見る?」
即座に、冷たい声が返る。
「却下。これ以上サボったら、本当に無能監督になりますよ」
「じゃあ俺は、愛しのアイドル映像を堪能し続けるとするか。一緒にどう?」
ニヤつく俺に、カナは目を細めた。
「今のうちに、よく見ておいたらどうです?」
嫌な予感。
「今朝、ミクララのメンバーが二人、倒れて病院に運ばれました。明日の撮影は、全部中止です」
言葉を失う。
社長の机を叩く姿が脳裏に浮かび、胃が痛む。
「それと――」
カナは淡々と続ける。
「センターが、外で待ってます。直接、謝りたいそうですよ」
意味深な視線。
それ以上、彼女は何も言わなかった。
◇
会議室。
空調の音だけが、やけに大きく響く。
ミクは可愛らしい衣装のまま、背筋を伸ばして座っていた。
両手は膝の上で、ぎゅっと握られている。
俺は向かいに座り、頭をかく。
「……メンバーの体調不良で、撮影が中止になってしまって。ご迷惑を……」
小さな声でそう言い、丁寧に頭を下げる。
「い、いや。体が一番大事だから。早く元気になるといいな」
口ではそう言ったものの、頭の中は大混乱だ。
スケジュール、機材、番組進行……全部狂う。
社長に知られたら、間違いなく雷だ。
ミクは唇を噛み、しばらく黙っていたが――
意を決したように、顔を上げた。
「……監督。もう一つ、お願いがあるんです」
お願い?俺に?
ただの小さな制作会社の監督だぞ。
でも、その視線に、拒否はできなかった。
「……俺にできることなら」
一応、警戒はする。
このご時世、男だって身を守らないといけない。
「ほんとですか!」
ぱっと表情が明るくなり、身を乗り出す。
ふわりと、甘いミルクのような香り。
落ち着け、悠真。
これは青春ラブコメじゃない。
「……仕事の範囲で、な」
彼女は俯き、声を震わせる。
「もう……限界なんです。仲間を傷つけたくない。でも……」
「傷つける?」
嫌な想像が頭をよぎる。
ミクは顔を真っ赤にし、深呼吸して――
目を閉じ、一気に言い切った。
「お、お願いします……!
私に、あなたの精気を吸わせてください!」
空気が、完全に凍りついた。




