第一話 田舎の食堂は、アイドルを撮る場所ではない
俺の名前は藤原悠真。
中小規模の映像制作スタジオで、ディレクターをやっている。
今この瞬間、俺は一人の少女と、俺のアパートで二人きりになっていた。
彼女の名前はミク。
地方アイドルグループのセンターだ。
茶色の長い髪は照明を受けて淡く輝き、潤んだような大きな瞳が印象的で、豊かなスタイルなのにどこか愛嬌がある。
そんな彼女が、驚くほど近い距離で、俺の目の前に立っていた。
「……監督」
耳に絡みつくような囁き声。
ミクはゆっくりと顔を上げ、期待と不安が入り混じった視線を向けてくる。
「……準備、できてますか?」
喉がカラカラに乾き、反射的に唾を飲み込んだ。
「……ああ」
自分でも驚くほど弱々しい返事だった。
空気に流されるまま、拒む勇気もなく、俺はさらに情けない一言を付け足す。
「や、優しく……してくれよ」
ミクは目尻に小さな笑みを浮かべたが、何も答えなかった。
ただ、ゆっくりと。
肩に掛けていた薄手の上着を、そっと脱ぎ落とす。
布が滑り落ちると同時に、ほのかな甘い香りが狭い空間に広がった。
心臓が、制御不能なほど早鐘を打ち始める。
一歩、また一歩。
彼女が近づくたび、その体温が圧迫感となって伝わってくる。
「……手、出して」
低い声で命じられ、俺はぎこちなく両手を差し出した。
次の瞬間。
彼女は指を絡め、俺の手を強く握りしめる。
指先が絡み、掌が密着する。
じんわりと、彼女の体温が伝わってくる。
そしてミクは、自ら身体を寄せ、少しずつ俺の顔に近づいてきた。
近い。
彼女の荒い呼吸音が聞こえるほどに。
近い。
淡いピンク色の唇が、今にも触れそうなほどに。
頭の中が真っ白になり、心臓が壊れそうなほど暴れ出す。
俺は目を閉じ、息を止め、その甘い接触を待った――
──「いただきます」
「ドンッ!」
空気が裂けたような衝撃。
部屋全体が揺れ、床から赤い光が噴き上がり、空間を覆い尽くした。
驚いて目を開くと、ミクの瞳は妖しく赤く染まり、額には小さな角が生えている。
可愛らしかった衣装は、いつの間にか身体に密着する黒いレザーへと変わり、曲線を隠す余地すらない。
ハート型の先端を持つ長い尻尾が、ゆらりと揺れていた。
甘美な雰囲気は一瞬で消え去り、息苦しいほどの圧迫感が場を支配する。
――ああ、そうだ。
言い忘れていたかもしれない。
ミクというこの少女は――
正真正銘の、サキュバスなのだ。
◇
数日前。
その頃の俺は、まだこんな非日常に巻き込まれるなんて、想像もしていなかった。
最近の生活は、止まらない独楽みたいなものだった。
仕事は次から次へと舞い込み、会社の規模は小さく、社員を集めても数十人。
資金は常に不足し、給料だってお世辞にも良いとは言えない。
その日、俺は撮影スタッフを引き連れ、地方アイドルグループ《ミクララ》の長編グルメ企画を担当していた。
番組名は――
『ミクララのいただきます!』
社長はやたらと気合が入っていて、
「これは大チャンスだ! 絶対に失敗するな!」
と何度も念を押してきた。
……で、用意されたロケ地が、壁は剥げ、木の引き戸を開けるだけで軋むような古い食堂。
大チャンスって言葉、安請け合いにも程があるだろ。
もっとも、俺自身も夢に燃える熱血ディレクターなんかじゃない。
月末にちゃんと給料が振り込まれて、飢えずに済めばそれでいい。
――少なくとも、その時までは。
撮影スタッフ八名が到着し、ほどなくしてアイドルたちも現れた。
彼女たちは文句ひとつ言わず、むしろテーマパークに来たかのように、目を輝かせながら古い食堂へと駆け込んでいく。
正直、拍子抜けした。
俺はてっきり、愚痴だの休憩要求だのが飛び交うものだと思っていたのだ。
だが現実は正反対。
素直で、無邪気で、少し可愛い。
その姿を見て、胸の奥がちくりと痛んだ。
彼女たちが本気で向き合っているのに、俺だけが適当にやるわけにはいかない。
五年前、あの人がいなくなってから、俺はこの仕事に情熱を失っていた。
それでも、今だけは――
俺は手帳を握りしめ、心の中で決意する。
月末の給料のため……そして、この子たちに負けないために。
◇
その中でも、ひときわ目を引くのがミクだった。
ミクララのセンター。
淡い色のフリルワンピースに身を包み、軽やかな足取り。
茶色のゆるく巻いた長髪が、歩くたびに揺れる。
春の日差しみたいな笑顔で、見ているだけで肩の力が抜ける。
スタイル……いや、プロ意識、プロ意識だ。
「集中しろ悠真。仕事だ。変な目で見るな」
心の中で自分を叱りつける。
撮影開始。
テーブルを囲み、焼きたての餃子を美味しそうに頬張る演技。
笑い声も弾み、雰囲気は上々――に見えた。
だが、モニター越しに見ると、違和感があった。
最初は元気だった数名のメンバーが、次第に目に光を失い、笑顔もどこか無理をしている。
まるで、何かに少しずつ力を吸い取られているようだった。
一方で、ミクは違う。
何度も餃子の皿に視線を送り、必死に何かを我慢しているように見える。
画面越しでも分かるほど、その“欲求”は溢れかけていた。
「……まだ撮影始まったばかりだよな?」
次の瞬間、彼女は箸を伸ばし、こっそり餃子を一つつまみ上げた。
慌ててカメラを気にする仕草まで完璧だ。
思わず笑いそうになる。
センターなのに、自由すぎるだろ。
――いや、この子、本当に食いしん坊なんだな。
食事シーンが終わり、次は厨房の見学パートへ。
指示を出しながら周囲を見渡して、気づいた。
一人、足りない。
「……ミクは?」
助監督のカナは他のメンバーの配置に追われている。
仕方なく、俺は自分で探しに戻った。
予想通りだった。
ミクは一人、テーブルの横にしゃがみ込み、驚くほどの速さで餃子を口に運んでいる。
俺はこめかみを押さえた。
「ミクさん! みんな待ってるぞ!」
声を掛けると、彼女はビクッと固まり、顔を真っ赤にして駆け寄ってくる。
「も、もご……監督、ごめんなさい! すぐ行きます!」
慌てすぎてテーブルにぶつかりそうになり、よろける。
「まったく……」
苦笑した、その時だった。
パチン。
照明が一斉に落ち、闇が空間を包む。
非常灯のぼんやりした光だけが残った。
電源トラブルか、と声を上げようとした瞬間。
胸に、柔らかな衝撃がぶつかってきた。
体勢を崩し、俺はそのまま床に倒れ込む。
「……うっ?」
暗闇に目が慣れるまでの一瞬。
胸の上にいるのが、ミクだと気づく。
彼女の体温が伝わり、触れた部分から痺れるような感覚が全身を走った。
だが、その後に訪れたのは、不思議なほどの温もり。
「ま、待て……」
そう言いかけて、俺は彼女の瞳を見た。
深い黒だったはずの瞳が、宝石のような赤に輝いている。
身体の輪郭が淡く赤く光り、床にも同じ色が走っていた。
「……なんだ、これ」
恐怖が喉に張り付く。
ミクは俺の視線に気づき、慌てて離れる。
頬を赤らめ、目を逸らしながらも、手はまだ俺に触れていた。
「ごめんなさい……監督。わざとじゃ……」
次の瞬間、照明が復旧する。
ミクはハッとしたように手を引き、後ずさった。
呆然としている俺の前に、黒い革靴が止まる。
顔を上げると、助監督のカナだった。
「さっき停電しました。大丈夫ですか、監督?」
黒髪の隙間から覗く視線が、俺とミクを行き来する。
「ずいぶん熱い交流ですね?」
「変なこと言うな。大丈夫だ」
深呼吸し、こめかみを揉む。
「停電でつまずいただけだ。ミクが助けようとして、逆に転んだ。それだけ」
アイドルが監督の上に倒れた、なんて噂が立ったら厄介すぎる。
さっきの赤い光も、見間違いだ。そうに違いない。
「よし、気にするな。厨房に移動して撮影再開だ」
軽く手を振る。
ミクは俯いたまま、俺の後ろを静かについてくる。
カナは最後尾で、冷静な目で彼女を観察していた。
俺の頭に浮かぶのは、ただ一つ。
――頼むから、俺を巻き込まないでくれ。




