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〇〇ミーツ〇〇

ボーイ・ミーツ・ボーイ 屋上のあれこれ

作者: 六時六郎

「待て」

 背後から男の声が聞こえた。

 その声は突風に掻き消されるほど小さな声ではなかったが、かといって耳を劈く大音響でもなかった。

 風の音が聞こえる。

 4階建て校舎の屋上には強い風が吹いていた。12月は北風が冷たい季節だ。制服越しに感じる冬の風は冷たく、痛みすら感じる。

 屋上の風は激しく吹き荒れている。ましてや転落防止用の柵の外側とあっては、その激しさはなお際立つ。

 男の声を聞こえない振りをして目の前を見つめた。視界の先には校庭があり、住宅街があり、遠い彼方には山すら見渡せる。

 良い景色だなと思った。

 人生の最後に見る景色としては、まずまずと思えた。

「何があったんだ」

 また背後から男の声が聞こえた。しかし、やはり男の声に反応はしてやらない。

「辛いことがあったなら聞こう。だからこちらに来てくれ」

 うるさいな、と思った。

 分かってないな、と思った。

 人が死にたいと思う気持ちを、背後の人物は分かっていないのだ。

 そう思うと、優越感が生まれた。

「何もない」

 言いながら振り返った。

 数m先、屋上の出入り口に男が立っていた。その男は自分と同じ学生服を着ていた。

 教師じゃなくてよかった。教師は説教をするから。説教されるというのはつまるところ。

 うざいから。

「自分にはなにもないんだ。だから死ぬんだ」

 言いながら、ちょっと格好をつけたかな、と後悔した。

 芥川龍之介はぼんやりとした不安を覚えて自殺したと言われている。

 嫌らしい理由だなと思う。そんなの嘘に決まっているから。

 芥川龍之介は大人であり様々な人と交流を持っていた。れっきとした社会人であった。

 社会人の男性がただぼんやりとした不安で自殺をするなんて、信じられないのだ。本当は自尊心や虚栄心や、あるいは金銭面や女性関係等など、自身の心や、あるいは人間関係経済関係が原因で自殺したに決まっているのだ。

 いい大人がただの不安で自殺するなんて。

 そんなのはフィクションだ。嘘だ。かっこつけとしか思えない。

 しかし自分は違う。

 本当に何もないから自殺するのだ。何もない自分に絶望して自殺するのだ。真に虚無感による自殺を図るのだ。

 それは大人には出来ない、青春の特権に違いない。そう確信していた。

「まだ死ぬな」

 目の前の男が言った。怒鳴るような口調で、眉が上がり、怒っているようにも見えた。

 なるほど、未来のある若者が死ぬことに、彼は怒りを覚えているのか。

 やはり彼には分からないのだ。この心がどれだけ虚無感に襲われているのか。彼は知らないのだ。信じられないほど虚無的な、何一つ得られなかった、我が3年間の学生生活を。




 俺は自頭に自信がなかった。しかし頭の悪さにコンプレックスを抱いてはいなかった。頭が悪いなら、頭が悪いなりの戦い方があるからだ。

 しかし、頭で劣るのを体でカバーするなんて発想は通用しないことを、俺は知っていた。なぜなら、俺たちはすべからくテストの点数で将来が決まるからだ。プロ野球選手やプロサッカー選手になるような特別な才能があれば話は別だが、そういったごく一部の例外を除けば、大多数の高校生はテストの点数で将来が決まる。有名大学や難関専門学校に行けば将来は明るくなり、底辺大学に行けば将来に不穏な影が差す・・・たとえ底辺大学へ入学しようが、高卒で働こうが、幸せになれる人は幸せになれるだろうが、より幸福になる確率を高めるには、良い大学へ入学するのが最良である。よって、頭脳を体力面や筋力面でカバーするというのは、こと一般的な高校生にとっては当てはまらない。

 これが俺の持論だった。

 ならば頭の悪い俺は諦めなければならないのか?

 答えは否だ。

 頭が悪いなら、勉強時間を増やせばいい。他の人が5分で理解する公式を俺は10分で理解するのならば、俺は通常の2倍勉強すれば他の人に追いつけるし、3倍、4倍勉強すれば優秀な成績を残せるはずだ。

 勉強時間なら大抵の生徒に負けない自信があった。金銭面の問題で塾にはいけなかったし 部活もこなしていたから勉強時間を確保するのに難儀をしたが、そこは努力でカバーした。俺は努力した。3年間努力した。1年生から受験を見据えて努力して、部活や家事で削られる時間は、就寝時間や休み時間や趣味の時間を極限までそぎ落とすことでどうにかこうにか確保した。頭の悪い俺は要領も悪かった。金もなかったから、教科書のほかには最低限の受験対策のテキストしか買えなかったものの、買ったテキストは何度も何度も往復し、ひたすらに覚えた。

 いや、覚えたつもりだった。

 1年生の時、俺の成績は学年で中の中だった。2年生の時、下の上だった。しかしそれは受験と関係ない模試の結果であり、受験近くなれば成績はあがるはずだと思った。3年間努力してきたのだから当然と確信していた。

 3年生、直近の模試、俺の成績は学年で下の中まで落ちていた。

 勉強方法が悪かったのか、あるいは、時間を捻出したつもりでも他の同級生と比べて時間が足りていなかったのか。

 友人に話してみた。どうやら杞憂は的外れらしかった。俺の勉強方法は友人達と大して違いはなく、また友人達と比べ、3倍近く勉強時間を確保できていた。

 ではなにが悪かったのか。

 単純な話だった。俺は他の生徒より3倍近く勉強したが、残念ながら俺の頭脳は他の生徒の10分の1に満たなかったのだ。




「勉強が苦手だったんだな」

 語り終えた男に、もう一方の男が言った。

 屋上には二人の男子生徒がいる。今や二人の距離は近く、どちらかが手を伸ばせば触れられるほどしか離れていなかった。

 彼らの間には転落防止用の柵がある。腰の高さまでしかない縦格子の柵。転落防止としてはやや頼りないその柵だけが、彼らを隔てていた。

「よくあることだ」

 軽く空を見上げて、もう一方の男が言った。

 言われた男は苛立ちを覚えたのか、柵を片手で掴み、握り締めた。握り締めた手が、少しだけ震えている。

「次は部活の話をしようか」




 俺は卓球部に所属していた。卓球ときくと緩い部活に聞こえるかもしれないが、そんなことはない。県大会でベスト8に残るような強豪校は朝夕惜しまず血反吐を吐きながら部活に励んでいると聞く。

 が、俺が所属する卓球部は、まさしく世間一般のイメージ通りの卓球部であった。部活の前には部室で携帯ゲームやカードゲームで盛り上がり、いざ練習が始まってもろくに体力作り等せず、いきなりラケットを振り回し、特に練習課題や目標も持たず、なんとなく試合形式のゲームをして満足して帰っていく。総勢10数人のよくある弱小卓球部。

 俺はそんな卓球部が嫌いだった。

 俺は授業が終わると誰よりも早く体育館に来て、全ての卓球台を自分一人で準備して、部室で遊ぶ部員達を尻目にウォーミングアップに精を出した。勿論、他の部員に煙たがられないよう、配慮しつつ。

 卓球は好きだった。中学の時はそこそこ強い卓球部のレギュラーだったこともあり、部内では一番強かった。俺はもっと強くなりたいと願った。

 しかし前述したとおり勉強時間も確保しなければならなかったから、他のスポーツ校ほど練習に時間を割くことはできなかった。それでも部内の誰よりも練習した。部活だけでは満足できず、部活が終わった後に中学時代のチームメイトを呼んで地元の卓球場を借りて練習した。

 目標は地区大会ベスト32であった。

 漫画やドラマの主人公は目標を「全国制覇」とすることが多いものの、俺には御伽噺にしか思えなかった。岐阜県は全国的に見ると弱小といっていい県だったが、そんな弱小県でも、県大会上位で活躍する連中は、化け物にしか見えなかった。球の回転がどうとか駆け引きがどうとか細かい話ではなく、どうやったらあんな動き方が出来るのか、どうやったらあんなラリーが出来るのか不思議でたまらない。俺から見ればまるでサーカスのような、そんな芸当を当たり前のようにこなすのが県上位陣であり、さらに全国には、わが岐阜県上位陣をカモにするようなとんでもない連中がたくさんいて、さらにその頂点までいかないと全国大会優勝を達成できない。

 夢物語であった。スポーツ校に所属せず部活より勉強を優先する自分のような輩が「全国制覇」はおろか「県大会優勝」を目標に掲げるなど、不可能を通り越して僭越ですらあった。

 俺は強くなりたかった。しかし誰よりも強くなりたかったわけではない。そんな傲慢な夢は抱かない。

 俺の目標は地区大会ベスト32だ。

 大会の規模にもよるが、大体4回戦突破すればベスト32になると考えてくれて構わない。数々の大会に出たが、俺は毎回1回戦は突破できた。70パーセント程度の確率で2回戦も突破できた。しかし3回戦突破となると、中学から数えても数回しかなく、4回戦まで勝ちあがったことは(地区大会の規模では)一度もなかった。

 高校最後の大会までに4回戦を勝ち抜く。

 それが俺の目標だった。

 最後の大会まで、俺はその目標を達成できなかった。しかし高校3年生最後の大会、俺は完璧に準備をした。今度は違うと思った。大会まで1ヶ月をきった時から練習は激化し、毎日が卓球尽くしになり、逆に大会まで1週間をきったところでしっかり体を休めた。自分が緊張に弱いことも分かっていたからメンタル面のトレーニングのため本を読み漁り、イメージトレーニングも欠かさず、大会に備えた。

 中学から6年間。これだけやっていると自らの好不調が分かるものである。大会当日の現地練習。大会が始まる前にその会場の卓球台を使って選手たちが練習をするのだが、俺はあまりの調子のよさに驚いたほどだった。今日は球がよく見える。これなら・・・当然、絶好調の状態でも、地区大会優勝まで手が届かないことは分かっている。しかしベスト32はいけるのではないか。それに、地区大会は県予選もかねている。2回戦まで突破すれば県大会に出場できて所謂「最後の夏」が延びることになる。

 いつもの大会でも2回戦突破は間々ある。少なくとも俺の夏はまだ終わらない。

 そのときは、そう思っていた。

 1回戦の相手は中学の時のチームメイトだった。

 かつてのチームメイト、といっても、彼は俺より2歳年下、つまり高校1年生である。

 学生スポーツでは、2つ学年が離れるとほとんど交流がなくなってしまう。3年生最後の大会が1年生最初の大会になるからだ。だから彼が現在どの程度の選手なのかは分からなかった。

 しかし、中学の時、自分が3年生で彼が1年生だった時に部活で何度か試合をしたが俺が全勝しているし、そもそもシードではなく1回戦から出場しているのだからそれほど強い選手のはずはない。

 俺は心を落ち着けた。事前のトレーニングが効いたのか、緊張することはなかった。

 ―だから俺が負けたのは、単に俺より彼の方が強かったからだ。繰り返すが彼が中学1年生で俺が中学3年生の時、俺は彼に全勝している。にも拘らずこの試合で俺が手も足も出ずにストレート負けを喫したというのつまり、俺の中学3年~高校3年までの3~4年間より彼の中学1年~高校1年の3~4年間の方がはるかに「伸びた」ということである。

 なるほどな、と思った。

 俺の最後の大会は終わった。

 一方で、部活仲間の何人かはなんとか2回戦を突破し県大会出場を決めた。

 凄いな、と思った。




「部活でも結果を残せなかったのか」

 話を聞き終えた男が言った。

 言われた男は両手で柵を掴みながら、かみ締めるように頷いた。

「それは辛かったな。

 しかしお前の話には友人が度々登場するぞ。

 勉強や部活は出来なくても、友人関係は悪くなかったんじゃないのか」

 言い終わるのと同時に、凪が訪れた。屋上に激しく吹いていた風が唐突に消え去り、後には沈黙が残った。

 風がなくなり、話す言葉もなくなり、二人の男のかすかな呼吸音だけが、それぞれの耳に届いていた。

 沈黙に支配されたまましばしの時間が経過する。

 やがて日が翳り、青い空は徐々に橙色に塗り替えられていく。

 夕焼けの始まり。それを待っていたように、男がまた語り始めた。




 今まで、俺は話の中で何度か「友人」なるものを出したが、それは便宜上「友人」と呼んだだけで、真っ当な意味で友達といえる者など一人も存在しない。よって、正確に言えば「友人」ではなく「知人」というべきだったかもしれない。

 3年間の高校生活でまともな友人など一人も出来なかった。友人がいらなかったわけではない。友人を作れなかったのだ。

 その原因は俺の性格にある。

 俺は人と関わるのが怖いのだ。

 人と話せないわけではない。現に今おまえと話しているわけだし、初対面の人にも分け隔てなく話せる方だと思う。

 しかし俺は人と関わるのを少し恐れている。いじめられたくないからだ。

 学生のいじめは能力で決まる。勉強や部活、あるいは趣味において、なにか特別な能力、あるいは優秀な部分があれば、いじめられる確率は減る。なぜなら優秀な人物には利用価値があるからだ。「利用価値がある」と判断した人間はいじめない。いつか利用する為に。

 これも俺の持論の一つだ。

 そして俺は能力がない。今話したとおり、能力がある者は「利用価値がある」からいじめられにくいが、逆に能力がないものはいじめられやすい、と俺は考えている。

 人は誰かを馬鹿にしたくて仕方のない生き物だ。人を馬鹿にすることは、悦楽であると同時に、他の人とコミュニケーションを円滑に進めるための道具にもなる。誰かと仲良くなるには、別の誰かの悪口を言うのが一番なのだ。俺はそれを経験で知っていた。

 俺は能力がない。だからいじめられやすい。誰かの悪口の種になるだけならまだしも、いじめられたら精神的に耐えられるか分からない。生活や将来に支障が生じる。

 だから俺はいじめられないために努力した。俺はひたすらに目立たないように行動した。

 必要最小限のコミュニケーションは取るし、話しかけられたら会話をする。みんなが嫌がる仕事もやる。

 一方で、自分からは極力話しかけない。必要以上に仲良くしない。目立つイコールいじめに繋がるのだから、なるべく目立たないように行動する。どうすれば格好良く思われるかとか、どうすれば面白い奴と思われるかなんて、微塵も考えなかった。重要なのは、どうすれば目立たないか、どうすれば他人を嫌な気持ちにさせないか、それが全てだった。 

 それが俺の学生生活だった。

 結果、俺は陰口をたたかれた。勉強が出来ない癖にせこせこと勉強していて、結果を残せないくせに真面目に部活に取り組んでいたからだ。

 しかし俺はいじめられはしなかった。能力がないものはいじめの標的になりやすい。しかし俺は影のように生きることによって、いじめは回避できた。

 その代償として、俺には一切の友達が出来なかった。彼女も親友も恩師も、俺には存在しない。

 もし今後同窓会があるにしても、俺は決して呼ばれないだろう。そもそも俺の連絡先を知っているクラスメイトなどいないからな。




 語り終えて、一息ついた。随分話した。こんなに長く人と話したのは久しぶりだった。

 屋上にはたった二人しか存在しなかった。自分と、目の前の男子生徒が一人。広い屋上に、二人だけの人物。

 あんなに風が吹いていたのに、今は風がやみ、橙色の光が屋上全体を包み込む。

 柵を隔てて、目の前に立つ男子生徒。彼は今までの話を聞いて、どう思っただろうか。何もなかった、失敗ばかりの学生生活。

 彼の黒色の制服が夕日に照らされて、焦げ茶色に黒々と光る。綺麗な色だなと思った。

「お前の言いたいことは分かった」

 彼が口を開いた。彼は少し口角を上げて嘲るような笑みを浮かべた。

「つまりお前は不幸自慢をしたかったのか」

 ―失望した。そんな感想しか出てこないのか。別に哀れんで欲しかったわけでも、慰めて欲しかったわけでもない。しかしこれでは―

 ―あんまりじゃないか。

 ふざけるな、と言うより前に、体が動いた。

 俺は右手を伸ばし、彼の腕を掴んだ。

 彼の腕は細かった。掴んだ瞬間、彼は身を少し震わせた。皮肉な笑みを浮かべていた顔が、狼狽に歪む。

 そのまま強引に彼の腕を引っ張った。両手で彼の腕を掴み、柵の()()()()へと強引に引き寄せようとする。

 彼は二人を隔てる背の低い柵につかまり、何とか抗おうとした。

 やめろ、と必死に言う彼を無視して両腕に力を込め、全力で彼を引っ張る。

 そして、彼の華奢な体は中に浮き、柵を乗り越えた。

 バランスを崩した俺も、彼と一緒に倒れこむ。

 ―柵の()()()

「なにをするんだ」

 上半身を起こした彼が怒ったように言った。いや実際に怒っているのだろう。頬は紅く染まり、息は上がり、血走った瞳が俺を睨む。

 俺も体を起こし、彼の瞳を見つめ返しながら言った。

「誤解をしたまま死なれては困るからな

 俺は不幸自慢をしたわけじゃない。

 俺がしたのは自慢話だ」

「・・・・・・自慢だと、どこが自慢だ」

 肩で息をしながら、彼は言う。まだ足がふらつくのか、彼は立てないでいる。

 上半身だけ起こした状態で、両腕を屋上の床につけながら彼は続けた。

「お前は勉強も出来なければ部活でも良い成績を残せなかった。そして彼女や親友はおろかまともな友人すらいない。それのどこが自慢なんだ」

 彼の疑問に答えるため、俺は息を整えて、立ち上がって言った。

「必死に頑張ったことが自慢なんだよ」

「…頑張ったこと?」

「俺は頭が悪い。スポーツも出来ない。友達もいない。

 しかし俺は頑張った。勉強を頑張った、スポーツを頑張った。いじめられない為に頑張った。これが俺の学生生活の全てであり、俺の自慢なんだよ」

「くだらない」

 彼もまた立ち上がり、俺と正対した。

「勉強もスポーツも、結果が全てだ。もし結果がすべてでないとしたら、人間関係ぐらいは良好でないと、救いがないじゃないか。

 お前の学生生活には何一つ救いが無い。つまり無価値で無意味。お前の今までの人生はまったくの無意味だ。

 …もう少しで飛び降りるところだったが、話を聞いて考え直したよ。俺よりお前が自殺した方が良いんじゃないか?」

 彼の瞳に涙が浮かんだ。何の涙か俺には分からなかったし、おそらく彼にも分かっていないようだった。

 たぶん夕焼けが目に染みたのだろう。屋上全体を照らす橙色の光はそれほどに鮮やかで、彼の黒い瞳も今やオレンジ色に染まっている。

「人生に意味があると思っているのか」

「…なんだと」

 そんな彼の瞳に魅入られるように、見つめながら言った。

「人生に意味なんてないんだよ。

 意味とは理由、あるいは価値だろう。

 人が生まれることに理由や何らかの価値があるだと。

 そんなわけないだろう。一人一人が神によって生み出されているのならともかく、俺たちが生まれたのは両親がセックスした結果に過ぎないじゃないか。なぜセックスの結果生まれた俺たちに、なんらかの意味が備わっていると思うんだ。ただの生殖行為の結果に、そんな大層なものあるはずがないじゃないか。人生に意味や必然性など皆無なんだよ」

「しかし、だとしたらなんのために生きているんだ」

「なんのために生きるかではなく、どうやって生きるかが重要なんだ。

 俺は勉強が出来ないし運動も出来ないし友達もいない。

 ナンバーワンでもなければオンリーワンでもない。あらゆる面で俺より優れている人間が数えられないほどいて、だから俺という存在は代替可能ですらある。少なくとも俺は自分をそう評価する」

「だから、なら、お前の人生に価値はないじゃないか」

「客観的に見ればそうだろう。しかし客観的に見る合理的な意味があるのか?人間は主観的な生き物なのだから、自分という主観が一番ではないのか」

「傲慢だな」

「自分に対してだけは傲慢でいいんだ。

 俺は勉強を頑張った。部活を頑張った。

 全てにおいて結果は伴わなかった。だから誰からも評価されない。評価されるべきではない。

 しかし俺は楽しかった。なぜか分かるか」

「結果が出なかったのに楽しかったのか。意味が分からない」

「分からないなら教えてやろう。

 一生懸命生きることは楽しいんだよ」

「…それはどういう理屈だ」

「理屈じゃないんだ。試行錯誤して、練習して、頑張って生きることは無条件に楽しいんだよ。

 そして主観的にしか生きられない人間にとって、楽しいということは全てにおいて優先される。

 確かに俺の人生は無価値かもしれないが、俺は無価値な人生を大いに楽しんでいる。この楽しみの前には人生の意味とか生きている理由なんて、霞んでしまう。そんなどうでもいいことを考えている暇などない。自分の存在理由なんて、俺にとっては些末事に過ぎない」

 彼は顔を背けた。しばし考え込むように首を傾げ、やがてこちらに向き直る。

「そんな主張をするために、お前は俺に話しかけたのか。生きることは楽しいからまだ死ぬんじゃないと」

 …成る程、その考え方は盲点だった。確かに彼がそう勘違いしてもおかしくはないだろう。

「いや、違うよ。

 これは自慢話だと言っただろ。俺はお前に自慢話をするために話しかけたんだ。

 俺は人と関わるのが恐いが、自殺する人になら話しかけられると思ったんだ。何しろ人生を終える人に今後いじめられたり悪口を言われる可能性はないからな。

 学生生活の最後に、誰かに自慢話を聞かせたかっただけなんだ。別に自殺を止めようなんて考えていない。俺の話を聞いてくれた後なら、お前がどうなろうと知ったことではない」

「そうか、だからお前は最初に『まだ』死ぬなと」

 俺は頷いた。

「こんな機会はないからな。俺の自慢話を聞く前に死んでもらっては困る」

 彼はちっと舌打ちをした。また腕を組んで少し考える仕草をした後、笑い出した。

「どうした。俺の持論を理解してくれたのか」

 俺は問いかけた。

「持論って、あの、生きることは楽しい理論か?」

 黙って頷く。

「あんなもの、納得できるはずがないだろう。ただの快楽主義者じゃないか」

 彼は笑いながら言う。快楽主義か。不満ではあるがそういう見方もあるだろう。

「残念だよ。お前には理解できなかったらしい」

「馬鹿にするなよ。理解出来ないんじゃない。理解した上で否定しているんだ」

「それは心外だな」

「心外で構わないよ。ただな」

 言葉が途切れるのとほとんど同時に、夕焼けが翳っていった。二人同時に西の空を見る。夕日は沈む寸前で、橙色の光は闇に侵食されつつあった。しかし、夕日が沈む間際。その鮮烈な残光が今、鋭く二人を照らしている。

「そういう奴もいるんだな、とは思ったよ」

 彼は歩き出した。

 ―その足は屋上の出入り口へと向いていた。

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