第8話「仮面の契約」
皇宮・第二政務室。
窓から差し込む柔らかな日差しの中で、書類に目を通していたユリウスが、ふと手を止めた。
「……もう一度言ってみろ」
「“契約を解消し、帝都から出ていきたい”と申し上げました、陛下」
セレナの声は、終始穏やかだった。
まるで天気の話でもするかのように淡々としたその語り口は、逆にユリウスの神経を逆撫でした。
「君は聡い。理由を聞こう」
「契約の期限まで、あと一ヶ月を残すのみ。ですが、特に問題は起きておりませんし、
これ以上、仮面の夫婦関係を演じる意味はありません」
「……“仮面”?」
ユリウスは目を細めた。
「そうか。君は、ずっと“仮面”だったな」
その問いに、セレナは少しだけ迷って、しかしすぐに口を開いた。
「殿下はこの約半年間、どんな時も感情に流されることなく、
私を“契約の対象”として正しく扱ってくださいました」
「褒めているつもりか、それは?」
「事実です。……ですが、もうその契約に甘えるのは、わたくし自身が嫌なのです」
ユリウスの眉が動いた。
「……君が“嫌”?」
「はい。……このままでは、
わたくしはいつか“本当にあなたを好きになってしまう”気がして、怖いのです」
静寂が落ちた。
執務机の上の羽根ペンが、微かに揺れていた。
ユリウスは、何も言わなかった。
まるで、言葉のすべてを失ったかのように。
「ですから――しばらく帝都から出ていきたいのです。
これ以上、期待してしまう前に」
セレナは深く頭を下げた。
それは、最初の婚約破棄の時とは違う。
誇りを守るための対抗でもなければ、見返すための芝居でもない。
ただ、自分の感情を守るための、静かな“撤退”だった。
心の奥底で芽生えそうな暖かなものを押し込んでしまいたかった。
その日の夕刻。
セレナは、何事もなかったように貴族院への報告文を整え、帝都からの“外出”を提出した。
そして翌朝。
皇宮の正門で、異変が起きる。
「な……何事ですか、これはっ」
「皇太子殿下の、直筆の命令書です……!」
門番が慌てて走る。
ユリウスが自らの名で出した命令――それは、
『皇太子妃セレナ・エルヴァインを、皇宮外へ一歩も出すな』
セレナはその報せを聞いて、ゆっくりと顔を上げた。
「……どうして、陛下」
夕刻、ユリウスが彼女の部屋を訪れる。
扉が開いた瞬間、セレナはため息をついた。
「……監禁、ですか?少々乱暴ではないでしょうか」
「外聞は悪いだろうな。だが、もうそれを気にしている余裕がない」
「契約は……?」
「契約など、どうでもいい」
言い放ったユリウスの表情は、いつもよりも酷く歪んでいた。
「君は、私の妻だ。
この半年間、私は君と共に歩いてきた。それは“役割”だったかもしれない。
だが――私にとって、君が“いなくなる”という事実だけは、到底受け入れられん」
「……」
「君を逃したくない」
それは、彼の中にある“皇太子”としての支配でも、“男”としての感情でもない。
もっと原始的で、もっと脆くて、もっと不器用な――
“怖い”という気持ちから来た執着のようだった。
「……わたくし、あなたのことが本当に分からなくなってしまいました」
「ならば、“わかるまで側にいろ”」
ユリウスはそう言って、彼女の手を取る。
その手は、少しだけ震えていた。
けれど、それでも。
彼は、手を離さなかった。
この結婚は契約のはずだった。
なのに今、ふたりの関係は――いまからようやく“始まろう”としていた。




