第7話「“恋愛フラグ”の崩壊」
「セレナ様が……? まさか、あのような――」
貴族たちの囁きが、廊下の奥から絶え間なく流れてくる。
皇宮の掲示板に貼られた匿名の告発状。
“皇太子妃セレナ・エルヴァインは、レオニス殿下と密会を重ねていた”
荒唐無稽な中傷。しかし“それっぽい”状況証拠とともに出されたその文書は、十分に人々の好奇心を刺激するものだった。
「噂は否定しきれませんわね。“事実無根”だと証明できない限りは」
そう言ったのは、アリシアだった。
淡い桃色のドレスに身を包み、にこりと微笑むその姿は、まさに“皇子の隣にいるべき”と世間が思い描く淑女そのもの。
「それにしてもお気の毒。
婚約破棄されたあと、無理やり皇太子に拾われたのが……あだになりましたわね」
「……」
返す言葉はない。
なぜなら、彼女にかける言葉に価値はないから。
(アリシアの幼稚な策略にため息が出そう)
この女は“世間の共感”を味方にしようとしているのだろうが。
婚約破棄された女→なりふり構わず地位にしがみついた女→兄弟両方に取り入ろうとした女。
物語として見れば、セレナはまた“悪女”の役回りだ。
(でも、私が“反論”した瞬間、アリシアの思う壺になりかねない)
――だから。
「……アリシア様、少しだけ顔色が悪いようですわ」
「……え?」
「嫉妬、なさってるんですの?」
「なっ……そんな、わたくしはただ、事実を」
「でしたら、どうぞ“もっと事実”をお話しください。
たとえば、皇子殿下と密会していたのは、本当はどちらなのか――など」
アリシアの瞳が揺れる。
「な、なにを……っ」
「わたくしの家には、証拠がありますの。密偵を使って、舞踏会の夜に“皇子殿下の部屋に入っていた人物”を魔術で撮らせております」
「嘘よ……そんなの、作り話よ……っ!」
「では、第三者に判断していただきましょうか? 皇宮に正式に調査を依頼しても――構いませんのよ?」
それは脅しではない。
静かな、**“選択肢の提示”**だった。
アリシアの顔から血の気が引く。
その時――
「そこまでにしておけ、セレナ」
冷たい声。背後からの足音。
振り返ると、ユリウスが立っていた。
「陛下……」
「君はやりすぎだ。正しいかどうかは関係ない。
“勝ちすぎる者”は、味方さえ失う」
「……では、どうすれば?」
「黙って、私に背中を預ければいい」
そのままユリウスはアリシアに視線を移す。
「この件、皇宮として正式に“無根拠”と判断する。
関与した者が明らかになれば、私の裁量で処断する」
アリシアの唇が震えた。
「……レオニス様は、あなたの“兄”でしょう……」
「家族だが、守る価値はない。……少なくとも、君と組んでセレナを貶めようとした時点でな」
アリシアはそのまま踵を返し、声もなく立ち去った。
セレナはユリウスに尋ねた。
「本当に、あなた様はわたくしを“守る”おつもりなのですか?」
「勘違いするな。“守った”わけではない。
私が“不快だった”から排除しただけだ」
「では、わたくしが不快でも、同じように?」
「……いや」
間があった。
「君には不快を感じない」
「……それは、恋愛感情でしょうか?」
「恋愛などくだらない。
だが――他の女には抱いたことのない衝動だ」
そう言って、ユリウスは扉の外へと向かった。
けれどその手前で、ふと立ち止まり、背を向けたまま囁いた。
「君が私を見限るのが、少しだけ怖い。それだけだ」
その夜。
セレナの中で、何かが静かに“崩れて”いった。
恋愛ではない。情でもない。
ただ、ひとつの契約関係が、“人間関係”に変わり始めた音が、確かに聞こえた。




