第5話「愛される女になりたかっただけ」
皇宮の南庭園。
朝露に濡れた薔薇が、一面に咲き乱れている。
けれど、そこに立つアリシア・ディーネ・グレイスの顔には、微笑みの影すらなかった。
「……なぜ、あの女が皇太子妃に?」
自問に、自分で答える。
「だって私は……皇太子を“奪った”のよ?」
それなのに。奪ったはずの皇太子はその地位を失った。
夜会での凛とした姿。
そのまま新皇太子に腕を取られ、帝都の話題をさらっていった悪役令嬢。
断罪され、蹴落とされ、涙に濡れる――はずだったその女が、
なぜか、勝者の顔をしていた。
アリシアは、怒りで震える手を必死に押さえながら手にしていた一枚の手紙を広げた。
それは、ある皇宮女官との“密約”だった。
*
「おはようございます、セレナ様。お茶の用意をいたしますわね」
執務室で書類に目を通していると、見慣れない女官が紅茶を運んできた。いつの日か、アリシアと話していたところを見たことが記憶にある。
微かに香る、ラベンダーと――
それに混じった、違和感のある香り。
(……これは、“ホルスト根”)
疲労感と眩暈を引き起こす香草。
分量によっては、意識を飛ばすこともある。
「お心遣い、ありがとうございます。……ですが、今は飲む気分ではありませんの」
セレナは微笑み、そっとカップを女官の目の前に置いた。
「お味見してくださる?」
女官の顔が、こわばる。
「……あ、あの」
「毒見もできない茶を、皇太子妃に出すつもりだったの?」
声のトーンは優しいままだ。
だが、そこに込められた“圧”は、女官を完全に黙らせた。
「……申し訳ございませんっ!!」
女官は泣きながら部屋を飛び出した。
その背中を見送りながら、セレナは小さくため息を吐く。
「アリシアったら、やり方が安直すぎるわね」
怒りは、なかった。
あるのは、空虚な呆れだけ。
なぜなら、セレナはもう知っていたからだ。
アリシアのやり方では、何も奪えないということを。
夜。皇太子ユリウスは、彼女の部屋に珍しく訪れた。
「……君の護衛に問題が出た。配置を変える」
「ご心配には及びません。いつものことですから」
「毒を盛られたのが“いつものこと”な貴族社会など、早く焼けてしまえばいい」
思わず、セレナは笑ってしまった。
「あら、お耳が早いですわね。今のは、皮肉ですか?」
「いや、本音だ」
ユリウスは窓のそばに立ち、星空を見上げながら静かに言った。
「君は、なぜそこまで耐えられる?」
「……?」
「怒ってもいいはずだ。泣いて、叫んで、壊れても当然のことを、
君はいつも笑って、受け流す。……まるで“感情”というものが、どこにもないように」
セレナは、しばらく黙っていた。
そして――ぽつり、と言った。
「……愛されたことが、ないからです」
「……」
「愛されたことがない女は、怒るタイミングさえ分からない。
どこまで踏まれても、それが“普通”だと思ってしまう。
泣く価値も、怒る価値も、自分にないと――そう思って育ちました。ですので、期待していないだけです」
ユリウスの横顔が、わずかに動いた。
「……君と私、似ているのかもしれないな」
「え?」
「私もまた、“愛し愛されたことがない”」
そう言って、ユリウスはセレナに視線を戻す。
「だが君の気持ちをわかりたいとは思わない。
けれど――誰にも踏ませるな。私の許可がない限り」
それは命令ではなく、
どこか歪な形の“庇護”だった。
(陛下なりの不器用なお優しさなのかしら、無駄に過保護ね)
セレナはその夜、初めて眠れなかった。
“愛されたい”という気持ちが、
ほんのひとかけら、胸の奥で疼いていたから。




