第3話「君が嫌いだ、実に」
結婚式はなかった。
皇太子と有力公爵家との婚姻――本来ならば盛大な式典を執り行うべきだが、二人の合意のもと、形式は省かれた。
そして忍びやかに皇宮内の政務室にて、二通の契約書が交わされた。
一枚目は皇宮が発行する正式な婚姻証書。
そしてもう一枚は――二人の間だけで交わした、“契約結婚”における行動規定書。
『双方は互いに私的領域を尊重し、干渉しないこと。
感情的な関係性の進展は、当事者の合意によってのみ認められる。
ただし、半年間は表向きには“円満な夫婦”として振る舞う義務を負う。』
一字一句、抜け目なく取り交わされた冷徹な文面。
それを見たユリウスは、皮肉な笑みを浮かべて言った。
「わざわざこんなものまで作って。つくづく、君は“面倒くさい女”だな」
「その面倒くささこそ、皇妃に必要な“素質”だと思っておりますわ」
そう返すと、ユリウスはわずかに喉を鳴らして笑った。
笑い声は低く短く、まるで刃物のように鋭い。
初の“公務”は、帝都内の慈善院視察だった。
玉座を継ぐ者としての“慈愛”を示す行事――だが、そこに愛も優しさもあるはずがない。
「殿下、こちらが院の新設棟になります」
「粗末すぎないか」
「失礼、ですが皇宮の予算が……」
「言い訳は聞いていない。……セレナ、君の意見は?」
不意に話を振られた私は、視線を上げてユリウスを見た。
この男は“試す”のが好きだ。
相手の器、覚悟、感情――すべてを引き出そうとする。
「この新設棟では、今後十年分の孤児受け入れが追いつきません。
帝都の人口比と移民政策を考慮するなら、三倍の規模は必要でしょうね」
ユリウスはふっと目を細めた。
「私が同じことを言えば、“冷血”と叩かれるが、
君が言えば“合理的”と称されるか」
「世間は、女性の冷酷には甘いんですのよ。
その分、怒らせた時は恐ろしいと言われますけれど」
視察団の中で、誰かが小さく噴き出した。
そう――これは芝居。
私たちは“お似合いの夫婦”を演じる。
そして、互いに心の内では牙を隠したまま睨み合っている。
馬車に戻ると、ユリウスは窓越しに帝都の景色を眺めたまま呟いた。
「君が嫌いだ、実に」
「まあ、それはお互い様ですわ」
「だが――嫌いな女ほど、目を離せないものだな」
一瞬、呼吸が止まった気がした。
皮肉? 本音?
どちらでも構わない。どちらでも、許せない。
「そのお気持ち、ご随意に。ただし、わたくしは殿下の寝室には参りません」
「結構。私も君に触れる趣味はない」
「……このまま未来永劫、互いを“触れず、交わらず、欺き合う夫婦”でいられれば、理想ですわね」
そう言い切った時、彼がふとこちらを向いた。
瞳の奥に、何かが潜んでいた――怒りでも、嘲笑でも、哀しみでもない。
「……君、本当に“愛されたこと”ないんだな」
「……」
それ以上、何も言えなかった。
馬車の外では、帝都の街が穏やかに広がっている。
だが、二人の心はどこまでも荒涼としていた。
契約という鎖に繋がれた夫婦。
この距離は永遠に埋まらなければいいのだろうな、と私はぼんやりと考えていた。