第1話「あなたとは結婚いたしません」
第一皇子・レオニス・ヴァルクールの声が、豪奢な舞踏会場に静かに響き渡る。
「……この場を借りて、婚約の破棄を申し渡す」
その言葉を合図に、場の空気が氷点下へと沈む。
天蓋付きのシャンデリアが揺れ、壁にかけられた肖像画たちでさえ、眉を顰めているかのようだ。
一歩前に進み出たのは、淡いピンクのドレスに身を包んだ公爵令嬢・アリシア。
彼女は、恍惚とした表情でレオニスの腕にしがみつく。
「殿下のお気持ちは、私がすべて受け止めます。……セレナ様、あなたには、もうお引き取りいただいて結構ですわ」
セレナ・エルヴァイン。
帝国の名門エルヴァイン公爵家の令嬢。
――つまり、“私”のことだ。
「……引き取る、ねぇ。言うわね」
私は、そっと笑みを浮かべた。
先ほどまで演奏されていた宮廷楽団の弦の余韻が、まだ空間に残っている。
だが、今この場にあるのは静寂と、凍てつくような緊張だけ。
「レオニス殿下。あなたのその“宣言”、あらかじめご用意してらっしゃったのかしら?随分といつもより流暢にお話されてますけれど?」
レオニスは一瞬たじろいだが、すぐに表情を取り繕う。
「僕に無礼を働き、アリシアを侮辱した……君には、これ以上皇妃の器はない。婚約を続けるに値しないと判断した」
「ふうん。それで、皇妃の器って、具体的には?」
その瞬間、彼の顔が引きつった。
私は、ゆっくりと一礼する。
完璧な舞踏の所作で、貴族らしい優美さを保ちつつも、毒を滲ませて。
「殿下、わたくしがあなたと婚約していたのは、どれだけ不出来でも多少なりともあるあなたの“良心”に価値を見出していたからです。
それが、このざまではね。――残念ですわ」
「な……っ!」
「よろしければこちらから申し上げます。“あなたとは、結婚いたしません”」
誰かがグラスを落とし、会場に乾いた音が響いた。
アリシアの顔が、パステルカラーのドレスにそぐわないほど青ざめている。
レオニスは言葉を失い、ただ口をパクパクさせていた。
その時だった。
「……面白い」
静けさを切り裂くように響いた、低く、よく通る男の声。
会場の奥、赤いカーペットの上に立っていたのは――
「ユリウス様……?」
「セレナ・エルヴァイン嬢」
冷たい琥珀の瞳が、まっすぐ私を見据える。
「皇家の恥を笑って流せる胆力。悪くない。
――その胆力、私の妃にふさわしいか、試す価値はあるだろう」
場が騒然となる。
「それはどういう意味で……?」
「文字通りだ。今この場で宣言する」
彼は、誰よりも堂々とした足取りで私の前に来ると、私の手を取り、跪いた。
「セレナ・エルヴァイン嬢。
私、第二皇子――もとい、新皇太子ユリウス・ヴァルクールは、
あなたに正式な婚約を申し込みたい」
私の視界の端で、レオニスの表情が怒りと嫉妬で歪んでいくのが見えた。
アリシアは震えながら口元を押さえている。
私は、ユリウスの手の温もりを感じながら、静かに答えた。
「……望んでいた未来とは少し違いますが。
――ええ。よろこんで、お受けいたしますわ」