第12話「夫婦の初夜、閉じた距離」
政変が終わって三日。
帝都にはようやく日常の気配が戻りつつあった。
だが――皇宮の空気だけは、どこか張り詰めていた。
「皇太子殿下より、夜間の御前にお越しくださるよう申し付かっております」
女官の声が廊下に響く。
(……ついに、“この夜”が来た)
セレナは静かに、鏡の前で襟を正した。
純白のナイトドレス。
露出は少ないが、繊細なレースと上質な絹が織りなすそれは、“ただの衣”ではない。
**妻として迎えられる準備を意味する“誓いの布”**だった。
ユリウスの私室。
重い扉の向こうには、いつもよりも灯りの少ない空間が広がっていた。
机の上の燭台がゆらゆらと揺れ、その陰影が彼の表情を静かに照らす。
「来てくれて、ありがとう」
彼の声は、いつもより少し低く、静かだった。
「……呼ばれて参上しただけですわ」
「君が来ないのでは、と少しだけ怖かった」
「……わたくしも、同じことを考えておりました」
ふたりのあいだに沈黙が流れる。
だが、それはもう“気まずさ”ではなく、
互いに何を言えばいいのか、慎重に選びあっている、静かな“余白”だった。
ユリウスは立ち上がると、セレナの前に進み出て、そっと尋ねた。
「……怖いか?」
「はい。とても」
「私も、だ」
「……あなたが、ですか?」
「君に触れて、嫌われるのが」
その答えは、予想外だった。
でも、どこか――すごく、嬉しかった。
セレナは、そっと目を伏せた。
「……触れてください」
「……いいのか?」
「はい。あなたの“意志”で、わたくしを選んでくださったなら。
わたくしもまた、あなたを“望む”ことに、罪はないと、思いたいのです」
ユリウスはゆっくりと手を伸ばし、彼女の頬に触れた。
その指先は、炎のように熱かった。
それでも、痛みではなく――安らぎだった。
キスは、唇にそっと置かれた。
激しさも、激情もなかった。
ただ、触れ合うということの意味を、ひとつひとつ確かめるように。
服が静かにほどかれ、肌と肌が初めて重なったとき、
セレナは気づいた。
(これは、“奪われる”行為ではない)
(これは――“預ける”行為だ)
自分の意志で、心と身体を、預けるということ。
その意味を、ようやく理解した。
朝。
窓から差し込む光の中、ユリウスは隣に眠るセレナの髪に指を通した。
「……もう、どこへも行くな」
「もう、“逃げない”ですわ」
「……私たちは、ようやく“夫婦”になれたんだな」
「遅すぎるくらい、ですけれど」
ふたりは、ようやく並んで立てる場所にたどり着いた。
政略でも、契約でもない。
支配でも、執着でもない。
“信頼”と“敬意”のうえに咲いた、
夫婦というかたち。
ただ、そこには愛の誓いはなかった。




