第9話「感情という名の不具合」
「私に触れないでください」
セレナの声は震えていた。
けれど、それは怯えでも悲しみでもない。
――怒りだった。
「どうして、“私を必要としている”ような目をするのですか。
殿下はそのような人ではなかったはずです」
厚い扉の向こうに侍従の気配も消え、ふたりきりの空間。
その中で、セレナは初めて、声を荒げた。
「愛さないとおっしゃっていたではないですか。この婚姻は契約であって、それ以上でも以下でもなかったはずです。
そのはずなのに、いつから“契約外”のことばかり言い出すようになったのですか」
「……」
「“契約”だから私は安心できたんです。
“契約”だから、期待しなくて済んだんです。
でも今のあなたは――私に、“期待させる顔”をしている」
怒鳴り声ではなかった。
けれど、心の叫びだった。
「私が今、一番怖いのは、愛さないと言っていたあなたが私を“愛しているように見えてしまう”ことです」
ユリウスは静かに、彼女を見つめていた。
その瞳は何も言わない。けれど、何も否定もしない。
「愛されることを、わたくしは望んでなどいません。
愛されたことがない人間が、それを望んだ瞬間から脆くなる。
私はそんな女には、なりたくないのです」
涙が、頬を伝った。
――その瞬間、自分が泣いていることに気づいた。
感情なんて、とうに手放したと思っていた。
でも、それは閉じ込めていただけだった。
「……君が、そんなふうに泣く姿を見るのは初めてだ」
ユリウスの声が低く落ちる。
「君は、あまりに完璧すぎた。
どんな侮辱にも微笑みで返し、嫌がらせにも動じず、笑って立っていた。
私はそれを“強い女性”だと思っていた。だが――」
彼はそっと近づくと、セレナの肩に手を置いた。
「君が守っていたのは、強さではなく、“壊れないための仮面”だったんだな」
「……触らないで」
「嫌だ」
「ふざけないで」
「君をふざけた気持ちで見たことなど、一度もない」
その言葉に、セレナの膝が崩れた。
座り込んだ彼女の前に、ユリウスは跪く。
そして、そっと彼女の手を握った。
「私は君を、愛しているのかわからない。
だが君が私のいない場所へ行くと考えただけで、
この胸が軋むのだ」
「それは――ただの所有欲です」
「そうだ。ならば、“君にしか向けられない所有欲”が、
この私のなかにあるということだけ、知ってくれ」
セレナは静かに目を伏せた。
(なんて不器用な人…)
けれど、その不器用さが――たまらなく、愛しかった。
夜が深まっても、ふたりは寄り添ったまま言葉を交わした。
互いの過去を、思い出を、恐れを。
ひとつひとつ、まるで“初めて出会った恋人”のように。
「……泣いたのは、見なかったことにしてください」
「記憶に刻んでおく」
「……本当に最低です」
「知っている」
その返事が、なぜかとても優しく感じられた。
契約ではなく、感情で繋がってしまったふたり。
その夜、セレナは思う。
――私達は互いに不器用すぎる。
感情回路に不具合がおきてしまった同士なのだ。
けれど、互いが不具合なら――
お似合いなのかもしれない。