プロローグ
舞踏会前夜。
皇宮の回廊に、微かに甘い香りが漂っていた。
夜露を含んだバラの香りではない。
もっと人為的なもの――香水。しかも高級品。
昼間なら気にならない程度の匂いが、冷たい空気に混ざって、やけに鼻を刺す。
(……この香り、知ってる)
セレナ・エルヴァインは、ふと足を止めた。
細い廊下の奥、扉の向こうから、小さな笑い声が聞こえてくる。
それは、間違いなく女性の声だった。
「婚約者様に“好き”って毎日囁いてますの?」
(アリシア・ディーネ・グレイス)
公爵家の令嬢。社交界では“次代の華”ともてはやされる存在。
その甘く、とろんとした声が、扉越しに響いている。
その向こうで、男の低い笑い声が応じる。
「……政略婚だよ、あれは。父上が決めたことだ。皇族と有力公爵家の均衡のための“儀式”ってやつさ」
(……レオニス)
私の、婚約者。
その声にセレナは、ゆっくりと目を伏せた。
「でも、セレナ様は“あなたのことが好き”なのでしょう?」
「政略結婚に好きもなにもないだろうに、バカな女だ。けど、君と会って思ったんだ。
“愛されてる”って、こんなに心地いいものなんだって」
「まあ……嬉しい」
ぎし、と床が軋む音。
椅子が引かれるのではない、身体と身体が重なり合う気配。
「ねえ……明日、どうするの?」
「断罪するさ。あの女が“悪役令嬢”だと、みんなの前で言ってやる。
“僕を束縛し、冷たく、他人を見下す女だった”と――」
セレナは目を閉じた。
なぜ泣かないのか、自分でも不思議だった。
悔しくないはずはない。腹立たしさも、悲しさも、ちゃんと感じているはずだ。
なのに、涙は出なかった。
ただ冷えていくだけだった。胸の奥が、心臓が、血のめぐりが。
(……ああ、これでようやく)
腑に落ちた。
“悪役令嬢”というレッテル。
誰もはっきり言わなかったが、セレナはずっと感じていた。
誰かが仕組んだかのように、
自分の噂だけが先に歩き、歪められ、色を塗られていく。
“婚約者を独占したがる、嫉妬深い女”
“社交界で他の令嬢を恫喝した”
“冷徹な毒舌で皇子すら怯えさせた”
それらは、根拠のない噂ではなかった。
正確には、“作られた事実”だった。
セレナがレオニスに注意した場面は確かにあった。
だがそれは全て、未来の皇妃としての礼儀と責任に基づいていた。
レオニスが、何も言わなければ――
「彼女は皇妃としての才覚がある」と受け取る者もいただろう。
だが、彼はいつも黙っていた。
否定せず、肯定もせず。
ただ静かに微笑んで、それを受け入れたふりをした。
だから、彼の“沈黙”こそが、セレナを“悪役”にした。
セレナは静かに歩を進め、扉の前まで来た。
豪奢な彫刻が施されたその扉は、防音の魔術が施されているはずだった。
なのに、これほどまでにはっきりと聞こえるのは――
(開いてる)
数センチだけ、扉が開いていた。
それは意図的だった。
隠し通すつもりがない、あるいは「見せつけてやろう」という悪意。
そこに、ほんのわずかな好奇心があった。
“本当に、しているのか?”
彼女はそのまま、扉の隙間からそっと中を覗いた。
蝋燭の灯る部屋の奥。
カウチソファの上に、アリシアが座っていた。
脚を組み、ドレスの裾をたくし上げ、
むき出しの膝が、レオニスの太腿に乗せられている。
彼はその膝に手を添え、もう片手でアリシアの頬を撫でていた。
「君は柔らかいな」
「それって褒めてるの?」
「もちろんだ。……女は、素直で、甘えてくれる方がいい」
アリシアがくすりと笑う。
「じゃあ、キスして?」
「言われなくてもするつもりだった」
口づけ。
深く、長く、そして――淫靡だった。
アリシアの手がレオニスの首にまわり、身体がぴたりと密着する。
舌の音すら聞こえそうな距離。
いや、実際に――聞こえていた。
ちゅ、と、唾液が混じるような濡れた音が。
レオニスの手がアリシアの背に回り、
そのままドレスの背面の紐をゆっくりと解いていく。
「……あん、だめ、ここじゃ……っ」
「誰も来やしないよ」
「ほんとう?」
「明日、公の場で婚約破棄を宣言する。
“君を侮辱したから”って理由でね。
可哀想な君を、僕が守る――皇太子として、みんなの前でそう言ってやる」
「うれしい……わたくし、皇太子の寵愛を受けれるのね?」
「いや、“俺の妻”になるんだよ、アリシア」
熱を孕んだ声。
そしてまた、キスの音。
セレナは、その扉をそっと閉じた。
指先が冷たくなる。
鼓動が、鈍く、耳の奥で響く。
その音に、感情の波はなかった。
怒りも、涙も、もうとうに過ぎていた。
ただ――“終わった”という事実だけが、静かに胸に落ちていった。
*
朝。
皇宮の空は、珍しく澄み渡っていた。
いつもなら気にも留めない窓の景色を、セレナはしばらく眺めていた。
何も変わっていないようで、すべてが変わってしまった一日。
けれど、彼女は髪を整え、装いを選び、いつも通りに振る舞った。
身に纏ったのは、かつてレオニスの誕生日に贈られた青のドレス。
「皮肉ですわね。あなたがくれたドレスであなたに断罪されに行くなんて」
鏡の前で、ひとり呟いて微笑んだ。
冷たい微笑。
けれどその奥には、確かな決意の色があった。
舞踏会の会場は、既に“舞台装置”が整えられていた。
花々が飾られ、楽団が調律を済ませ、
貴族たちは笑顔を張りつけながら噂話に興じている。
「今日は“波乱”があるらしいですよ」
「皇太子殿下が、婚約者を断罪なさるとか」
「まぁ……本物の“悪役令嬢”だったらしいですわよ」
セレナは、すべてを聞いていた。
誰もが“見世物”を楽しみにしていた。
けれどその“主役”が、自分の意思で幕を引くとは、誰も知らない。
入場の音楽が鳴る。
扉が開き、皇太子レオニスがアリシアを伴って現れた。
セレナは一歩も退かず、ただゆっくりと進み出る。
人々の視線が、彼女を貫く。
羨望、嫌悪、同情、好奇――
あらゆる感情が、まるで剣のように刺さってくる。
けれど、セレナは笑った。
その笑顔は――かつての“皇妃候補”のものではなかった。
もう、誰の許しも、誰の評価も必要としない女の顔だった。
(さあ、“始めましょう”)