『ブレイヴイマジン』第8章 ラストバトル⑥
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その夜、俺は疲労困憊しているにも拘わらず、何度も目を覚ました。緊張している為か、それとも眠っている間にまたエターナル・フリーズが起こり、フロントワールドに帰され、また何か決定的な事を告げられるのではないか、という不安に苛まれている為か、自分でもよく分からなかった。
一度気分転換でもしようと思い、俺はテントの入口を開けた。世界樹の枝葉を広げる空であっても、その間隙に星の光が無数に見える。これ程の夜空は、都市の光が眩しすぎる東京では、決して見られなかった景色だ。
俺はその自然光の明るさに暫し立ち尽くし、空を仰ぎ続けたが、不意に冷たい風が吹き抜けて身震いをした。
偶然なのか、ルーラーが意図的にそうしているのかは分からないが、エヴァンジェリアの四季はフロントワールドの日本と対応しているようだった。俺が冒険を始めたのが十二月下旬だったので、今は三月の末。春はとうに訪れているはずだが、まだその暖かさは、安定したものにはなっていないようだ。現に、夜には肌寒さを感じる風も吹く。
俺はいつものベージュ色のコートを羽織り、丘の芝生を歩き出す。星や月の光が青白く降り注ぐ中を進んで行くと、頂上、世界樹の守護塔の近くに、ユリアが佇んでいるのが見えた。
俺が登って行くと、彼女はこちらに気付き、手を振ってきた。
「眠れないの?」
仲間たちを起こさないように声こそ上げなかったが、俺は傍まで行くと彼女に問い掛けた。ユリアは、少々極まり悪そうにもじもじと体を動かす。
「まあ……ね。だって明日は、魔王ディアボロスとの決戦だよ? 大丈夫だって分かっていても、緊張しちゃって……」
ケント君も? と彼女が尋ねてくる。俺は肯きながら、現在彼女が、透けた薄手のガウン一枚しか纏っていない事に気付く。白い肌やサラサラした茶色の髪が月光を受けて煌めき、俺は一瞬見惚れてしまったが、すぐに我に返った。絶対に寒いよな、と思い、羽織って来たコートを差し出そうとした。
「ありがと。でも、私は大丈夫だよ」
彼女は微笑むと、そっと睫毛を伏せた。
「ええ、大丈夫。明日の事だって……私たち、ここまで戦ってきたんだもん。きっと何とかなるよ。ケント君だって居るんだし」
「そうだね。俺にだって、ユリアや皆、ちゃんとついていてくれる」
俺たちは並び、どちらからともなく芝生の上に腰を下ろした。無言の時間が少々続いた後、ユリアは自分の太腿を抱え込むようにし、立てた膝に顎を乗せて、何かを考えるような遠い目になった。
「……私ね、明日の戦いが終わったら、ギアメイスの村に帰ろうと思うんだ。世界の滅亡が阻止された事を皆に伝えて、レーナたちもちゃんと埋葬して……それからは、もっと皆と打ち解けられるように頑張る。本当の私の事、皆に知って、分かって貰えるように。そしたら村長の娘、兼ブレイヴとして、村を今まで通り、決して豊かとはいえなくても、皆が安心して暮らせるように守っていきたい」
「そっか。ユリアだったら、きっと出来るよ」
俺は、本心からそう言った。ユリアはにっこりと笑い、矢庭に問うてきた。
「ところで、ケント君は? 世界を救ったら、何をするの?」
叶う事なら、自分と一緒に居て欲しい、と言っているようだった。俺は、ずっといつ切り出そうかと迷っていた事を、目の前に突きつけられたように思った。
魔王を倒し、世界を救ったらアポストルとしての使命も終わる。そしたら俺は、フロントワールドに帰らねばならない。そして、それはもう明日の事なのだ。帰ってしまったら、きっと俺はもう、皆とは会えないだろう。
(結局、俺は最後まで……)
最後まで、はぐらかし続けてしまった。俺は今日まで、ユリアに想いを伝えられずにいた。彼女はNPCなどではない、俺とは理を異にする世界に生きる、正真正銘の人間だ。ならば──彼女はずっと俺の事を好きだと言ってくれていたのだから、俺さえそれに応えていれば、俺とユリアは落ち着くべきところに落ち着いていたはずなのだ。
俺は、今なら誓って言える。俺はユリアが好きだ。本当に好きだ──。
「………? ケント君、どうしたの?」
ユリアが、怪訝な顔をする。俺は思考を低回させ、やがて決意した。
本当にユリアの事が好きなのであれば、明日俺に起こる事を話さねばならない。
「ユリア、聴いて欲しい事があるんだ」
俺は言った。既に遅いのかもしれないが、それを言わなければきっと後悔する事になるだろう。彼女の表情が、更に困惑に近づいた。
「俺の記憶が、戻ったんだ」
「えっ、それって」ユリアが言いかける。
「ユリアの推測通りだった。俺は、エヴァンジェリアではない世界からルーラーに招喚された、アポストルだった。だから……この世界を救ったら、俺はその故郷、フロントワールドに帰らなきゃいけないんだ」
彼女の目が、大きく見開かれた。この時が来る事を思う度俺を襲ってきた鈍痛が、また体の奥深くで疼いた。
「そしたら、多分この世界にはもう来られない。皆とも……ユリアとも、お別れしなきゃいけなくなってしまう」
「酷いよ、そんなの!」
ユリアはいきなり叫ぶと、俺の肩に両腕を回し、しがみついてきた。
「私とケント君、出会ってからずっと、一緒に居たのに……時々離れ離れになる事があっても、すぐにまた一緒になれたのに! 一日も、傍に居られない日なんてなかったのに……明日になれば、そんなに簡単にさよならなの? さよならしなきゃ、いけないの?」
「ごめん、今までずっと言えなくて……だけど、言ったらユリアが、そう言うと思ったんだ。悲しませてしまうって、怖くて……勿論俺だって、離れたくない。叶う事なら、ずっと傍に居たい。でも、フロントワールドは確かに俺の、帰るべき故郷なんだよ。ユリアにとっての、ギアメイスみたいに」
「分かってる……分かっているけど……!」駄々を捏ねるように、彼女は俺の肩口に顔を埋めたまま首を振る。涙が滲み、その頰が押し付けられた部分が熱を持つのを感じた。
泣き始めるユリアの頭を、俺はやや躊躇ってからそっと撫でた。彼女が泣き止むまで、何度も何度も続ける。そのような時など来ないのでは、と思える程、その嗚咽は止まらなかった。
俺はこうなる事を、予想出来ていたはずだった。しかし俺自身が、明日訪れる別れについて受容出来ていたのかと問われれば、決してそうであるはずがない。旅の終わりが明確になった事で、俺もやっと、自分自身の事について考える余裕が生まれたのだとしたら、皮肉な話だと思った。
永遠と思われる時間だった。しかし、今のままであれば、永遠に続いても構わないと思えるような時間は、終わりを告げた。次第にユリアの咽び泣きは小さくなり、やがて顔が上げられた。
「明日……明日お別れなら、最後にこれだけは教えて」
彼女と俺は、至近距離で見つめ合う。
「私はやっぱり、ケント君の事が大好き。ケント君は私の事、どう思っているの?」
──きっとこれが、俺に与えられた最後のチャンスだ。
そう思った俺は、もう迷わなかった。
「俺も……ユリアが好きだよ」
言いたい言葉が、そのまま口を突く。
「強くて、優しくて、可愛くて、俺の欠点も全部肯定してくれて……そのままの俺を認めてくれた。俺はここに居ていいんだって、ユリアが教えてくれた。いつも傍に居てくれる人がユリアだったから、俺は慣れないこの世界で、百日間を生きてこられたんだと思う。君が、俺の相棒で良かった。……ごめんね、最後の夜になるまで、こんな簡単な事が言えなくて──」
突然、俺は話せなくなった。
ユリアの髪が、ふわりと靡く。彼女の目が閉じられる。すぐ近く、視界一杯に、その顔が寄せられる──。
俺は目を閉じ、口を塞ぐものを受け入れた。
甘い香り。
「………」
俺は、顔が熱くなるのを感じながら、ユリアを引き寄せた。夜風が唇に当たるようになっても、まだ、仄かに残った微熱は消えなかった。
「ありがと」
顔を離したユリアはたった一言だけ──しかし、心から幸せそうに言った。
その顔を、俺は一生忘れないだろう。残り僅かとなった無限の中、俺とユリアは長い間寄り添い続けていた。
星影が、俺たち二人を優しく包み込んだ。