05.筆の音にのせて
紅花は目を丸くした。
「もしかして、子を……?」
「ええ……」
長い睫毛が涙に濡れる。
「一人目は池の真ん中に浮かんでいるところを発見されたわ。二人目は毒を飲んで寝台の上で。三人目は住んでいた部屋が燃えたの。その妃は一命を取り留めたけれど、お腹の中にいた子は流れてしまった。四人目は首をつった状態で見つかったわ。そして五人目は私だった……」
「犯人の顔は見たのですか?」
鈴妃は力なく頭を横に振る。
「夜の道を散歩していたときよ。後ろから背中を押されたの。私はそのまま階段を転げ落ちたわ。そのとき、我が子は……」
鈴妃は震える声で言った。紅花は鈴妃の震える手を握りしめ、頭を横に振った。
「もう、大丈夫です。お辛かったのですね」
「ええ……。あの時は侍女に火を持たせて前を歩かせていたのよ。侍女は誰も見ていないというの。これはきっと廃妃の祟りよ」
「……廃妃の祟り?」
「ええ。三年前、第五皇子を殺そうとして廃された妃がいたわ。その者の祟りに違いないわ。あなたも気をつけたほうがいいわ。狙われるのは寵愛を受けた者ばかりだもの」
「はい。気をつけます」
紅花は強く頷いた。鈴妃は侍女に支えられながら宮殿へと戻っていく。
(生まれる前の子も狙うなんて非道ね)
それだけ皇位争いが激化しているのだろう。皇帝には十人の皇子と八人の皇女がいる。皇帝はまだ健康そのもので、当分その席を譲るようなことは起らないだろう。そうなれば、十一人目の皇子が跡を継ぐ可能性だってある。
その芽を生まれる前に潰そうとしているのだろう。
小さくなる鈴妃の背を見ながら紅花は小さくため息を吐く。
「ほんと、嫌な場所ね」
呟いた言葉は風に乗って消えた。
◇◆◇
紅花が妃となって二ヶ月とほんの少し。
夜は皇帝の寝所で過ごしている。最初は遠慮して床などの上で寝ていたが、最近では堂々と寝台の真ん中で眠ることができるようになった。
事件に進展がないため、雲嵐との会話も短めだ。これがあと何日続くのか。
高級な料理にも飽きた。やはり、ほどほどが一番。残飯はごめんだが、上品すぎるのも胸焼けがする。
(そろそろ終わりにしよう)
紅花は硯に水を垂らした。空気を撫でるように墨をする。幼いころ、父の手伝いでよく墨をすっていた。力任せにゴリゴリと。そのたびに父は笑って紅花の手を止めるのだ。
『紅花。墨をするときは空気を撫でるようにしなさい。力など掛けなくても自然と黒く変化してく』
静かに。回すように。硯の上でくるくると墨が踊る。色を持たない液体が、言葉を綴るために黒に変化していく。その様子を眺めながら、紅花はにんまり笑った。
先日買い与えられた筆を持つ。
『後宮に咲いた曼珠沙華は月明かりに照らされて踊る。君主はその花に溺れ、毎夜寝所に曼珠沙華を飾るように命じた』
(あまり色っぽい描写をすると、すぐに回収されるから気をつけないと)
市井に出回る書を取り締まるのは、雲嵐の管轄ではないらしい。彼の管轄であればどんなに楽だったことか。
紅花はさらさらと書き足していく。
「『しかし、満月の晩より皇帝の呼び出しがぴたりと止まった。その日、寝所には数名の宮廷医が呼び出されたのだ。紅き髪の妃は医師に包みを渡し、秘密を強要する』それは預言書か?」
「雲嵐殿下。今日は遅かったですね」
「そなたが言っていた串焼きとやらを探すのに手間取った」
「あ。見つかりました? ありがとうございます。もう、ここの料理こってりしていて胸焼けがするんですよね」
雲嵐から包み紙を奪うと、中に入っていた串焼きを三本まとめて口の中に入れる。秘伝のタレで作ったという鳥の串焼きだ。紅花の大好物だった。後宮で働き始めてからは食べることができなかったので、実に三年ぶりである。
「この串焼きも十分こってりしていると思うが?」
「ふまひですよ。へんはもひははでふは?」
「食べてから話してくれ。あと、私は不要だ」
紅花が差し出した包み紙を突き返す。紅花はごくりと飲み込んだ。
「おいしいのに」
「それで、その書はどうするつもりだ?」
「ああ、これですか? そろそろ本格的に漁を始めようかと思いまして。殿下もこんな生活疲れるでしょう?」
雲嵐がどう考えているのかはわからないが、紅花自身が相当飽きてきたのだ。贅沢な生活は最初こそ楽しいがつまらない。
紙は高級である必要はないし、服も飯もそれなりの物で十分だ。
「それでこれか?」
「ええ。鈴妃から聞いたんですけど、犯人はお腹の子も狙ったみたいじゃないですか」
「ああ」
「なら、身籠もったことにするのが一番でしょう?」
ちょうど二ヶ月。大きな嘘を吐くにはちょうどいい。
紅花は歯を見せて笑うと、串焼きにかぶりついた。