第6章 アウェイの洗礼
疑問点を書き連ねた手帳を睨み、ぐぬぬ……、と唸っていた保志枝だったが、
「……さっぱりわかりませんっ!」
がばり、と手帳から視線を上げた。
「まだ、これだけの情報じゃあね」
朝食を終えた理真が、食後のコーヒーを飲みながら言った。
「ねえ、理真、琉香ちゃんも」私もコーヒーカップに口を付けて、「このあと、現場に行ってみようよ。さすがに現場に立ち入ることは無理だろうけどさ、何か手がかりが掴めるかもしれない」
「いいですね!」それを聞くと、保志枝は表情を輝かせて、「この事件は、一度消えた死体が再び現れるという、不可能犯罪的様相を呈しています。警察だって、こういった犯罪の捜査を得意としている民間探偵の協力や助言は、喉から手が出るほど欲しているに違いありません。そこに、あまたの不可能犯罪を解決に導いた実績のある理真先輩が颯爽と登場すれば。警察にとってはまさに渡りに船、捜査協力要請せざるをえないでしょうよ」
理真のホームグラウンドの新潟県警管内であればまだしも、縁もゆかりもない東京都内では、そう易々と事が運ぶとは思えない。が、
「ようし、そうなれば、善は急げですよ!」
やる気満々の保志枝は、残りの朝食を片付けるべく、自分の皿に襲いかかった。
現場が住宅地で、今日は日曜日ということもあってか、現場に近づくにつれ、人だかりもその密度を増してきた。
規制線が張られた現場――久津森の住居――の内外には、制服、私服問わず警察官が忙しそうに出入りをしており、その一角では、見知った顔が刑事と思しき男性と話をしていた。
「……あっ、保志枝さん」
その見知った顔――山越が、こちらに気付き声を上げた。私たちは会釈をして近づいていく。
「大変なことになりましたね、山越さん」
「そうなんですよ……」保志枝の言葉に、ほとほと困り果てた、といった顔で応じた山越は、「今も、刑事さんから聴取を受けているところです」
隣に立つ刑事――やはりそうだった――を見た。その刑事は、睨めつけるように私たちを見やると、
「こちらは?」
山越に視線を戻した。フリーライターの保志枝のことを紹介すると、刑事の目には警戒するような色が浮かび、探偵とその助手だと言われた理真と私に対しては、
「探偵……?」
保志枝のときから、さらに輪をかけた警戒の色を向けてきた。
理真と私が関わる事件は、ホームである新潟県警管内で起きたものや、あるいは、新潟県警から先方に事前に話を通してもらっていたうえで関わるものばかりだったため、その刑事が向けてくる訝しがるような視線が、私には――理真もだったろう――久しぶりで新鮮だった。その相手が――探偵、ワトソンとも――若い女性であったということも、刑事の視線の意味に籠もっていたのであろうことは想像に難くない。
「警視庁からは、どこにもそんな捜査協力要請は出していないと思うが……」
首を傾げた刑事に、代表して保志枝が事情を説明した。
「ふうん……」事情を飲み込んだらしき刑事は、「そういうことなら、あんたらの出番はないな」
急に興味を失ったように、ぷいと横を向いてしまった。
「えー! どうしてですかっ!」納得のいかない保志枝は、「死体が消えて――あるいは、一度死体が消えて、また別の死体が現れたっていう、立派な不可能犯罪事案じゃありませんか。そこに居合わせた探偵ですよ。これに頼らなくてどうするんですか。鴨が葱を背負ってきたようなものじゃないですかっ!」
理真と私は葱か。“新潟から来た葱”ということで、こんにちネギネギ、などとは言うてる場合じゃないので言わない。
「死体が消えた、ねえ……」が、保志枝の熱量とは裏腹、刑事のほうは、手にしていたペンでぼりぼりと頭をかくと、「今も、こちらと」と山越にあごをしゃくり、「話していたんだがね……そもそも、そんなことが本当にあったんですかね?」
「……そんなこと、というのは?」
「死体が消えた、ってことですよ」
「だ、だって、現に山越さんが……」
「通報を受けて駆けつけた警察官は、死体なんてどこにもなかった、と、そう報告しているんですよ」
「だから、死体がないことが、死体が消えた証拠じゃないですか」
ややこしい。
「一昨日、死体を見たと言っているのは、こちらの山越さんおひとりだけなんですよね」
再び刑事にあごをしゃくられると、山越は、
「で、ですが、私は確かに……」
「何かの見間違え、という可能性はないんですか?」
「あ、ありません。私は絶対に見たんです。窓越しに、ダイニングキッチンの床に何者かが倒れているのを……」
「まあ、実際、誰かが倒れていたのだとして、それが本当に死体だったと、言い切れますか?」
「えっ?」
「もしかしたら、住人が足を滑らせて、転んでしまっていただけだったのかもしれない」
「で、でも、床には血が……」
「確かに血でしたか?」
「……そう見えました」
「あなたは、倒れているのが死体だと思い込んでしまったばかりに、服の模様を血だと思い込んでしまっただけなんじゃありませんか?」
「そ、そんな……」
「ちょっと、いいですか」
そこへ待ったを入れたのは理真だった。刑事からは鬱陶しそうな、山越からは救いを求めるような、それぞれの視線を浴びて、理真は、
「仮に、刑事さんのおっしゃるとおり、住人――つまり、居住者の久津森さんということになりますね――が転倒しただけだったとしたら、その後に通報を受けて駆けつけた警察官との応対で、どうして久津森さんは、そのことを言わなかったのでしょうか」
「はあ?」
「警察官は、『死体を目撃したという通報があったので調べさせてもらいたい』と久津森さんに告げたのですよね。であれば、キッチンで転倒してしまったことを偶然目撃されて、それを勘違いされてしまったのだな、と思い至って、そのことを警察官に説明すると思うのですが」
「そこまで考えが及ばなかったのか、あるいは、何らかの事情があって、転倒したことを知られたくなかったんだろう」
「その何らかの事情というのは」
「知らんよ。ばつが悪いと思っただけなのかもしれない」
「では、警察の捜査方針としては、山越さんが一昨日に死体を目撃したことは、あくまで山越さんの見間違いだったのだろうと、そう断定するということですね」
「断定、とまで強い言葉は使わんがね、死体が一度消えた、なんて突拍子もない話を鵜呑みにするよりは余程現実的だろうということだよ」
「山越さんの体験は、ただ単に死体が消えたたいうわけではありません。消える前と、再び現れた死体とが、ほとんど同じ様相呈している――体勢も、発見位置も――というのは、興味深いことだと思うのですが」
「発見された死体は――それこそあんたら探偵がお得意としている――首がないだとか、おかしな装飾が施されているだとか、そういった点の一切ない、極めて普通の刺殺体だった。妄想上の死体と現実のそれとが合致していたとしても十分ありえる。あるいは……こちらの山越さんが、事件になにかしら関与しているとか」
黙っていた山越が、何か言いたげに口を開きかけたが、それをたしなめようとするように、先に理真が、
「では、現場から、皆田という人の借用書が消えていたことについては、どう考えているのでしょう。一昨日、警察官に応対した人物が被害者の久津森さんなのであれば、彼が殺害されたのはそれ以降ということになり、必然、皆田さんのアリバイは完全に成立することになります」
そんなことまで知っているのか、と思ったのだろう、刑事は苦々しげな表情をし、小さく舌を鳴らしてから、
「実行犯を雇ったのかもしれん」
「そうであれば、九時二十五分に自宅前にいるのを目撃された、などという希薄なものではなく、もっと確実なアリバイを用意しているべきだと思いますが」
「その辺の事情は、皆田に尋問してはっきりさせるさ。まあ、あんたが、現場から皆田の家までを五分で移動できるトリックを解明してくれる、というなら話は別だが」
刑事は口角を上げた。にやり、という擬音がこれ以上ないほど似合う。
「とにかく」と刑事は続けて、「この事件には、民間探偵に捜査依頼を持ちかけるに足る要素はない、というのが結論だ。捜査の邪魔だから、もう帰りなさい。ああ、山越さん、あなたには、またお話を伺う機会もあると思いますので、しばらくの間は遠出などしないようにお願いしますよ」
そう言い残すと、刑事は規制線の向こうに消えていった。