第3章 借家に関するあれやこれ
新幹線を上野駅で降りた理真と私は、山手線と総武線を乗り継いで亀戸駅に降り立った。保志枝琉香から聞いていた事件現場は、江東区の一角に位置する住宅地。そこへ行くためには、ここからさらに都営バスを使うことになる。
車窓に見える景色は、低層のビルや一軒家が建ち並び、電話で保志枝が言っていたような「コンクリートジャングル」のイメージからは遠いように私には感じられた。
バスに揺られること十数分、指定の停留所で降車すると、
「理真せんぱーい、由宇せんぱーい、ここ、ここですー!」
保志枝琉香が、手を振りながら駆けてくるのが見えた。ちなみに、大きなしゃもじを持ってはいなかった。
「はい、これ、おみやげ」
「『サラダホープ』だ! うわー! ありがとうございますっ!」
理真が手渡した新潟土産、米菓の「サラダホープ」を受け取ると、保志枝は目を輝かせた。これは新潟県内にしか流通していないお菓子で、保志枝が来県した際にお土産に買っていき、自分でもはまったらしい。
「では、さっそく案内します」
サラダホープを大きな肩提げ鞄にしまった保志枝を先頭に、私たちは歩き出した。
一軒の平屋の前まで来ると、「こちらです」と保志枝は呼び鈴を鳴らした。「はーい」と返事があり、すぐに玄関ドアが開く。
「お待ちしておりました、保志枝さん」
中から顔を見せたのは、三十がらみの男性だった。
「こちらが」と保志枝は私たちに向かって、「依頼人の山越さんです」
一方、山越に対しては、
「こちら、はるばる新潟からお越しいただいた、探偵の安堂さんと、ワトソンの江嶋さんです」
新潟からの訪問者を紹介すると、山越は、ぎょっとしたような、意外そうな目で理真と私を交互に見つめた。
「どうかされましたか?」
理真が訊くと、
「いえ、完全に予想外だったもので……」
「予想外というのは?」
「私、保志枝さんから『令和の金田一耕助が来る』なんて聞かされていたものですから、どんな貧相なおっさんなんだろうと勝手に思ってしまっていたもので、まさか、こんなうら若い女性だとは……しかも、ワトソンさんまで」
理真に横目を向けられた保志枝は、
「ち、違います。見た目じゃなくって、マインドですよ、マインド! 探偵よ、金田一耕助であれ! って感じで……」
と言い訳をしていた。
山越に中へ招じ入れられ、私たちはお茶を飲みながら話をすることになった。
当事者である山越の口から、改めて“死体消失事案”の詳細を聞いたが、その内容は保志枝が電話で話してくれたものとほぼ相違なかった。
「目撃したという死体についてですが」ひと口お茶をすすってから、理真が聞き取りを始めて、「どんな人物だったか、憶えていますか? 背格好や着衣、おおよその年齢など」「さあ……」首を捻って山越は、「なにせ、一瞬だけしか目にしなかったものですから。……ええ、怖くって。……そうなんです。うつ伏せだったので、顔は一切見ていません。身長は、そうですねえ……私と同じ……百七十くらいかな? 着ていたものは、すみません、正直、憶えていないです。裸ではなかった、というくらいしか……」
「思い出せないということは、何も印象に残らなかったということですね。つまり、何かしら奇抜な格好をしていたわけではなかった」
「そうですね。ごく普通の服……普通の服っていうのが、どういうのか説明しろと言われたら詰まりますけれど……すみません」
「いえ、よくあることですから」
「あとは、年齢ですか。それも正直……なにせ……」
「顔を見ていらっしゃらないわけですものね」
「そうです、そうです」
頷きつつ山越は茶菓子を手に取り、私たちにも、どうぞ、と差し出してきた。では遠慮なく、と理真も、茶菓子を口に運んでから、
「では、お隣にお住まいの方については、いかがでしょう。どんな人だとか、何かご存じのことはあるでしょうか?」
「保志枝さんにもお話したのですが、正直言ってですね……存じ上げません。私、朝七時には家を出て、帰宅するのは午後七時前後になることが多いのですが、一回も顔を合わせたことはないんですよ。お名前も、久津森悦汰さんだということを、昨日の警察官の聞き取りで知ったくらいでして。名前の漢字は、警察官が当人に尋ねたのを聞いていたので分かったんです。久しい、三重県の津市の津、森林の森、豊川悦司の悦、さんずいに太いの汰、と」
「山越さんは、こちらのお住まいは長いのでしょうか?」
「三年くらいですね」
「賃貸物件だそうですね」
「そうです。以前は、もっと職場に近いアパート住まいだったのですが、ああいう集合住宅って隣だけじゃなく、部屋によっては、上下にまで気を遣わないといけないじゃないですか。かといって、上下左右の住人がこっちに気を遣ってくれるという保証もないですし、だから私、ああいう集合住宅って苦手なんですよ。そんなもので、通勤時間は延びますけれど、思い切ってここに引っ越してきたんです。1LDKで、一人暮らしには手頃な、いい物件だと思っていますよ。家賃も比較的安価ですし」
私たちが通されているのは、「DK」にあたるダイニングキッチンだ。ちなみに、私はアパートの管理人職に就いている。さらにちなみに、安堂理真も私のアパートの一室に住んでいるのだ。
「死体を目撃したお隣も、同じ賃貸物件なのですね」
「そうです。ついでに言えば、道路を挟んだ向かいにも二軒、同じ平屋がありまして、そこも含めた四棟すべて、ひとりの大家さんが管理している物件です。建物の外観も部屋割りも、四棟ぜんぶ同じなんですよ」
それを聞いた私が、
「であれば、もし、本当にお隣に死体があったとなれば、大家さんは頭が痛いでしょうね」
「事故物件、というやつになるからですか」
「そうです」
過去に自殺や殺人事件などが発生した不動産のことを「事故物件」もしくは「心理的瑕疵のある物件」と呼び、不動産の売主、貸主は、契約相手にそのことを告知する義務がある。
「それって確か」と山越が、「事故物件になったとしても、一度人が住めば以降の告知義務はなくなるんですよね」
「ああ、確かに、そういったルールを勝手に設けていた不動産会社もありましたね」
「えっ? 勝手にということは、これは正式なルールではないということなんですか?」
「そうなんですよ」
今、山越が言ったように、「事故物件になったあと、一度でも人が住めば以降の告知義務はなくなる」という説が、さも正式な決まりであるかのように流布しているなど、事故物件の告知に関する規定には曖昧な部分があった。が、令和3年に国土交通省が「宅地建物取引業者による人の死の告知に関するガイドライン」というものを発表し、賃貸物件においては、要因となる心理的瑕疵が発生したのち概ね3年間は告知義務が必要、と定められたのだ。このことを伝えると、
「へえ、そうだったんですか。ちっとも知らなかったなぁ」
山越は意外そうに頷いた。
「不動産に関する仕事をしている人でないと、なかなか知る機会は少ないかもしれませんね」
「もしかしたら、ここの大家は知らない可能性があります」
「えー? そうなんですか?」
「とにかく、いい加減な人なんですよ」山越は、聞いてくれと言わんばかりにテーブルの上に身を乗り出して、「賃貸物件には、トイレや電気、ガスなんかが使えなくなった期間があった場合、家賃が減額されるっている決まりがあるじゃないですか」
「はい、“設備等の不具合による賃料減額”というやつですね」
「それです、それです。一昨年、近くにあった落雷の影響で、電気が数日間使えなくなってしまった時期があったんですね。で、そのことで、今、江嶋さんがおっしゃった賃料減額を適用してもらおうと大家に言いに行ったらですね、そんなものは知らない、と一蹴されてしまいまして、こちらで法律を調べて、やっとのこと納得させたんですよ」
「それは大変でしたね」
一昨年というなら、令和3年ということになる。いま言った“設備等の不具合による賃料減額”の詳細が掲載された「民間賃貸住宅に関する相談対応事例集」が発表されたのが平成30年だから、当時から数えて三年前のことになる。それを知らなかったで済まそうとしたというのは、貸主としての怠慢と言われても仕方がないだろう。
「家賃の支払いも面倒くさいですしね。この物件は、未だに大家が家賃を直接取り立てに来るんですよ」
「えー、銀行振り込みとかじゃなくてですか」
「そうなんですよ。何でも聞いた話だと、かつては振り込みもオーケーだったそうなんですけれど、ある借主が、一向に家賃を振り込まないまま何箇月も住み続けていたということがあったそうで。さっき言ったように、大家もいい加減な人で、きちんと借主全員が定期的に家賃を振り込んでいるか、ろくに確認もしなかったそうなんですね。で、ある日気付いてみたら、振り込まれるはずの家賃が少ない、誰かが滞納している、ということが分かって、それ以降、取りっぱぐれのないように、毎月家賃の取り立てに回るようになったそうです」
「それは、大家さんも手間がかかるでしょうに」
「ここの家賃収入だけで暮らしている身分だから、暇を持て余しているんでしょうね」
あはは、と山越は笑った。そこに、
「あの、由宇先輩……」と保志枝が、「そろそろ事件のことを……」
「ああ、そうだった。ごめんね、琉香ちゃん」
すっかり不動産談義で盛り上がってしまった。まあ、盛り上がっていたのは私と山越だけだったけれど。
「消えた死体……ね」
私が言うと、山越も神妙な顔になった。