第2章 東京からの電話
『……というわけなんですよ』
ローテーブルに置かれたスマートフォンから流れてきた保志枝琉香の話をまとめると、以上のようになる。
「消えた死体、ってわけね」
私と一緒に話を聞いていた安堂理真が言うと、
『そうそう、そうなんです』
スピーカーの向こうから、保志枝の声が続く。
「で、私に、その事件――まあ、まだ事件化はしていないわけだけど――の捜査をしろと」
『そうです、そうです。理真先輩のおっしゃるとおり』
うんうんと頷いている様子が見えるような口調で、保志枝は返してきた。
『話の中にもあったとおり、死体が消えてしまったので、警察が捜査に入るわけにはいきませんからね』
「死体がなかったなら、事件じゃないんじゃないの?」
『いえいえ、理真先輩、山越さんは、確かに、間違いなく、その目で死体を見たと、こう言って譲らないんですよ。もうそうなったら、理真先輩の出番以外にないじゃありませんか!』
保志枝の声が熱を帯びてきた。
彼女――保志枝琉香から、安堂理真に電話がかかってきたのは、お昼ご飯を終えたころの時刻だった。
『理真先輩っ! 相談があるんですけれどっ!』
着信に出るやいなや、開口一番そう言ってきた保志枝の“相談”というのが、先に書いた、山越なる男性が遭遇した、奇妙な死体消失事案なのだ。
保志枝琉香は東京でフリーライターの職に就いている。山越なる人物は、過去に保志枝から取材を受けた縁があり――昨今世間を騒がせている、飲食店における迷惑行為についての取材だったそうだ。山越は、関東に数件チェーン展開している中堅飲食店に勤務している――死体消失事案を経験した翌朝、今回のことについて相談に乗ってもらえないかと、保志枝のスマートフォンに架電したということだった。
興味を持った保志枝が、馴染みの雑誌編集者にもその話を聞かせたところ、向こうでも面白がり、いい記事になるようなら掲載する、と約束をしてくれたらしい。そこで保志枝が頼ってきたのが、知り合いの作家である安堂理真だったというわけだ。
どうして“死体消失”などという物騒な相談を作家に持ちかけるのか、と疑問に思うかたもいらっしゃるだろう。保志枝が電話をしてきたのは、安堂理真が持つ作家以外の顔、“素人探偵”という、もうひとつの顔を知っているからだ。
その電話がかかってきたとき、私こと江嶋由宇も理真の部屋に遊びに来ていたため、こうしてスピーカーモードにした理真のスマートフォンを囲み、一緒に話を聞くことになった。ちなみに、理真が素人探偵として行動する際には、私も助手として随伴することがほとんどだ。二十代の女性同士の探偵とワトソンというのは、民間探偵業界を見回してみても、珍しい部類に入るコンビだろうと思っている。
『もしかして理真先輩、今、お忙しいですか?』
保志枝の質問に、理真は、コーヒーカップに一度口を付けてから、
「締切が近い原稿が一本あるけど」
『えー。そこを何とか、お願いしますよ。もちろん、交通費は経費で落としますから……』
ここで保志枝が言った『交通費』とは、主に新幹線代のことだ。理真と私は、東京から遙か(というほどでもない。新幹線で二時間弱だ)遠い、新潟県新潟市に居住している。
『もちろん、由宇先輩もご一緒に。やっぱり、探偵とワトソンは一緒じゃないと』
嬉しいこと言ってくれるじゃないの。と思っていたら、
『由宇先輩は、どうせ暇でしょ?』
ひと言多いのが琉香ちゃんの悪い癖。ちなみに、理真や私のことを「先輩」呼びにしているが、私たち二人とも、保志枝の出身校にも職場にも一切関係はない。彼女は年上に対しては誰彼かまわず「先輩」を付けて呼ぶのだ。保志枝なりの敬称みたいなものなのだろう。
『由宇先輩からも、理真先輩を説得して下さいよー。このとおり!』
このとおり、と言われても、電話では、どのとおりなのか確認する術がない。私と目を合わせた理真は、
「うーん、じゃあ、まず、この電話で、もっと詳しい周辺事情を聞いてからってことで、どう?」
スマートフォンの向こうにいる保志枝に向けて提案した。
『周辺事情と言われましても……さっきお話しした内容ですべてですよ』
「もっとこう、あるでしょ。例えば、相談者の山越さんの隣家に済んでいる人――久津森悦汰さん、だっけ――の職業とか、人となりとか」
『わかりません』
「え?」
『わからないんです。山越さんが、そうおっしゃっていました』
「じゃあ、見た目とか、おおよその年齢とか」
『それも、分かりません』
「えー」
『昨日も、警察官に応対した久津森さんのことを、山越さんは見ていないですし』
「警察官の体に遮られてたんだっけ」
『そうなんですよ。まさに“怪しい隣人”です。正体はイカルス星人なんでしょうか?』
何の話?
「そうは言っても、お隣さんでしょ?」
『甘いですよ、理真先輩。東京は、先輩方がお住まいの新潟のようなド田舎と違って、暖かい近所付き合いなんてないんです』
褒められているのか、けなされているのか。
『「隣は何をする人ぞ」なんて句がありますけれど、名前や職業はおろか、居住人数から外見に至るまで、隣人のことを知っている人間なんて、東京にはいないんですよ』
さすがに、そこまでではないと思うけど。
『“コンクリートジャングル”なんて言葉が昔流行りましたけれど、言い得て妙ですね。東京という大都会は、ジャングルなんです。自分以外の他人は存在していないも同然。それでいて、泥棒なんかの脅威は田舎とは比べものにならないくらいあるんですから、ちょっとした外出にも施錠は欠かせません。新潟じゃ、外出するのに鍵をかける人なんていないでしょ。こっちではそんな真似は自殺行為です。東京においては、他者はみんな自分に害なす猛獣みたいなものなんですよ』
いや、さすがに鍵はかけるよ。琉香ちゃん、新潟に対してどんな田舎のイメージ持ってんだ。何回か来たこともあるくせに。
『猛獣に囲まれた生活! まさにジャングルじゃないですか。主観では、東京に住む人は自分の家以外はすべて、大自然の驚異と同様なんです。“ぽつんと一軒家”なんてものはね、人里離れた山奥だけにあるものじゃないんです。東京の家という家はすべて、コンクリートジャングルという過酷な環境に置かれた一軒家も同然なんですよ……。もしかして私、今、上手いこと言っちゃいました?』
いや、別に。
『そんなだから、理真先輩にこの事件を捜査してもらうには、実際に現地に来てもらわないと、お話にならないわけなんですよ』
「じゃあさ」と理真が、「琉香ちゃんがそっちで情報を集めて、それを聞いて私が推理する、とかでいいんじゃない?」
『安楽椅子探偵、ってやつですか』
「そうそう」
『いえ、やっぱり来てください』
「どうしても?」
『はい、どうしてもです』
「……何か事情がありそう」
『うっ……。じ、実はですね、私、話を持っていった編集者に、「この事件を素人探偵が捜査して事件を解き明かして、そこまで記事にする」って言っちゃったんですよ。ですので、安楽椅子探偵スタイルじゃなくて、実際に探偵が現地で捜査をしてもらわないと、記事として地味になってしまうものですから……』
「そういうことだったのね」
『は、はい……。それはもう、快刀乱麻、鎧袖一触、一顧傾城の名探偵を知っている! と、私、豪語してしまいましたもので……。お願いしますよ、理真先輩……』
先ほどの東京砂漠――古いか?――じゃなかった、コンクリートジャングルの殺伐さを声高に論じていたときの勢いはどこへやら、保志枝は消え入りそうな声で懇願し始めた。
「しょうがないなあ……」
少しの沈黙のあと、理真がため息まじりに返すと、
『ありがとうございますっ!』たちまち保志枝の声に気力が戻り、『わたくし今、土下座をしたうえ、床に額を擦りつけておりますっ!』
琉香ちゃんなら本当にやりかねん。実際、スピーカーの向こうからは何かの擦過音が聞こえている。
『記事の名前は、「突撃!隣の殺人現場」ってどうですか? 私、大きなしゃもじを持っていったほうがいいですかね?』
それはやめたほうがいい、と理真と私で説得した。
「じゃあ、琉香ちゃん、私と由宇は、今から支度して新幹線に乗るわ。この時間だから、そっちで泊まりになるからね」
『ありがとうございますっ! ホテル代ももちろん経費にしますけれど、その代わり、そこらのビジネスホテルで我慢して下さいね』
「いいよ。でも、そのかわり、新幹線の座席はグランクラスにするわよ」
『ふ、ふえぇ……それは……経費で認めてもらえるかなぁ……』
そんな脅しをしておきながら、結局、理真と私は、上越新幹線の自由席に揺られて東京を目指したのであった。