第1章 消えた死体
会社員、山越俊一は、その夜、買い置きの発泡酒を切らしていたことに気づき、買い出しに出た。このとき、時間にして午後八時四十分頃。一週間働いた疲れが溜りに溜まった休日前夜を、アルコールなしで過ごすことなど考えられなかったからだ。
目的地のコンビニまで、いつもであれば自転車を駆って出るところだが、たまには買い物がてら、夜の散歩もよかろうと、その日ばかりは歩いて行くことに決めた。日中に堆積した春の陽気が消え切らず、その影響もあって、例年以上に早い開花を向かえた桜の木が、コンビニまでの道中に立っていたことも、その選択の後押しをした。山越の自宅からそのコンビニまで、徒歩で片道約十分、往復にして約二十分の、運動にもちょうどよい夜の散歩となるはずだった。
買い物を済ませた復路、自宅へ辿り着こうかという直前、ふと、明かりの漏れている窓があることに気付き、何気なく目をやった。そこは彼の隣家で、背の低い塀越し、僅かに開いたカーテンの隙間から、室内の様子を窺い見ることが出来る状態となっていた。はて、往路のときも、こうなっていただろうか……? いや、数十メートル間隔で電柱に取り付けられた外灯を除けば、月明かりのほかは何も光源のない住宅地である。してみると、往路で自分が通り過ぎたあとに、ここの住人がカーテンを開けたということなのだろうか。こんな夜中に? 何のために? 思わず足を止めた。窓ガラス越しに、何者かがダイニングキッチンの床で横になっている様子が見える。どうして部屋まで断定できたのかというと、その家と山越の住んでいる家は、ともに賃貸用に建てられた平屋で、外見から間取りまでまったく同じだったためだ。
その人物が眠っているとは微塵も思わなかった。なぜなら、うつ伏せになったその何者かはぴくりとも動かず、その体とフローリングとの間には赤いものが垣間見えたためだ。山越俊一の手から力が抜け、提げていたエコバッグが路上に落ちる音が、夜のしじまに反響した。帰路の到着直前であったため、このときの時刻は、ほぼ午後九時。
アスファルト上にこぼれ出た発泡酒の缶を拾い集めた山越は、脱兎の如く駆けして自宅玄関に飛び込んだ。台所で水を一杯飲み、椅子に座ると、ようやく呼吸も気持ちも落ち着いてきた。
自宅前の道を右へ左へと行き来する車両音を耳にする。その中のドライバーの誰かが、あれに気付いて通報してくれないだろうか。そんな期待が薄いことは分かっていた。走行している車両から、あれを目撃することはほぼ不可能だろう。自分だって、いつものように自転車で出ていたら、恐らくあんなものを目にしてしまうことなどなかったはずだ。柄にもなく風流を気取って春の夜の散歩などと洒落込み、普段とは違う表情を見せている町並みを物珍しく感じ、そこかしこに視線を投げかけながら闊歩していたことが仇となってしまった。
懐からスマートフォンを取り出す。日本においては、犯罪を目撃した際に警察に通報するのは、あくまで努力義務だと聞いたことがある。このまま“見て見ぬ振り”を決め込んだとしても、自分が何らかの罪に問われることはないはずだ。
スマートフォンをしまいかけて、ふと考える。自分が通報せずとも、あの死体(に間違いないだろう)は遅かれ早かれ、誰かしらに発見されるはずだ。そうなれば、隣家である自分のところにも警察が聞き込み来ることは確実だろう。さらに捜査が進めば、死体の死亡推定時刻が割り出され、その時間、自分が現場前を歩いたことも明らかにされるに違いない。コンビニのレジに立っていたのは馴染みの店員で、「おや? 今日は歩きですか?」「暖かいし、たまには運動もしないとね」などというような会話を交わしてしまっていたためだ。車や自転車で疾走していたのならまだしも、徒歩の速度で、カーテンの隙間から明かりの漏れた室内に気を留めなかった、というのはいかにも不自然だ――実際、山越はそうして死体を目撃している。なぜ、そのときに通報しなかったのか、と責められることに加え、ともすれば、あらぬ疑いをかけられてしまうという可能性も……。もう一杯水を喉に流し込み、意を決した山越は、震える指で110番通報をした。死体を目撃してから、逡巡を経て通報を決意するまで、約五分ほど時間が経過していた。よって通報時刻は、午後九時五分。
もう、その夜は口を付ける気も失せていた発泡酒を冷蔵庫にしまい込んだ山越は、玄関前の路上に出て警察の到着を待った。もう一度隣家を覗いてみる勇気はなかった。あとは万事警察に任せておけばいい、そう考えていた。通報から数分後、深夜の住宅街であることを考慮したのか、サイレンは鳴らさずに走ってきたパトカーに向けて、彼は大きく手を振った。
降車した二名の警察官を伴って山越は、隣家の前――彼が窓を覗き込んだ路上――まで来ると、「ここです」と――彼自身はそちらには目をそらしたまま――背の低い塀越しに窓を指し示した。それを見た警察官が、あっ、と驚きの声を発するものとばかり思っていた山越は、その声が一向に聞こえてこないことを訝しみ、恐る恐る、おもむろに自らも視線を動かす。結果、「あっ」という声を上げたのは山越のほうだった。カーテンの隙間越し、明かりの点いたダイニングキッチンに見えるのは、木材色をしたフローリングばかり。そこに、死体はなかった。通報からここまで、ほぼ五分が経過している、よって、このときの時刻は午後九時十分。
じろり、と窓から転じられた警察官の視線を浴びた山越は、「……変だな」と他人事のように呟くしかなかった。そのとき、屋内から、がたり、と音が聞こえた。ダイニングキッチンの照明が点っていたことといい、どうやら住人は在宅しているらしい。「確認してみます」と警察官のひとりが、その家の呼び鈴を鳴らし、「夜分にすみません。警察ですが」と声をかけると、玄関ドアの向こうから足音が近づいてきて、薄くドアが開かれた。警察官はドアの隙間越しに、応答してきた男と、「こちらにお住まいの方ですね」「そうです」「お名前は?」「久津森悦汰」「どのような漢字を……」「『久しい』に、三重県の津市の『津』……」といったやり取りを始めたのだが、警察官の体に遮られて、山越には久津森と名乗った男の姿を見ることは出来なかった。「ずっと在宅でしたか?」との警察官の問いかけには、「今日は午後七時半くらいに帰ってきて、それから外出はしていません」と答えていた。
「こちらのお宅で死体を目撃したという通報があった」と事情を説明し、念のために屋内を検めさせてもらえないか、と頼んだ警察官は、「いいですよ」と了承を受けると屋内に入っていった。もうひとりの警察官は、山越と一緒に外で待機する。向けられた視線から、自分は疑われており、見張りとして残ったのだろうと山越は察した。
数分後、玄関から出てきた警察官は、懐中電灯を照らしながら家屋の周囲も見て回り、戻ってくると、「押し入れなど、隠せそうなところは隈なく調べましたが、死体はありませんでした」。そう報告を聞かされた山越は、ここでも「そうですか」と他人事のように答えを返すしかなかった。警察官が捜索に屋内に入ってからここまで、約十分程度経過している。よって、このときの時刻は午後九時二十分。
念のために、と山越の連絡先を控えた警察官は、パトカーで走り去っていった。振り返ると、隣家の玄関ドアが、ばたりと閉まった直後だった。