海神の唄
「海」、「幻」、「伝説の遊び」を使って作りました。ジャンルは悲恋です。
子どもの頃のことだ。ぼんやりと覚えている光景がある。村のすぐ裏手にある山で行われた祭りの一幕。いつものさびれた神社の周囲は一年で最も華やかに飾り立てられ、普段禁止されている境内での酒盛りもこの日は大っぴらに行われていた。両親は屋台で焼き鳥を焼いており僕には兄弟はいない。一人っ子の彼を案じて、代わりに大人びた少女が付き添ってくれていた。彼女はどこか独特な雰囲気とそして、匂いを漂わせていた。枯葉と草いきれ、冬の嵐の匂いだ。海沿いの村だったので、潮の匂いは嗅ぎなれていた。しかし彼女からはそれは感じ取れなかった。
「私のこと、こわい?」
少女が問いかける。いつの間にか神社の裏手にいた。そこには小さな洞穴とその穴を遮るしめ縄、真っ白な紙垂。酒盛りの歓声はほとんど聞こえないが、太鼓と打ち鳴らされる金属音に交じって暗闇の中から岩を打つ滝の音がはっきりと響いていた。
「私のこと、きらい?」
聞いたことのある質問だ。彼女とは前に会ったことがあったのか? ぼんやりと考えていたが、悲しげな彼女の表情に気づき、首を振る。
「怖くないよ。嫌いじゃないよ」
よかった。彼女は安心した表情を取り戻す。尋常でないほど年老いて見えるが、そこにいるのは年相応の無邪気な少女だ。
「じゃあ、行こうか」
彼女は嬉しそうに僕の手を取る。その足は真っ暗な洞窟の奥に向かっていく。
「やめよ?」
口からこぼれ出たごく短い音は彼女の足をぴたりと止めた。背筋を恐怖が這い登ってくるが、振り返った彼女の表情はどこかばつの悪そうな苦笑いだった。
「私もそのほうがいいと思う」
彼女は洞窟の入り口から出る。私と彼女はその場に座り、向き合う。頭の奥がしびれるような感覚を覚え、目の前の景色がぼやけ始める。
「さっき何を見たのか教えてくれる?」
彼女の声が遠のく。しかしあの匂いはまだ鼻の奥をめぐっている。おぼろげに頷いたことは覚えている。
肩を突かれる感触とともに目の前がひらける。ずらりと並んだ制服の集団、白髪の教師のか細い声、黒板を力なく打つチョークの音。振り向くとショートカットの少女が何食わぬ顔でノートをとっている。カーテン越しに照り付ける日差しを背中に受け、額にうっすらと汗を浮かべている。彼女の小麦色の肌と丸い眼は午後の西日を受けて輝いている。髪の毛が僅かに紅く輝く。こちらの視線に気が付いたその鳶色の目は揺らぐことなく人差し指を突き出してくる。それは僕の頬に容赦なく食い込む。要するに前を向け、ということだ。少し感触が残るそこをさすりながら、彼女がいつも爪を短めにしていることを幸運に思った。
海から遠く離れたコンクリートの丘は嗅ぎなれた潮の匂いと大人の視線がない。その代わりに、よそ者への好奇心と、高校までほとんど変わらなかったらしい人間関係が別種の居心地悪さを醸し出していた。大阪や福岡に行けばこのまとわりつくような関係性から解放されるらしかったが、そこまでのお金がわが家計にはなかった。仮に先立つものがあったとしても、それだけの問題ではないのだが。
誰も聞いていないホームルームを聞き流し、事前に準備のなされたカバンをひっつかむ。家に帰ってやることがある。グラウンドに教室にと散らばっていく部活生を横目に僕は正門をくぐる。下り坂を早足気味に下る。そんな僕を追い抜く銀色の自転車。その持ち主は後輪を滑らせ、歩道をふさぐように車体を横にする。
「ユウくん、一緒に帰ろ?」
町に来て二年間、僕は特に友達を作ろうともせず、周囲と積極的に関わることもなかった。そのため、クラスにつるむ奴はいない。しかし彼女は飽きもせず僕に構ってくる。その理由も、情熱の出どころもわからないが、聞いても答えてくれない。
「ああ、いいよ」
二人並んで歩く。自転車のチリチリとした音がかすかに聞こえる中、昨日見たテレビや最近ハマっている曲の話をする。中身はないが、授業の時より楽しい。
「そういえば、おばちゃんからきいたんだけど」
彼女の言う、おばちゃんとは、僕の下宿先の大家さんである。そして父の姉、つまり伯母さんにあたる人だ。なぜか彼女たち二人は仲が良く、夕食まで一緒に食べることもある。
「夏休み、帰るんでしょ?」
どこに? あの村に、ということをわかって聞いているのだろう。僕はあまり言いたくなかったが、伯母さんが話してしまったことがあった。彼女は海に行ったことが少ないらしく、羨ましがっていた。
「うん。まあね」
「あまり嬉しくなさそうじゃない」
実際のところ、帰りたくはない。
「嫌なんだ。帰るのが」
「どうして?」
「……言いたくない」
ふーん。返答は意外にも質問ではなかった。いつもなら食い下がりそうなものだが、今日はやけにあっさりとしている。
「アタシは帰るけど?」
一瞬、頭が真っ白になった。彼女の言った言葉への理解も追いつかない。どこに? 帰る、ってどこに?
「和田津村に帰るけど?」
よほど僕の表情がおかしかったらしい。彼女は笑いをこらえながら僕の頬を人差し指でグイグイ突く。フワリと懐かしいような匂いがした。
「や、やめてよ」
「ああ、ごめんごめん。余りにも間抜けだったから」
一瞬の間を空けて、彼女は再び笑う。腹は少し立つが、いたずらはいつものことである。ため息をつき、歩みを速めた。
下宿につき、ドアを開ける。当然のように彼女もついてくる。
「ユウキに、アスハちゃんもお帰り」
伯母さんはいつものおっとりした声色で出迎えてくれる。
「ただいま。隣の庄司おじちゃん、体調大丈夫そう?」
「ええ。お医者様からもらったお薬で調子もよくなってきてますよ」
「あと、ちょっと聞きたいことがあるのですが」
彼女が手を洗いに洗面所へ向かったのを確認し、僕は声を落とす。
「アスハに帰省の件、何で話したんですか?」
「ユウキとアスハちゃんが和田津村のフゲンさんの所に呼ばれてること? 二人一緒に帰るんだから、丁度いいじゃない。言ってなかったかしら」
伯母さんは首をかしげている。確かに一部分を除いてはその通りだ。しかしその一部分が今日初めて聞かされたことだ。
「アスハも、って聞いてないですよ……」
「あら、あんたたち仲いいから知ってると思ってたわ」
仲がいいからと言って、何もかも知っているわけではないのだが。
「いいじゃないの。いつも一緒に下校してるでしょ」
違う点はいくつもあるが、一緒にどこかに帰るという点は同じだろうか?
「まあ、そういわれるとそうなんですけど」
「何の話?」
丁度明日葉が居間に戻ってくる。彼女の出身を今まで知らなかったのは、「山奥から来た」というひどく曖昧なことしか教えてもらえなかったからである。和田津村は海に面した寒村である。しかし神社が海とは反対側、崖のように険しい山の中にある。その周辺にも神主の家などいくつか人の住む場所があるが、そこに少女はいただろうか? 思い出そうとしても靄がかかったように人々や景色のイメージが浮かんでこない。ふと彼女を見る。視線がかちあい、いつもの薄っすらとした微笑みが返される。
電車を一本、駅を降りてバスを待つこと三時間。日に一本しかない山道を走るバスは環境への配慮が全く伺えない、真っ黒な排ガスをまき散らしている。バス停へ入るさまも杖を突いた老人だ。車内の冷房の効きが悪いのか、非常に暑い。窓を全開にしても真夏の生ぬるい風が吹き抜けていくのみ。バスの運転手もしきりにハンカチで額を拭いている。
「アスハはさ、フゲンさんのところにいるんだっけ?」
「何でそうおもうの?」
彼女は不思議そうに聞き返す。変なことを聞いただろうか?
「住んでる所が山奥っていってたから、神社のあたりかな、っておもって。あそこフゲンさんの家しかないし」
彼女には兄弟や両親もいない。何かしら理由があって預けられているのだと昨日は考えた。しかし、彼女はバツが悪そうに
「違うよ。でもそのうち思い出すから」
と言って苦笑する。彼女のその言葉は不思議なものだった。和田津村について僕が覚えているのは、物心ついてから中学生の頃までのことだ。
ある時、小学に上がる前のことだ。僕は村で唯一の神社である、沖神社で行われる儀式に呼ばれた。それはカンガリと言っていた気がする。神主であるフゲンさんが渡してきた文字を読む、ただそれだけのことだ。いつもは入ることのできないお堂の中で行われ、子供ながらにその厳粛な空気と、思ったより温かいその空間に緊張と安堵を感じた。読まされたものは何故判読できたのか不思議に思うほど崩れていた。その内容も今思えば祝詞のようなものだったのかもしれない。
「大丈夫? 顔色悪いよ?」
視線を上げると、アスハがこちらを覗き込んでいる。彼女はカンガリのときに近くにいたのだろうか?
「ちょっと眠たいだけ」
「そう。横になったほうがいいんじゃない?」
そう言って彼女は自然なことのようにスカートを払った。
「どうぞ」
ふくらはぎを両手で指し示しながら、彼女の瞳はまっすぐ僕を向いていた。
「いきなりどうしたの」
「具合が悪いときは寝るべき」
「それはそうだけど、座ったままでいいよ」
彼女はふるふると頭を振り、
「首痛くなっちゃうでしょ。それに、それじゃ疲れが取れないし」
頑として引かない。仕方なく僕はそっと頭を沈める。布地越しに温かみと柑橘系の香りが伝わる。目を閉じると優しく髪の毛を梳くほっそりとした指の感触をハッキリと感じる。瞼の裏にぼやけた景色が見える。それは薄暗い例のお堂だった。祝詞を読んだあの場所。そこで僕は今と同じようにアスハに膝枕をしてもらっている。
「体調は戻った?」
あの頃もよく貧血や頭痛で倒れていた。儀式の後、頭の中に誰かの声と映像が流れるようになった。声は悲鳴であり、髪を振り乱し眉間や口角に深くしわを刻んだ女の人がぼんやりと瞼の裏に浮かぶ。その後は必ず映像の暗転と割れるような頭痛に襲われる。
「よくなったよ。アスハ姉ちゃん」
言葉が勝手にこぼれ出る。年は同じのはずだが、少年時代の僕から見て彼女は幾分か大人びて見えたのだろう。
「あとちょっと思い出したこともあるかな」
あの夏祭りの思い出。あの時の少女は目の前にいる。彼女はどこから来たのか、両親は知っていた。彼女はフゲンさんの住んでいるところよりも更に山奥から来た。来歴の定かでない捨て子、迷子であり、和田津村ではそういう存在が出現するたびに保護している。しかし、その理由は僕には分からない。村と学校しか社会を知らない僕にとっては。そして、苦々しい記憶も同時によみがえる。儀式の後、小学校卒業にかけてたくさんの村人たちは僕と彼女を崇め奉るかのごとく扱っていた。彼らの関心は目下「今日は魚がたくさん取れるか」であり、それを教えてくれることをある時点から当たり前だと思っているようだった。彼女の告げる神託が不明瞭なまま小学生を終えた時、僕たちへの扱いは目に見えて悪くなった。陰で今年のカンガリは失敗だ、とかふたりはズルをして沖神様に選ばれたのでは、などといわれることは日常であった。アスハの髪の色がおかしいと同学年の子供たちにからかわれ、しまいには彼女が海沿いの集落に住んでいないことから人ではなく獣が化けているのだといわれたこともある。僕がその子の言葉を取り消すよう注意し、喧嘩にまでなったが先生に罰を与えられたのは結局僕だった。
あの洞窟が彼女の居所なのだろうか? ふとありえない考えがよぎる。顔を横にずらしても、彼女の視線からは何も読み取れない。
「ねえ、ユウくん。私が心を読める、って言ったら怖い?」
突然、そんなことを聞いてくる。馬鹿げているが、こと彼女に関してはありえない話ではない気がした。
「怖くはないけど、話さなくても良いのは嫌だな」
「それってどういう意味?」
「そりゃ、大事なことは自分の口で言いたいから」
例えば、どんな? 彼女は真剣に聞き返す。何かを期待しているように瞳が揺れる。
「例えば……いつも一緒にいてくれてありがとう、とか」
そう伝えると、彼女は唇を軽く結び、小さくうなる。少し怒らせてしまったらしい。膝の上の僕の頬を容赦なくついて、押し出そうとする。それを押しとどめ、彼女をなだめるのに小一時間はかかった。
村の停留所はさびた金属の看板がポツン、と立っているだけの寂しい場所だ。赤錆がくまなく浮いたそれからは何の文字も読み取れないが、終点の和田津村で間違いなかった。押し寄せる潮風と波の音がうるさいほど耳につく。やがて示し合わせたかのように、少し離れた光の点の集まりに僕たちは歩き始めた。二年数か月ぶりの故郷はどことなくじっとりとした空気で僕たちを迎え入れてくれる。ふと、手を誰かが握る。それは確かなぬくもりを与えてくれた。
「私がついてる。大丈夫」
夏の暑い夜に涼しい風が吹く。背中に流れるいやな汗はいつの間にか感じ取れなくなっていた。シャツにしみこんでいったのだろうか。
「ありがとう。大丈夫。大丈夫だから」
彼女の手を握り返す。今は夜だ。僕を不必要に崇め奉る老人も、気味悪がって近づかない大人も、よそよそしく無視を決め込む同年代の子も今はいない。僕をこの世の理から外そうとしたこの村も、今は眠りにつく準備をしている。
「ここでお別れ、だね」
街灯がついた十字路。彼女と僕は立ち止まり、手を放す。名残惜しそうに解けた後には汗と感触だけが残った。
「うん。また明日」
「そうね。また、明日」
何かが喉から出かかったが、結局ため息が空中をさまよっただけだった。振り返るとその後姿は暗闇に溶けこんでいった。いくら慣れているといっても夜道に一人は危ないだろう、と今更ながら真っ当な言い訳が浮かぶ。それでも僕は自分の家を目指すことにした。彼女のことが心配だとしても、まずは自分が呼び出された理由を知らなければならない。見慣れた漆喰と瓦葺の古い家はすぐそこにあった。
久々の我が家には大人が数人いた。両親に加え、白い古風な服を着た老人、禿頭の村長、その他近所の漁師たち。空気が張り詰めている。全員、玄関の引き戸を開けた僕を見つめる。あるものは申し訳無さそうに、あるものは冷ややかに。表情がまるで読めないのは老人、フゲンさんだけだった。
「よお帰ってきた」
父が荷物を持ってくれる。肩を叩いた手は少し震えている。僕は荷物をその場におろし、居間に座り込む。古いい草が乾いた音をたてる。
「元気にしちょったかえ」
か細い声が乾いた薄い唇から投げかけられる。老人の瞳は光が見えないほど細い。
「はい。何不自由なく」
そりゃようござった。彼はつぶやきながら頷く。そして袖から綺麗に折り畳められた和紙を取り出した。
「おまんにはこれからやってもらいたいことがある。カンガリ覚えちゅうか」
お堂の中でお経だか祝詞を読んだあの日のことだ。嫌な予感がする。
「はい」
その先の言葉を待つ。彼はゆったりと言葉を紡ぎ出す。
「あんとき何を見たか分からんち、いうたな。それで終わりや思っちゅうろうけど、それは間違い」
村は僕と彼女が出ていったあと、大変な目にあったらしい。不漁、病、親しい人の死。道の寸断などで県の支援も満足に届かない。神が居なくなった村ほど悲惨なものはない。彼はそう締めくくった。終始穏やかな口調だが、わずかに見える眼光は信仰に縋り付く弱々しいものだった。
「おまんとアスハには次のカンガリの準備をしてもらわないかん。服着替えてそれ覚えときい。今日の夜やるき」
「待ってください。一体何をするんですか!」
立ち上がったフゲンさんに駆け寄ろうとすると、漁師のひとりに突き飛ばされた。見上げると村長と漁師の男の目がこちらを向いていた。明らかに人を見るそれではない。
「ほんまもんの疫病神になりおって」
村長はそれだけ吐き捨てるようにつぶやいて家の戸をくぐった。あとに残された僕は両親をふりかえる。幸いにも彼らは僕を温かく抱きしめてくれた。
「ほんとよお帰ってきた」
「ごめんね。何にもできんでごめんね」
父は唇をかみ、母は涙を流す。三人はしばらくお互いの近況を語り合い、二年の空白を埋めていく。父は村外の漁業組合で働き始め、母は相変わらず村の小学校で子供に勉強を教えている。隣近所の同じ年の青年が高潮に呑まれて亡くなったことや、村長の両親と奥さんが相次いで亡くなったこと。話題はどれも暗いことだったが、二人は一度も誰かのせいだとは言わない。ただ不運が重なっただけだ、と。父が時計をみて話を強引に切る。
「もう時間がない。ユウキ、ここから出ていけ」
「お父さんとお母さんは? それにカンガリってなんだよ!」
僕はひとかけらの真実もつかめていない。今まで村中の人たちから人外を見る目つきを受けた訳を僕は全くしらない。
「あれはな、お父さんの出した結論としては、神様を降ろすゆうことよ。数百年に一度、未来の予言をする、ちゅうもんかな」
あまりにもばかげていた。村から逃げて近代的な教育を受けてきた身としてはこの上なく世界を否定するものに感じる。
「そんな……」
言葉を失う僕に父は優しく肩をたたく。その手は大きく、たしかに温かい。
「世の中そんなもんよ。何か縋りつくものが必要な人はいつの世にもおる」
必要最低限の衣類とお金をバッグに入れ、僕は家を出た。海岸沿いの細い道を行けば二時間ほどで市街地に出る。しかしその前にやらなければならないことがあった。山奥へ続く道を慎重に進み、神社を目指す。彼女はおそらくそこにいるはずだ。
境内にはかがり火がたかれ、わずかに人の姿も見える。気づかれないよう木々の間をぬけ、お堂へ回り込む。はたして中には一人の少女が座っている。ごく小さな声で彼女の名前を呼んだ。
「ユウくん……どうしてここに?」
うれしさとなぜか困惑が入り混じった表情を彼女は見せている。僕はお堂の床下を這い、木の板を押し上げる。ちょうど人が出入りできるほどの隠し穴だ。二人は連れ立って境内を逃れる。海岸へ戻ろうとする僕を彼女は何も言わずとどめ、山へと入っていく。何を考えているのかわからず、しかし声を出すこともできない。それでも巫女服で裸足の彼女は見ていて痛々しく、僕は彼女を背負うことにした。
「洞窟の場所、覚えてる?」
彼女の言う場所は何となく心当たりがあった。ぼんやりとした記憶を頼りに森の中の獣道を進む。背中に感じる柔らかさと体温にドキドキしながらも、僕たちは目的地にたどり着く。水が激しく岩を打つ音が聞こえる。真っ暗な入口からは中の様子を推測することも難しい。懐中電灯で照らすと永遠に続くかのような階段が待ち構えている。
「この洞窟を抜けて山を一つ越えれば市街地に行ける。フゲンさんに教えてもらった」
「フゲンさんに?」
意外な名前が出てきた。彼なりの考えがあるのか、何かしら裏があるのか。しかしこの真っ暗な洞窟の先に誰かが待ち構えているようには思えない。僕は彼女の手を引き、階段を降りる。しかし、彼女の足が止まる。
「どうしたの、アスハ」
「私は……」
暗いところが嫌なのだろうか? 暗がりで表情は見えない。僕は努めて明るい声を出す。
「僕が先導するから大丈夫だよ」
彼女は怖々と一歩ずつ踏み出す。長い階段を降りる間、僕たちは一言も声を発しない。洞窟の下は向かい風の吹き渡る、静かな空間が広がっていた。洞窟の奥からは水が流れており、それが岩肌を削って道を作ったらしい。あの懐かしいような山の香りが僅かに鼻をつく。目の前には上面が平たい、小さな石碑がおかれている。
「本当はここで儀式が行われる予定だった」
彼女が口を開く。僕はその冷たい鏡面のような台座に手をおき、彼女を見る。
「フゲンさんは僕たちが逃げることを知っていたの?」
返事ははっきりとした首肯だ。僕たちは再び歩き始めた。
「ユウくんの見たこと、私ははっきりと見えるの」
「見える、か」
子どもの頃よく見た幻。怒り狂った女神が海の向こうに現れ、すべてが失われる、あの光景。それを認め、口に出すことは10年たった今でも恐ろしいことだ。
「あれは村が滅びるようなことが起こる、ってことだよね」
「そう。明日起こるかもしれないし、数か月あとかもしれない。でも、ユウくんが神の依代として選ばれてから10年経った。けど今も見ることができる唯一の神託。これは必ず起こることだよ」
「そんな莫迦げてる」
そんなことあってたまるものか。僕の叫びは広い通路に反射する。何が神だ。人生を無茶苦茶にして何が神だ。村長に言われた言葉が口をついて出てくる。
「こんなの疫病神じゃないか」
「実際そう」
彼女の口からは否定は出てこない。その表情は真剣そのものだ。
「結論から言えば祟り神とか疫病神を神格化してなだめているだけだと思う。どんなに本とかで調べてもはっきりとしたことはわからないけど、村の名前を出しただけであまりいい顔をされなかったこともあった。それだけで断定できるわけじゃないけどね」
僕は壁を蹴った。ありえない。いもしない存在の代わりとして祭り上げられて、役目を果たさなければ他人から人として扱われなくなる。本当に不自由でいい迷惑だ。
「行こう。こんなところもう二度と来ない」
出口はすぐそこに見えた。朝陽が差し込み、闇をひときわ浮かび上がらせる。
「ごめん」
彼女の手を引いているはずが、いつの間にか右手は空を切っていた。後ろを振り返れば右手と足のない彼女がいた。
「もうアタシはここまでみたい。フゲンさんに言われたの。来た道を通って村から出られたらユウくんは自由になるけど、アタシはオキ神様に存在を許されなくなる、って」
「なんだよ。それ」
あまりにも勝手な言い分に腹の奥が熱くなる。
「なんでよりによってアスハなんだよ! 消えるのは村だけじゃないのかよ!」
一生懸命彼女の手をつかもうとする。しかし、幻をつかむように指は虚空をひとりさまよう。
「アスハ行っちゃだめだ。大好きなお前がいない世界なんて認めない!」
「あはは。ごめんね、ユウくん」
アタシも大好きだよ。苦笑いが残像で浮かび上がる。突風に体を流され、よろめく。足は出口の外の草を踏みしめる。彼女の言葉は実体を失っても耳に残っていた。手のぬくもりも陽光のせいだけではないはずだ。
いつの間にか両膝をついていた。残った手の中には赤い金属片がごくわずかに光っている。目の前の紅白の装束は誰かがここにいたことを確実に物語っていた。いつも隣にいると思っていた。高校を卒業して大学に行って、就職して。この先ずっと一緒だと思っていた。どれほどの間、ぼんやりと座り込んでいただろうか。僕は服を手に立ち上がる。風に乗って草の青々とした匂いが鼻をついた。どこからか流れてきた木の葉が頬を突いた。
あれから数か月後、僕の住むところは地震と津波に襲われた。海岸沿いの町や村は潮に呑まれ、尋常でないほどの物や人が流された。高校はいまだ校舎どころか市内の復旧の目途もたたず、授業などは中断している。僕は伯母と仮設住宅で暮らしている。変わったことはそれだけではない。僕は本当に一人になってしまった。あの村も山も海に飲み込まれ、消えてしまった。そして彼女も。巫女服は今も箪笥の奥にしまいこまれている。暗闇の中に消えてしまわないか、今でも時々確認し、そして後悔する。
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