第3話:旅に出よう、そして、バックドロップをしよう.3
先は見えず、ライトの範囲外は夜のように暗いまま。樹の行き先を象徴しているようには見えるが、さっきよりは明るかった。
樹は爪先に力を込めた。
「いくぞ、相棒」
腰から太股、膝から脹ら脛、爪先といった具合に下半身を動かし、ペダルを通して重たいクランクが回り出す。
ここに樹の旅は始まる。
そして、後悔した。
「三速じゃないかーーーーーーっ!!」
この条件で前側3速は鬼であった。
腕時計を見て、一時間を経過するのを確認すると、樹はMTBを動かすのをやめた。
側にある木に、プロを立てかけると周りを見回す。
視界は相変わらず森の中。
うんざりするほど、木と藪ばかり。
いくら走っても、あまりの変化の無さに樹はうんざりする。
1時間とはいったけど、タイマーを掛けて1時間が経過したから1時間といっているだけであって、本当の時間はわからない。
樹は、ダウンチューブに増設したボトルケージから、プラスチックのボトルを外すと、ボトムチューブ下のレバーを引いた。
一瞬の閃光と共に、MTBは幼女へと変身する。
「どうした?」
「一休み。長くなりそうだからさ」
樹としても短時間でカタがつくとは思えないだけに、体力を如何にして温存するかが勝負になる。休みたくないとは思っても、休憩時間を取るのも必要だった。
「ジテンシャのままでもよかったのに」
MTBであっても、幼女であってもズラトには変わらないので、わざわざ変形という手間を取らなくてもいいはずである。
「なんとなくかな? ほら」
樹はボトルのキャップを開けると、ズラトに渡す。
「これは?」
「まさか、空っぽでも涌いてくるとは言わないよな」
幼女から自転車への変形があるのだから、飲んでも飲んでも水分が涌いてくるボトルもあってはおかしくはなさそうなのだが、残念ながら世の中はそう甘くはなかった。
「流石に飲んだら、それまでだ」
「やっぱりな」
予想していたと同時に、水場につくまでは節約せねばならない。
「いや、涌くかも」
「???」
「いやいやいやなんでもないなんでもない。今言ったことは忘れてくれ、いや、忘れるんだ」
なにかとんでもない事になりそうなので、樹は忘れることにした。知らないほうがいい事はいくらでもあるのである。
「水場が何処にあるか、分からないから、あんまり飲むなよ」
ズラトは文句が言い足そうであった。
「樹が飲めばいいのに」
「いや、ズラトも疲れてるんだろう。無理するな」
「人と龍を一緒にするな」
ズラトが本当に龍であるとするなら、龍と人間では活動量に大きな差があるわけで、同一にするなと怒るのも分からなくもない。
「経緯はどうあれ、ズラトは相棒だ。相棒は大切にするものだと教わってきた」
樹にとって、ズラトは相棒である。
相棒という事は身内も同然であり、身内であるなら、無碍にはできないのだが、ズラトにはズラトなりの考えがあるようだった。
寂しいとは思うが、樹の価値観を押しつけるわけにはいかない。
「…ありがと」
それでも、一口はつけて返したが。
樹はガブ飲みしたい欲求を抑えて、一口だけつける。
唇が潤った程度であるが、その冷たさがとっても心地よい。
汗を掻いたのか、通り抜ける風の冷たさに時間の経過と、遠く離れたところに来てしまったという想いが樹によぎる。
樹はズラトに聞いている。
「硬いもの踏んでたけど、大丈夫か?」
硬いというレベルではなかった。
これまで樹が辿った道のりは、今までの人生の中でもっとも過酷な道のりだった。
道というよりは、単純に草木が生い茂っていない場所。
舗装路のように滑らかではなく、派手な凹凸を踏む旅に、地面の落差が衝撃という形で跳ね返ってくる。
前輪にサスペンションがついているとはいえ、後ろ側にはないのだから、無いよりはマシというレベル。
シートポストにサスペションがついているルック車なら、どういう乗り味になっていたのだろうかと樹は思う。プロなら耐えられるが、ルック車なら間違えなくぶっ壊れる環境。ただし、樹のプロには得体の知れない何が憑いているので、何も言えない。
ロードバイクのタイヤなら、数分以内でパンクしている。
ズラトの存在によって、パンクは気にしなくても良くなったとはいえ、素足で歩くとしたら傷だらけになるほどに、起伏が激しい場所である。
「心配性だの。汝は」
樹の心配を、ズラトは笑い飛ばす。
「我は龍。この程度のことなど造作にすぎん」
「本当か?」
「…本当だ」
間があったけれど、樹は気にしないことにした。
ズラトが平気だというのであれば、素足で土やら石やら木の根やら、危険なもので満ちあふれた場所を歩かせても問題はないだろう。
ただ、その事をありがたいと思うべきであって、当然だと思わないほうがいいのだろうと樹は思う。
そう思ってしまえば、人として堕落してしまうそうな気がするから。
もっとも、幼女に跨って移動している時点で堕落もへったくりもないともいえるが。
実は競馬の騎手は鬼畜な職業なのだろうか。
「変な奴」
ズラトが言った。
「ズラトに言われたくはない」
「我に主従関係を強いている割には友情深いではないか。もっと、傲慢に、主らしく接すればいいものを」
ズラトが言うように、今の樹の態度はチグハグである。自覚しているだけに苦笑せざるおえない。
「あの時は、ズラトに裏切られたら終わりだから、味方であることを確認したかったんだ」
「小心者め」
「あいにく、オレはズラトみたいな無茶苦茶な力は持っていない、ただの凡人なんでね」
この世界で生きていく以上は、保険が足りないということはない。そして、ストレスの芽は潰したほうがいい。
成り行きはどうあれ、ズラトは相棒になった。
不明ではあるが長期間、側にいることは間違いないわけで、だからこそ、友好関係を気づいておきたかった。
……互いに嫌うような関係は、流石に勘弁したい。
しかし、あくまでも樹の想いであって、ズラトにはズラトなりの嗜好や想いもある。主人であるから、強制することも可能なのだが、樹としては強制はしたくなかった。
「ズラトは虐げられるほうが、好きなのか」
「人間ごとき、虐げる側に回りたいものだが」
ズラトは人間ではない。
人間と同じ思考回路を持っていると痛い目を見ると、樹は冷や汗をかき始めたが、何処からともなく響いた爆音が、冷や汗を吹き飛ばした。
「ズラト」
呼びかけに、ズラトは獣じみた笑みで返す。
樹が指を鳴らすと、それを合図にズラトは一種でMTBに変身する。樹はボトルゲージにボトルを戻すと、ハンドルに両手をかけて、そのまま走り出した。
勢いがついたところで、サドルに跨り、本格的にこぎ始めた。
路面の起伏が、MTBを通して樹に伝わってくるが、実は予想したよりもキツくはない。
樹が漕いでいるとはいえ、従来のプロではないアシストが、このMTBにはある。一回転一回転漕ぎ出すごとに、後ろから誰かに押されているみたいに、あるいは電動自転車のバッテリーの加護があるかのように加速される。
スポーツ車の電動って、高いんだよなー。
電動車は高く、更にドバイクやクロスバイクといったスポーツ車になると物凄く高くなる。パラトルーパー・プロも安くはないが、50万60万は超える代物に比べたら、玩具みたいなものである。
そもそも、折り畳み電動MTBそのものが市販されていない。
アメリカ軍では、正式化されたみたいな話を樹は聞いているが、日本では売られていない。
自転車が電動化されていることの意味。
それは通常なら、苦痛である登りや逆風が全くといっても気にならないこと。後押しされるので電力が続く限りは、重力に逆らい続けることができるから、平地と同じよう感覚でかっ飛ばすことができる。
それと同じことが樹とズラトにも起きている。
ぐいぐいと押してくる感覚がとっても楽しい。
加えて、日本には電動でアシストされる範囲は24kmまでと定まっているが、この世界にはそんなルールなどない。
路面は荒れていて、登り坂傾向にはあるものの、そんなこと関係なしに、樹は楽しんでいた。
だが、そのサイクリングも不意に終わる。
視界が開けたと思ったら、周辺の木々がまとめてなぎ倒されていた。
折れた樹木の上に、何か赤いものが転々としていると思ったら、赤い毛皮をした狼だということに気づいて、樹は一瞬固まった。
ひとつ、ふたつ、みっつと数えて樹はやめる。数が多すぎて数えきれるものではない。
「…すごいな」
その狼たちのほとんどが、一刀であっさりと分断されていることに樹は簡単とする。
そして、音がより近く、はっきりとわかる。
狼たちの動作音、その中に混じる人の呼吸、何かが木々にぶつかる音、そして、刃が空気を切り裂く音と何かに炸裂する音と叫び声。
(どうする)
そんなのは決まっている。運命を変えるポイントに立っているのだから、動かない訳にはいかない。
しかし、現実には樹の脚は止まっている。
樹の視線の先、この奥で激しいバトルが起きているのだろう。
倒れまくっている木の上に落ちているのは、狼の死骸。
狼の死体なら、まだいい。獣なのだから、心置きなく戦える。
でも、相手が人間なのなら。
樹は直感的に悟る。
ここは、イラクや南米のスラムのように危険な場所なのだと。
生きていくためには、人を殺さなくてはいけない場所なのだと。
他人が死ぬか、自分が死ぬか、その二者択一の岐路に立った時での自身の行動の予測がつかない。
(臆したか?)
ズラトが嘲笑っているようだ。
「多分ではなくても臆している」
(素直だな)
ズラトは、樹が強がると予想していたようである。
(強がってどうする。オレは喧嘩を売るのなんて生まれて初めてなんだぞ)
忘れていた。
喧嘩に出て、樹が勝てるなんていったい誰が決めたのか。実戦経験なんてないのだから、樹が殺られる可能性のほうが遙かに高い。
(では、逃げ出すか)
「そういう訳にはいかないよな…」
この場をうまく乗り切れたとしても、この世界で生きていく以上、戦うという運命から逃れられないような気がした。
(なに見つめておる)
「いや、なんでもない」
視線がMTBのハンドルに向いていたので、真っ正面を向く。
やるしかない…よね。
この世界で生きていく覚悟を決めると同時に、ズラトが話しかけてくる。
(全てのことは我に任せよ。汝は案じることはない。ただ、力を我に与えてくればそれでいい。主殿)
「あるじ殿?」
(いや、なんでもない)
なにをごまかしているようで、樹もクスリとしてしまう。
樹は一人ではなく、その相棒が非常にやる気になっている。その流れと意志を助ける形で動けばそれでいい。
(我が合図を送るから、汝は同時に全力で走り出せ)
「了解」
ズラトがカウントを始めたので、樹は手に力を入れる。シフターを見て、後輪のギアが5速に入っているのを確認すると再び、正面を見すえる。
ペダルに片足をかけて、いつでもダッシュできる準備を整えた。
心臓の鼓動が高まっていく。
でも、大丈夫。
ズラトと一緒であるから、なんでも…とは言わないまでも可能な限りのことはできる。
(いけっっっ!!!)
樹は雄叫びを上げて、クランクを全力でこぎ出した。スピードが上がるにつれて、前のギアを3速、後ろのギアを1速と、地形を無視して最高速モードへと突入する。
予定していた距離を、ドラッグカー以上の速度で飛び越えて、広がったその先にあったものは……
戦場だった。