第1話:旅に出よう、そして、バッグドロップをしよう.1
横浜の住宅街に朝日が登り始めていた。
暗いようであかるく、日が上がるのと月が同時に見える、夜と朝の間にある一瞬。
夏の暑い空気も、いまは涼しい。
いつもは排煙が絶えない国道13号や細胞のように伸びる脇道も、通り過ぎる車は僅か。側にあるテニスコートにも人影もなく、起伏が激しい大地にびっしりと立ち並んだ家々やビルも沈黙を保っている。遠くには横浜みなみみらい地区の摩天楼が見えるが見えるが状況は似たり寄ったりといったところだろう。
サッカーの試合がある日には、ニッパツ三ツ沢球技場へ行く人で賑わう公園の大通りにも誰もいない。
スタジアムの隣でせわしなく工事している市民病院の現場も静かなまま。
いつもはうるさい界隈も、ただ風の音と、川崎樹の呼吸音が流れるだけだった。
樹は視線を横に向ける。
電柱に立てかけている漆黒一色の自転車。
サスペンション付きフロントフォークと、シートポストやクランク、後輪といった部位を角材のようにぶっといボトムチューブで繋いでいるのが特徴で、ダウンチューブはオマケに近い。このため、大抵のスポーツバイクならトップチューブにつながっているシートステーが、ボトムチューブの下から後輪のハブにつながるという特異なスタイルになっている。
ボトムチューブに負けないぐらいに太くて、パターンが浮き出たタイヤは、この自転車がどのような性格を持つのか一目で証明している。
ハンドルに近いところのボトムチューブに結わえ付けたフレームバックと、リアキャリアに設置された荷物満載のオーストリッチのパニアバックを見ると、樹の顔に笑顔がこみ上げる。
長かった。
自転車を買って、何処かに旅に出よう。
そう思い立って、早数ヶ月。
バイトに夢中になりすぎて、大学での勉強が本分なのか分からない時を過ごしながらも、自転車と旅費に使える金を貯めてきた。
だから、樹は自転車と共にある。
「行こうぜ、相棒」
樹は自転車のハンドルを掴むと、左のペダルに足をかけた。
ママチャリとは違って、シートポジションが高いのでサドルに跨って全力とはいかないが、立ち漕ぎしつつシートに跨り、両方のヘダルに足をかけてクランクを回すと自転車は走り出す。
ニッパツ三ツ沢スタジアムから、国道13号に向かって緩やかな登りになっているので、鮮やかな滑り出しではなかったが、これこそが樹の旅立ち……のばずだった。
樹は不意に自転車を止めた。
気がつくと周囲が真っ暗になっている。
朝日の色が強くなってくる時間帯にも関わらず、逆に闇が増して来る現象に、樹は本能的に足を止めていた。
結果的にはこれがいけなかったのかもしれないし、気づいた時には既に手遅れだったので、どっちでもかわらなかったのかも知れない。
空を見上げると、スタジアムほどの大きさがある何かが、真上を覆っていた。
その正体を考察しようと瞬間、樹の意識は強制的にシャットダウンされて、無意識の世界へと果てしなく落ちて行った。
異世界にきたので、せっかくだからサイクリングします
鳥の鳴き声が、かすかに響いてきて樹の意識が覚醒する。
いつの間に寝たのだろうか、背中全体に大地の硬い感触がする。ただし、絨毯がかかっている場所なのだろうか、表向きは滑らかである。
頬を撫でる風も心なしか冷たい。
「…なんじゃこりゃ」
意を決して起き上がると、樹は知らない場所にいる事に気づいた。
一面を草が覆う平原。森の中の空き地なのか、周りを密集した木々が生い茂っている。木々について造形が深くないので、樹としては何も言えないところであるが、少なくても自然豊かな場所である事には間違いない。
樹はズボンのポケットから携帯を取り出すと状況を確認する。
まず、表示されたのは「電波の届かないところにおります」
電源が入り、画面も表示されるが、インターネットにはつながらず、グーグルマップも表示されない。もちろんツィッターや通話ができないのも言うまでもない。
データローミングの設定をオンにしてみたが状態は変わらず。
ただ、電波を使わない仕様、たとえばミュージックプレーヤーや計算機といった機能は普通に使えるので、樹は電源を切った。
ここはどこなのだろう?
単純に携帯の電波が届かない場所にいるのか、あるいは唐突に知らない場所にいるのかさだかではないが、意識を失い、気がついたら異常な現象のただ中に放り込まれたことだけは間違いない。
その現象に対しての接し方を、樹は知らない。
情報が圧倒的に不足しているので、迂闊には動けない。
ふと、視界の中をよぎった何かが樹を一気に覚醒させる。
樹木に立てかけられた状態にある自転車。
自転車乗りからすれば、自身の身体よりも自転車の状態が気になるので、破損具合を反射的にチェックするのは当然である。ママチャリよりも繊細な扱いが要求されるMTBでは特に。
まず、前輪のタイヤを指先で押し込むが、あまりめり込まずに跳ね返る。
後輪のタイヤも同様。
フレームには特に目立った傷もなく、チェーンも切れていない。
後輪のギアを確認すると、リアディレイラー全体にも亀裂は見られない。倒れるとすれば、ギアよりも先に後部キャリアに据え付けたパニアバックの方が先に接地するので、ダメージがないのも当然ではあるが。
実際に走らせてみないと分からないが、見た目には重たいダメージがないことに樹は安堵する。
しかし、事実の一つを確認したというだけであって、状況は何一つとして好転した訳ではない。
「どうしたらいいんだろう…」
溜息が誰にも聞かれることなく、消えていく。
強いていうなら天候は晴れ。雨で濡れないだけマシということなのだろうか。
ここはどこなのか、その問いはいったん脇に放り込んで、問題はこれからどうするかである。
よくよく見たら、地面が傾斜しているので小高い丘にいるのであろう。まずは、この深い森を抜け出して、街道なり人家なりに出ることは必須だった。でないと話にならないどころか、間違いなく死ぬ。
リアのパニアバックにはキャンプ道具一式ならびに、食料も入っているので堪え忍ぶことも可能であるが、限界が短いのは言うまでもない。
このまま、この地に立ち往生するか、もしくは出口を探して見つからず、迷いに迷って衰弱死するか。どちらに転んでも最悪な結果しか思い浮かばない。
その森の中を見ると、日が陰り、雑草が生い茂る中にいくつかの獣道が走っているのは見える。辛うじて走れるというだけで、木の根や岩などが浮き出ているなど、まともに走れる道ではない。
樹は自転車を見る。
パラトルーパー・プロ。
これがこの自転車の名前。
米軍に売り込むため、空挺兵と共に荒野に降下することを想定して作られたブツを出自とする自転車で、舗装路よりも荒れ地向けとして作られている。
購入を考えた時、樹はパラトルーパーを舗装路向けにアレンジしたフィットか、ナビゲーター辺りを考えた。荒れ地を走行することを想定しておらず、プロで舗装路を走行すると考えたらタイヤが太すぎるように思えたからだ。
結局は諸般の事情から、MTB仕様なプロを購入した訳であるが、実際に走らせてみると26x2.1のKENDAのスラントシックスは舗装路では太すぎた。舗装路でタイヤが太いということは、摩擦係数が大きすぎて速度が伸びないということを意味している。
しかし、今は森の中
舗装路? なにそれ?みたいな環境においては、速度を犠牲にしての安定性と耐パンク性能が今となっては頼もしい。ロードバイクの細いスリックタイヤで走らせてみたら、一瞬でタイヤがパンクしていただろう。
今の路面状況ならタイヤが太くても、あまり変わらないのかも知れないのだが。
パンクしたら、パンクを直すだけの資材がどれだけあるのかが勝負になる。
現状では予備のチューブが二つに、パッチがいくつか。接着剤は1本持っているので状態によっては、パンクしたチューブをパッチ代わりに使うことができれば、保たすことも可能なのかも知れない。
「…あれ」
樹は前輪のクイックリリースレバーに指をかけてみたら、接着剤でもつけたかのように微動だにしない。
何度やっても、ちっとも動かない。
反対側を締め付けていれば動かないという事もありえるので、反対側のネジを緩めようとしたが、反対側も固着したかのように動かない。
「まいったな」
クイックリリースレバーが動かないということは、前輪をフロントフォークから外せないという事を意味する。スポーツ車のリムはクイックリリースレバーが主流でこれによって、前輪を簡単に外す事ができる。スポーツを謳いながら、ネジとナットでリムを締めているのはルック車だといってもいい。
前輪をフロントフォークにつけたままでパンク修理をするのは、外せるよりも大変だ。何よりも、プロの存在意義といってもいい事に直結する大問題であった。
樹はカッターなりノコを探しかけるが、フロントフォークを両断できるほどのブツは、流石に樹も持ち込んではいない。
それより以前にフロントフォークをぶったぎったらプロが使い物にならなくなる。その事に気づいて、樹は胸を撫で下ろした。
(物騒なことを考えるな。汝は)
どこからともなく声がした。
樹は最初は気のせいかと思った。
疲れたから、幻聴でも聞いたのかと。
(これは幻聴でも、空想でもない。我の声だ)
鈴を鳴らしたような幼女の声が、間髪入れずに響く。
「おまえは誰だ」
その声は実際には聞いていない。
鼓膜を振るわせずに、脳味噌にダイレクトに響くという体験は、そうできるものではない。
(我は、汝がジテンシャと呼んでいる者。我は汝と直接、話がしたい。汝は我を変形させよ)
「変形って、どうやって」
(汝が、このジテンシャによくやっているようにだ)
樹は、パラトルーパー・プロのシートポストの近く、ボトムチューブとダウンチューブの間にあるレバーに視線を向ける。
パラトルーパーシリーズ、いや、メーカーのモンタギュー社が作る自転車の最大の特徴は、タイヤサイズ26インチ以上のフルサイズ仕様な自転車にも関わらず、折り畳み機能を実装した事である。
折りたたむことにって、空挺兵と一緒に落下傘降下ができる機動性と耐久性を実現した。
折り畳み、とはいっても前輪を外さなければならないので完全な折り畳み自転車とはいえないが、今は前輪を外すことがない。
レバーに指をかけて引っ張った瞬間、自転車全体が激しい光った。
それは一瞬のこと。
「初めてましてというべきかな。イツキ・カワサキ」
目の前にあるのは荷物満載なMTBではなかった。
そこあるのは、背中に爬虫類を思わせるような黒い翼と、ヌメヌメした黒い鱗が艶めかしく、角が2本と濡れたような艶やかな黒髪を再現なく溢れるように伸ばした、6歳ぐらいの幼女だった。
「我はズラト。ワザツミを統べる龍王が一人ぞ」