≪南北朝時代~室町時代≫ 兵法三大源流
南北朝時代から室町時代にかけてはまさに剣術界のつぼみが花開く時であった、現代に残る剣術流派のほとんどがいわゆる兵法三大源流と呼ばれる三派の流れ
を組んでおり、兵法三大源流という言葉は戦国時代の剣士、
新陰流開祖の上泉信綱の目録
「上古の流有り中古念流新当流陰流有其の外は計るにたえず予は諸流の奥源を究め陰流において 別に奇妙を抽出して新陰流を号す」という言葉からきている。
その三大源流というのが、
神僧から授かった念阿弥慈恩の念流。
鹿島の太刀の流れを組む飯篠家直の天真正伝香取神道流。
蜘蛛の動きから極意を受けた愛洲久忠による陰流。
これらの剣術流派はどのようにして確立されていったのか。
この三派の中で尤も古いとされるのが念阿弥慈恩の念流である。
念阿弥は1350年、奥州相馬(福島県)の生まれで5歳の時父がに殺され
7歳の時に時宗の遊行上人に弟子入りし、念阿弥と名付けられる。父の敵をとるため剣の修行を積み
10歳になると京の鞍馬山で修行をし、16歳のとき鎌倉で寿福寺の神僧栄祐から秘伝を授かった。
その後還俗すると奥州にもどり父の敵を討ち再度禅門に入り名を慈恩と改めた。こののち諸国を巡って人々に剣術を教えた。念流の系譜は中条流をはじめ、幕末の北辰一刀流へと続く。
続いて、天真正伝香取神道流――飯篠家直。家直は1387年下総国香取郡飯篠村(千葉県)の郷士の子として生まれた。香取神宮と鹿島新宮の神職に伝わる関東七流の刀法を元に家直は天真正伝香取神道流を生み出した。
最後に、陰流――愛洲久忠。久忠は1452年伊勢国の愛洲忠行の子として生まれた。
久忠は若いころ遣明船で明に渡り北京にて明の武人と決闘をしたとか、倭寇の水軍に入ったとか
武者修行で関東から九州を渡り歩いたなどの逸話がある。36歳のころ日向国の鵜戸神宮の岩屋に籠り、岩屋に住む蜘蛛の動きから着想を得て陰流を開いた。弟子については諸説あるが、
のちの新陰流開祖、上泉信綱が21歳の時に78歳の久忠から陰流の皆伝を授かったと言われ、柳生新陰流やタイ捨流などの礎となった。
遂に現代に残る剣術流派の始祖たちが出そろった。