≪鎌倉時代≫ 一子相伝
鎌倉時代に入り、本格的な武家政権による統治が開始され、まさに
武士の時代となったが剣術の世界においては特に目新しいこともなく
停滞したままであった。源平の合戦から南北朝の抗争のあいだ約150年の間に
これといった剣術が発生しなかったのは何故か、それは武士に求められたものはまず弓と馬であったからだ。
江戸時代の医者で儒学者でもある貝原益軒の著「武訓」の一節にこうある。
~武士たる人は武藝をしらずんばあるべからず。弓馬、刀剣、槍、長刀、鳥銃、拳法なども、其の法を習わずしては戦いのぞみて、功をなしがたし。
中について、弓馬を尤もまなぶべし、弓馬の二つはことさら學ばすしては、ちからつよしとしても、妄に其の術行はれず。
他の武芸はよく習ひても治世に生まれては、一生の間、一度も、其のわざ用に立たざることあり。
弓馬は、治世にても日用のことなり。殊に、馬は日々のる物なれば、よく學ぶべし。
(中略)
軍器三十六あり。弓を上首とす。武藝十八あり。射を第一とす。是れ、兵録に見えたり。中華の書なり。
日本にても射を重んじて、武士をゆみとりといふ。中華にて、武囈は、騎射を重しとし、日本にても、弓馬を、武藝の宗とす。
太刀槍の類は其の術しらざる人も、みだりにあつかふ人多し。弓馬は。ならはざれは、かりにも弓を射、馬に騎ることかなはず。しかれば武藝多き内にも弓馬は、ことに知らずんばあるべからず。~
益軒を含め江戸時代の儒学者達の考えは弓馬を第一に優先し、剣術は二の次という位置づけで、確かに考えてみれば現代人の私たちにいきなり、「ちょっと弓を射ってみてよ」とか「この馬に乗って」とか言われても無理な話だ。刀や長刀は力まかせに振るえばどうにかなるが、弓や馬は習熟しないことにはどうにもならない。ゆえに鎌倉時代は剣術が発達しなかったのではないか、だが剣術自体は無くなることなく家から家へ、親から子へとその技は脈々と受け継がれていった。
まさに一子相伝の技である。