第一章 六話
少しして、涼香の家の前についた。
「智樹君、送ってくれてありがとう」
「お礼なんていらないよ。いつものことだし、家もこっちだから」
いつも似たような会話をしている。涼香は優しいから、慣れて、当たり前のことになってもお礼を言ってくる。だから、そんな彼女だから、きっと俺のことを気にかけてくれていたのだろう。気付いてしまったことには。それが、相手が傷ついていることなのなら特に……。
別れ際、涼香は俺に問いかける。
「ねえ、智樹君。私達若者って、何者にもなれるってよくいわれてるよね」
「唐突だな……。たしかに、よく聞くな」
俺は涼香の言葉をしっかりと目を見つめて聞く。これは、彼女なりの、閉ざしている俺に対するせめてもの励ましなのだろうから。
「私がさ、今から医者を目指すって言ったら、無理だっていう?」
「言わないさ。お前は文理選択で文系を選んではいるけど、無理だとは思はない。浪人したり、自分学べば何とかなると思う」
俺の答えに涼香はちょっと嬉しそうな表情を浮かべる。
「すごく現実的な意見だね。じゃあ、声優になるって言ったら?画家になるって言ったら?ピアニストになるって言ったら?」
「努力をすればなれるかもしれない。可能性はゼロなんかじゃないと思うよ」
「そうだね、可能性はゼロじゃないもんね。なれるかもしれないよね。つまり、私達は何者にもなれるってことだよね」
「そういうことになるな」
涼香が何を言いたいのかがよくわからない。可能性だけの話だったら、なんだってあり得ることじゃないのか?
「何が言いたいんだ?涼香……」
「私達は何者にもなれる。そう、何者にも……」
「……」
俺は黙って涼香を見つめる。彼女はなにか俺にとって大切な何かを言おうとしている気がするからだ。
「でもね、私達は自分自身になることができないんだよ。いや、一番難しいってだけかな……」
「自分自身になること?」
「そうだよ。まあ、私個人の考えだから、くだらないと思ったら忘れてね」
涼香は笑って俺にそう言う。
自分自身になることが一番難しい?どういう意味なのかさっぱり分からない。俺は常に俺で俺以外の何物でもないし、何物になっても俺は俺だ。それに、何者にもなれるということは職業のことじゃないのか?
「俺にはよく意味が分からないな。説明してもらえるか?」
「うん、いいよ」
俺の問いに涼香は楽しそうに、笑顔で答える。
「私達は生きていく上で何かに縛られて生きているし、いつも何かを気にしているよね?」
確かに、涼香の言っていることはあっていると思う。俺たちは生きていくうえで常に何かを気にして生きているといっても過言じゃないだろう。
それは誰かの目だったり、意見だったり、評価だったりする。
俺も、常に朱里のことを考えて、朱里のことを気にして生きてきた。
そう考えれば、縛られていたのかもしれない。
だけれども、少しも縛られているとか、嫌だとか、そんな風には考えたことはないし、これからもそうは思わない。
「そして、自分を偽って生活している。それって、自分らしく生きていることにならないと思うの」
俺がどう思おうと、俺は自分らしく生きていないように見えるのだろうか……。
周りからも……。朱里からも……。
だから、あんなことになったのだろうか……。
最後の電話の時、自分らしさを失ってしまったから。
今まで、朱里のことをかんがえて行動してきたのに、最後の最後で自分のことしか考えてなかった。
朱里のことを考えているつもりで、思っているつもりで、その実は自分のことしか考えてなかった。
朱里が本当はかけてほしかった言葉が薄々わかっていたのに……。
「私たちが自分らしく生きていくためには本当の自分をしっかりと知って、自分の心に嘘をつかずに生きていくことだと思うんだ。でも、それはとても難しいことだと思うの」
「そうだな……」
涼香の言葉に思わず同感してしまう。俺は、あの時から、完全に自分らしさを失っていたのだと思う。
いつも朱里のことを一番に考え、大切にしていたのに、自分に対する罪悪感とばかり戦って、全く朱里に向き合っていなかった。
まだ、いや、今すぐにでもできることがあっただろうに。
涼香はしっかりと俺の目を見て、優しく問いかけてくる。
「智樹君は自分らしく、自分自身でいられてる?」
「……」
俺は何も答える事ができなかった。それは、俺の強がりなのか、過去の公開を思い出し、口を開くと泣いてしまいそうだからかもしれない。
「私の感なんだけど、智樹君の悩みは、自分らしくすれば、解決するんじゃないかな?」
控えめだけど、その言葉には確かな強みが感じられた。きっと、涼香は俺が俺らしくなることが必要なのだと確信しているのだろう。
彼女は本当の俺を知らない。
それでもそんなことを思ってしまうのはきっと、いつもの俺が自分自身になれずに、必死に醜くもがいているからなのだろうか。
「なるほど、ありがとな、涼香」
俺は泣きそうな顔をこれ以上涼香に見せられないので振り返り、お礼を告げる。その声は震えていて、きっと涼香に俺の状態を悟られているだろう。
「どういたしまして。じゃあ、気を付けてね」
「ああ、じゃあ、また明日」
そう言って、俺達はわかれる。この時、俺は涼香の顔を見ることはできなかったが、きっと満足した顔をしているのだろう。
智樹君と別れて、自分の部屋に入って一息つく。少し、自分らしくないことをしてしまったと恥ずかしく思ってしまう。しかし、それも無理はないことだ。私にとって、彼は特別なのだ。
きっと、彼は覚えていないのだろう。彼にとって、それはあまりにも当たり前のことで、私にとっては劇的なこと。
私の父はいわゆる転勤族というやつだった。だからなのだろうか、私は友達とか、好きな人とか作る気もなかった。大体一年くらいしかその土地にいないのだ。作っても無駄というものだし、忘れないという約束など、あの年の子供には無駄なものだ。すぐに楽しいことがあらわれ、激流のように過ぎていく日々は私などという途中に見えた石のようなものだ。すぐに忘れ去られる。だから、私にとって一人ぼっちというものは何も怖くもないし、つらくもないことだった。だから、上辺だけの付き合いだけをして、張り付けたように笑う。そんな子供だった。そんな中、父の転勤が終わりをつげ、今の土地に定住することになったのは、小学校三年の時だった。
正直、私は戸惑った。いなくならない友達。ずっと仲良くしていくことになる人々。短い付き合いだけの、上辺だけの付き合いをしていた私にはその環境がどうしてもなじめる者にはならなかった。ただ、普通に仲良くなって、楽しく笑うだけ、それだけでよかったのに、私にはできなかった。
転校してきていろいろな人が話しかけてくれたけど、なかなかなじめずに私は孤立していった。でも、それだけならよかったのだ。ただ、一人ぼっちだったのなら、私はいつも通りいられた。でも、それだけにはならなかった。
私はいじめられ始めたのだ。
理由なんてものは本当にくだらないもので、お高く留まっている生意気な転校生だった。私は自分で言うのもあれだったが他の人と比べて容姿は整っていた。だからこそ、男子は気を引くため、女子は妬ましく思って、いじめられていくようになったのだ。
初めて味わういじめという孤独と辛さ。これは当時の私にとって耐えがたいものだった。毎日が苦痛で、学校に行くことが嫌になっていた。そんな中、彼、智樹君があらわれたのだ。クラスでも学年でも人気のあった彼が、二クラス合同のイベントの時に私を救い出してくれたのだ。救い出すといってもなんて事のない。ただ、一緒のグループに誘ってくれて、両クラスの仲間の輪に入れてくれただけ。ただそれだけなのに、いじめはぱったりとなくなった。それどころか徐々に仲間の輪に入れてくれるようになったのだ。
小学生のいじめなんて始まりはどうしようもなくくだらないもので、終わりもまた同じなのだということが分かった。ただ、人気者が声をかけて仲間の輪に入れる。ただそれだけで終わること。ただ当たり前に、何も気にすることもなく、いじめに気付いていたわけでもなく、ただ当たり前に誘った。それだけで、私を救い出してくれたのだ。
そんな彼に私は人生で初めての感情が芽生えたのだった。どうしようもないほどの、熱く、温かい思い。初恋を、彼に感じたのだった。
「いつかきっと伝えたいな……」
そう言って私はコルクボードに貼られた写真を見る。ニクラス合同の集合写真。それに映る、元気に、明るく笑う彼と、その隣で顔を赤くして笑う、私の写真を。