第一章 三話
私、市原朱里は大好きな男の子、智樹と病室で大好きな本の話をしていた。
「私はやっぱり銀河鉄道の夜が一番―って、智樹!ちゃんと聞いてる?」
「ちゃんと……、きいて……るよ」
私が話しているのに智樹は眠たそうにうとうととしていた。それも仕方ないのかもしれない。智樹は私の手術が終わって面会が許されるまでの間ずっと私の病室の前でただ面会終了時間までいて、私が早く良くなるように祈っていてくれたのを知っている。きっと、疲れがたまっているのだと思う。
「ほんと、智樹って不器用というか、バカというか……」
「なんの……ことだよ?」
なお、智樹は眠そうに答える。
最後に日だっていうのに、だらしがないなあ……。でも、ちょうどいい。
「智樹、これで最後になるかのしれないから、聞いてもいい?」
「おう……」
その言葉を聞くと私は智樹をしっかりと見つめた。しかし、そこで一度開いた口を閉じる。
正直、私の中で聞いていいものかを再度考えてしまったのだ。私はこれを智樹と会う最後の機会にしようと思っている。その理由は簡単だ。私のこの生に対する未練を断ち切るためだ。
死ぬのは怖い。それは生物として与えられた当然の本能である。それを克服することができるのが人間の強い理性であると思う。そして私がその恐怖を乗り越えるためには、未練を断ち切るしかないと考えているのだ。
そして、私がこの智樹と会えない数週間の間に決意を固め、この死の恐怖を乗り越えたのだ。ならば、私はこれ以上智樹と接しないほうがいいのだと思う。
しかし、最後まで私にこびりつく未練は私の理性と覚悟を鈍らせる。最後だから、これが最後だから智樹と会いたい。そう私をそそのかすのだ。そして、今度は墓場まで持っていこうと決めていたはずの質問をしようとしているのだ。実に情けない。
私の中の未練という名の悪魔が甘言をささやき、私はその甘言にいとも簡単にそそのかされてしまう。
「私と出会えてよかった?私なんかのために時間を無駄に使っちゃってよかった?後悔してない?」
これは、私がずっと思っていたこと。ずっと、後ろめたく思っていたこと。そして、言ってしまったらきっと後悔するのであろう言葉。
智樹は優しいから、私を一番に考えてくれるし、大切にしてくれる。でも、私のせいで智樹を不幸にしているのではないのかって思う時がある。私にかまけているせいで智樹の大切な時間を無駄にしているのではないかといつも思ってしまう。
だから、最後に聞きたかった。寝ぼけていて、本音を口に出しそうな今だから、普段は恥ずかしくて絶対に聞けないけど、きっとこの会話を覚えていないと思うから、聞けること。そして優しい彼だから聞いてはいけなかった言葉。
「そんなことか……」
智樹はとうとう耐え切れなくなったのか、私のベッドに倒れこみ、私を安心させるような顔で話しはじめる。
「そんなの出会えてよかったに決まってるし、時間を無駄にしたなんて思ってない。だって、俺は朱里と話している時間がかけがえのない大切な時間だったからだ。誰でもいいわけじゃない、朱里との時間じゃないとダメなんだよ。だから、後悔なんてするはずないだろ?」
今にも眠りそうだけど、智樹ははっきりとそう言った。
私はその言葉を聞くだけで満足だ。満足するべきなのだ。しかし、悪魔は歯止めがきかない。欲望のままに、忠実に追い求めてしまう。
「ほんとに?私より学校の友達と遊ぶほうが楽しいんじゃない?私のところに来るのは仕方なくじゃないの?」
「何言ってんだ?いったろ?お前といる時間が大切なんだ。学校いる時も家いる時も、飯食ってる時も、何やってても朱里のことを考えてる。重いかもしれないけど、それくらいお前のことが大切なんだよ」
私の視界にうつる智樹の顔が歪んでいった。
私は大好きな智樹が私のことをこんなにも思っていてくれたことがうれしくて、うれしくて涙を止められないでいた。
そして、私の中の覚悟は音を立てることなく、あっさりと崩れ去っていく。こびりついていたはずの未練はいつの間にかその覚悟の瓦礫を覆いつくし、見えないように隠していた。
「ありがとう……智樹、本当に、ありがとう……!」
私は本当に幸せ者だとおもう。私みたいなお荷物をこんなに大切にしてもらえて。
十分幸せなのに、さらに欲が出てきてしまう。摩擦のなくなったこの欲望は止めることができない。
どうしても、聞いておきたい言葉がある。お互い、気持ちは通じていても、ちゃんと口にしてもらいたい言葉、言ってもらいたい言葉がある。
私は袖で涙をぬぐい智樹に問いかける。
「最後の質問」
「な……に?」
智樹はもう眠っているのかと疑いたくなるような声で答えた。
「私は、智樹のことが大好きだよ。もちろん男の子としてね。智樹は、私のこと、どう思ってるの?」
これが、智樹から直接聞きたい言葉。聞いてしまえばきっと私は後悔するのであろう言葉。残り少ない一生を縛りつける言葉。
その凶器のような言葉を、智樹はゆっくりとだが、答えてくれる。
「そんなの……俺も……同じだよ。俺も……朱里の事が……」
そこで言葉が途切れる。途切れるといっても大した時間じゃない。でも、その先に待っている一番聞きたい言葉がなかなか顔を出してくれないのに待ちきれないでいるだけだ。
そして、智樹は続きの言葉を口に出す。
「大好きだ。朱里なしでは生きられないぐらい、朱里のことが……大好きだよ……」
そういうと、智樹は眠りについた。
私は、止まらない涙で智樹の髪をぬらしながら智樹の頭を抱きしめて何度もお礼を言った。
これからするのであろう苦労と、味わうのであろう苦痛。そのすべてを無視して喜べる言葉。そして、この世に強烈なほどに残してしまうであろう未練。
そのすべてを対価としてもこの言葉には足りない。
「ありがとう、本当にありがとう……!でも、やっぱり、聞きたくなかったな……」
その幸せを感じているとき、私はふと考えてしまった。私のいなくなった智樹のことを。私以上に想ってくれている彼のことだ。私との関係がこのままずるずると続き、さらに一層彼の中で私が積もっていけば、その先どうなるかを。
私の命はそう長くない。これから先、いつ死んでしまうのかなんてわからない。すぐ死ぬかもしれないし、あと何十年も生きるのかもしれない。そんな爆弾を抱え続けた私に彼はきっとずっと付き添って歩いてくれるだろう。それはうれしいことだ。
だが、いずれ彼よりもだいぶ早く私は死んでしまう。それは確定した未来。うぬぼれかもしれないが、私を失った彼はきっと、ひどく傷を受けるだろう。
私は彼にとって呪いのような存在でしかないのだ。ならば、私のすることは一つしかない。私は覚悟を覆い隠す未練を取り払い、再建する。愛する彼のためならば私は頑張れるはずだ。
彼が持ってきた、『チボー家の人々』を見る。この小説を彼がこの最後の日に持て来た時、運命のように感じてしまった。この小説のこんな一文がある。
「『命を懸けて君のものになる』か……。私には、そんな選択をとることはできない。だから、私はこの命を君のために捨てるよ」
そうつぶやいて、私は用意していた手紙の最後に、一文を書き加える。
「命を懸けて、君のために死ぬ」と。
そう、私は自分を殺せる恋をした。