第一章 一話
「智樹君!」
俺は手術が終わり、面会が許されるようになった朱里のお見舞いに来たところを朱里の主治医の笹瀬先生に呼び止められた。笹瀬先生にはよくお菓子やジュースなどをもらったり暇なときに遊んでもらったりと俺と朱里と、とても仲が良かった。
「どうしたんですか?先生」
「いや、ちょっと君に話をしたいことがあってね」
「はあ……」
とても不安になる誘いだ。手術は成功したと聞かされ安心していたが、何かあったのだろうか……。先生の顔はどこか元気のないように見えた。
先生に連れられてきたのは病院の屋上。病院近くの桜がきれいに咲き誇っており、とてもきれいな景色だ。
「朱里ちゃんのご両親が話してくれと言われたから君に話す」
先生は屋上につくと胸ポケットから出した煙草を手慣れた手つきで火をつけると一口吸い、話しはじめた。
「朱里ちゃんについてだ」
やっぱり、朱里についてか……。よくない予感が現実のものになりそうに感じる。
「まず、朱里ちゃんの手術のことだが、確かに成功した」
その言葉に俺は思わず歓喜した。これでやっと朱里は病気から解放されるのだ。しかし、その喜びは一瞬のものになってしまう。
「だが、治りはしなかった。ただの延命するだけの手術にしかならなかった」
「そんな……。完全に治ったんじゃないんですか?」
嫌な予感が現実のものになっていく、その感覚を血の気が引いていくのと同時に感じた。
もう治ったって、やっと自由になれるって思っていたのに……。朱里と一緒にいろんなところに遊びに行けるって思っていたのに……。
「朱里ちゃんの延命はできたけど、そんなに長くは生きられない……」
「はあ!?」
それは、一番聞きたくない言葉。あるわけがないと、目をそらしていた言葉。
「だから、彼女は明日から東京の優秀な専門医のいる病院に移る事になっている。だから、今日が彼女と一緒にいられる最後の日になる」
え……、今日で朱里と会えるのが最後?そんな……、そんなことって……。
「な、なんでそんな急に東京に行っちゃうんですか!?」
当然の疑問だ。あまりにも急すぎるその事実は納得のできるものではない。
「彼女の病気はいつ発作的に起こるかわからないものだ。だからなるべく早く優秀な専門医のところに行ったほうがいいんだ」
「それにしても急すぎじゃないですか!」
騒ぎ立てる俺に先生はなだめるように頭に手を置く。淡々と、作業的に話していた今までとは違う、口惜しさと、やさしさの混じった声で、先生は話す。
「手術後の体力の回復は十分に取れた。そして今もなお彼女は爆弾を抱えている、いつ爆発するかわからないそれを」
「で、でも……それでも!」
わかるだろ?と訴えかけるようないいように俺は何も言えなくなってしまう。
だからこそ、かろうじて出てきた言葉は自分でも最低だと思う言葉だった。
「あ、あんたがもっとちゃんとできてたら!そしたら朱里はここにいられたんだろ!?あ、朱里を返せよ!!」
こんなことを先生に言っても仕方ないのに。先生は何も悪くないことはわかっているのに。それでも、こんな最低な言葉が出てきてしまう。
こんな最低な俺に、先生は怒るでもなく、優しく話す。
「そうだよ、俺の力が、技術が、知識が足りなかったんだ。朱里ちゃんを救うには、俺じゃ駄目だったんだ」
そうやって頭を下げる先生はどうしようもなく大人で、こうして見下げる自分の子供さが後悔と恥ずかしさの形で自分を襲う。朱里に対してできることを最大限に尽くした先生に対して、何もできずにただ近くにいただけの自分が文句を垂れている、その事実に俺はどうしようのないみじめさを感じてしまう。そのみじめさに耐えきれず、みっともなく俺は涙を流していた。
「ごめん、先生。俺、そんなこと言うつもりはなかったんだ。先生が、朱里のために頑張ってくれてたってちゃんとわかってたんだ!」
こぼれだした涙と同時に、今まで抱えていた不安も漏れ出してしまう。
「でも、それでもきっと朱里はよくならないって内心で感じてて、毎日がどうしようもなく不安だった……!朱里が、朱里が俺のそばからいなくなるんじゃないのかって!もう会えなくなるんじゃないのかって!だから、だから俺!!」
「わかってるよ」
先生はそう言うと優しい顔で、うつむいている俺の頭をなでる。
「よくなることのない朱里ちゃんを見て、毎日が不安だったんだよな?」
「うん……」
優しいその声に、ただうなずいて答える。
「離れたくないもんな」
「うん……」
その声の主のほうを向くことができずに、ただ足元を濡らす。
「でも、ずっと離れるってわけじゃないんだ。朱里ちゃんは、東京に行って必ず良くなって帰ってくる。だから、そうやって泣いてると帰って来た時に呆れられるぞ?」
その言葉に、俺はまっすぐ、優しい声の主の目を見る。その目には嘘のない、まっすぐな瞳だった。
「だから、今日一日大切にしろよ?」
その言葉に、なでる手を振り払おうかと一瞬考えた。しかし、そんなことをしても何も変わらないし、そもそも今の自分にはそうするための気力すらなかった。だから、ただ先生を見上げることしかできなかった。
「い、いきなりそんなこと言われても!」
しっかりと先生を見つめる。できる限りの抗議のつもりだ。
しかし、その続きが出てこない。だって、子供の自分にもわかるから。
それが朱里にとって一番いいって……。どうしようのないことだって。
「先生……。朱里は、朱里はそのことを知ってるんですか?」
「ああ、知っている。そして、あの部屋に今日見舞いに入れるのは智樹君、君だけだ」
「え?なんで……」
「それは朱里ちゃんからのお願いだからだ。朱里ちゃんは残り少ない時間を君との思い出を作る時間にあてたんだ」
朱里……、お前ってやつは……。俺との時間をそんなに大切にしてくれたのか……!
視界が歪み、先生の顔がまともに見えなくなる。何か先生に言おうとするがうまく声が出ない。俺の嗚咽だけが春の空に響く。
そんな俺を先生は優しく抱きしめてくれた。その優しくも強い先生からは煙草の匂いがした。普段は嫌なにおいのはずなのに、今だけは、落ち着く、いい匂いだった。
「そんな姿は朱里ちゃんには見せるなよ?」
そういうと先生は俺を出口のほうに押し出し、煙草をもう一度吸い出して優しくこちらを見つめた。
「時間がもったいないぞ?君が朱里ちゃんといれる時間は限られている。早くいけよ」
「はい!」
俺は袖で涙を拭うと先生に親指を立てて屋上を後にした。