第一章 プロローグ
これは、遠い日の記憶。
人は、自分の許容量からあふれると忘れ、捨て去る。それは、人の本能が常に何かにおびえ、何かから自分を守ろうとしているからだと思う。
これは、捨てたはずの記憶。
これは、再度拾いなおした記憶。
「智樹!来てくれたんだ!」
真っ白な病室のベッドに横たわる少女はそう病室に入ってきた少年に笑いかけた。
「あたりまえだろ?俺が来ないと朱里は寂しがるから」
少年はそう意地悪く笑う。すると少女は寂しそうに笑って「そうだねー」といって窓の外に視線を移す。
「智樹が来てくれないと私、寂しくなっちゃうね」
「なんだよ、しんみりしちゃって……」
少年は予想していた反応と違っていたらしく、気まずそうに少女に答える。
「だって、学校の子で私のお見舞いに来てくれるのなんか、智樹ぐらいだよ?」
少女は窓の外を見ながら話を続ける。
「そりゃあ、お前が入院し始めてもう五年にもなる……。俺たちももう中学生になるし……。色々と忘れて変わっていくさ……」
少年は少女をしっかりと見ながら話す。
「智樹も変わっちゃうの?」
そういった声には不安が含まれ、こちらを向いた少女の目はうるんでいた。
「おいおい、俺が変わると思うか?見た目が変わっても中身なんて変わるわけないだろ?ここ五年間変わってないんだから。俺のことは親よりお前が一番知ってるんだ。そんぐらいわかんだろ」
ただ当然のように少年は答えた。
その言葉を聞いて少女は安心したかのように微笑む。
「そうだね……。智樹は私が入院した時からほぼ毎日欠かさずにお見舞いに来てくれたもんね」
「まあ、ほかにやることもなかったし、仕方なくだ、仕方なく」
少年が見た目に似合わない腕組みをし、胸を張って答えた。そのわかりやすい照れ隠しに少女はクスリと笑うと呆れたように首を振る。
「よくもまあ飽きないよね、つまんないでしょ?外で友達と遊んだほうが絶対楽しいでしょ」
「友達はお前しかいないよ。だから毎日ここに来てんだ、言わせんな」
「へえ~、修学旅行とか林間学校の後の話に出てくる裕也君と春君は友達じゃないの?」
少女は大げさにそう言ってにやにやと笑った。少年は「ああ、そうだよ」と言って少女の手を握り優しい声音で話す。
「一番に優先する大切な友達は朱里、お前だけなんだ」
真剣に、優しく見つめる少年。その行動が少女にとっては誤算だったらしく、顔を真っ赤にしてうろたえる。
「なんで、私が一番なの?」
少女の質問に少し笑ってから答える。
「愚問だ。言わせんなよ」
少女にはわかっていた。少年には友達がたくさんいることも、やりたいことをいっぱい我慢していることも。そして、どうしようもなく少女のことを大切にしていることも。
「ばか……、ありがとう」
少女は泣きながら少年にお礼を言う。少年はその言葉を聞き、話を続ける。
「だから、明日の手術頑張れよ……」
「うん……!」
少女は強く少年の手を握り返して返事をした。
そんな遠い日の記憶を思い出しながら俺、五十嵐智樹はその記憶と同じ月、三月の町を目的もなく歩いていた。いや、目的はある。時間をつぶしたい。
しかし、町といってもたいしたところではない。はっきり言って田舎だ。だから歩くといっても、まともに時間が潰せる場所と言ったらやけにきれいな図書館ぐらいだ。
「学校になんか行く気がおきないな……」
高校一年が終わるという時期に無断欠席か……。笑えるな。でも仕方がない、行く気が起きないのだから。どうしようもないほどの虚無感が自分を支配していくのがわかる。
俺は時間をつぶすため、高校近くの図書館へと足を運ぶ。広場に面した前面ガラス壁側のソファーに腰掛ける。暖かな日差しが入ってきて心地よい眠気が襲ってくる。
そして、昔のことも思い出さしてくれる。
少女、市原朱里についてだ。
彼女とは家が近所の幼馴染だ。両親同士仲が良く、よく交流があった。
雪のように白い肌、きれいな黒髪、かわいい笑顔。俺は朱里のことが好きだった。出会って仲良くなるのに時間はかからなかった。すぐに友達になって、いつも一緒にいた。
そして小学校を入学して二か月後、朱里は入院した。心臓の病気だと聞いた。俺はその時餓鬼だったからすぐに良くなってまた一緒に遊べると思っていた。
でも、現実はそんなに甘くなんてない。
一週間がたっても一か月がたっても一年たっても退院しなかった。それでも俺は毎日毎日欠かさずにお見舞いに行った。最初は学校の友達と一緒に行っていた。でも小学生だからすぐに飽きて誰もお見舞いに行かなくなっていった。それでも俺は毎日通った。
友達から遊びに誘われても断り、朱里の病室に通う。どんな魅力的な誘惑があっても断った。それでも俺は苦痛に思わなかった。
きっと、朱里は俺が遊びたいのを我慢してきていると思っていたのだと思う。そんなわけないのに……。だって……。
俺は朱里の友達だし、俺は朱里のことが―……。
「あのころが、一番楽しかった。あのころが……」
最近になって思い出すことができた、向き合うことができたこの思い出が俺のやる気を吸い取っているように感じた。……、いや違うな。一度捨てたものをまた拾いなおしてみて、自分の捨てたものの大きさに初めて気づき、やるせなくなっているのだ。
人は皆何か一つ、譲れないもの、大切にしているものがあるはずだ。でも、俺はその大切なものを捨ててしまった。それにやっと気づいたのだと思う。
「俺はバカだな……」
俺の呟きは開いたばかりで誰もいない図書館に悲しく響いた。
あの時と同じ、あの遠い記憶の続きと同じように。