─第1話 心の闇─
海を眺めて、数時間が経った。操舵経験があるという男に船を一任しているため、どの航路を辿るのかは自分には分からない。ただ、見渡す限りでは一切怪しい気配は感じられなかった。穏やかな水面に視線を落とす。深くまで見通せるほどに透いており、美しい。
「───」
まるで、己の醜悪を晒されているようで。眼前の輝きに目が眩む。現在に至るまで、彼は人間───、全ての“人”と、ろくに関わったことがなかった。“人”は悪。“人間”は敵であり、憎悪の対象であり、そして仇だ。...そう、思っていた。
「...」
過去は変えられない。けれど、未来をどう生きるかはこれから決めることができる。
「...私は、彼らを信じて良いのだろうか。心を開いても、裏切られないだろうか」
首から下げているペンダントを手に取る。
「私の過ちを...、真実を耳にしてもなお、傍にいてくれるのだろうか」
青い宝石が、静かに寄り添っていた。
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航海の日々は平穏だった。日の出とともに起床し、空腹になれば、釣りや船内の食料でそれを満たす。海を眺めるのに飽きたら、舵から手を離し、楽器を弾きながら歌を口ずさむ。夜になれば星を眺め、流星を数えながら明日の方角を確認する。数日間こそ、新鮮味があり活力もあった。...しかし、日を重ねるにつれ、少女からは次第に笑顔が薄れていった。
「───っ、サフィラスちゃん!来て!リベラちゃんが!」
それは航海から、7日目の事。
「...壊血病、とまではいかないけれど。その初期症状にちかい状態ではあるね」
少女が床に伏せてしまった。声を発することもなく、目蓋を閉じ、コンフォーターを身体に巻いている。
「こうならないように、心も栄養バランスも気を使っていたつもりだったけれど...。ごめんなさい、アタシの管理が行き届かなかったばかりに───」
「あとどれくらいかかりそうだい?」
「えっと...」
およそ3日、と男は答える。
「それなら───」
術を使えばいい。そう言いかけて口を噤む。
「お願い、リベラちゃんを助けて!彼女を救えるのは、アナタしかいないのよ...!」
...そうだ。ここに来るまでの間、私は何度聞いただろうか。“他力本願”の言葉を。肩を揺すぶられ、懇願される今のような光景を、何度見ただろう。
「...」
───ああ、駄目だ。湧き出してしまう。溢れてしまう。
「う...ああ...!」
「サフィラスちゃん!?」
「───」
黒い、深い、闇。耐えきれなくなった心は、意識を手放した。