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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

献身的な妻

作者: 村崎羯諦

 私の夫は本当に手がかかる。


 食器をひっくり返し、口を押さえながら洗面台へと駆け込む夫を、私は何も言わずに追いかける。洗面台で嘔吐する彼の背中を優しくさすり、コップ一杯の水と吐き気止めの薬を何も言わずに差し出してあげる。夫は吐き気がよほどきついのか、苦悶と恐怖の表情を浮かべたまま私の方を振り返る。私は彼を安心させるため、「大丈夫よ。落ち着いて」と微笑みかける。


 胃の中のものを吐き切った後、足元のおぼつかない夫に肩を貸しながら、寝室のベッドへと連れて行く。ベッドの端に腰掛けさせた後、私はキッチンへと戻り、簡単なおかゆをささっと作る。出来上がった料理を寝室まで持っていき、やけどしないようちゃんと息で冷ましてあげてから、スプーンを彼の口元に近づける。


 夫は食事を拒むかのように固く口を閉ざす。彼のそんな子供のような仕草が可愛らしくて、自然と私の頬が緩む。


「安心して。これには毒を入れてないから」


 それでも食事を嫌がる彼の右頬を強くビンタすると、夫はおずおずと口を開ける。前歯のない口に私は美味しいおかゆをそっと運んであげる。夫がきちんと食べ物を飲み込むのを待ってから、私は再びおかゆをスプーンで掬って食べさせてあげる。彼の歯を私が抜いてしまってからというもの、夫はおかゆのような流動食しか食べられない。そのため、彼のための食事を別に作ってあげないといけない。もちろん手間はかかる。それでも愛する人のためだと思うとそれほど苦にならない。


 私は口元についた汚れを人差し指で拭き取ってあげたり、目にかかった前髪をそっと手で払ってあげたりする。夫は目を見開き、充血しきった目で私の顔を凝視している。それから顔全体が徐々に青紫色に変色し始め、わなわなと小刻みに震えだす。夫はそのまま顔を下に向け、黄土色の吐瀉物を寝室の床にぶちまける。


「もう、しょうがないなぁ」


 私は服にかかった飛沫をティッシュで拭い、床に撒き散らされたものを掃除する。その間中、夫はベッドの上で仰向けになり、電流が流されているかのように身体を痙攣させている。私は黙々と床の吐瀉物を拭き取り、アルコールと重曹で仕上げの除菌を行う。


 今度こそ本当にご飯を食べなきゃだね。汚物掃除など全然苦にしていないことを伝えるため、あえて私はおどけるように言う。しかし、夫の反応はない。私が不思議に思い、仰向け状態の夫の顔をこちら側に向ける。夫の目は大きく見開かれ、口の端からは吐ききれなかった残りの吐瀉物がこぼれ落ちる。私は彼の右の眼球を指先で引っかいてみる。それでもいつものような反応はない。私は手を彼の口元に近づける。しかし、呼吸による空気の流れがそこにはない。死んでいる。私はそこでようやく気がつく。




***



 密封性の高い寝袋を開けると、中からドライアイスの白い煙が溢れ出す。夫の目は閉ざされ、皮膚はドライアイスの冷気にあてられ、変色を始めている。中に横たえられた夫の顔を優しくなぞり、買ってきた新しいドライアイスを詰める。それから私はもう一度夫の穏やかな表情を十分に眺めた後、ゆっくりと寝袋を閉じていく。


「まったく、もう」


 私は手にはめていたゴム手袋や、ドライアイスを入れていた袋を片付けながらつぶやく。


「私がいないと、全然駄目なんだから」

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