隣人
「灰は、灰に」第五章。
だりあと別れてヴェネツィアに逗留するツァオの前に、劫火の連れ合いであるスカリが現れた。
招待状を携えた使いを待つ、ツァオと餌のルカ……
暗がりでは真っ黒に見えたが、部屋の灯りの中で喉を鳴らし、私の膝に迷いなく乗った猫は黒毛に濃茶が混ざっていた。まだ若く艷やかな毛並みは触り心地がいい。見上げてくる瞳は毛色以上に黒々とした瞳孔が今は大きく、黒の周囲を手漉きの紙に滲ませたような緑が彩っている。猫の瞳は見ていて飽きない。黒茶の若猫も私の目をじいっと見返してくる。
「野良猫にしては随分とおとなしいな」
抱き上げても嫌がらず、私の肩に爪も立てない様子にルカが手を伸ばすと、猫は態度を一変させ牙を見せて唸った。不愉快よりも驚きで素直にたじろいで一歩下がったルカを笑い、ちょんと鼻を付き合わせると猫は目を細めてざらついた舌で私の唇をぺろっと舐めた。
「私が呼んだんだ。そうそう他の手には触らせないさ」
「呼んだ?」
「ちょっと頼み事をね。いい子が来てくれた」
「猫寄せまで出来るのか」
猫はちらりとルカに一瞥をくれると、私に向かって小さく歯を覗かせて、声を出さずに鳴いた。餌になって間もないルカは、主が持つ闇の術について無知だ。猫もそれがわかるのだろう、これ見よがしに優位を主張する。
猫は私にとって闇の隣人だ。餌のように主従関係を結ぶのではなく、友愛を持って誘いかけ、頼み事をする。隣人として気に入れば無理のない頼みを聞いてくれるのだ。
こうした隣人たちが血の契約もなしになぜ闇の住人と通じてくれるのかは、私も知らない。昔ながらの血の眷属には蝙蝠に姿を貸してもらった輩も居たようだが、二十世紀の街中に蝙蝠がいることは稀だ。住まう場所や主の性質、嗜好によって、蛇だったり狼だったりと隣人の種も様々に違ってくる。私も猫ではなく山繭蛾を隣人として招くことがあるし、だりあは蜘蛛を隣人に迎えることが多い。
「この子は私の隣人だからね。客分と心得て粗相ないようにしてくれよ」
餌への言いつけに同意を示すかのように、黒茶の若猫は私の左肩に乗り、長い尻尾を首に廻し右肩に垂らして澄まし顔で座した。まるで友愛を込めて肩を抱く友の如く。なかなか愉快な性格の隣人だ。ルカは憮然としながらもひとつ頷いた。
スカリからの使いが来たのは、翌日金曜日の夕刻だった。昨日までの好天と打って変わって鬱々とした雨の降る寒い午後。
私は寝台から出ずに夜着のまま、ほとんど読めもしないイタリア語の新聞や雑誌を手に物思いに耽り、隣人はその横で身繕いと昼寝を繰り返した。古い石造りの部屋は雨音も響かず、時折隣人が喉を鳴らすのがやけに大きく感じる。何かが紙を擦る障りの音が耳をついて顔を上げると、ルカが私と隣人を素描していた。出掛ける予定も告げていないのにかっちりと襟を止めてシャツを着込み、タイまで締めている。
この餌が私と睦み合うとき以外で、服を乱しているのを見た覚えがない。派手ではないがかなりの洒落者で、つきあいが深くなってすぐに、時代遅れのスーツを着ていた私をロンドンへ誘い、行き着けだというテーラーで服から靴まで見立ててくれた。こうして息子にスーツを仕立てるのが夢だったと照れくさそうに笑い、夜になるとカフスもボタンもゆっくり時間をかけて長い指で外した。
彼には二度の離婚歴があり、子供はいない。周囲の勧めを断りきれず家庭を持つ努力はしてみたけれど、やはり女は好きになれなくてねと、散々に抱き潰した私の骨盤を撫でながら言った。私の素性を事細かに問うことはせず、君に溺れそうだと低い声で囁いた。
アムステルダムで出会い、中国茶を注文する際に名前を告げた。彼はそのまま口の中で響きを確かめながら復唱し、伺うように首をかしげた。生まれは本土だが育ったのは香港と澳門。欧州へ遊学に来てあちこちふらふらしている道楽者だと付け加えると、ああ、それでと得心の笑顔を見せた。
「曹少欽。曹生、私も香港に駐在したことがあるんですよ」
彼は北京語ではなく、広東語で正確に私の名を発音した。それが気に入った。
ロンドンで一夜を明かした翌日、手ずから淹れてくれた何種類もの茶は香り高くとても美味しくて、あまり好きではない紅茶すら思わず口にした。二年近く決まった餌を持たずにいたが、こっそり味見した血と精気の味も体の相性もよく、こいつは悪くないやもしれぬと穏やかな朝の笑顔を見ながら思ったものだ。
「珍しいね。君が私を優しい顔で見つめるなんて」
見つめていたつもりはなかったが、ぼんやりと気づかぬうちに微笑んでいたらしい。上機嫌のルカが鉛筆を置いて茶の支度をしようと立ち上がった時、来客を告げるベルが鳴った。
スカリの使いは痩せこけた若い男で、今節風の長髪はくすんだ金色。雨に濡れた毛先が派手な絞り染めのシャツに染みを作っていた。生気のない澱んだ眼差しに、これはスカリの餌だと察しがつく。震える手で渡された封書には仰々しく蝋で封をされていたが、気の利かない使いのせいで雨染みが出来ている。餌を見れば主の品性がわかるとはこのことだろう。
「ふぅん。夜会を催してくれるのか。ありがたく参じると伝えてくれ」
「ツァオ……」
ルカは不審を顕わに男を睨めつけ、咎めるように私の名を呼んだ。つい先頃までおかたい紳士然としていたルカの目には、この使いは享楽的なヒッピーにしか映らない。おまけに胡乱な目つきで私を見つめ、濡れそぼった髪を耳にかけて首を晒す仕草で、浅ましく使いの駄賃を強請っているのだから。
「雨の中をご苦労だったね。お前の主とは古いよしみだ。思わぬ再会で嬉しいよ」
大して食指は動かないが、小さく上唇を舐めながら濡れた首に軽く触れてやるだけで、男は甘ったるい喘ぎを漏らした。なんとも慎みのない餌だ。ルカは舌打ちの代わりに、わざと大きな音を立ててカーテンと窓を開け、大袈裟な身振りで空気を払った。餌同士で悦びの吐息を吸い合うこともあるのだが、ルカは薄汚い餌の息など吸いたくないのだろう。
その剣幕にニヤついて、私は今にも涎を落としそうな金髪の餌の唇に指を触れ、舐めさせてやった。手を添えて咥えようとしたところで、上唇を弾いて餌の唾液がついた指を振った。ルカが私の悪戯に奥歯を鳴らす音が聞こえるようだ。彼は苛立たしげにドアを開けてスカリの餌に帰りを促した。
「では日が変わる頃、迎えに来ます」
とろんと上気した頬を緩ませて、使いは去った。
「言葉遣いもなっちゃいない」
ルカはブツブツ言いながら、清潔なタオルで私の手を拭う。袖口が皺になるほど強く握るのは、私への不平だ。
「痛いよ、ルカ。年増の悋気なんてみっともないな」
ぎりっと更に手首が絞まる。脈のない手首を掴むのはどんな気分だろうなどと考えつつ、常に主に大して真摯な餌の顔を眺める。怒りが滲んで薄緑が瞳孔を縁取るルカの灰色の瞳は、とても、とても綺麗だ。だりあの瞳も灰色だが、こんなふうには色づかない。
「清めの口直しを」
そう囁くと手首を握る力が抜けたので、私は両手でルカの首を支え、耳の後ろを押し擦った。左側にある刻印がぷくりと盛り上がって口を開け、指に吸い付くようだ。
さっきの使いの刻印は触る前から半開きで、首まわりはやけに凸凹していた。スカリが餌の交換や蹂躙を繰り返しているからに違いない。そんな戯れをルカはさぞ嫌がるだろうし、あんな首筋に口をつけるのは私もごめんだ。
軽く歯を当てて忘我に浸らせない程度に味わうと餌の瞳からは焦燥が消え、私にもささやかな活力が灯る。
「さ、出掛ける支度を。お前を連れて初めての夜会だ。共に愉しもう」
どんな趣向のもてなしが待っているのやら。さして期待は出来ないが、久々に同胞との夜遊びだ。百年余を過ごしても、未だに止まった時の齢らしい浮かれ調子の声音になった。窓辺に潜んでいた黒茶の隣人が、そんな私を「んなぁ」と笑い、獣の尖り歯を見せて欠伸した。
「灰は、灰に」 第五章 隣人 了