背徳
「灰は、灰に」第四章
行方不明になった闇の同胞”劫火”を探す旅に出た主人公ツァオとだりあ。そして餌たち。
ヴェネツィアで餌のルカと蜜月を過ごすツァオの前に姿を見せたのは……?
「今日は少し街へ出ないか? ヴェネツィアは初めてと言ってただろう。見るものの多い街だよ」
新しい茶器を手にしたルカが寝台に腰を掛け、キィと小さな音が鳴る。返事の代わりに寝返りをうつと、もうひとつキィと鳴った。
ルカは茶を煎れるのが上手い。勤めていた商社は染料と織物を中心に扱っており、茶については自分の趣味だと言っていた。私よりも上手く茶を煎れられる餌は初めてで、それだけでもよい選択をしたと思う。
「建築物や教会も美しいけど、街自体が面白いんだ。入り組んだ迷路みたいでね。車も自転車もないから空気もいい」
それは知っている。ヒトであったときには訪れてみたい街だったから。十をいくつか過ぎた頃、家庭教師として私の前に現れた導師に絵葉書を見せてもらった時のことをまだ覚えている。当時の写真はおぼろげなものだったが、それでも水の都と言われる街の魅力は十二分に、狭い世界で息をしていた少年を惹きつけたものだ。
滑り込んできた手に背を支えられ、ふわりと半身を起こされる。ルカは刻印の後、全体的に力が増して精悍になったようで、元から軽い私の身体を危なげなく扱う。
「飲ませて」
ルカはにっこり笑って熱い茶を口に含み、唇を寄せる。半開きにして待っている私の口に唾液と混ざった茶をちゅろちゅろと流し込み、嚥下する喉を熱っぽい指でくすぐった。
ヴェネツィアに列車が着いた時にはぐったり疲労困憊していた私を、この餌はそれはそれは丁重かつ心配げに介抱した。いつでも餌として役に立てるよう一時も側を離れず、刻印の二つ穴をはくはくと震わせた。特別な術を使い渇ききった私はこれまでになく立て続けにルカを貪り、悦びにわななく胸に頭を預けて眠った。
「マダムも少し外を歩けと言っていたよ」
ふん。劫火探しのために街に慣れろというわけか。当のだりあは一昨日、私が臥しているうちに餌の双子を連れてローマへ発った。とりあえず劫火が消えずにいるとわかれば、探索は後でいい。あなたは餌と蜜月を愉しむといいわと言いおいて。
積極性はないくせに好奇心からの行動は厭わない私の性格をだりあはよく知っている。血と精気を使い切った私に、辛うじて滾々《こんこん》と眠り続けはしない程度の口吻しかくれなかったのはそのせいだ。要するに勝手に動かず、自分が戻るまでに力を回復しておいてね、お馬鹿さんというわけだ。
「ツァオ?」
眉をひそめたまま黙っている私のうなじをルカの指が滑り、絹地の夜着を肩からするっと落とした。肩の形を確かめるように掌が包み、もう一方の手指に鎖骨を撫でられて、私はくすりと笑みを漏らす。
「どうした。出掛けるんじゃないのか」
不服げに鼻を鳴らしたルカの手に力がこもる。
「血も啜らない、茶しか飲まないんじゃ、こっちがご所望じゃないのかね?」
色欲を孕んだ声で囁かれ、私は思わずにんまり笑う。この餌が刻印の後も不埒な情欲を失わず、紳士の顔で野卑た言葉を吐くのが嬉しいのだ。
「よくわかったな。褒美にしゃぶってやろうか」
唇をひと舐めしながら言ってやると、ルカの喉仏が上下した。そこに指を当てて軽く押すと、くぅと切なげに呻いて睨みつけてくる。
「口吻は駄目だぞ。お前だけが先に気持ちよくなってしまうから」
言い終えないうちに、乱暴に後ろ頭を掴まれて顎の先を甘噛みされた。
「その憎らしい口で好きなだけしゃぶれ。出掛けるなら足腰が立つ程度に加減してやる」
こんな言葉を闇の主に投げる餌なんて、ルカくらいだろう。こんな言葉に体の芯を熱くする主も私くらいに違いない。闇の同胞たちに言わせると、これは背徳なのだそうだが。
「おお、こわい。お前の精を太腿に垂らしながら街を歩くのも楽しそうだ」
「ではそうしてやるよ、ご主人様」
夜着の上から尻の間を撫で擦られて、私ははしたない嬌声を上げながらルカの股間に顔を埋めた。
午後、まだ陽があるうちに外で出てみると十二月とは思えない光の明るさに驚いた。太陽が近いなどと言いたくなるほどで、同じように水の都と呼ばれるアムステルダムとの違いが愉しくて、特に行き先も定めずそぞろ歩いた。
あちこちに大小の橋があり、小さな段差や行き止まりの水場がある。降誕祭が近く、だりあが言っていたとおり、地図を片手に立ち止まる観光客が溢れていた。私らはもとより当て所なく歩いているだけだから地図など必要ないのだけれど、一応は行っておこうと向かったサン・マルコ広場とドゥカーレ宮殿でルカは日本人観光客に道を訊かれ(私を日本人かと思ったらしい」、懇切丁寧に教えてやっていた。おまけに裏路地に面した地元で評判のジェラート屋まで知っていて、私の好みに合わせて選んでみせた。
「お前がいれば地図いらずだな」
ピスタチオと木苺のジェラートが舌の上で解け、味が混じるのが愉しい。闇に住まえば普通の食は細くなるものだが、私は菓子や果物が好きなのだ。ルカは氷菓を喜ぶ私を目を細めて眺めている。とても満足そうに。
「私はここで育ったし、去年亡くなるまで母もここに居たからね」
なるほどこれはお誂え向きな。私の新しい餌について調べをつけていただりあが予感と口にしたのはそういうわけか。私に予知の力はないが、時折こういった符合に出くわす。ヒトであった時には、それでよく気味悪がられたものだ。
暮れ始めると降誕祭のネオンが灯り、街は彩りを増した。さんざめく光りと夜の賑わい。石畳に足を取られてよろめいた私の腕を取り、ルカはゴンドラに乗ろうと誘った。
「今頃足に来たか」
いやらしい声で耳元に囁かれ、私は口の端を上げて笑った。
「ああ、私のカサノヴァはすぐ容赦を忘れるからな」
「カサノヴァはそっちだろう。私は幸せな囚われ人さ。君に尽くすだけが悦びのね」
ゴンドラに揺られて交わす言葉はまるで蜜月を過ごす恋人同士のそれだ。餌に甘い気持ちなど持たないが、恋の遊びは嫌いじゃない。熱く潤んだ瞳で見つめながら手指にくちづけるルカをからかいたくなって、首を引き寄せて刻印がないほうの首筋をちろりと舐めてやる。怯えるように震えた肩越しに眺めていた対岸の船着き場に、ひとつの人影があった。私に向かって小さく手を振っている。
あれは、スカリだ。
まばたきをひとつする間に人影は闇に溶けたが、スカリは脳裏にメッセージを送ってきた。
(遠路はるばる南へお越しだ。楽しい遊戯に招待するよ、ツァオ。ついては招待状をお送りしたいから、逗留先を教えてくれ)
スカリもローマではなくヴェネツィアに?だりあとは行き違いになったのか? スカリがだりあを出し抜くなど意外に過ぎて面白い。招待先を告げずに逗留先を尋ねるなど、妙に回りくどい真似をするのも興味深い。
(これは久しいな、スカリ。ご歓待をお受けしよう)
私は宿の名を舌先で転がして、スカリに放った。ルカが訝しげに振り向いたが、スカリが返したリップ音つきの「チャオ」は、私の頭の中だけに響いた。
考えてみれば、私はスカリのことをあまりよく知らない。劫火にひっついている品のない男。元はバチカンの司祭といっても、スカリが闇に生を変えたのは十九世紀末。法王はイタリア王国と対立して座所にひきこもり、バチカンの囚人などと言われていた時代だ。そんな時期にローマをふらついていたなど、素性も甚だ怪しい。
現に幾人かの闇の同胞は、なぜだりあはこんな下賤を引き入れたのかと嘆き、毒づいた。が、例によってだりあは澄まし顔でいなした。
「劫火に必要だったからよ。スカリにしても使い道はあるわ」
劫火は持って生まれた美声と紅蓮の瞳で同胞に好かれたが、決まった相手としか精気の交流はもとより、指の先すら触れさせない潔癖な性格が知れると、やれやれだりあの言うように、あの生娘には我ら同胞よりも下僕が必要かと納得した。
私はというと、劫火に鋏を向けられた時、やはりこの坊主に大した力はないんだなと思っただけだ。私が羽交い締めにされていた腕一本を少し振り払えば、奴は壁に叩きつけられて無残にひしゃげただろう。そんな力の差にまったく気づかず、卑しい笑いと臭い息を吐いていたものな。それを思えば、拈華伝心の術を身につけたことも意外なくらいだ。百年の時を生きた証なのだろうか。
不意にルカの手が眼の前で揺れ、餌は不服と諦めの混じった溜め息をついた。
「目が乾いてしまうんじゃないかと思うよ。茶も冷めてしまった」
「ああ、悪い。煎れ直してくれるか」
考え事を始めるとまばたきも忘れる妙な癖が私にはある。
出逢ったばかりの頃、広場のカフェで思索に耽る私を見かけたルカは「君の周りだけ時が止まっているようだった」と言い、横顔のスケッチを贈ってくれた。礼も言わずにじっと見つめると「その瞳で私をずっと見てくれたらいいのに」と口説かれた。
私としては人ならぬ異様に気づかれたのかと内心どきりとした。ごく稀に異なる闇に目敏い人間はいるものだ。ルカのは気づきではなく、恋心だったのだが。
「お前に口説かれた時のことを思い出していたんだよ」
少しぬるめで煎れ直された茶で口内を温めると、軽口が叩きたくなった。
「嘘をつけ。昨日戻ってからずっと上の空のくせに」
血を吸われるだけの餌には特殊な力は何もない。ルカはスカリが現れたことも、招待を受けたことも知らない。ただ、私の様子から不穏の翳りを敏感に読む。それを私が楽しんでいることも。
「嘘じゃないさ。少なくとも今はお前のきれいな指で髪を梳かれたいと思っているよ」
明らかな誤魔化しでも、主の誘惑に乗らない餌はいない。ルカは手にしていたカップを置いて、私の前髪をかきあげてくしゃりと乱す。
「どこがきれいなんだ。長いだけで節くれだった指なのに」
「私が気にいっているんだから、いいじゃないか」
掌を返して押し当てられた指の節に頭を擦りつけると猫になった気分だ。私はふと思いついて鳴いた。
「にゃああぁん」
ルカの呆れた笑い声の中、閉じられた厚いカーテンの向こうで窓硝子を引っ掻く軋んだ音を聴いた。
「灰は、灰に」 第四章 背徳 了