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灰は、灰に  作者: 鰓(えら)
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刻印

 手に入れた新しい(とが)り歯を食い込ませながら、いつもと同じように潤いと失望を味わった。

 それほど美食家でも悪食でもないが、狩りそのものに喜びを感じない私は、ひとつの餌を一気に貪らないため、獲物は吟味して選ぶ。にもかかわらず毎度似たような反応を見ることになる初回の刻印の際、少々うんざりしてしまう。

 ああ、またか。そう思ってしまうとその後の食事が味気なくなり、億劫になる。当然餌は長持ちし、狩りの回数も減る。悪循環だな。狩りの方法を変えたほうがいいのかもしれない。

 そんなふうに考えていた脳裏に、呆れたような声が響いた。


(まったく、どっちが獲物かわからないような顔をして)

(だりあ。悪趣味だぞ、刻印の覗き見とは)

(あら。もっと前から見てたけど?)


 私は意識の中で大きなため息をつき、刻印を終えた獲物から手を離した。それはだらしないほど力無く、へなへなと足元にへたりこむ。


(近くにいるのか? 顔が見たい)


 私の呼びかけにニッコリ笑った気配が流れ、声が降りた。


(いいわ。私も会いたい)


 だりあ。同じ導き手によって、この闇に招かれた私の同胞。唯一、長き時を経ても退屈しない相手であり、貴重な救い手。オレンジに近い豊かで放埒な赤毛を久しぶりに愛でたい。


「だりあ」


 その名の音を口に出すのが私は好きだ。旅に出る時以外は一緒にいることが稀なため、こうして名を呼ぶのは久々だ。再会に揺らめく思念が音に滲む。それは喜びというよりも、おのれを隠す必要のない相手を前にできる安堵に近い。


 だりあは幼い男女の双子を伴って現れた。手をつなぐことはせず、長いスカートの裾にまとわりつかせることもなく、躾の行き届いた小さな餌たちを従えている。


「また双子か。今度のはずいぶんと幼いな」

「このくらいだと似てなくても母子に見られていいのよ」


 刻印を済ませたばかりの私の新しい餌は、まだくたりとして眠りの中だ。たわむれの味見程度なら捨て置いて出掛けられるが、これをしばらくの餌と決める刻印をした以上は目覚めを待たねばならない。そのため、だりあは私の居室を訪れたのだ。


 だりあは大抵いつも双子を獲物に選ぶ。双子でなくても餌は常にふたり持つのが習慣だ。いつぞやは中年夫婦のときもあったか。ふたりいっぺんにとは悪食なと眉をひそめる向きには、澄ました顔で一瞥をくれる。

「あら、長持ちしていいわよ。競い合って尽くしてくれるし、私がよそでつまみ食いしててもふたりで助け合ってなんとかしてくれるもの」

 放埒なのは赤毛だけじゃない。だりあは食欲も旺盛で狩りも得意だ。奔放に狩りを楽しむことは古い時代から美徳ともされている。慎重さは必要だが。


「ツァオこそ、また男なの? それも結構くたびれてて不味そうだわ」


 処女がいちばん美味いというのは外聞と迷信に過ぎないが、確かに若く情も知らないほうが雑味は少ない。味など結局、好みの問題だ。ひとつの餌を長く味わうのなら複雑な妙味があるほうがいい。もっとも私は味を期待して獲物を選ばない。吟味の基準は別にある。


「女は面倒くさい。若いのも年寄りも」

「そうかしらねぇ。まぁでも刻印の様子では似合いかもね。庇護者タイプだもの」


 勝手なことを言う紅々とした濡れた唇。けれどこの唇は滅多に間違ったことは言わない。根本的に思考が明るくポジティヴで行動も的確。同胞の多くにありがちな鬱々(うつうつ)としたところがない。その燃える赤毛のように。


「あなたはちょっと見た目若すぎるから。導師ももうちょっと待てばよかったのに」



 それは私が闇の住人になったときから言われ続けていることだ。ヒトのよわいにして二十一ではあったが、小柄な体躯と細面のせいで十代にしか見えない。


 だが導師にも私にも猶予がなかった。私は肉体的にも精神的にも、また取り巻く情勢を見ても死の淵にあったし、導師は闇に生きることに飽き果てつつも私に執心していた。

 導師が吸血鬼であることを明かしたとき、私はただ貪られるだけだと思っていた。血と精気のすべてを吸われ尽くしてむくろになるのが自分に似合いだと受け入れた。


 闇の住人となるべき心構えも命への執着も持ち合わせていなかった私にとって、新しい目覚めは驚愕と困惑以外の何ももたらさなかった。生活習慣や狩りの仕方などを導師は献身的と言えるほど根気強く教えてくれたが、それでもまだ死に損なってしまったという気持ちが強く、餌を自分で獲る気にすらなれなかったのだ。



 一方、だりあは自分の強い意志でもって闇に踏み込んだ。私より五十年ほど前、彼女を餌にしようとした輩を逆に絡め取って使役させ、闇の世界のあれこれを知識として十二分に学ぶと、側に居た輩にではなく私と同じ導師に導きを願い出た。導師は半ば呆れながら、だりあをこう評した。


「あれは強い。ヒトとして生きるには強すぎ、闇に生きるには明瞭過ぎる。不思議なたましいもあったものだ」


 三十(みそじ)間近の未亡人で事業家でもあっただりあは、闇の仲間に加わるとたちまち一目置かれる存在になった。

 その時代、仲間の数は急激に減り、絶滅が危惧されていた。導師のように長く生き永らえ過ぎて静かに眠りたいと思うものも多く、近代化の進むヒトの世界と共存する術を手にできずにいた。このまま滅ぶのも一興というまるで私のような考えが仲間内に蔓延していたらしい。

 そんな時、闇に登場したのがだりあだった。導師を口説き、自ら進んで闇の住人になると、新しく逞しい世代を生み出すよう画策したという。時間をかけてゆっくりと。


「もったいないと思ったのよ。稀有で有能、甘美で退廃的。ヒトにとってこんなに有効で優れた種が滅びるなんてね。ヒトに出来ず、わたしたちに出来ることはそれはもうたくさんあるわ」


 古い世代からはもちろん反発もあったが、だりあは着々と自分の計画を進め、仲間の数を増やし、潤した。おまけに彼女は闇の住人としてもたいそう魅力的だった。もともとの気質に冷酷さと傲然屹立ごうぜんきつりつとした美しさが加わり、それでいて親しみやすさを失わず、ちゃちなプライドを誇示することもない。闇の女王と呼ばれるのを厭い、決して立ち位置を先達より高く置こうとしない。


さといよ。見事に聡い。だがわしは愚かで弱くとも、美しいものが好きなのだ。そういう者も儂らには必要だ」


 導師は面と向かって私に何度もそう説いた。要するに、それが私だ。


 闇の住人は長く生きれば生きるほど特殊な能力を得る。そしてそれを同類として闇に引き込むにえに引き継ぐことが出来る。

 だりあは導師を始め、数百年を永らえてきた先達に自分が選んだヒトを闇へ導くよう促した。その選出に非の打ち所がないことはみなにすぐ知れ渡り、だりあの指示を拒むものはいなかった。幾人をいつまでに仲間に加えれば安住の眠りを提供するという約束のもと、新しい世代を生み出していった。


 だが導師は最後の最後に「わしは儂の好むものを闇へ招く」と言い、だりあは黙認した。

 導師、あなたのすることに私は異を挟まない。ただ願わくば、私を魅了するくらいの新しい同輩をお作りくださいと。

 初対面の時、私を見るなりだりあは艶然と微笑み、いかにも感嘆したように言った。

「さすがは導師。彼は唯一無比の存在になるでしょう」

 導師はその言葉に満足して、静かな眠りについた。私はまだ、ひとりで狩りをする気にすらならなかったというのに。結局、私を闇に馴染ませたのは、この燃える赤毛のだりあだった。



「それで、用向きは?」


 私とだりあは他の同輩よりも親しいが、なんの用もなくただ会いたいなどということは彼女にはありえない。風のない部屋で唯一時を刻みながら融けて揺れる蝋燭ろうそくの炎に左手をひらひらとかざしながら、私の方を見ずにだりあは告げた。


劫火ごうかが消えたわ」

「ほう。スカリは? いつも連れ立っていたろう」

「そのスカリから連絡が入ったの。ミーティング・ポイントに現れないし、言伝もない。裏切りは考えられないから消えたのだろうと」

「どこから?」

「ローマ。スカリの故郷ね」

「故郷はバチカンだろう。酔狂な坊主だ」


 私が揶揄やゆると、だりあはくつくつと口元を押さえて笑った。


「そこがいいんじゃないの。彼から酔狂を取ったらつまらない」



 劫火ごうかとスカリ。よく組みつるんで旅をしていた。ふたりともだりあとそう変わらぬ時期に闇に住まうようになったと聞く。


 豊かな黒髪と紅く煌々(こうこう)とした瞳の劫火。ヒトであったときは黒い目をしていたが、極稀に彼女のように紅く変化して転生するものも居る。劫火という名は、紅い瞳を得た彼女が自分につけた。生まれた国の言葉で、この世の終わりに世界を焼き尽くす炎を意味するのだと。


 劫火自身もスカリも紅い瞳を愛したが、普段はレンズをはめるか、目薬を射して黒く染めていた。早く歳月を重ねて瞳の色くらい自由に変えられないと不便だと私を見るたびに言った。同胞のなかで最も長く時を刻んだ導師に導かれた私にははなから容易く出来ることだったからだ。そういうのを宝の持ち腐れというんだと、スカリは皮肉たっぷりに言い添えた。私をよく思わない同輩は掃いて捨てるほどいる。


 イタリアへ美学と音楽を学びに訪れた劫火はスカリと出逢ったが、典型的なイタリア男のスカリをのらくらとかわし続けた。劫火は潔癖症で肉の交合を好まなかったのだ。そんな劫火に好色坊主のスカリは参ってしまい、下僕のごとく尽くした。

 ある日、だりあと先達が現れて闇に誘うと、ふたり揃って迷いなく応じた。指の先をほんの少し触れるだけで想いも血潮も交流できるようになり、ようやく劫火はスカリの愛を受け入れたのだ。



「旅の途中だったのか? 単なる里帰りか」

「旅よ。新しい世代はほとんど郷愁を持たないもの。それに……」

「ああ、あそこには幾らでも仕事があるものな」


 古い街には古い街の、新興の地にはまたそれに見合ったものを、だりあは選んで仲間に加えた。ヨーロッパの古い街と歴史には濃い闇が数知れずあり、地の利がある劫火とスカリはうってつけだった。すでにヒトであった頃の彼らを知るものは土に還っていた。


「わかるわね、一緒に来て」

「ああ。だけどなぁ……」


 私は滅多に旅をすることがない。私自身はふらふらと居住をひとところに定めずに移動するが、だりあとともにする旅は意味が違う。私の場合はほとんどが人探し、もとい消息を絶った闇の同輩を探す旅にかりだされる。千里眼や仲間の吐息の後を辿ることが出来る力を持つものは、私を含めて数人しかないのだ。


「スカリを締め上げたほうが早いんじゃないのか。今までだってしょっちゅうあいつのつまみ食いから揉めていたし、だいたいあいつは……」



 そこまで言った口にだりあの唇が重なった。ねっとりと波打つような赤黒い唇にねぶられて、互いの気が混じり揺らぐ。時が止まるほどの恍惚。舌先が触れ合うと鈍く心地よい痺れが走る。


「そういうことを迂闊うかつに言ってはだめ。あなたは時々酷く軽率だわ」


 薄いグレーの瞳が潤み、間近で揺れる。同等の力を保つ者同士の口吻は刺激も効果も強い。たちまち胸の奥に精気が満ちる。さっきの刻印の潤いなど比べものにならないほど私を酔わせると、だりあは知っている。


「わざとだってのもわかってるのよ、異端児さん」


 顔をしかめて唇を拭う私に、だりあは出逢ったときのような艶然とした笑顔を向ける。


「新しい餌が使い物になる頃、迎えに来るわ。予感はあったんでしょ?」


 一体何の予感があったというんだ。そう思った心中をあたりまえのようにだりあは見透す。


「あら、まさか無意識なの」


 ころころと笑い声を立て、自分の餌の少女を引き寄せて耳の後ろにかぷりと歯を立てると、これ見よがしにちゅうと吸った。だりあは私とくちづけると喉が渇くらしい。少女はうっとりと法悦ほうえつの息を吐き、双子の少年が寄り添ってその息を懸命に吸う。


「あなたがさっき刻印した男、ローマ人よ。知らなかったの?」


 珍しく準備がいいと思ったのにと、さらに紅々としたくちびるが笑った。


 知るもんか。どこの生まれかは聞かされた気もするが興味がなかった。歳だって知らない。眉間にしわを刻みながらも、口元に笑みを浮かべたまま横たわっている私の新しい。彼を選んだ理由は、汗の匂いが気に入ったのと、私の名を正確に発音できたからにすぎない。


「それを言うなら、イタリア人だろう。ローマ人なんていやしない」


 どちらでも。口角を上げてにっと笑うと、赤毛を優美に揺らしてだりあは音もなく立ち上がった。


「久しぶりの旅になるわ。よく休んで滋養を取っておいてちょうだい。ツァオ・シャオティン」


 ツァオ。曹少欽ツァオ・シャオティン

 それが私の名だ。



 灯りのない廊下の闇に溶けていくだりあを見送って、妙にうずく唇に触れる。乾き始めた私のそれは旅をするにはたしかに滋養不足と思われた。

 ピクリとも動かない餌の頭を爪先で転がし、施したばかりの刻印を舐めてひと息に強く吸った。覚醒のための眠りを妨げられた哀れな餌は声にならない悲鳴をあげて痙攣けいれんする。

 だりあはまだ私を見ているだろう。悪趣味だと笑っているに違いない。

 痙攣をなだめるためにゆっくり、細く長く息を吹き込んでやると、餌の身体から緊張が抜けて弛緩しかんした。


「そう悪い味じゃないぞ、だりあ」


 私の独り言に、淫猥いんわいな含み笑いが返った。


(では、次にご相伴を)


 布張りの長椅子に身体を投げ出して、くつくつと笑う私の声だけがほの暗い部屋に響いた。




「灰は、灰に」 第一章 刻印  了


 

 

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