予定されたアキの最期
朝七時の鐘が、遠い、教会から鳴る。
そしてその鐘の音とともに、街の全ての時計がねじ回しと同じ要領で時計を合わせる。
今日は始まった。いや、昨日が終わっただけかもしれない。
霧によって五メートル先が何も見えないなか、ハルは歩道の誘導に沿ってわき道を歩いていた。太陽の反射する光が純粋な霧に紛れ込む。しっとりとした霧によって髪に少し水滴が付く。アキがそろそろ起きるころで、アキはきっと勝手に家の中を歩いているのだろうとハルは考える。
今日のための食料をハルは家の壁を伝ってスーパーで買うと、家に戻った。
『ただいま』
靴を脱いで整える。
『おかえり』
アキが寝ぼけた表情でハルの買ったスーパーのレジ袋に眼を留めた。
『何が食べたい?』
『野菜炒め』
『わかった』
アキは部屋に戻って、窓を開けた。少し陽が登って霧は晴れて今日が動く。アキは窓を閉めてベッドに再びごろりと横になってハルが声を掛けてくれるのを、待った。『ご飯できたよ? 早くたべないと冷えるよ?』昨日はこうだった。『ごめんな、おかゆになってしまった。がまんしてくな』これは一昨日。昨日や一昨日だけではない。ハルが朝食の際にアキにかける声を、アキは全てノートに書いていた。三年前から今日まで、934日に及ぶ、葬り去られた過去の残骸がここにある。
『アキ。朝食ができたよ。ブラックコーヒー淹れたから』
935日目。
『ありがとう』
これは935日。まったく変わらない、アキの返事だった。
アキは『アキ。朝食ができたよ。ブラックコーヒー淹れたから』とノートに記して返事をした。
『ハル。今日の天気はどう? 晴れそう?』
『ああ……』
この後、ハルは一言も口を開かなかった。アキが椅子に座って手を組んで静かな瞳をしているとき、アキは何も聞こえていないことを、ハルは知っている。
朝食の時間が過ぎる。もう8時近い。
ハルはパスタを食べたら、アキに留守番を頼むとだけ告げると静かに玄関を開けて出勤した。
『いってくる』
『……いってらっしゃい』
ハルが玄関を閉めて、アキはしばらく玄関の前で座って、少しして玄関を開けた。遠い、街の聖堂が見える、何も無い普通の街。ただそれだけだった。
その少女、ルルがアキが学校に転校してきたときのことを、ルルはアキの死に、再び思い起こされた。先生が転校生が来ました。こっちにきなさい。とアキのことを呼びかけ、アキは静かに教壇の前に立った。
「転校してきたアキと言います」
その一言だけで、アキは席についた。そしてそのときのルルはアキの眼を良く覚えている。一度死んできたかのような、怒りと屈折した死の影が、彼にはまつわりついていた。
「ねぇお母さん」
ルルは家で話してみた。
「今日転校生が来たんだ。でもちょっと変わった子みたい」
そのときのルルに、話すための言葉はなかった。
『あの子、悪魔だよ?』
そのときのルルにこの言葉は無かった。十歳の出会いから、二十歳まで、アキとルル。彼と彼女は口を一切交わすことなく手紙だけのやり取りで会話をしていた。
後年、六人の人がアキの死の瞬間を知っていることが確認され一緒に住んでいたハルだけ、それを知らなかったことが世間では大きな衝撃と、大いなる疑問を持って受け止められた。そしてそのうちの六人の中にルルは入っていた。
ルルがアキと手紙を通じて仲良くなるにはそれほどの時間は掛からなかった。
ルルとアキは偶然、誕生日が一緒だった。
「今日はアキ君とルルさんの誕生日ですよ」
みなが拍手する。
家に帰ったアキは、ルルへの手紙を書いた。
「もし宜しければ、わたくしの言葉を聴いてください。今までのとは違う、祈りの言葉です。」
ルルが手紙を受け取ったとき、その意味を理解できるのはルル彼女自身だけだと確信した。そしてその手紙のやりとりは、アキが死ぬ最後の手紙まで続いた。「今日、小学校卒業したね」「数学の点数が良かったんだ。ハルさんが教えてくれるから」「部活が大変でした」日々は美しい。死せるアキの言葉の残骸を、色あせることだけはしたくなかったがもはや残骸を処理するときが来た。アキの死に際してルルも葬儀参列した。葬儀には国会議員も来て、アキの死を悼んでいた。当然、あんなことがあった以上、メディアが取材に訪れた。「ルルさんですか? アキさんのことをどう思っていましたか?」「盟友です。そして、それ以上でもそれ以下でもない、私と彼の関係です」彼女は葬儀の日、手紙を全て捨てた。もし残していたら後世に伝わったときに史料になっていただろう。しかし、ルルとアキが文通をしていることをしっている母親がこっそり二通の手紙を抜き取って、不慮の死で没したルル亡き後に世界史を変えたモノの手紙として発表するのだった。
その次の日、ルルは自動車に弾かれてしんだ。『アキが、……呼んでいる。』彼女の、八文字の言葉。
彼女はルル・ベーデン・クラーンルという、六人のうち、最初に死んだ人として記録された。
ルル、と母親がルルに声を掛けた。
ある、忘れ去られることが確定されている、そんな日。
『なぁに?』
『アキ君は同じ高校に進学するの?』
『さぁ?』
『そう。貴方、なんかいもアキ君のことを話していたからね』
ルル。
私、
そう。私を呼んでいる。
彼が、
私の目の前に立っている。
『おやすみ』
ルルは眼を閉じた。
朝の木漏れ日でルルは眼をさました。昨日の夜、彼は私のそばにいたと思うんだけれど……。ルルは一階に降りてパンを食べてCDプレイヤーにスイッチを入れた。
Das Wandern ist des Müllers Lust, das Wandern!
シューベルト。お母さんがすきだから。
トントン。と窓にノックがした。リルカだ。
「どうしたの?」
「とりあえず、食事なんて止めてこっち来てよ」
「なんで」
「まぁいいから」
彼についていった。
「これです。これ。ベルセンデスさまがお求めのものです」
伍長は静かに私に資料を提出してくれた。私は志としてワインを彼のグラスに注ぎ、乾杯の金属音が部屋に響く。
「ありがとうございます」
私もそれについて聞いたことはある。アン・ベーレンからの又聞きだったので信憑性に疑問は持っていたがここに伍長が着てくれた事によって氷解した。
「そうですね。あれはもう二百年前になりますかね」
伍長はワインを片手に私に話しかけてくる。
「あそこに教会の鐘が見えるでしょう。あの日、鐘がいつまでも鳴り響いたんですよ。銃と、槍と、血の中、諌めるように鐘は鳴っていたんです。私はその音を聴いていました。あれはその名残です。私たちは大事にするものがなんなのかをわかっていますから」
午後十時ごろにドアノックがなった。妻が出たようだ。
ええ。そう。あの事件については私もよく覚えております。当事者の六名に私も奥様も入っていました。そうですね。私がその子を見たのは奥様が書斎で物理学を教えているところでした。『クッキーは持ってきてくれたかしら』そしてあのアキという子は私の子を見ました。物理学で博士号を十七でとったものの、旧家の戒律を守り家でずっと社交をたしなんでいた人です。もしかしたら、自分はもう物理の世界に身を置けなくても有能な子がいたら直接指導してもいいと奥様はお考えになったんでしょう。これは噂で入ってきたことですけれど、奥様が物理学の講義を高等師範学校で担当したことがあるんです。そしてそのときにあのアキという子がいたんでしょう。奥様は非常に彼を気に入ったみたいですよ。まだ十歳くらいの子が一応ではあるけれど博士を持っている自分に理論で食い違うならば徹底的に対立する。周囲でいた人たちはきっと怖い思いをしたことでしょう。結局、奥様は論敵になりそうでも、論敵として認めるレベルになりそうな彼をじきじきに家に招いて物理の指導をすることにしたんです。ただ彼は化学の素養は少しなかったようです。なのでそこが足かせとならないように化学の指導もしたみたいです」
そう言ったら、彼女は静かにためいきをついた。
『貴方はなんでこんなことをしらべていらっしゃるの?』
私はすみません。と断って、
『史書を残すためです』
と簡単に説明した。
「そうですか。まぁ続けますね。アキ君は当然若かった。つまり保護者がいるということです。そしてそれはハルという人でした。私は後で知ったんですけれど、二人とも、ハルもアキも本名じゃないそうですね。それはいいとしてアキ君が中学生になるときにドル危機がありました。ここはアメリカにも近いですし、何より対外輸入が大きいこの国にとっては一大事です。なのでだんな様は無駄に広いこの家を売って金かプラチナでも買おうかと主張したのを奥様は大反対なさりました。「私はこの美しい土地を去ることはできない。去ったときは、私がこの世から去るということだ」」
結局。奥様はここに残りました。
「あなたさえよければ、ここで暮らしても私はかまわないのよ」
とメアリ公爵夫人はアキに述べた。
「貴方も知ってのとおり、夫はもうヨーロッパに行っちゃたし私には子供はいないから。別に貴方のことを私の子供の代替的なものとしてみているわけではなくて、純粋に物理の勉強を進める上でここにいたほうが都合が良かったりするでしょう」
「そうですね。ハルさんと話します」
このときアキは十三歳になっていたところだった。ドルペッグ制の為替相場を採用していたこの国では、ドルの暴落とともにこの国の貨幣価値も大幅に下がった。食料の多くを輸入でまかなっていたこの国は、一気に深刻な食糧難と経済危機襲われることとなった。
「ここには誰かまだいないのですか?」
「います。使用人の一家族が住んでいます」
ドアが開いた。
「奥様。片付けがおわりました」
「ええ。ありがとう」
「では夕食の仕込みをしますので」
その女性はドアを閉じてどこかへ行ったようだ。
「メアリ夫人はここに残るのですか?」
「ええ」
「そうですか」
とアキは納得した。あんなことがあった以上、ここから出られるわけがない。そして、その現況はみんなが作っていたのだ。
アキは中央回廊でねっころがった。ここから、あの、僕のトキを止めた、静かな点が見える。僕を、僕のトキを時の奇跡を、時の軌跡を止めた。あの人。名前は知らない。夫人の弟だっけ。
アキは次第に眠たくなって眠ってしまった。
そのころハルは帰ってこない従兄弟がいつ帰ってくるのか気になっていた。メアリ夫人邸に電話をしたところ、帰ったとは聞いていないのでもしかしたら……と電話越しで使用人は呟いていた。
「そちらにアキがいるのかもしれません。もしそうでしたらご迷惑をお掛けしてすみません」
そのころ、アキはすでに目覚めていた。節電のために夜の電気はほぼ切ってあり手探りで通路を歩いているとあるほのやかな光がたゆたっているのがドアの下から見えた。
「あの、すみません」
「あら、貴方はまだいたの?」
メアリ夫人であった。
「はい。ついうとうと寝ていたら……」
「保護者の方は心配しますよ。今はもう午後十時ですから、すぐに帰りなさい」
「はい」
このメアリ夫人の部屋はすぐ下の階段で玄関までつながっていた。一階まで降りると使用人のアイルが今ハルさんから電話が、とアキに電話をつり次いだ。
「もしもし、僕です」
「アキ。早く帰ってきなさい。まだ中学生の子が外に出ていい時間ではないだろう?」
「はい」
アキは電話を切った。アイルに礼を述べ、公爵夫人邸を去った。
六人のうち、アキと最も縁がなかった。という意味で一位にあがるとすれば、おそらくルネ・アンベルクが一位であることは後世の研究家の一致した意見である。ルネ・アンベルクはアキとはじめてであったとき、まだ二十歳だった。そしてアキは十歳だった。
それは雨が永遠と降り続く蒸し暑い真夏の夜だった。そのとき、小さな祈りは大きな悪につながった。あのときの、あの夏の雨の夜がこの一件を決定的に決めたのだろうと彼はそう考えた。彼が戴冠式に警備の任務にあたっていた。様々なものを使用したものでした。と彼はあの事件から一年後のインタビューで回想している。
『まず、飛行機でやるような抜き打ちの中身チェックやナイフや銃などの武器がないかどうか入り口で機械のチェック。それからミサイルが発射されたときのことを備えての対策も、病原菌が撒かれたときに速やかに対処するため医師、看護師も、大勢おりました。警察犬も警察官も、私服警察官もSPも、さながら防犯任務の博覧会でした』
と彼はこう述べて、
『国王の戴冠式に、このような事件が起きるというのは、異例のことでしょう。ですが、国の混乱に収拾をつける意味で、アキ。彼のしたことはもしかすると最善の選択しだったかもしれません』
そのことを彼をインタビューしたマリエル記者もその日の肌触りをしかと覚えていた。戴冠式が始まる午前十時の三時間前の七時から、マリエル記者はネット通信のために動画をとり、人々にインタビューするために彼の地にいたのだった。確かに、マリエル記者もそのことについては完全に賛同していた。国王、彼に名前はない。正確に言うと、即位をしたら名前を捨てる規則になっている。そして崩御した後に名前を追送される。先代の国王の死去に伴い、次の国王が即位をした。
あの日。
国王が涙を流し、片手を挙げて祈りをささげていた、あの有名な写真を撮ったのは他でもない、マリエル記者だったのである。
そしてそのことをマリエル記者は思い出した。
『あの日は永い日でした。お互いに、とても永い日でした』
アンベルクはアキを槍で突き刺したあと、神を殺した者として迫害を受けることになった。『返せ』、『アキを』人々があのあとしばらくはこだました。彼らはアキと知り合いでもなかったはずだし、アキの顔自体、死者にかけるモザイク修整のため、彼ら、彼女らはアキの顔を知らなかった。しかし、彼らは英雄を、そして殉教者を、そして死せる国のために、祈りをいつまでも捧げ続けていた。そしてアンベルクの追放運動が始まった。軍は持たなかった。人々は権力の座について椅子から永遠に下りようとしない、大統領を陥落させた。ある革命の時代がやってきた。
『貴方は終わりだ』
国務担当大臣は大統領官邸で次代の大統領となった大統領の息子に突きつけた。
『なぜだ? 私はこのまま殺されるのか?』
『閣下……』
『なんだ』
『良い休日をお過ごしください』
大臣は官邸を去った。次に大臣が官邸を見ることとなったのは、テレビから流れる銃弾によって彫刻が全て壊されていた、元官邸だったのだ。
国王が即位した。
陛下は笑っていらっしゃる。そして、大統領も憎たらしい笑みを浮かべている。もしかしたら大統領は自分を見に来たと思っているかもしれない。とあのときルリカは思った。そして隣でルルは寝ていた。ううんと小さな声と小さな鼻息で、彼女は寝ていたんだった。先代の大葬の礼は昨日、終わった。そして今日、新しく国王が即位をする。陛下が入ってくる。聖典の前に立ち、左手を聖典に載せて宣誓をする。そして憎たらしいことに宣誓をしてくださいと命じるのが大統領なのだ。しかし、陛下のためにも人々はブーイングなんてできない。
陛下の宣誓が終わった。
『ここが、国の歴史の終わりの始まりでした』
と、全ての人は声を揃える。
衛兵の一人が銃を抜いた。
大統領は胸を打たれた。そしてオーケストラはそれでも曲を演奏していた。
一回、二回。大統領は顔をゆがめて倒れた。
すぐさま異変に気が付いたルネ・アンベルクが槍でアキを突いた。
オーケストラは、まだ演奏していた。指揮者は泣いていた。ああ、英雄が死んだんだ。
人々が叫んでいたのを、オーケストラのメンバーも全員知っていたはずだ。そして、指揮者もそれを知っていただろう。
『ここで終わりです』
指揮者は指揮棒を落としたとき、オーケストラの団員も楽器を手放した。そして静かに舞台裏に去っていった。
『ああ、国が終わるのか』
楽団の一人が静かに日記に書いた。
大西洋の小さな、小さな国がありました。
と、ベルテンデスの妻は子供に語った。
『その国の名前は?』
子供の問いに、妻は応えなかった。
「お父さんは何をしているの?」
「お客様とお話しているの」
「そう。じゃあ、じゃましちゃわるいわね」
「ええ」
ベルテンデス夫人は窓から外を見た。宮殿が壊されたまま、そこに立っている。子供にはあれは戦争があったのよ。と教えている。そしてこの国に住んでいる人たちは全員で過去を封じ込めることに決定した。そしてその決定の最終審議に許可を出したのが客人のマリエル記者の子孫である。マリエル記者の子孫は、高祖母からの手紙をしっかりと保管していた。
『もし、貴方が、わたくしリンネル・ファン・マリエルの子孫でしたら私のことを調べるまでもなく、そしてただこの手紙だけを貴方の子に渡しなさい。』
この一行だけである。
「何を書いたの?」
「これを、私の遺書。これだけ」
マリエル記者が死ぬとき、あの日のオーケストラの音が甦ってきた。指揮者とオーケストラはその後、無料で毎日野外で演奏を続けた。ときに人が集まった。「私たちを」、そう。彼らの中にシューマンが存在するとき、彼らはひとつだったのである。最後の演奏はエルガーの交響曲第一番だった。
「私も、もう年なので」
と演奏前に指揮者はマリエル記者に語った。
「私の役割は終えました。そしてアキの役割も終えなくてはいけません」
翌日の新聞に大きく載った。
「この一音を愛してください」
指揮者はあの日の服装で舞台に立った。当時存命だった楽団員は全員集まった。はるか海の遠くから来た人も少なくない。
拍手がなった。
「みなさん。この一音を愛してください」
彼の瞳にはその一音が映っていたことを、聴衆はわかっていた。
「それってバルビローリでしょ?」
とベルテンデス夫婦の子のアイクは訊いた。
「よく知っているわね」
「学校で習ったからね。イギリス最初の交響曲。それがエルガーの交響曲第一番って」
ときに、中心街は不気味なほど人がいなくなるときがある。雨が降っているときだ。有害なガスが混じっているため、雨が大きくふるときは人々はまず、外には出ない。
「あの日もそうでした」
と語るのはあの日に雨の中で倒れたアキを保護した名のない市民の一人、アン・ハインである。
「お互いに数奇な運命でしたね」
とアンベルクは語った。当時のルネ・アンベルクとアン・ハインが住んでいたのは直線距離で百メートルもなかった。しかし、当時二十歳のアンベルクともう中年になっていたハインに接点はなかった。後々、ハインがそろそろ死ぬかというとき、アンベルクは何も言わずに訪れた。
「誰ですか?」
とハインの孫は中年のおじさんに質問をした。
「アンベルクといえばわかります」
ハインの孫のコールはそれを祖母に伝え、ハインは何も言わずに「ここまで呼んで来て」とだけしかコールには語らなかった。
その当時、もうすでに六人の名は確定していた。大統領の死へと、そして英雄を殉教者にさせた六人は、この当時四人まで減っていた。
「ええ。奇妙な運命です」
静かにハインは頷いた。
アキが残した覚書に書いてある六人。そして彼らが何をしたのか、それも本人たちが読むまでもなくわかっていた。
「私はあのとき、窓からみた倒れている子を見てね。いつまでたってもおきようとしないからしぶしぶ私が家の中に入れたんですよ」
そう。それがアキが物理学者への道となる最初の道だった。
「あの子のずぶぬれの服をとりあえず脱がしてあまっていた部屋に寝かせてね。次の日にアキは起きたんですよ。ただ、雨は続いていたんで、彼は。」
『外に出られないの?』
「ええ。ここには傘なんてないからね」
「電話は?」
「ないよ。携帯電話を外に忘れてきたから。ほら、今は家に電話をきっちり引いている家庭もあまりないしね」
「じゃあ外に出られない?」
「そう、雨がやむまで。」
『彼は物理学の本を読んでいました。とっても楽しそうな顔をしていましたよ』
「へえ。物理学の本が家にあったんですか?」
「ええ。そのとき息子は外国に留学しに行って勉強し終わって持っていくだけじぇないものは家に置いてあったからね。」
『そうなんだ。息子さんが物理学者かー。宇宙の謎ってかっこいいね』
「でも天文観測も大変よ。研究費があればって息子はなんども言っていたからね。自慢の息子じゃないけれど、っていうけれど、あれは本当に自慢の息子じゃないの。ただ単に子供の夢を追っているだけ。でも親としたらそれでいいの」
『もしかしたら、これがアキを物理学へと行かせてメアリ公爵夫人と会うことになったんでしょうね。』
「ええそかもしれません」
メアリ公爵夫人の死の前にハインは伯爵邸へと毎日訪れていた。これをと言ってハインはメアリ公爵夫人から預かったあの、
『すばらしい、これが巨匠の最後の演奏か』
評された、
「この演奏を残したいものです」
と隣に座っていた名も知らない人に話しかけたマリエル記者はブラボーと立ち上がった。ひとり、またひとりと立ち上がった。
『あのときの熱意が聴こえますよ。』
と、メアリ公爵夫人はハインにCDを渡した。
「本当ですね」
とハインは家でひとりで呟いた。
『あとはもう、言い残すことはありません。お互いに静かに暮らしましょう。』
『ええ。もう会うことはないんでしょうね』
歴史があれば、光がある。その光はきっと多くの人を救ったのだろう。そしてその一方で、暗い影が人々の中にいつからかはいりこんだのだろう。
『どうしたの? これは!』
これが始まりだった。
『すみません』
『謝れば済む問題ではないのを貴方もわかっているでしょう!』
メアリ公爵夫人は使用人にどなった。彼女はやってはいけないことをやってしまったのである。
それからメアリ公爵夫人は友人のメク議員と親交のあるマリエル記者に手紙を書いた。
『もし、私の周りでおかしなことがあったら、陰謀だと思ってください』
賭けだった。メアリ公爵夫人の直筆の手紙は、間違いなくある影が彼女に入り込んでいたことを示している。
結局、何も無かった。解決したのはアキだった。
ルリカをこれを持ち出した。
『ひどいよね。夫人は』
とメアリは反論できなかった。
「ううん。でそんなことはいいの。」
とルリカはメアリに声を掛けた。メアリは絵画をずっと見続けていた。
『声が聴こえるわね。』
『礼拝堂が燃えています!。』
マリエル記者が叫んでいた。彼女は、個人ではなく、あくまでもジャーナリストだった。
『貴方はどうだったの? あんな喧騒の中。怖くなかったの?』
『私はジャーナリストだから。』
「だから貴方は勇敢にも離れなかったのですか?」
「ええ」
と記者からの質問に答えた。記者から質問されるのは、初めての経験だ。
「そうですね。ではなぜ貴方はいつまでも離れなかったんですか? 銃撃戦がありましたよね?。」
『アキのためなら、良かった。あるいは、私は彼が死ぬのを見なくてはならなかった』
『そうね。』
『ええ。私はそれが正しかったと思っている』
八人が集合した。
ルリカが料理を作った。さぁさ。食べよ。
『おいしいわね。』
マリエル記者が呟いた。
「ええ。貴方さえよければ、私の専属記者になりませんか?」
メク議員が述べた。
「もし、私が大統領まで上り詰めたら、私は貴方のことを重用しますよ」
「なるほど。でも、なぜ私?」
「貴方は逃げない。これまでもそうだったでしょう?」
「はい」
「それこそが私の求めているものなんですよ。そうですね。契約を結びましょう」
メク議員は書類を取り出してマリエル記者に見せた。
「もうすでに私の署名はしてあります。後は貴方が署名をしてください。
内容は、
私が死んだら、殺した人についての報道で終了。私は最後に殺されるでしょう。これが私の選んだ道です」
「署名します。」
この時点で、もうすでに取り返しが付かないことを、マリエル記者は知っていた。
『そうね。彼に逆らったら命なんてないもの』
『そうね』
最期の日を迎えて、ハインは静かに眠りについた。
ハインは葬送された。彼女は死んだ。
『ここが貴方の場所か……』
ベルデンテスは、そっと墓石の墓碑銘をなぞった。時は止まらない。彼女は永遠に風化して、終わりを迎えるころには、きっといなかったことになっているんだろう。
今となってみたら、と取材をした彼は考える。
メアリ公爵夫人の弟は奇形児だった。こんな子は出せないとばかりに地下へ幽閉していた。それはベルデンテスの取材で独房が発見された。そして男がいた跡も、それからは想像するに難しくない。ふとしたタイミングで脱獄した彼は、庭をさまよい、偶然きっとその場所にいたルルを襲ったのだろう。彼女の美しい瞳は、教養にあふれるメアリ夫人のと同じ質のものだ。しかし、彼はほとんど外に出ていない。まともに襲うことなんて出来るわけがない。アキ。君が殺したんだろう。庭の道具、のこぎりやおびを大量に使って。そしてそのことをアキは全員に手紙を送った。
『私の名前はアキ。と申します。これを今あなた方、以下の文章に出てくる全員に同じ文章を送っていることを最初に断っています。私がルルに襲っていたメアリ夫人の弟を殺したのは事実です。そして使用人のアイルさんのミスがなければ、私がこんなことをする必要はなかったのかもしれません。あの後、私は雨の中を走りました。途中、アンベルクとぶつかりました。彼は私の血まみれの顔を見て、顔色を一切変えませんでした。それからハインに助けられました。きっと雨が血を落としたのかハインはなんとも変な点は感じていませんでした。それから、この手紙はメアリ公爵夫人に近いマリエル記者にも送っています。ですが、もういいんです。
貴方も幸せでいてください。ただそれだけでいいんです』
この手紙を全員が受け取った。アキは死んだ。心の中で、アキは自分自身を殺したのだ。そしてアキを殺すことが全員にとっての望みだった。つきまとう亡霊には、本当に成仏してもらうしかないのだ。
結局、みんながアキの殺人をだまった。
粉々に砕かれたルリカはアキを見たとき、もう自分の役割は終わったと気が付いた。
『こんにちは、アキ』
「こんにちは」
とアキはそれだけを返事した。
鏡の前に、ルリカはいない。
手を伸ばす。すると、鏡の奥の英雄が、私の動きに応えて手を伸ばす。向かい合う鏡の狭間で、アキはルリカに承認した。その、全てを凍える瞳の中、ルリカは分断させたアキの役割をアキの帰還まで担っていた。そうだ。アキが帰ってきた。英雄はいつも私たちとともにいるのだ。
叫び声だ。
『我らが陛下!』
戴冠式は再び仕切られた。もはや、われわれは君主の存在すらいらないのだ。そう。彼、アキこそが、私達共同の想像体が唯一絶対的に承認できる、鏡の国の期待された英雄なのだから。
だから時は戻った。凍りついた針は、再び輝かしいときを刻むための甦るのだ。そしてその前に全ての歴史は卵へ帰ることを、彼らは全員知っていた。ルリカはアキの帰還の前へ歴史の編纂をし、アキの帰還以後に時が止まることなく刻むために、アキ。そう。君とキミ達自身が生んだものなんだよ。
いつも私はみんなの世話をしてきた。しかし、日々、自分の体は壊れていき、最後にアキにあったとき、もうルリカは役割を終えていた。
ここは礼拝堂だ。ここは砂漠だ。ここは湖だ。そしてここは食われた過去が最後に行き着いて未来のために消化されるために存在する、み国だ。
ルリカが皮膚が直視できないほどボロボロになったとき、アキに別れを告げた。
『じゃあね。後はよろしく。
僕は眠るから、跡は全て任せたよ』
ルリカは自ら甲冑へと向かった。少しして鈍い音がした。斧で頭を千切られたのだろう。
建物の形さえゆがむ。
『あら、何かしら』
ハイン。
『せっかくロックを聴いていたのに』
アンベルク。君たちが過去に食われるのは近いことだ。でも心配なんてしないでくれ。アキは君たちのために自分の存在を捨ててまで大統領を殺した。アキは過去の殺人で、望まれる殺人と、それを完全に葬ることが善だと気が付いた。そして大統領を殺すことが、望まれる殺人で、自分をも完全に葬るための、殺人者の善意に他ならないのからだ。だからアキは自らを殺すことを選択した。最大多数の幸福と、たった一人の死、つまり大統領の死のために。
別に君たちを責めるわけではない。でも、アキはすでに過去の世界の住人のままだ。それにきみ達自身、彼に対しての戴冠式は、すでにしたんだから、いわゆる別格ってやつだね。
『これは何? すごい揺れ』
ここは光だ。ここは影だ。規則、道徳、秩序、法律、政治、経済、哲学、感情、共同体、すべてに関係ない、影の世界だ。そして君たちが求めていた、アキが殺した男を葬ることが光ならば、君たち自身でアキを殺すことによって、君たちが、光を、最大のカーニバルとして殺したのだ。




