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かぞく

 二人に何が不足かを考えていた。

 そればっかり、ずうっと。

 自室から窓の外を見ると、重そうな鉛色の雲が低くたれ込めていて、すぐにでも雪がちらつきそうな天気だ。

 俺の心を表わしたような……とは言わない。それほどぐずついた気分でもないから。でも……今の俺たちには、確実に何かが不足していた。それが何かを見つけるために、ずーっと机に向き合って考え事をしている。ちょっと見には勉強しているように見えなくもないが、例えそう見えているにしても、期末テストは今日終わったばかりだ。

 結局、『二人に足りないもの』を考え続け、こうして時間がずるずると過ぎて行き、気が付けば今年もあと残り僅か。今は12月の17日。二学期の終業日がクリスマス・イヴだから、あと一週間テストの返却……自分の学力を客観的に点数で見つめる、自虐とも呼べる試練……を終えれば、とうとう今年も終わり。長いような、短いような……そんな一年ももうすぐ終わりを告げようとしている。

「足りないもの……か」

 思わず、口に出した。

 今の今まで、俺と瑠璃の間に何があって何がないのかを考え出した挙げ句、結局『何かが足りない』という禅問答のような答えしか導き出すことが出来なかった。

 それにしたって、一体何が足りないのか……自分で分からないのだから、人に聞いてみたって解決出来るはずがない……のだが、ヒントだけでも掴みたい。

 そこで無意識に携帯を取り出し、迷うことなく遠藤の家に掛けようとしたところで……指が止まった。

 あれから一ヶ月。

 遠藤は、きっちりと親父さんと話し合い、親子の絆とか、そういうものを改めて確認し合ったらしい。過去は過去、全てを認め、受け入れる。そう、決まったらしい。一時は綻びかけていた絆が元に戻って何よりだ。

 お陰で、俺は遠藤のおふくろさんから随分と気に入られてしまったらしい。遠藤が笑いながら、『お母さんがベタ褒めしてたわ。私があともう少し若かったら……なんてまんざらでもなさそうに』なんていうもんだから、本気で焦ったぞ。第一、『もう少し若かったら』なんて、具体的に何年前と言わないところが恐い。五年若かったら、とか言い出さないだろうな。親父さんに比べて随分とくだけた感じのおふくろさんだったから、俺も好印象だった。遠藤があんな事件に巻き込まれていた当時、お母さんに大分救われたのは疑いようがないな。

 母と娘っていうのは、時間が経つにつれ友達のような関係になることがしばしばらしいけど、あの二人の性格ならそれも頷ける。では父と息子はどうだろう、と考えて思い当たった。

 ……そうか。

 親父との対話、か。

 将来と、そして瑠璃を含めた上での対話だ。これからの俺の人生に関わる、真剣な話をしなけりゃならない。……俺の腹は決まっているつもりだが、果たして……親父は何と言うだろうか。

 親父に何を言われても俺の心は変わらないが、気がかりではある。出来るなら、全員に祝福される関係でありたい。……それが都合の良い望みであるとしても。

 時計は、午後10時を回っている。

 ……随分と冷え込んできたな。この分だと、本当に雪が降るかも知れない。予報によれば、今年は冷え込みが厳しいとのことだし、実際、12月に入ってから記録的な寒さを更新し続けている。まあ、様々な……農作物や来年の天候など……を考えてみれば、暖冬よりはよっぽどマシかもしれないが、それにも限度というものがある。

 エアコンの温度を弄ろうと椅子から立ち上がると、

 こんこん。

 ドアをノックする音。無論、瑠璃だ。

「寒いから、お茶でもどう?」

 ドアを開けると、瑠璃がティーセットが載っかった盆を手ににっこりと微笑んでいた。瑠璃は新潟育ちといっても寒さに強い方ではないらしく、寒くなると同時に厚着をするようになった。北国の人間ほど実は寒さに弱い、という話は本当なのだろうか。寒い所では、何処へ行っても始終暖房が効いているから、かえって寒さへの免疫がないとか……

「丁度良い、話もあったところだし」

「うん」

 盆を受け取って、テーブルに座る。ドアを閉める瑠璃をちらりと見やると、スリッパに目が行って噴き出しそうになった。何故って、パンダの顔の形をしていて、その口に脚を突っ込むデザインになってるんだぜ。こんなもの何処で見付けてきたんだか。ただし、全体がふわふわのフェイクファーで覆われているから、暖かそうではある。

 そのパンダの口からは黒のストッキングに包まれた細い脚が伸びている。ちらっと観察しただけだけど、出会った当時より随分と、ふくらはぎなり太股なりに女性らしく肉が付いた印象だ。とはいえ、瑠璃は根本的に肉の付いてない体格だから、ハタ目にはあまり変わらないのが、な。


 こぽこぽ……と紅茶がロイヤルコペンハーゲンのティーカップに注がれる音が心地よい。琥珀色がカップに満ちていくのに伴い、部屋中に良い香りが咲き誇る。瑠璃のヤツ、いつも何処で紅茶を仕入れてくるのだろう。

 瑠璃は、紅茶を入れ終わった後に、同じく盆に載っていた製菓用のブランデーを数滴、ぽたぽたとカップの中に落とした。これ位の量では香り付けにすらならないかもしれないが、気分だけは出る。夕食後だからクッキーの類は無いが、それでもささやかなお茶会には十分すぎる紅茶の質だった。

「はぁ……美味しい」

「ああ……」

 ほっ、っと一息。エアコンで温まっているはずの部屋の中に、白い息がふたつ。瑠璃は目を閉じ、紅茶を味わっていた。瑠璃もそろそろ受験勉強を始めなければならないのだろうが……何せ高遠狙いだからな……瑠璃の学力なら、学校側が入学を乞いに頭を下げに来てもおかしくない。あれは一学期の中間テストを終えた直後だったか、初めて『勉強を教えて』と俺の部屋へやって来て、瑠璃が手にしていた採点済みのテストの答案用紙を見せられた時はまあ……それこそイヤミかと思った位の点数だったぞ。

 無論、瑠璃のことだからそんな考えは毛頭無く、ただ……俺と勉強したかっただけなのは明白。それをイヤミと思ってしまう俺の心の方ほうが荒んでいたってわけだ。

 しばらく……そのままでお互い紅茶をすする。テレビも点けてないし、外も静かだから、今はエアコンがせっせと暖気を吐きだしてくれている、有り難い文明の利器の音だけが響いている。

 カップに落としていた視線を再び瑠璃に向ける。丁度目と目がバッチリ合って、どちらからともなく視線を外した。

(………………)

 かちゃ、とティーカップとソーサーをテーブルに置き、立ち上がる。瑠璃の視線が俺の動きを追尾しているが、構わず瑠璃の後ろに回り込み、そして、

「あ……」

 両手で、小さな身体を掻き抱く。

 当初は驚いた瑠璃も、すぐに落ち着いたらしい。驚きの声もすぐに部屋の静寂に溶けて行き、代わりに二人を支配するは互いの心臓の鼓動。

 時には重なり、時には交互にビートを刻むそれは、二人がこうして一緒にいることの証しだ。

 とく、とく、とく。

 人間の身体から産まれる動作などからすれば微動に他ならないのだが、こうしてじっとしていると、思いの外大きな動きであることが分かる。

 どくどくどくどく。

 あまりに同じ姿勢でいるからか、瑠璃の鼓動が早く、大きくなっている。この抱擁が、今までと意味合いが違うってのを悟っているのか。

 もぞ、と瑠璃が身体を動かした。何だ、と思って少しだけ戒めを解くと、それは正面に向き直る為だったらしい。改めて、真っ正面どうしで抱擁を交わす。瑠璃のごく控えめな胸が密着してきて、その存在がイヤでも艶めかしく感じられる。

「お兄……ちゃん」

 あまりに身体を密着させすぎて息苦しくなったのか、瑠璃が呟いた。

「どうした?」

「……」

 問うてみても、上目遣いで俺を見つめ、頬を染めるているだけで返事をしない。何だ?と思っていると……

 ……ああ、そうか。

 気付いた俺は、瑠璃の後頭部に手をやり、引き寄せ、小さく、そして八重桜のように慎ましやかに色づく唇に、自分の唇を重ねた。

「ん……」

 これで何度目のキスだろうか。瑠璃も最近は随分と馴れてきて、自らおねだりをする様にすらなってきている。が、それ以上はまだ何も無し。焦る理由なんて何処にもないし、瑠璃もその事が分かっているからこそ、素直にキスだけで満足しているんだろう。

「ぷ、は……」

 そのクセ、唇を離すと、決まって物足りなさそうな顔を無意識にでもするもんだから、こちらが押さえるのに困ってしまう。

 だけど、それ以上をねだることもないから、俺の方が身を離して自重すれば良いだけだ。……さまざまな欲望をはね除けつつ。

「瑠璃……」

「何ぁに?」

 頬をピンク色に染めて、潤んだ瞳で俺を見上げる瑠璃は、例えようもないくらいに美しい。描いても、言葉で表わしても、そのどれもが瑠璃の美しさを表現するには不足する。ただ、俺の胸の中にある少女こそが、本質としての美しさだ。

「瑠璃……この前、親父が年末を家で過ごすって話は聞いたよな」

 聞いたよな、も何も、親父からの帰宅の電話を取ったのは瑠璃だ。わざわざ俺が不在の間を狙って掛けてくるんだものな……そもそも、携帯に掛けろって話だ。俺と直接話すのは照れくさいのか?

「うん。確か一週間、28日から三が日までだって言ってたよね。おせちでも作っちゃおうかな」

「その時……」

「ん?」

「その時、俺たちのことを話そう」

「……」

「これこれこうして、俺たちは付き合うことになりました、って」

「……そうだよね。きちんと言わないと、フェアじゃないような気がする」

 実質二人暮らしをしているのだから、望めばそれこそ何だって出来てしまう。だから、将来を見据えて付き合っているという軛を掛けてやった方が良いと考えている。もちろん、俺と瑠璃が無茶な方向に進むとも考えづらいが、……まあ、心構えというか、自分への戒めみたいなもんだな。

「分かってくれるか」

「もちろん」

 これだけ意図が通じ合っていると、まるでお互いがテレパスになったような気さえする。この世には何の不安もない、だって、隣りに瑠璃が居てくれるのだから、という自信が身体の中に満ちていた。

 身体を離しぎわ、

 ちゅ

 と、頬に不意打ちでキスをされた。驚いて瑠璃を見ると、やはりかなり背伸びをした行為だったのか、俺の顔を見ることなく、盆を持って風のように部屋から出て行ってしまった。

 ……はは、今度は瑠璃の方からキスされてしまった。幾ら頬にとはいえ、キス一つで恥ずかしがっていた姿からはとても想像できない。もっとも、これが瑠璃の積極的なおねだりの限界のような気もするし、実際そうあって欲しい。あんまり積極的になってもらうと、恥じらいをるびしむことも出来ないからな。

 時計を見ると、既に12時を回ること5分。いつの間に時間が経っていたのだろうか。瑠璃と触れ合っているのは楽しいが、その分だけ時間の経過も速く感じるようだ。

 ……さて、親父になんと話を切り出したらいいか……と自分なりに熟考し、眠りに落ちる寸前に、小細工の大嫌いな親父には自分の素直な気持ちを真正面からぶつけていくのが最も効果的だろう、というシンプルな結論に達した。

 いよいよ睡眠の姿勢に入る前に時計を見ると……時刻は12時10分。

 ……元より心の決まっている俺にとって、熟考する時間なんて所詮その程度だ。その時、俺はかなり楽観視していた。何故なら、今までも……というより、夏休みの新潟小旅行で僅かな時間を共にしただけだが、俺と瑠璃を見る親父の瞳は、俺が予想していたより温かいものだったから。だから、必ず想いは通じる、そう疑いもせずに床に着いたのだった。

 それからまたしばらく経って……

 終業式のあと、親しい者同士で集まり、クリスマスパーティを開くこととなった。会場は、もちろん俺の家。他によい場所が幾らでもありそうな気がするが、たまには大人数で騒ぐのも悪くない。……騒音で近所に迷惑が掛からなければな。

 実を言うと、段々と年末が近づいてくるにつれ、心がどんどん焦り始めて来ている。……そう、親父への報告だ。どんな言葉を掛けられるのか一応想像は出来ていても、実際に接してみるまでは何も分からない。

 そんなことを考えながら、親しい者同士で騒いでいる合間を見計らって、コーラの入ったグラスを手に窓際でたたずんでいると、

「どうしたの、暗い顔しちゃって」

 遠藤が話しかけてきた。

「いや……ちょっと考え事をね」

「そうなんだ。珍しいね……って言ったら失礼かな」

「別に。自分で振り返ってみても、『脳天気』って言われる心当たりは幾らでもあるしな」

 くす、と笑う遠藤。

 確かに、家のことの不安は無くなっているようだ。でなければ、こんな晴れ晴れとした笑顔を浮かべるわけはない。例えどれだけ上手い人間の作り笑いでも、どことなくニセモノの匂いは嗅ぎ取ることが出来る。憑きものが落ちたかのように、と例えてもおかしくはないだろうな。何しろ、長い間遠藤を縛り付けていた呪縛霊のようなものなのだから。

「どう?その後の瑠璃ちゃんとの生活は」

「……もう少し『生活』という括りを狭めてはくれまいか」

「やだ、なに想像してるの?もう、矢島くんったら……」

「じゃあどういう意味なんだよ」

「そうね、あえて絞るとしたら……夜の生活はどう?ってこと」

「……どうボケていいのか分からん」

 酔っているのかと首を捻ってみるが、アルコールが供された覚えはない。誰かが極秘で持ってきたのか?……いや、こんなシモネタさえ飛ばせるまでに明るくなった、と細かいことは考えずに喜ぶべきだろうか。瑠璃の姿を探してみると、駒田や万永らに囲まれてちやほやされている。……見ようによっては玩具るびにされているようにも見えるな……瑠璃はあの容姿にあの性格だから、男女問わず人を惹きつけて止まない。

「それはさておき、広義ではどうなの?」

「どうにも……まあ、普通に仲睦まじい兄妹やってますよ」

「それはそれは……で、どの程度の意味での普通なの?」

「お前もこだわるなぁ……それについてはノーコメントで」

「では、キスはしてるという事で」

「それもノーコメントだ」

 そこでふと気がついた。遠藤は俺に告白までしてくれた子で、あまつさえ俺はそれを振ったのに……こうして楽しく馬鹿話をしている。男女間には友情なんて存在しないと思ったけど、意外とこういう形の事を言うんじゃないだろうか。

「亮」

「おお、龍志」

 龍志が、駒田達との会話を終えてやって来た。頬がほんのり桜色に染まっていて、艶めかしいことこの上ない……男なのに。元々、女の子と見紛う位に白く美しい肌だから、余計に目立つ。

 ……龍志も同じようなことが言えそうだ。本来、俺は龍志から瑠璃を奪ってしまったのだから。いや、奪ってしまったという表現がおかしいなら、裏切ったとでも言えばいいのか……とにかく、不義理を犯してしまったことは間違いのに、それでも龍志は俺を許してくれている。有り難いことこの上ない。

「あら?榊原くん、やけに血色が良いじゃない」

「うん?そうでもないよ」

 ……今のは、性格に言葉にするなら『そうれもないよ』だな。呂律が回ってないぞ……

「そういえば、さっき誰かが注いでくれたコーラを飲んだら、やけに良い香りがするなと思ったけど、気にしないで飲んじゃった」

「『気にならなかった』んじゃなくて、あくまで『気にしなかった』んだろ?確信犯め……そもそもそんなものを持ってきたのは誰なんだ……」

「どうでもいいでしょ、そんな事。それより、何話してたの?」

「……矢島くんが、瑠璃ちゃんと上手くやっていってるかどうか、よ」

「ふふ、やっぱりね」

 予想が当って嬉しかったのか何なのか……とにかく、遠藤と顔を見合わせてから微笑む龍志。

「……ちょっと待てよ?お前等、お互いが……俺と瑠璃のこと、知ってるのか?」

「まあ……ね。何となく感づいちゃうものなのよ、これが」

「僕は瑠璃ちゃんが好き、遠藤さんは亮が好き。で、同時にフラれたら……ね?」

 うーむ、確かにそうかも知れない。なにか通じるものが……にわかには信じ難いけど。

「まあいいや、実はその事で悩んでるんだけど……相談しても良いのか迷ってて、さ」

 受け取りようによっては、二人が付き合っていることを自慢しているようにも受け取られかねないから迷ったが、こいつ等が根に持つ性格でないのも重々承知している。

「いやあね、今更何言ってるの。こうなったら、とことんまで応援するわ、私たち」

「そうそう。そうじゃなければ、僕らが踏み台にされた意味がなくなっちゃうもん」

 うん……そうだな。本当に今更だ。

「じゃあ、率直に言う。年末に親父が帰ってくるから、そこで思いっきり……その……なんだ……」

「二人が付き合っている事実を報告する、と」

「そ、そうそう……それだ」

「矢島くん、私たちに言い淀んでるようじゃ先が思いやられるよ?」

 ごもっともな意見だ。どうしても憚られる。そりゃ、世間体的にはタブーかも知れないが、その前に俺等は他人だ。他人と言うと冷たい響きだが、要するに法的に障害はない。……いや、兄妹という倫理の方が先に来るのか?

「だからこうして悩んでるんじゃないか……」

「……悩むようなことなの?」

「え?」

「だって、二人で将来を誓い合ったんでしょう?お互い、惹かれあったんでしょう?」

 そう言われて、初めて自分の気持ちのスキに思い当たった。

 ……俺は、瑠璃のどの辺りに惚れているのだろうか。確かに、瑠璃を守ると誓った。愛すると誓った。でも、それと『好き』は微妙に違うのではないか。

「亮……どうしたの?」

「ふぁえ?い、いや……何でもない」

「……変なの」

 龍志と遠藤は、俺が『瑠璃を好き』な事に何の疑いも抱いていない。当たり前だな、『諦めてください』と言ってしまったのだから。その言葉には、瑠璃を好きという強烈な観念を持っていることが前提だ。

 急に寒気がしてきた。いざ二人に、『瑠璃の何処が好きか』と聞かれたらどう返答するつもりなんだ、俺は。

「そうだよな、何を迷ってるんだ。ダメだな、俺は。簡単簡単、親父に向かって思いの丈をブチ撒ければいいだけだよなそうだよなうははははははは……は」

 ……二人の視線が痛い。明らかに不審がられているが、それがよもや……瑠璃への気持ちに迷いが生じた……いや、気持ちの理由に迷いが生じたと言った方が正しいだろう……とは思いもよらないはずだ。

「それよりもほら、もっと食え食え」

 誤魔化してしまうに限ると、テーブルに駆け寄ってとっくに冷めたピザを皿に取ってやるが……二人とも首を振って受け取らない。

 俺の突拍子もない行動を不審な目つきで見ていても、もはやこの問題は自分たちの手を離れていると受け取っているのか……龍志は再び駒田達の元へと去り、遠藤は……血色の良い友人等にマスコット扱いされている瑠璃を救うべく、歩み寄る。

 ……ふう。

 俺はと言えば、このひとときが急場凌ぎにしかならないのを承知していながらも、安堵に胸を撫で下ろして壁に背をもたれる。

 瑠璃を見ると、ちょうど彼女に群がる酔客を遠藤が蹴散らしているところだった。うむ、姉役として非常に頼もしい。でも、今瑠璃を独占したいのは俺だった。瑠璃とずーっと一緒の時間を過ごして、一緒の空気を吸って、一緒の事を見て感じて、その答えを見付けたい。

 ……はあ。

 親父に言わなきゃいけない。でも、確実に聞かれるだろうな。あの親父相手に誤魔化しが通用するはずが無し。かといって、焦っても答えが見つかりそうもない。どうすりゃいいんだ。

 宴の後。

 後片付け……といっても、俺の親友達は、自分たちで散らかした分はきっちり綺麗にしていく、出来た人間ばかりだから作業は少ない……をしながら、同じようにテーブルを台ふきんで拭いている瑠璃を盗み見る。

 今日の髪型は、トレードマークであるいつものツインテールではなく、頭の後ろで長い髪を一纏めにして、背中に垂らしてある。その髪を纏めているものと言えば……

 京染めの、修学旅行の御土産に送った、あの真紅のリボンだ。それを蝶々結びで結わえてある様は、本当に赤い蝶々が羽を休めているかのようだ。

「それ……まだ使ってくれてるんだな」

「ん?このリボンのこと?ふふ、当たり前じゃない。お兄ちゃんが私のために買ってきてくれたものだもん。リボンをしない髪型の時でも、いつも持ち歩いてるよ」

 にこ、っとキメてくれる。

 その笑顔を見たときの、心の中の騒ぎっぷりといったらどう形容しても舌足らずになるが、要するに『どうしようもなく好き』って気持ちが溢れかえりそうになった。

 ……そうか。

 これ、なんだな。

 理由なんてどうでも良いのかも知れない。

 只、今、俺は瑠璃を愛している。好きだ。その感情自体にこれっぽちもの偽りはない。そして、人を好きになるのなんて、理屈では説明出来ないし説明する必要もない。ただ、その一途な気持ちがあれば。

「きゃ……」

 瑠璃の短い悲鳴。

 急に俺が抱き締めたからだ。手から台ふきんを落とし、しばらく虚を突かれていた格好の瑠璃だが、その後……そっと俺の背に手を回し、抱き締め合う。

 あー……やっぱり、暖かい。生きてるんだな、俺たち。

「お兄ちゃん?」

 抱き締め合ったまま何もしない俺を不審がり、小さく呼んだ。つまり、ここからいつものようにキスのお勉強へと移行しないのを不思議がっているのだが、何故だか……今日だけはそんな気にならなかった。

「何でもない。ささ、早く片付けてゆっくりしようぜ」

「うん……」

 訝しがりながらも、俺から身を離して、再び黙々と後片付けをするあたりが瑠璃らしい。

 甲斐甲斐しく働く姿を見ながら、俺は……自分の中の些細な疑問に終止符を打つ。……そう、『何故人を好きになるか?』、『何故瑠璃が好きなのか?』、それは些細な問題だ。俺の気持ちなど、最早どんなことでも揺るぎはしないのだ。……多分。

 そして、また恙なく日は流れて……12月の28日。大掃除も昨日までに終えてしまい、ぴかぴかになったリビングの床を見ながら、ああー、これであと365日は大掃除しなくていいやー、などとズボラな事を考えながらソファに寝転がる。

 言うまでもなく、今日は親父がやってくる日。家主なのに殆ど家に寄りつかないから、親父はほぼ来客扱いだ。その証拠に、瑠璃と俺でこさえている豪華な夕食の数々といったら……筆舌に尽くしがたい。

 瑠璃が主に担当しているのは……自家製タンドリーチキン、か。俺はそれに合わせる訳じゃないがジャンバラヤなぞを。某ファミリーレストランで食べた奴が大層気に入ってしまって、耳コピならぬ舌コピでほぼ自分のものにしてしまった。俺の舌もまんざらじゃない。

 前の日にやった大掃除の疲れからか、目が覚めたのは昼も近い時間。俺という人間は、只でさえ寝起きが悪いという難儀な身体の構造をしているというのに、完全に頭まで目覚めたのは、おやつの時間に差し掛かろうという頃だった。それから……7時前には到着するという親父の事前連絡もあって、急いで二人でスーパーに買い出しに行って……ようやく今、ごちそうを仕込み終えた所だった。時刻は……6時5分過ぎ。あと、1時間か。焦って準備をしたわりには余裕があったな。料理が出来る二人が二人ともキッチンに入ると、かえって効率が低下しそうなものだけど、俺たちに限っては完全に分業していたから、なんちゃらの法則も成り立たなかったらしい。

「お兄ちゃん、私の方も大体出来上がったよ」

 瑠璃がエプロンで手を拭き拭き、キッチンから顔を出す。黒いタートルネックのセーターの上から着ているのは、『新婚奥様御用達ふりふりフリル付きエプロン』とでも言うべき、いかにも可愛らしいものだ。……お、俺の趣味じゃないぞ。いつの間にかウチにあって、いつの間にか瑠璃が愛用するようになってたんだ。……ひょっとして瑠璃、お前が自分で買ってきたのか?

「そうか……あとは時間を見計らって焼くだけ、か。ふああああ、あ……」

 学校があればあったで身体がその様に合わせたリズムを刻むが、いざ今日から休みと言われると、今度はお休みモード……つまり、『昼間で惰眠貪りのグータラモード』に切り替わってしまうのは何故だろう。たった一日前までは、この時間に眠くなる事など有り得ないのに。

「大っきなあくび。今日はお昼まで寝てたっていうのに。夜、眠れなかったの?」

「まあ……な」

 正直、親父がどんな反応を示すか気が気でない。まず、どのタイミングでいえばいいか分からないし、そして……やはり、親父の反応がもっとも気になる。そして、それを気に掛けすぎ、明け方まで眠れずに睡眠不足……いや、厳密に言えば、睡眠時間自体は減ってないな、起床が昼だったから……だ。

 自分の気持ちを真っ正面からぶつけようとは思ったが、では、気持ちを載せる言葉はどうすればいいか、などと俺の頭ではとても纏めきれないことを考え出してしまったのが始りらしい。

「お茶でも飲む?」

「そうだな……でも、メシ前だから粗茶でいいや」

「はーい」

 粗茶と言えば、珈琲でもなく紅茶でも無く緑茶だ。瑠璃もきちんとわきまえているらしく、急須やら湯飲みやらを引っ張り出してきて、いそいそと茶を淹れる。その手慣れた姿も、最早堂に入ったものだ。

「?どうしたの?」

 あまりに瑠璃の手際を見つめ続けていたためか、手を休めて聞いてきた。

「いや、何でもない。ただ……綺麗な指しているな、と思ってさ」

 瑠璃の綺麗な指は、とても家事をやっている人間のものとは思えない。細くて、節張ってなくて、無論あかぎれの一つも認められない。

「そりゃあ……ちゃんとお手入れしてるもの。クリーム塗ったり、ね」

 ……当たり前だよな、女の子なんだもの。まんざらでもない顔つきで、自分の手と手をもじもじと擦り合わせる瑠璃。そんな仕草をされたら、思い切り抱き締めたくなってしまうじゃないか。親父がいつやってくるか分からないから、いちゃつくのは極力我慢、我慢。

「でも……お手入れする一番の理由、何だと思う?」

「やっぱり……女の子だしな」

 当たり前のことを言ったつもりだが、瑠璃にはあまりお気に召さなかったようだ。少しだけ唇を尖らせ、暗に責める様な目つきに。……ちょっと、恐い。

「それももちろんあるけど……誰かと手を繋いだときに、がさがさだったら誰かさんが嫌かな〜って、思ったんだけどな」

 頬を赤らめて言う。正面切って言わないトコロがまた、何とも言えない。いや、言えるな、最高だと。

「あ、……そ、そっか」

 ……俺って、女心がまるで分かってないらしいな。これから先が思いやられる。お詫びのつもりで、その綺麗で白く、細い手を取った。

「あ」

 虚を突かれたのか、短い声を上げながらも次の行動を期待しているといった視線だ。俺はと言えば、勢いで腕を取ったはいいが、どうしたものかと悩み……最も滑らかそうな手の甲を、すりすり頬ずりしてやった。……何やってるんだ、俺。

 でも、瑠璃には意外とウケが良かったようで……恥ずかしそうにしながらも、手入れをしていた甲斐があったと満足の表情。場当たり的な行動にしてはOKかな。

「お兄ちゃん」

 うっとりとした、夢心地のるびのまま、俺を呼ぶ。

「何だ?」

 ……答えない。或いは、最初から俺への呼びかけではなかったのかも。ただ、俺がそこに居ると言う、至極当たり前な事実を確認したかっただけなのかも。

 ……

 ……

 どのくらいそうしていただろうか……二人が我に返り、お茶を飲んで文字通り茶を濁したが、随分と冷めていたから、結構な時間が経っていたんだろう……突然、玄関のチャイムが鳴った。

 こっちが玄関まで出迎える前に、親父が上がり込んでいた。……というのもおかしいか、親父は仮にもここの家主で世帯主なのだから。

「親父……」

「おう、元気そうだな。夏以来だから、ほぼ4ヶ月ぶりか。出来たら、最初に瑠璃の顔が見たかったものだがな」

「可愛い息子の方はどうでもいいってのかよ、全く酷い親だな」

「ははは、まあそう言うな。ほぼワシが育てた訳じゃないから、その発言もそんなに堪えないけどな」

 ……開き直ったか。俺も本気で相手にしようとは思ってない。、あっさりと受け流すと、上がり框に随分と荷物が置いてあるのに今更ながら気がついた。

「どうやって持ってきたんだ、それ」

「ま、ま……そこはタクシーの一つでも借りきってだな。成田からずーっと」

 流石は俺の親父様。やることがハッキリスッキリ潔い。

「ま、いいや。それならそれで、早く瑠璃に顔を見せてやれよ。『知らないオジサンが来た〜』って通報されなきゃ良いけどな」

「質の悪い冗談を……ま、まさか瑠璃に限ってそんなことはないだろう」

 親父のヤツ、顔は平静を装ってるけど、頬が引きつってるぞ。可能性が皆無とは考えてなかったんだな。親父は、クリスマスプレゼントと思しき荷物を抱えてリビングに消えていった。やれやれ、何処まで行っても忙しい人だな。

 肩を竦めてキッチンへ。料理の仕上げだ。瑠璃と親父がどんな顔をして話をするか、ちょっと興味があるが……それ以前に、瑠璃の態度でばればれになってしまわないかが不安でもある。あいつは隠し事が一切出来ない様に教育された人間だからな。

 タンドリーチキンをレンジに放り込み、材料だけ仕込んであったジャンバラヤを仕上げてしまう。ちゃっちゃと盛りつけて……うーん、見事なご馳走の出来上がりだ。彩りに赤いパプリカの細切りを載せたサラダを盛りつけて、一丁上がり。ジャンバラヤが仕上がる頃には、タンドリーチキンも良い具合に焼けている。

「瑠璃〜ぃ、運ぶの手伝ってくれないか」

 リビングに声を掛けると、

「はーい」

 瑠璃が飛ぶようにやって来て、盆に料理の数々を乗っける。

「……どうした?……まあ、親父と話すことも少ないだろうけど」

「ううん……話したいことはいっぱいあるけど、どうしても気になっちゃって」

 やっぱり。正直者の瑠璃には、隠し通すことなど不可能だ。きちんと親父に相談する気になって良かった。そうでなければ、親父の滞在中、瑠璃の胃に穴を開けてしまうところだった。

「折角だから、食事の時くらい楽しもう。話をするのは、それからだ」

「……はい」

 真摯な瞳で頷く。そう、その信念があれば、二人の心は必ず通じる。ここまで来たんだ、なるようになれ――何処かやけっぱちな気持ちでさえいる俺だった。

 それから……『食事の時くらい楽しもう』というアドバイスが効いたのかどうか分からないが、取りあえず、第三者の目から見る限りでは、親父と瑠璃の会話に特別ぎこちない箇所は見えない。多少不自然なところもあるが、それは二人の関係、そして共に過ごした時間から言って、同情の余地はある。少なくとも、親父は煙たがられない程度に会話して、頃合いを見計らってはこちらに話を振ってくる。そのタイミングが絶妙で、ガラにもなく尊敬したくなった。

 それにしても、親父の持ってきたプレゼントといったら……瑠璃の年齢をわきまえていないようなものばかり。というのも、下は幼稚園児が喜びそうなオモチャやぬいぐるみから、上は妙に大人びた洋服、果ては大人びた下着まで。親父、そんなものを渡したら殆どセクハラだぞ……自分の願望と欲望で選んできたんじゃないのか?というよりも、瑠璃の好みが分からないから、幅広く手当たり次第にプレゼントを選んできたんだな。それでも、黒いレースの下着まで手を出すのはどうかと思うが。案の定、瑠璃が真っ赤になって受け取りづらそうにしている。

 瑠璃はといえば、普通に親子に見えるくらいには打ち解けている。普通に……というのが世間一般でどの程度のものなのか、想像したくても出来ないのが何とももどかしいが。要するに、終始笑顔で食事をしながら会話を楽しんでいる。……最近の日本の食卓はで、年頃の娘と父親との会話さえも稀だというから、アメリカドラマの和気藹々とした食卓を何となく思い浮かべてみる。そこには、『いかにもアメリカ人好みの』という注釈は付くが、寒々しい空気が流れる場面はほぼ見あたらない。

 ……一応料理の味は覚えていたから、俺もそれ程緊張はしていなかった、ということになるのか。

 デザートをこしらえ忘れるという失態を除けば。

 食後、お茶を飲み終えて寛いでいる親父を前に、テーブルを挟んで正座し、瑠璃に目配せをして隣りに招き寄せる。

 堅苦しい動作に、親父の不審そうな眼差しが注がれる。

「親父……聞いて欲しいことがあるんだ」

 正直にいえば、そう淀みなく言えただけでも自分を褒めてやりたいくらいだ。心臓はばくばく、隣で俯いている瑠璃も同じ心境だったろう。

 俺たちの様子が尋常でないのを見て取った親父は、眉根を寄せながら、

「何だ」

 とだけ、短く言う。その言葉も、俺達を批難しているようにさえ聞こえた。

「あ……う」

 言葉が出てこない。言いたいことは頭の中で纏まっている筈なのに、まるで催眠術に掛かったかのように、喉から声が出て行かない。

「何だ、お前らしくない。そんなに言いづらい事なのか?……ってことは、あんまり良くない知らせのようだな。ひょっとして、瑠璃に手を付けちまったか?」

 びくっ。

 身体が以上に反応し、誇張では無く飛び上がった。これから真摯に言おうとしていることを、先に冗談で茶化されてしまったから、余計に頭の中がパニック状態に陥る。

「……まさか、お前」

 正式に言えば手を付けてはいないが、精神的にはほぼそうなる。言い逃れは出来ない。腹を決めることにした。いや、かえって好機と言える。

「そこまで(るび)は行ってないけど、近い。ハッキリ言うと……」

 瑠璃を見る。小さく頷いたのを見計らってから大きく息を吸い込み、

「俺たち、付き合う事にした。もちろん、男と女として」

 そこまで、一気に、早口言葉のように告白した。自分としては正確に日本語を喋ったつもりだが、自信はない。親父は……唖然としている。無理もないか。だが、ここで自分の言いたいこと全て言っておかないと、後で必ず口ごもるような気がする。勢いで突き抜けたい。

「真剣だ。俺たちの関係が兄妹ということは分かってるけど、それを十分承知した上でこうして二人で結論を出したんだ。俺は瑠璃を愛している。瑠璃だって勿論そうだ。俺は、この世に残った瑠璃という存在を」

「それだけで!」

 空気が、凍り付いた。

「それだけで、想いだけでどうにかなると思ってるのか」

 親父は、冷たく、無表情でそれだけ、言った。

「お前等は戸籍上でも兄妹で、ましてや瑠璃はワシの友人の形見だ」

 ごくり。

 生唾を飲み込む。

 冷や汗が流れる。

 こんなにも、親父に威圧感を感じたことはない。

 親父は、じいちゃんに武道を習わなかったし、また、じいちゃんも親父にこらえ性が無いことを十分に見抜いていたから教えようともしなかったらしい。だから、腕力では俺の方がずっと強いだろう。

 ……だけど。

 今の親父からは、腕力的な強さとは全く別次元の威圧感があった。俺が今まで接してきて、そして見てきたどの姿よりも。言い換えるなら、

『今までで一番父親らしい、尊厳を持った姿』

 だ。

「そんな大事な娘を、お前などという不肖の輩に託せるものか。オマケに、お前等二人は兄妹だぞ。仮にも自分の子供が、苦労すると分かっている道に進もうとするなら、それを止めるのも親ってもんだ」

 ……甘かった。

 自分の考えを貫き通して、それをきちんと訴えればどうにかなると思っていたが、相手は父であり、大人なのだ。子供の理屈なんて聞く耳持たないし、通用しない。

「お前達は、年頃の二人が同じ屋根の下で暮らしているという状況に恋してるだけだ。頭を冷やせ」

 親父はそう言って立ち上がり、声を掛けるヒマもなく廊下の方へ行ってしまう。同じ家に居るのだから追いすがるのもおかしく、ただ瑠璃と二人で正座しているばかりだった。

 瑠璃に何と声を掛ければいい?

 ダメでした。……じゃないな。

 これからどうする?……っていうのもおかしい。親父に反対されたからといって、俺たちの気持ちが変わるわけはないのだから。ではどうするか。

 ……親父の気持ちが動くまで、説得を続けるしかない、のか。どうにも不毛そうだが、やってみるしかあるまい。

 俺たちは祝福されたいんだ。付き合いや結婚を反対され、不幸への階段を昇っていった例は直接にという訳ではないが知っている。駆け落ちなんて出来るはずがないし、何としても……親父を説き伏せる必要があるんだ。

 瑠璃は……不安そうな、悲しそうな、そんな顔。お願いだから、そんな顔をしないでくれ。こっちまで切なくなるじゃないか。

 そんな瑠璃に微笑みかけ……しかし多分、引きつった笑顔になっていただろう……そっと手を握ると、予想以上に強い力で握り返してきたのだった。手から伝わる体温が何処までも心地よくて……親父が居なけりゃキスの一つでもしたくなる気分なのだが……俺たちの心が、前途多難さに深く沈んでいたのも間違いなかった。

 それから。

 俺は親父の冷静なツッコミにもめげずに、ひたすら説得を繰り返していた。が、親父の言っている事も全て正論。正しい理論の前には為す術がない。かといって、俺たちの主張も間違っていないとは思うが……

 俺等の理屈(主に……兄妹といっても血が繋がっていない)も、親父の主張(血は繋がっていなくとも兄妹)も平行線をたどり、もはや親父が何をしに家に帰って来たのか分からなくなって……

 正月を迎える。

 食事は摂っていたはずなのだが、親父に告白する前の夕食以降、何を食ったのかとうとう思い出せなくなってしまった。そんな事を気にできないくらいに話し合いが続いている。気がつけば、近場の神社から除夜の鐘の音。テレビも点けて無かったから、除夜の鐘が新年の合図だ。

「……年が開けちまったな」

 親父は、それまで続いていた、平行線から微動だにする気配のない議論を打ち切り、溜息混じりにそう言った。

「このまま話していても埒が明かない。ワシもちょっと考えたいから、お前達は初詣でも行ってこい。いい加減、バカ息子の顔を見つめるも飽きてきたところだ」

 何だ、その言いぐさは。こっちだって、好きで親父のツラを眺めている訳じゃない……と流石にムッと来たが、俺の方も息が詰まってきている。外の冷たい空気でも吸って、頭をスッキリさせたい。龍志や遠藤も呼んで騒ごうかとも思ったが、瑠璃と二人だけで話をしたい欲求の方が勝った。密閉された家の中だけでは、思考まで閉じてしまいそうだからな。

「行くぞ、瑠璃」

「は、はい」

 そうと決まれば話は早い。瑠璃の手を引き、リビングを出る。親父は、と横目で見ると、なにやら……難しそうな顔をして考え込んでいる。いつもは年齢よりかなり若く見える親父だが、思案に暮れている、彫りの深いシワの多くなってきた顔を見ると、一変に老けたように感じられた。……俺と瑠璃との事は、親父をそんなに老けさせるに値する程の懸念事か、親父……!

 はあ。

 神社への道すがら、思わず溜息が出た。溜息の数だけ幸せが逃げる、とは分かってはいても、ついつい口をつくコイツはどうにかならないものだろうか。しかし、

「今日は冷えるもんね。道理で、白い息がいつもより沢山出ると思った」

 隣を歩く瑠璃は、努めて明るく、歌うようにそう言うと、はーはーと息を吐いては暗闇に溶けるようにかき消される様を楽しんでいる。

 俺もそれに倣って、今度は溜息ではない息を吐き出す。

 はーっ。

 ……吐きだした瞬間、息が真っ白な霧のように広がり、闇夜へと吸い込まれていった。確かに、今日は特別冷え込みが厳しいようだ。だが、風が全くないお陰で、骨身に染みる寒さを感じる事もない。オマケに……

「??どうしたの?」

 隣には瑠璃がいてくれる。その命の温かさが、この冬一番の冷え込みを和らげてくれた。いや……むしろ、熱い。心が。

「……瑠璃」

「何ぁに?」

「お前の顔見ているとな」

「???」

「こうしたくなるんだ」

 一気に瑠璃の腕を引き、自分の腕に絡ませた。今は、こうしていたい。近くに居て欲しい。

 瑠璃はというと、しばらく呆気に取られていたが……

 ふ、と柔らかく、そして眩しそうに微笑み、腕を身体に引きつけた。……お。

「お兄ちゃん、何ニヤけてるの?」

 ……反応が速いな。慎ましく、そして円やかな膨らみを腕に感じた瞬間、一気に頬が緩んだのを見逃してくれない。……それだけ、俺の視線に敏感になってるってことなのか。

「でも、許してあげる。お兄ちゃんが『えっち』なのは分かってるし、今日は……そんな気分だから」

 そんな気分って何だよ……などとツッコミは要らない。何故って……ただ、こうして腕を組んでいるだけで、この先……何が起きてもやっていける様な気分になるのだから。それ以上の真実など必要あるだろうか。

 『何が起きてもやっていける様な気分』。それはつまり、只の気のせいなのかも知れないけど、今の俺たちにはそれ位しかすがる物がないのも、また真実なのだった。



 神社は、初詣客で賑わっている。あまり大きくはない神社だけど、お好み焼やたこ焼きなどの温かそうな食べ物の露店もちらほら出ていて、振袖の参拝客とも相まって正月気分に浸らせてくれる。

 そういえば、瑠璃は振袖を着ないのかな……と考え、問いかけようとしたところで止めた。浴衣を持ってないのに、振袖まで持ってる訳がない。只でさえ……瑠璃には母親が居ないのだ。ああいうものって、大概母親のお下がりとか、記念に買ってくれたりする物なんじゃないかな?俺は男だから、振袖の値段なんて知らないけど。

 賽銭の列に混じり、そのまましばらく渋滞。その間中、人目も憚らずに腕を組んだまま。正月気分とはいえ、俺たちも相当大胆になってきている様だ。あまり明るいところではないし、腕を組む位いいだろ。

 ようやく賽銭箱の前まで進むと、予め用意しておいた十円玉四枚と五円玉一枚を取り出す。瑠璃も同じように、ポケットからじゃらじゃらと小銭を出し……恐らく硬貨五枚だろう……始終ごるびがありますように、と賽銭箱へ投げ入れた後、合掌して願い事。

 またも横目で瑠璃を見ると、目を閉じながら願を掛けている。何を願っているのか……多分、俺と同じだろう。

 ……瑠璃と、一緒に居られますように。それしか有り得ない。


 その後、サービスで振る舞われている甘酒を二人分いただく。神社の関係者と思しきご婦人方が、カセットコンロでことこと温めている鍋から、紙コップにお玉で注いでくれる。お陰で熱々なのは良いが、あちち……材質の関係で、気をつけないと指を火傷する。瑠璃の小さな手では、紙コップの上部、甘酒が届かず熱くない箇所を持つのが難しそうだ。

 瑠璃と二人で手近なベンチに腰掛け、ふーふーしながら甘酒を啜る。実を言うと、御神酒として樽酒も振る舞われているのだが、流石にそっちをいただくのは気が引けた。

「身体が温まるねー」

「そうだな」

 温かい甘酒を飲むという物理的意味より、気分的に温まるな。そして、俺たちの何メートルか先では、盛大な焚き火が行われていて、大勢の人間が暖を取っている。ぱちぱち、と燃やされている古い木材などの炎に弾ける音が不規則なリズムを刻んでいて、参拝客の喧噪にアクセントを加えている。

「……瑠璃」

「何ぁに?」

 瑠璃は、焚き火を見続けている。しかし、俺は焚き火に赤く照らされた小さな頬を見ながら言った。

「もし許されなかったら、駆け落ちでもするか?」

 瑠璃が驚いて振り返る。冗談めかしてでもなく、さりとて真面目にでもなく言ったつもりだ。鎌をかける形になるのは心苦しいが、おどけてでも、真面目に考えてくれても、全て「冗談だよ」と返せる。そうでもしなければ……瑠璃の気持ちを知るのなんて、恐すぎるからな。

 しかし、瑠璃の答えは……

「いいよ。私、お兄ちゃんになら何処にでも付いていく。お兄ちゃん無しの私なんて考えられないもの」

 冗談とも本気とも付かない。鎌をかけられているのは、どうやら俺の方らしい。参ったな。

「……冗談だよ。俺は誰も不幸にしたくない。駆け落ちなんて……何も解決しないし」

 鎌をかけられた挙げ句、本音まで言ってしまった。瑠璃がどう答えようと、ハナから駆け落ちなんてするつもりはないのだ。

「……分かってる」

 それすら見透かされていたようで……瑠璃の気持ちを測るどころか、俺の気持ちを逆に探られてしまったというか。

 いずれにしても、俺等には親父を説得する以外にないんだ。引き下がることは出来ない。親父が家に長期滞在するなんて、次の目処はいつ付くか分からないんだから、何としてもこの三が日までに説き伏せるしかない。晴れやかな気持ちで、瑠璃と同じ学校に通いたいんだ。

 家に戻ると、親父がリビングでテレビも点けず、日本酒を手酌であおっていた。親父は少々の酒では酔わないから、転がっている徳利3本くらいでは素面と同じだ。

「親父」

 親父の正面に、視線を遮るように座る。

「……」

「話の続きだけど」

「その話はもういい」

「聞いてくれよ、俺たちの気持ちを!」

「充分聞いた。だから、もういいと言ってるんだ」

「俺の方が十分じゃないんだよ」

「頭は冷えてないようだな」

「冷えたさ、お陰で。余計に自分自身の気持ちがどれだけ強いか分かったよ」

「……」

 これからは一睡もしないつもりだ。傍らに座った瑠璃もその覚悟だろう。と言ったって、やることは今までと同じ。真摯な気持ちをぶつけるしかないのだが……

「だから親父、もう一度」

「言わなくていい。もう許してやる」

「聞いてくれってば……え?」

 ちょっと待て。今、何と言った?

「親父、今何て」

「だから、許してやると言ってるんだ」

 俺たちが初詣に行った後、どんな心境の変化があったものか……こうまであっさり心変わりをされてしまうと、逆に気味が悪い。

「……いきなりどうしたんだよ」

「そっちにしてみれば、願ったり叶ったりだろう」

「それはそうだけど……これまで、俺たちを悩ませてくれたんだ、説明くらいしてくれても良いだろう?」

 許してくれると言ってくれているのに、わざわざ聞いてしまうとは……でも、急な心変わりの訳くらい知っておきたい。親父は、散々迷った挙げ句……

 仕方がないな……とか何とか言いながら、タバコを胸ポケットから取り出した。俺と瑠璃の前で吸う、初めてのタバコだった。多分、外国産の半端じゃなくキツいタバコだろう。

「一本だけ……いいか?煙をそっちに吹かないようにするから。そうだ、お前も一本どうだ?」

 例え俺が二十歳以上だったとしても、タバコだけは吸わないと誓っている。自分は勿論、周りの人間への迷惑の方が大きいからな。

 差し出されたタバコに首を振って、その代わりにずいぶん前から買ってあったクリスタルガラスの灰皿を差し出した。いつか親父が帰ってきて、タバコを吸うときに役に立つんじゃないかと、こっそり探してきて購入した物だ。

「そうか……じゃ、失礼して……と」

 愛用のジッポーで火を付け、ゆっくりと吸い出す。どうやら、親父は深いところまで煙を入れない吸い方らしい。紫煙が天井に伸びてゆくのを見送る。特に時間稼ぎをしているようなこともないから、取りあえず一本吸い終り、それが灰と変わって灰皿に落ちてしまうまで待った。

「理由……か」

 親父は、何処か遠い目付きで、言葉を選んでいる様子だ。

「そうだな……父親としてもっともらしいことを言ってしまったが、果たしてワシはそんな資格があるのか、と考え出してしまったわけだ。子供を養うのが親、という意味ならワシは立派な親だろうが、もちろん親と言う定義はそんなに単純じゃない。様々なことを教え、相談に乗り、正しい道に導いてやる……そういうのが本当の親なんだろう。そうなると、結論は唯ひとつ。ワシはとても良い親とは呼べない」

 知らなかった。あの親父が、自分の親としての資質に疑問を持っていたなんて。俺には、堂々と父親をやっている姿しか見えていなかった。いや、親父がそう演じていたんだろう。俺は今、初めて親父が人間として悩んでいる様を見ている。瑠璃は、どうしたらいいか分からないようで、しきりに俺と親父の顔を見比べていた。

「そんな人間が一丁前に親の顔をして、恋路に口を出してもどうにもならない……むしろ、かえって盛り上がらせる要因にだってなることは、このワシが体験済みだ」

 母さんとのことだな。母さんにとってはかなり早い結婚だったから、色々と反対も大きかったんだろう。そして、反対が大きければ大きいほど本人達は燃え上がる、と。

「それに、あんまり反対して駆け落ちでもされたら困るしな、ええ?」

 ……息子の胸の内くらいお見通し、ってわけかい。そこだけ父親してどうするんだ。

「それに、お前達の本気具合も分かった。ここまで反対されて引かないとは、その覚悟があるんだな?」

「ああ」

「どんな困難があっても、二人で進んで行けるな?」

「もちろん」

「病める時も、健やかなる時も?」

「結婚式かよ……勿論答えは『はい』だけど」

「瑠璃も、それでいいな?」

「はい」

 瑠璃が力強く頷いたのを見てから、親父は大きく溜息をついて、

「……ま、色々な経験を積むのも良い勉強だろう。悪いことにしろ、良いことにしろ」

 少々不吉な事を言いやがった。親父なりの照れ隠しだろうけど。

「好きにしろ」

 最後に、短くそう言うと、立ち上がって

「風呂に入って来る」

 と、リビングを後にした。

 二人残されたリビングで、正座をしながらお互いの顔を見つめ合う。

「……何か、拍子抜けしちまったかな」

「私も」

「ま、親父の反対理由は基本的に正しい。その親父が好きにしろと言ってくれてるんだ。ここは素直に喜んでおこうか」

「……うん」

 嬉しいのかどうかは今すぐには答えられない。あまりにも急に許しが出たから。瑠璃も同じ心境のようで、呆然とした面持ちだ。だけど……取りあえずは良かった、のかな。

 その後。

 親父は、俺と瑠璃のことを打ち明ける前のように、特に何も言わず、何も聞かずに食って、騒いで、あっという間に三が日が終わろうとしていた。


 一月三日、午後。親父が帰って行く。主戦場たる遠い遠い外国へ。

 玄関先。

 親父は、やって来たときとは正反対のサッパリとした手荷物で、上がり框に腰掛けて靴紐を結んでいる。

 色々な話をしたつもりだ。こっちでの9ヶ月のこと、親父の研究のこと、もちろん、猫のさくらのことも。でも、よく考えたら……自分の将来のことは話し合ってないや。次に親父が帰ってきたときの議題だな。その事を言うと、

「お前のことなど知らん。自分の事は自分で考えろ」

 と、とても親とは思えぬお言葉。瑠璃の高遠高校進学には諸手を挙げて賛成したクセに。それはそれで親父らしい、と好意的に解釈してやることにするか。信頼されている証しでもあるし……とも受け取って良いのか。いずれにせよ、かなり親父を立てた考え方ではあるが。

 靴紐を結び終え、親父がこちらに向き直る。そして片手を俺の肩に、もう片手を瑠璃の頭に載せ、

「じゃあ、後のことはよろしくな」

 と、短く言った。

 その時の親父の表情が、産まれて初めて見るほど慈しみに満ちたものだったから、そりゃ驚いたね。

「また、近いうちに帰ってきてくれよ」

「ああ、近いうちに。瑠璃の卒業式にでも顔を出そうかなと思っている」

「そっか……。瑠璃、何か言うことはないのか?」

 さっきから、隣でしきりに何かを言いたそうにしている瑠璃。促してやって、ようやく

「有り難う、……お父、さん」

 ぎこちなく、小さく、しかし嬉しそうに、口にした。親父は、その瞬間に目を広げて大層驚いた様子だったが、目を細めて

「礼を言われるような事じゃないさ」

 とだけ、くすぐったそうに早口で言った。全く、素直じゃないんだからな。初めて本当の意味でお父さんと呼んでもらえて、天にも昇る気持ちのクセに。父親がそんなことでは、息子さんが素直に育たなくてもムリはありませんよ?……影響を受けるほど、一緒に暮らした訳じゃないけどな。

「さて、じゃあ行ってくる」

 親父が玄関のドアに手を掛けた。

「親父」

「……何だ」

 振り返らずに、俺の言葉だけを待っている。特に何を言おうとした考えていなかったが……

「また、春に会おう」

 色々様々な想いを込めて、ようやくそれだけ言うことが出来た。

「……分かった」

 親父は、小さく手を挙げて、玄関を出て行く。今ので、俺の想いが全て伝われば良かったが、自信はない。

 ドアが完全に閉まる頃になって、慌てて瑠璃と二人でサンダルを履き、外に見送りに出るが……親父の姿はもう何処にも見えなかった。……忍者か、あの人は。

 二人して道路に立ち尽くし、どちらからともなく苦笑い。

「瑠璃」

「何ぁに?」

 瑠璃の顔を見ると、いつもの、天使のような、それで居て何処か寂しげな表情は影を潜めていた。その貌が示すとおり、一応、俺たちにとってのハードルはクリアされた。

 しかし、逆に言えばこれからがスタートなんだ。これから次第で、俺たちの未来が決まる。それを自覚して、出来るだけ、出来るだけ……二人の時間を大切にして、ゆっくりでもいいから二人の仲を温めてゆきたい。

「頑張ろうな」

「……うんっ」

 力強く頷いたのを見届けてから、瑠璃の小さく白い手を握る。強く握り替えしてくる、柔らかい手から伝わる温もりが、瑠璃が傍にいてくれる何よりの証拠だった。



 まだ、沢山時間はある。

 焦らずに、ゆっくり、

 二人で歩んでゆこう。

 見えないゴールに向かって。    

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