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あおい季節に

 その日の放課後。

 俺は、悲壮な覚悟で遠藤家の前に立っていた。しかし……

(デカい家だな、おい……)

 門構えに圧倒されてしまう。『家』というよりは、『屋敷』といった表現の方がしっくり来るな。一体、遠藤の親は何を生業にしているのだろうか……

 取り合えず、こちらにはクラスメイトの見舞いという大義名分があるとはいえ、気圧されてしまう。あまつさえ、遠藤の両親、特に親父さんが厳しい人だという事を耳にしたことがあるから、尚更だ。

 ……大義名分があるとはいえ、果たしてそんな厳しい家に、のこのこ金髪男が出向いていって目通りが叶うのかどうか不安だが、とにかく行ってみて、遠藤の顔を見てみたい。今日の休みが『その理由』に因るものなのか……確かめてみなければ気が済まないんだ。

 ごくっとツバをわざとらしく嚥下し気合いを入れ……『遠藤』の表札の下にあるインターホンを押した。

 しばらく待つと……インターホンに雑音が入り、誰かが応対する気配。

「どちら様でしょうか」

 スピーカーから、穏やかな女性の声が。

「あの……俺、じゃなくて僕、葵さんの学友で矢島亮太郎と申します。今日は」

 馴れない言葉遣いに舌を噛みそうになりつつ、ようやくそこまで言ったところで

「どけ、雅るびっ!」

 インターホンの向こう側が俄に慌ただしくなり、女性の悲鳴が聞こえ、それ以来何も聞こえなくなった……と思ったのも束の間、急に閂が外される音がして、門が勢いよく開かれた。何事かとぬかりなく身構えていると、中から……

「性懲りもなく、正面から来おったか!」

 という怒号と共に、そこそこダンディな中年のオッサンが飛び出してきた。手にゴルフクラブを携えて。

「わわっ、ちょ、ちょっと、何の事だよ一体!」

 流石にゴルフクラブを振りかざされた位では動じないが、相手をロクに確認もせずにそんなものを持って出てくるとは……そうとう追い詰められているな。

「とぼけるな!散々金をふんだくっておいて、まだ足りないとか抜かすんだろう!お前等の悪どい手口などお見通しだ!」

 こめかみに青筋を浮き立たせ、早口でまくし立てるオッサンを、後ろから誰かが羽交い締めにした。

「止めてください、あなた!その人は葵の同級生ですよ!落ち着いてください!」

 その人物は、オッサンと同い年くらいのおばさんだ。ひょっとして……いや、ひょっとしなくても遠藤のご両親か?

「どうせ、どこからか噂を嗅ぎつけて、自分も一枚噛もうとしてるチンピラに過ぎん!離せ、離せぇ!」

 ゴルフクラブなどは恐くないが、それよりも、このオッサンの精神状態の壊れ方が恐いぞ。平常心を失っているのが明らかで、包丁を渡されたら何の躊躇もなくそれを手に取ってしまいそうだ。

 この屋敷は民家からやや離れたところに建っているから、ちょっとやそっと騒いだくらいでは近所の人間の耳にも入るまい。今日の所は退散しようかな、と思い直していると、

「お、お父さんっ!?」

 騒ぎを聞きつけたのか、パジャマの遠藤も顔を出した。……やっぱり、遠藤のご両親か。「あ、葵、何故出てくる!」

「何故って……いつにも増して騒がしいから……」

「この男、あの連中の仲間だろう!また金をせびりに来たんだ!だから、葵は家の中に入っていなさい!」

「この男って……矢島くん!?」

 ようやく俺を認め、素っ頓狂な声を上げる遠藤。父親の状態にも驚いたようだが、何より俺の来訪に驚いたらしい。

「お父さん、彼は私のクラスメイトよ、怪しい人物じゃないわ!」

「何を言う、こんな金髪で目つきの悪い男にロクな人間は居らん!」

 何だか知らないが、人を見かけだけで判断していいという特権意識を持っているようだ。もちろん、外見の第一印象が重要なのは百も承知だが、あまりにそれだけに囚われすぎている人間を見るのも胸糞悪い。

「別に、そう思われてるのは慣れっこだけどさ」

 落ち着き払っている俺の態度が気に入らないのか、オッサン……もとい遠藤の親父さんは益々激高した。参ったなぁ……訓練されているというのも問題だ。

「貴様っ!」

 ゴルフクラブを振り上げ、とうとう俺に襲いかかろうとした親父さん。だが、

「止めてっ、お父さんっ!」

「あ、葵……」

 何と、遠藤は両手を広げて、親父さんの前に立ちはだかったのだ。

「危ないなあ……」

「矢島くんを守るためでしょ!?感謝してよ」

 背を向けているから、遠藤がどんな顔をしているのか分からないが……ごめん、俺にとって、ゴルフクラブ振り回されるくらいどうって事ないから、恐いと思わないんだよ……

「葵、そいつから離れろ!」

「お父さん、私の話を聞いて!!」

「うるさい、お前はまたそんな男を庇うのか?お前に男など十年早い。またあの時の繰り返しになるぞ!」

「……あの時のことを言うのは止めて!……もう、あれは済んだ話じゃない……」

「何が済んだ話だ!そのお陰で、私がどれだけ苦労していると思ってるんだ!」

 なんだなんだ、今度は俺をほっといて、親子喧嘩が始まっちまったぞ。

「お父さんは私と自分の名誉を守る事とどちらが大切なの?」

「そ、そんなの決まってるだろう」

「そうよね、決まってるわよね、名誉の方が大切よね」

「な……」

 名誉、ねぇ。何の事か詳細は未だに掴めないが、遠藤のこの家の大きさから言って、親父さんは結構な身分の人間らしい。それにしても気になるのは、『あの時の繰り返し』だな。

「確かにあの時、私はお父さんに散々迷惑を掛けたと思う。だけど……」

 そこでいったん言葉が途切れたのだが、何かを振り絞るようにして続ける。

「お父さんは、私の事を考えてくれていた?私には、お父さんの行動がどうしても自分の保全しか考えてないように見えた!」

 ……事情が深いかな。『あの時のこと』に踏み込んだら、俺に注目が集まらなくなった程だし。

「葵、言い過ぎよ」

 おばさんが窘めるが……あの遠藤がそれだけ言うんだ。きっと、おばさんも然りとは思っているのだろうが、娘と夫の板挟みで、取りあえず両方に気を遣わなければならない、そんな役回りを演じているのだろう。 

「お母さん……」

「子を心配しない親なんて居る筈無いじゃない。お父さんだって、言い過ぎたと思ってるわ」

「雅……」

 親父さんががっくりとうなだれる。取り乱していた割には、おふくろさんには頭が上がらないのか、それとも、自分の言葉に疚しい点があったのを遠回しに指摘されたからなのか……

「矢島くん、行こう」

「お、おお……」

 遠藤に手を引っ張られ、がっくりうなだれる親父さんと、それを宥めるおふくろさんをちらちらと見つつ、早足で遠藤屋敷の前から遠ざかった。


「これ……着ろよ」

 遠藤に、着ていたスカジャンを掛けてやる。混乱で忘れていたが、彼女は晩秋の冷たい空気の中、薄手のパジャマだけという格好なのだ。

「……ありがと」

 そう礼を言う遠藤は、『喫茶館』で俺と瑠璃を責めていた時のような、氷のような能面ではなく、いつもと同じ……少しだけ余裕のある、ものの分かった利発そうな少女の顔をしている。

「……」

「……」

 しばらく、何も言うことが出来ずに二人で歩く。まさか『あの時のことって何だ』等と聞く事もできないし、どうしたものか……

 そんな『聞きたいオーラ』が身体中から滲み出ていたのを感じ取られた訳でもあるまいが、

「ほーんと、イヤになっちゃうわよね」

 と、遠藤が茶化したように口を開いた。

「あーんな口ぶりしておいて、結局は私の事なんて心配してない。お父さんにとって、私の過去はアキレス腱。所詮、私は厄介者なのよ」

 そんなことあるもんか、とも言えなかった。親父さんがそこを追求されたとき、かなり動揺していたものな……それにしても気に掛かるのは『過去』だが……それが分かれば、どちらに同情して良いかはっきりする……いや、例えどんな理由があろうが、娘を厄介者扱いして良いはずがないけど。

「それにしても」

 そろそろ太陽が水平線の向こうに消えようという時間帯だ。近くの公園のベンチに座ってみるが、日もかなり短くなっているこの季節だから、もうすぐこのあたりも夕闇に閉ざされるだろう。スカジャンを貸してやったといえど、パジャマでいる遠藤の姿はかなり寒々しい。そもそも、遠藤が何故学校を休んだのか理由を聞いていないが、身体に良くないことは間違いない。長居は出来ないかな……

「……聞かないんだね」

「……何を?」

「聞きたいクセに」

「そりゃそうだが」

「正直ねぇ」

「面と向かって聞けるわけないだろう、そんなこと……明らかに第三者が踏み込める問題じゃなさそうだし。基本的に、俺は人が話したがらない事は自分から聞かないようにしているだけだ」

 そう言うと、遠藤は……俯いたまま、しばらく黙っていたが……ふふ、ふふぶ、と笑い出す。ちょっと不気味だぞ。

「やっぱり……イイよね、矢島くんは」

 ばっ、と顔を上げた遠藤は、今までの重苦しい雰囲気がウソのように晴れやかな、満面の笑みを浮かべていた。

「……何が、だ?」

「だから、そういうところが、よ」

 ……イマイチ意味が分からない。第一、主語が無いぞ。

「だから……好きになっちゃったんだろうな……」

「……」

 好き、か。本来なら、遠藤ほどの子に好かれているのなら、天にも昇る気分になるどころか、ともすれば自分に自惚れそうになっていたかもな。自分は、こんな良い子に好かれているんだ、だから自分も捨てたもんじゃない、と。

 でも今は……

「嫌いになっちゃったでしょ?私のこと」

「……何でだ?」

「だって、瑠璃ちゃんにあんなキツい事言っちゃったし……」

「それ位で……むしろ、もっとキツく突っ込まれるかと思ってたくらいだからな」

「じゃあ、ゴルフクラブ振り回すお父さんに出会って、遠藤っていう家柄に呆れた?」

「もし呆れたとすれば、それは親父さん個人に対する問題であって、遠藤という家には全く関係がないだろう」

「……そうよね」

 一体……遠藤は何を言いたいんだ。自分のネガな部分をさらけ出して……これではまるで、俺に嫌って欲しいみたいではないか。

「じゃあさ……」

「ん?」

 今度は何を言うのかと訝しむが、何も言わずに思い詰めた顔をしていた。俺には……零れ出る言葉を必至に堪えているように見える。何故分かるかというと、口を開いたり閉じたり……一言めを発しようと思っては逡巡しているように見受けられるから。しかし……

「じゃあ、例えば、よ?」

 迷いを吹っ切り、妙に晴れやかな瞳で、そう、言う、

「17歳で不倫経験のある女の子なんて、絶対受け入れられないでしょう?」

「は……!?」

 今度は俺が絶句してしまった。あまりにも唐突な例え話だったし、その内容もどちらかといえば非現実的なものだったから。

 不倫……かぁ。女の子といっているのだから、相手は当然、妻帯者の男だろう。しかし、17歳とは……

「しかも、不倫をした当時は13歳だったっていったら、もう最悪でしょう?」

 おいおい……という合いの手と入れることすら躊躇する、へヴィ過ぎるお話。まさか、とは思うけど……

「遠藤……」

 止めさせるわけにも行かず、ただおろおろするだけの俺を尻目に、遠藤は半ばやけっぱちとも思えるほどの勢いで、

「しかもね、その子、不倫相手の子供を孕んじゃったりしてねー」

 仰天話を続けた。

「それって……」

 遠藤。

「ひょっとして」

 遠藤……

「遠藤自身の……事なのか」

 遠藤っ!

 目の前の、遠藤葵という少女は、思い詰めた瞳で俺を見つめ続け、一端目を固く閉じた後……

「そうよ」

 思わず目を逸らしてしまいたくなるような、沈痛な面持ちで頷いた。

 ……そうか。

 これで合点がいった。

 今までの遠藤の存在、例を挙げるなら、同い年であるはずの俺等よりも落ち着いて見えたり、面倒見が良かったり……その最もたるものは、気持ちの切り替えが早いところ……が形成された理由に、だ。過酷な経験をしてきたことで、必然的に『大人』な考えが身に付いてしまった、ということなんだろう。

 中でも、瑠璃と接する姿は殊の外眩しかった。

「呆れちゃったでしょう?」

「……いや」

「汚れちゃってるのよ、私」

「そんなことはない」

「元はといえば、全部私が悪いの」

「そうでもない」

 どんな過去があろうが、関係ない。今、俺が唯一つだけ胸を張って言えるのは、この遠藤葵という子は、何から何まで飛び抜けて『いい女』だ、ということだけだ。そう思ったから、お茶を濁すでもない、遠藤を気遣ってでもない、正直な気持ちで、「自己否定を続ける遠藤」を否定した。自己否定なんて、何の意味もない。するだけ時間のムダだ。

「……でよ」

「え?」

 ぼそ、っと、顔を伏したまま、遠藤が何かを言った。良く聞こえなかったから、耳を寄せようとしたが、次の瞬間、その必要は無くなった。

「何でよ!何で矢島くんはそんなにいい人なの!?そんなんじゃ、そんなんじゃ……」

 そう叫んだ遠藤の顔は、涙で濡れていた。

「私、矢島くんを諦められないじゃないっ!」

 遠藤は、そんなにやって大丈夫なのかと場違いな心配をするくらいに、激しく頭を振った。ぶんぶん、ぶんぶん。その度に、綺麗に梳いた黒髪が揺れた。

「私の方から諦められないんだから、私をきちんと嫌って欲しかった!そうすれば、今のままよりはずっと諦めが付けやすいと思ったのに!そんなに広い心で受け止められたら……もっと好きになっちゃうじゃない……っ!」

 それだけ一気に吐き出し、嗚咽を漏らす。

「そんな事……出来るわけ無いじゃないか。例えどんな過去があろうとも、俺は……」

 俺は、何だ。何を言おうとしているんだ。どんな言葉を掛けたって、今の遠藤への慰めにはならない。いや、そもそも慰めなど必要としていないのかも知れない。

「……ごめん」

「謝らないで。謝るのは……私の方だわ」

 パジャマの袖で涙を拭う遠藤。木々に囲まれている公園の中は、もう真っ暗に近い。街灯が煌々と俺たちを照らしていた。

「どうせ叶わない想いだったら、知られたくなかった。でも……仲良さそうに歩いている二人を見たら……押さえが利かなくなっちゃって」

 しゃくり上げながらも、気丈にそう言った。やはり、基本的には強い人間なんだな。

「結果的には……こうして、想いを伝えられて良かった。……でもね」

 遠藤は、ベンチに座ったまま顔を上げた。つられて空を見上げると、そこにはもう冬の空。都会といえば都会の方……少なくともド田舎ではない……なのに、星が綺麗に瞬いている。

「一つだけ……矢島くんにお願いがあるの」

「……俺に出来ることなら」

「……はっきり言って欲しい。自分には、大切な人が居る、お前とは付き合えない、って」

 そうすることで、遠藤の気が晴れるなら。遠藤の為になるのなら。……なんて、自分への体の良い言い訳だよな。

「ごめん、俺は、瑠璃を一生を掛けて守るって決めたんだ。だから……遠藤とは付き合えない、本当にごめん」

「……」

 頭を下げる。他にどんな言葉を掛ければいいか分からないし、どんな態度を取ればいいかも分からないから……

「良かった」

 意外な言葉に頭を上げると、遠藤は泣き笑いの……どちらかというと笑いが勝っている、どうにも形容しがたく、そして複雑な、でもやはり『笑顔』なのだろう……表情で、俺を見つめていた。

「これで……諦められそう……ううん、諦めてみせる。本当は、矢島くんと瑠璃ちゃんの仲に少しでも影を落としたくなかったんだけど……ね」

「いや……」

 何と声を掛けたらいいかも分からず、ただ遠藤の顔を見つめるしかなかった。しかし……「……遠藤」

「何ぁに?」

 さっきから、俺たちを監視する者がいる。それも、一人ではなく多人数だ。

「ここから出よう。嫌な予感がする」

「……うん、分かった」

 あまり良い予感とは言えないのに、遠藤はさして疑問にも思わずベンチから立ち上がった、その瞬間、周りの木々から草むらから、黒い影が突然姿を現して俺たちの前に立ち塞がる。数は……およそ10人。

「何なんだ、あんたらは」

 元よりその答えが返ってくるとは思ってもいないが、取りあえず状況を把握するだけの時間は欲しい。

「俺と遠藤、どっちが狙いだ?」

 またもや無言。だが、俺にはある確信があった。不審者に囲まれるという状況そのものに疑問を抱いていない遠藤と、そして遠藤邸の前での、彼女とご両親との間のやりとり。こいつ等は、明らかに遠藤に用があるらしい。

「それにしても、たった二人に随分と大勢を引き連れて……ご苦労だねぇ」

 これだけの人数を目の当たりにしても一切の動揺を見せない俺に、今度は不審者集団が浮き足立ち始めた。いや、正確に言うと、奴らの間に流れている空気がそうなったように感じた、というだけなのだが。

 じり、と不審者の内の一人が前進してくる。そいつは、どう見ても『マトモ』ではない。……有り体に言えば、町のチンピラるびだ。

 じり。

 じりじり。

 徐々に包囲網は狭まりつつある。俺一人でこいつ等と相対したのだったら何でもないのが、今は遠藤が一緒だ。

「遠藤」

 俺に身を寄せる遠藤に耳打ちする。幸いにも、彼女は人の話を聞く冷静さを失ってはいない。

「随分と落ち着いてるな」

「そうね……イザとなれば、私を好きにしてもらうわ。矢島くんは隙を見て逃げて」

 さらりととんでもないことを言うが……つまり、遠藤はこの状況を産み出したのは自分が関与している、といっているのだ。それだけに、無関係な俺を危険に晒す訳には行かないとも。

「そんなマネが出来るかよ。何としても二人で逃げるからな」

「ダメよ……」

「遠藤の言っていることこそダメだ。諦めるな。その代わり……事情は後で聞かせてもらうからな」

 遠藤の手を取り、立ち上がらせる。

「そこをどいてもらおうか」

 あまりに自信たっぷりな物言いに気圧されたか、不審者……もといチンピラ集団の一人が、今度は後ずさりをし始めた。だが、周りの人間がそれを許さない。しかし、包囲の輪がさっき以上に狭まることはない。

『コイツ、全然ビビらねぇ……』

『怯むな、ハッタリだ!金をもらった分の仕事はしないと、後でどうなるか分からないぞ!?』

 奴らの心境をアフレコしてみた。おおよその話は飲み込めたが、それにしても穏やかではない。しかし、こいつらはこいつらで随分と小物だな。まず誰かが襲いかかるところを見ないと、踏ん切りが付かないのだろう。

「離れるなよ」

「ちょ、ちょっと、矢島くん!」

 遠藤の手を握ったまま、ずかずかと包囲の輪を通り抜けようとした。無論、そのまま通してくれるとは思わない……もちろん、それに越したことはないが確率はゼロだろう……が、ともかく先に仕掛けて来ない事には、こっちの言い訳が利かないからな。

チンピラの内の一人、やや背は高いが痩せぼそった男の目前まで歩んでいった瞬間、

「う、うおおおおっ!」

 得体の知れない恐怖を振り払うかのように大声を上げ、そいつが掴みかかってきた!

(ほい、来ましたよ)

 実を言うと、俺は今までうずうずしていた。何故って、たかが二人にこんな人数を差し向ける何者かが許せなくて、だ。こんな身元も知れないチンピラ、少しぐらいやりすぎたって構いやしない。……本気でどうにかしてしまう気はないけどね。ここを通してもらうのに、ちょっと手荒な真似をするだけで。

「おっと」

 遠藤を抱きかかえるように庇ったまま身体を捻って、その突進をかわした瞬間!

「ぐ……ぶ」

 相手のスピードを利用した膝蹴りがカウンターで決まった。

 哀れ、男は腹を抱えて悶絶……したかと思ったら気を失った。しかし、これでチンピラ共の死んだ魚のような瞳に憎悪の炎が燃え上がった。……はっきり言って、この辺りがまだまだ俺の人生の修行不足な点でもある。突進してきたチンピラをかわすだけで良かったのに、わざわざ打撃を加えてしまい、煽ったのだから……

「て、てめえ……ぶぎゃ」

 角材を持って突っ込んできたチンピラには、容赦なく鼻っ柱に裏拳。自分でも、手の甲が痛くなるくらいに力を込めていた。

「皆さん、危ないから通してくれませんかね?」

 二人が地面にノビたところで、極めて穏やかな口調に満面の笑みで、そう問うた。これは不気味だったらしく、残りのチンピラの動きが一気に凍り付いた。

 ……ふん。力の差をようやく分かってもらえたらしい。しかし、チンピラ達の中にはナイフを持っているヤツもいればバットを持っているヤツもいる。俺は平気でも、遠藤に危害が及ぶかも知れない。逃げるなら今だ。

「遠藤、走るぞ」

「え、あ、はいっ!」

 武器を持ったのが相手でもあることだし、裏拳でノした相手が落とした角材を一応拾い、遠藤の手を引いて走り出す。その掌がじっとりと汗ばんでいた。冷静に見えた遠藤だが、かなり緊張していたらしい。

「ぐえ」

「ぎげっ」

 走り出し際、わざとらしくノビた二人を踏みつけると、カエルが潰されたときのような情けない声が漏れる。

 ある程度の距離が広がった所で、呆気に取られていたチンピラ共が我に返り、猛然と追跡を開始している。きっと、親玉から金をもらうと同時に、逃して帰ったら酷い目に遭わせると脅されているんだろう……こいつらはこいつらで、大人数だから失敗するはずがないと決め込み、引き受けてしまった、と。

 しかし、こちらは遠藤を連れている身だ。どうしたって追いつかれる。そこで俺の取った策とは……

 まず後ろを振り返りながら走り、

「待てやぁあぐぼぁっ」

 一番最初に追いついてきた、いかにも足の速そうな小柄なチンピラのみぞおちに角材を突き込む!

 これで残りは6人。

 こうやって、追いついてきた順に確実に仕留めていけば、囲まれる心配も行く手を遮られる心配もない。その代わり、仕留められなかったらかなりシビアな事になるが……そこは俺の技量るびの見せ所だ。ここに至って、チンピラ達の身体を心配してやる必要などこれっぽちもない。

 しばらく走って、再び追いついてきた二人を纏めて薙ぎ払って残りは4人。そろそろ公園の出口が見えてきたと思ったら……なんと出口には、別の人相の悪い男が立ち塞がっていた。手を大きく広げ、いかにも『ここから外へは出さん!』と言っている風だ。こいつは、大きな体格からして結構なやり手らしい。そうか、コイツが交通整理をしてくれていたから、公園内に全く人影が見えなかったんだな。お陰で、俺も心おきなくぶっ飛ばしてやれるというものだが。

「遠藤、一端返してもらうぞ、少しの間だけ」

「ふぁ、ふぁい!」

 返事を聞く前に、彼女に貸していたスカジャンを取り上げると、すぐさま男に投げつける。男はそれを反射的に振り払おうとして、結果的に大きなスキを作ってしまう。

「ふっ」

 息を吸い込んで角材を持った手を引き、

「しゅ!」

 短く息を吐き出してスカジャンごと男を貫く。狙いはこれまたみぞおち。敵も然る者で、その一撃を予想していたかのように、半身でかわす……が、その後の展開までは考えていなかったらしい。実は、その角材は『投げられた』ものだ。つまり、俺自身は全くのフリー。

「おっしゃあああああぁ!」

 思わず漏れた気合いの声と共に、半身となっている男のこめかみに、飛び膝蹴りが見事に入った。男は目を見開いたまま膝から崩れ落ちる。

 昏倒した男には気も払わずに、抜け目なくスカジャンを拾い上げてとっとと公園の外へ。

 そして、二人で手を取り合い、ひたすら住宅街の中を駆けめぐった。足音などから、追っ手の類は来ていないようだけど、それでも息の続く限り走って……巻いたと思ったところでようやく一息ついた。

 二人して膝に手をつき、しばらく息を整える。ここは……遠藤の家からはそう遠くない住宅街だ。街灯と家から漏れる明かりだけが頼りの夜の帳に、二人分の白い息がひっきりなしに漂う。

「はあ、はあ……矢島くんって、モノっ凄く強かったのね」

「別に……大したことないさ」

 流石に、乱れた息が整うのは俺の方が早いが、この逃走劇に付いてくる遠藤の持久力も中々のモノだ。思い出してみると、女子の体育の授業でも、バスケやマラソン、バレー……どれもこれもソツなくこなしていたな。……つまり俺も、女子連中から遠藤の姿だけを意識していた事になる。

「……ごめんね」

「何が」

「私の所為でこんな迷惑掛けちゃって」

「悪いのは遠藤じゃないだろ?だから謝るなって」

「でも……」

「いいから」

「……はい」

 強引に納得させると、遠藤はしおらしく頷き、それ以降黙ってしまった。……聞いてみるか。何故俺等が襲われたのか分からないままでは、遠藤の話も掴めない。第一、一緒に襲撃を受けた時点で俺も被害者同然だ。あのチンピラども、ヘタすりゃ俺の命の保証もないって勢いだったぜ。

「遠藤」

「はい?」

「……そろそろ話してもらおうか、あいつ等が何者なのか、何故遠藤を襲うのか、何故親父さんがイライラしてるのか。聞くまいと思ったけど、こういう事に巻き込まれた以上、もう当事者らしいからな」

 きっと、この事は遠藤には残酷すぎる。自分の彼女でもない人間の事に首を突っ込むのはどうかと思ったが、きっとこのままでは、親父さんも遠藤も不幸の連鎖の道をまっしぐら、だろう。

「……そうね、ここまで迷惑を掛けてしまったんだもの。それに、矢島くんにはお父さんが酷いことを言ってしまったし……」

「言いたくない事は省いて良い。但し要点だけは押えてくれ」

「ううん……自分でも結構……思い出すのも辛いんだけど、包み隠さず全部話すわ。それが私の礼儀」

「分かった」

 どんな内容でも、耳を塞がずに受け止める。それが覚悟を決めた遠藤への、こちらの礼儀だ。

「さっき……不倫したって言ったでしょ?」

「ああ」

「発端はそれ。私の父……遠藤博は、結構な……はっきり言ってしまえば、県会議員なのね。その父の知り合いで、出版社の人……仮にAさんとでもしておきましょうか……が家に来るようになって……ほら、中学生の頃って、年上に幻想を抱いたりするモノじゃない?」

「……そうかもな。当時のことを考えれば、否定はできない」

「そのAさんも妻子持ちだったんだけど、どうにも……その、ロリ趣味があったらしくてね。なんだか訳が分からない内にそういう関係になって……」

 中学生だもんな……冷静な判断が出来なくてもおかしくはない。『可愛い』だなんだ言われてしまえば、あっさりと転んでしまいそうな気はする。

「で、気がつけば妊娠しちゃってたの。これがお父さんにも、Aさんの奥さんにもバレちゃって……」

 てへ、と小さく舌を出す。おおよそ、可愛い茶化し方に似つかわしくない、重すぎる話だった。

「で、後はもうたーいへん。お父さんは周りにバレないように札束を投げるし、奥さんは家へ押しかけてくるし……」

 ……むう。相づちを打つのすら躊躇するような内容だな。

「結局、Aさんは離婚。奥さんに相当な額の慰謝料を渡すハメになって、私は子供を堕ろして……何しろ13歳だからムリがあったのかな、その時に、もう一生子供を産めない身体になっちゃったわ。だから、こんな苦しい思いをするくらいなら、もう一生人を好きにならないって決めた……それなのに」

 顔を上げ、一瞬だけ俺の顔を見てから……また伏せる。

「矢島亮太郎くんっていう、何から何まで格好良い人が現われちゃったんだよね……」

 ……もういい。しかし、耳を塞がないと決めた以上、全てを聞き届けよう。告白してくれる遠藤の方がもっと辛いんだ……

「私が出版業界を目指しているというのは、確か話したわよね?それは、Aさんへの私なりの復讐。あの人と同じ立場に……いえ、もっともっと偉くなって、仕事が出来るようになれば、自分の中でも何かが変わって、過去を振り切れるかな、と思ったんだ」

 ……そうか。

 自分の将来を自分の意志のみで決めたんではなく、それすらも過去の事件に囚われている……彼女にとって、事件がどれほど重かったのか……俺如きが推し量れる問題ではない。

「とにかく、その時はそれでほぼ決着がついた……あくまでその時は、ね。でも、今になって、その記者さんが……お父さんを強請るびり始めた」

 ……

「良いスキャンダルのネタだとでも思ったのかしらね。たかが県会議員の娘の醜聞なんて大したことじゃない筈なのに……しかも、お父さんは何が恐かったのか、結局言われるままにお金を出しちゃったの」

……

…………

「証拠なんてあるはずもないんだけれど、それでも……お父さんは何かを握っているんじゃないかと疑っちゃって……最初は要求も大した額じゃなかったけど、だんだんエスカレートしていって……あまりにしつこいんで拒否したら、今度はやくざるびたちの姿までちらつくようになって……たかが県会議員といっても、イメージは大事だものね。一応クリーンなイメージで売ってるから、そんな人たちが接触してきてもらったら困るでしょう?向こうも大っぴらに事を起こせないから、必然的に……さっきみたいなことになるわけ」

 娘が乱暴でもされれば、親父さんは怖じ気づいてしまう……か。あくまでAさん側はトボけるのだろうが、示威効果としては抜群だ。しかし……そのAというのも腐った男だな……きっと、慰謝料なりなんなりで金を使い果たし、挙げ句の果てには強請りるびまで……

「遠藤……」

 ふと遠藤を見ると、背筋が寒くなる位にカラッポの目をしていた。何も見えていない、何の精気も感じない……これは死人の目だ。このまま放っておいたら、遠藤は生きながら死んでしまう。

「親父さんに話そう、今あったことを。そして、この事を警察に相談して……」

 言って、口をつぐんだ。不倫のこと、妊娠のこと……遠藤が人に知られたい話であるわけがない。それこそ、普通なら、墓場まで持って行きたい類の過去だ。

「本当に優しいんだね、矢島くんって」

 精気のない瞳に涙がの雫が膨らんでゆく。直視できないほどに、それは眩しく……そして切ない。

「私なら大丈夫。お父さんが受け入れてくれたら……全てを話すわ」

「……そうか」

 ……遠藤は強い。だが、時として強すぎるからこそ弱みになる部分も存在する。そこまで一人でため込まなくても良いのに……もっと早くに親父さんと話せていたら……

「私はどうなってもいい。ただ、お父さんの足枷にだけはなりたくない。私が邪魔なら……親子の縁を切ってもらったっていい」

 この子はこんなにも父親思いなのに、その父親が全く娘を分かってやれていないことが、ますますやるせなさを助長していのか。

 この辺りはあまり通った経験のない場所だけに、あっちこっち迷って、更には遠藤の道案内まで受けながら、ようやく遠藤邸の前に到着するが……そこには、まだ遠藤の親父さんとおふくろさんが仁王立ちしていた。

「葵」

 親父さんは遠藤の姿を見つけるなり、さっきとは打って変わって落ち着いた声で呼ぶ。

「もう……あまり出歩かないでくれ。色々と危険だからな」

「そうね、危険ね。今も危険な目に遭ってきたばかりだわ」

「何っ!?」

「襲われたわ、得体の知れない連中に」

 やけにあっさりと言ったその内容に、親父さんは唖然とした様子だった。

「矢島くんに助けてもらったの。お父さんよりもよっぽど頼りになるわ」

「な、何を!第一、その男が手引きしたっていう可能性だって」

「あるわけないじゃない、ばかばかしい」

 吐き捨てる遠藤の手を、親父さんは強引に引っ張った。

「ばかばかしいじゃない!私がどれだけ心配したと思ってるんだ!」

「だから、お父さんが心配なのは、自分の名誉に傷が付くかどうかでしょう?」

 何だか、さっきと同じ話の堂々巡りになっているな……

「親父さん……いや、遠藤さん」

「何だっ!?」

 おっそろしい剣幕で振り返る。額に青筋まで浮かべて……そんなに興奮していると、血圧に悪いぜ。

「本当に……あんたは娘さんの事を大事に思っているのか?」

「何?そ、そんなこと……あ、当たり前だろう!」

「だとしたら何でドモるんだよ……だったらな、そろそろ……全てを受け入れて、あんたも遠藤……いや、葵さんも解放……」

「お前に何が分かるっ!」

「……」

「この地位を手に入れるのに、これまでに私がどれだけの苦労したと思っているんだ!」

「……」

「もう少しで全国に討って出られるところまで来た!それを……それをこんな事で」

「こんな事!?」

 もう我慢できない。

「こんな事、だと!?」

 これは他の家の問題だ。だが……許せない。父親思いなのに、それが叶わずに自分一人が厄介者だと思い込んでしまっている……そんな健気な子をこのまま放っておけるか!

「『こんな事』なら、何故これだけ拘るんだよ!この子はな、あんたの足枷になりたくなくて、ずっと一人で悩んでたんだぞ!負い目は全て自分にあると思い込んで、しかもそれを胸の奥にしまい込もうとした!そんな子を!自分の名誉と地位のために殺そうとしてるっていうのがどうして分からないんだ!」

「う……」

「思いだしてみろよ……娘が生まれたときは嬉しくなかったのか?それが、あんたらにとってどれだけ幸せなことだった?」

「うう……」

「その幸せをくれた娘の行く末と、墓場まで持って行けない地位と名誉……本当に大事なのはどっちなんだ?」

「……」

「葵さんはな、親父さんの為なら自分が犠牲になっていいとまで思ってる。その想いが一歩通行気味だったからイラついた……そうだよな、遠藤?」

 後ろに立ち、成り行きを見守っている遠藤を振り返ると……悲しそうに俯く。

「だから……強請られていることを公表して、楽にしてやって欲しい。警察沙汰になるだろうし、それがマスコミに知られるようなことになっても……同情は多分こっち側に集まる」

「葵は……葵はどうなる」

「大丈夫だろ。このままじゃ身の危険もあるし、何より……彼女がそれで良いと言っているんだ。大事な娘の言っていることだと思うんなら、その意見を尊重してやるんだな。あとは……遠藤」

「はい」

「後は二人で話を……できるよな?」

「……はい」

 親父さんも、実は心の底から遠藤を厄介者扱いしてる訳じゃなかったんだろう。少しでも遠藤を心配しているからこそ、こうして……悪人の言いなりになっていた、と思いたい。意外とあっさり翻意したことからも、それが伺えるだろう。

「じゃあ、俺はこれで」

 後のことは、遠藤家の人間で話し合うことだ。俺はただの先導役。こうして、親子の対話のキッカケを作れれば、それでいいんだ。

 うなだれる親父さんを支えながら屋敷の中に入っていく遠藤を見つめていると、一緒にそれを見つめていたおふくろさんが寄ってきた。

「本当に……なんとお礼を言ったらいいか」

「いや、別に……俺は何もしてないッス」

「いいえ……さっきまでは、上手く話をする展開に持って行けるとは思いもしませんでしたわ。二人に代わってお礼を申し上げます」

 うやうやしく頭を垂れるおふくろさん。俺はただ二人を焚きつけただけだから、そんなにされるとかえってバツが悪い。

「そんな……でも、上手く行くといいですね」

「行きますわ、多分……収拾を付けられなかった駄目な母親が言うのも何ですけれど」

「いえ……」

 思い出してもらいたいのだ、その手に……娘を抱いたときの感動を。幸せを。現に、こうして……思い止まってくれたじゃないか。

 それにしても……結構時間を食っちまったな。単なる見舞いだけでは済まないと思っていたが……家で待っているであろう瑠璃に、電話の一つも入れてやれないほど立て込んだのは予想外だった。メシはもう食っちまったのかな、と携帯を取り出すと、一端は家に入った遠藤が駆け足で戻ってきた。

「はあはあ、ごめんなさい、お礼を言うのを忘れちゃって……」

 そう言う遠藤の表情は、今までの思案に暮れ、暗く沈んでいたのがウソのように晴れやかだった。そうそう、お前にはそういうのが一番だぜ。

「だから、俺は何もしてないってば」

「……矢島くんがそう思うなら、それで良いわ。じゃあ、私が一方的にお礼を言いたいって事で……ね?」

「まあ、いいか……それで遠藤の気が済むのなら」

「……ありがと。本当に……でも、これで吹っ切れそうかな」

「何が……だよ」

「矢島くんに振られちゃったこと」

「なっ……」

「……本当にね、矢島くん達の邪魔をする気なんてこれっぽっちもなかったの。ただ……ちょっとイライラがつのっていた時だったから、意地悪な言葉がつい口をついて……駄目ね、私」

「……いや」

 自分ではとうに忘れたと思っていた過去をほじくり返され、しかもそれが元で家庭に不協和音……では、何もかもがイヤになるのは当然だ。俺に遠藤を責める権利など……ない。

「それにしても……良かったな、親父さんと仲直りできそうで」

 そう、言ってやると……遠藤は、じんわりと、心の底から嬉しそうな……不幸を乗り越え、本当の幸せの意味を勝ち取った者だけが見せうる最高の笑顔で、

「うん」

 と、艶やかなショートカットを揺らし、力強く頷いたのだった。

「ただいま」

 一応瑠璃に連絡を入れてから、矢島家の玄関のドアを開けると……

ぱたぱたぱた……

 と、廊下の奥から忙しそうなスリッパの音が聞こえてきて……

「お兄ちゃんっ」

「おわっ」

 どすん。

 飛び出してきたエプロン姿の瑠璃は、まだ靴も脱いでいない俺にダイビング飛びつき……意味が重複してるか。

 瑠璃はと言えば、俺の胸に顔を埋め、しばらくそのままじっとしていた。

「どうしたんだよ、瑠璃。何かあったのか?」

 胸に顔を埋めたままで何かを言ったが、ふごふご言うだけでちっとも理解出来ない。でも……『連絡がないから心配した』というような事なんだろうな。だからさっき電話を掛けたというのに。

「ごめん。ちょっと立て込んでてさ……でも、こうして帰ってきたんだから、もういいだろ?」

 ばっ、と胸から顔を離した瑠璃は……案の定、目を真っ赤にして、鼻をすすり上げていた。そんなに心配するなよ……と独りごちてみるが、瑠璃の境遇を考えれば当然か……この先がちょっと思いやられるが。

 でも……そんな瑠璃の姿も愛おしい。考えてみれば、俺だって今まで帰りを待ち侘びてくれる人間など居なかったのだから。そんな想いを込めて、

「あ……」

 額にキスをした。不意打ちで。

「……もう」

 照れながら拗ねるという器用な反応を見せる瑠璃。それがあまりに可愛らしいので、もっと先の事をしたくなってしまったが……今はヤメだ。何しろ……

「腹、減った」

 ハングリーなのだ。

「……ぷ」

 ほのぼのと、だが、良い雰囲気を壊されたにもかかわらず、瑠璃が噴き出す。……きっと。俺たちには時間が沢山あることが分かってるんだろう。

「もう、お兄ちゃんったら。早く手を洗ってきてね、その内にお味噌汁暖めるから」

 瑠璃も少しだけ余裕が出てきたな。キスの一つぐらいでは動じなくなった。その部分の成長も眩しい。俺も……少しは成長出来ているのか。最近、その事もよく考える。

 ……龍志にも了解をもらった。

 ……遠藤の気持ちも吹っ切れたらしい。

 あとは……親父への報告だけか。

 正直に言って……これが一番予想が付かない。何しろ、俺は……親父の親友の忘れ形見に手を付けようとしているのだ。

 ……

 考えても仕方がない。

 一番大事なのは……俺たちの気持ちと将来を紡がない事なのだ。

 ……立ち止まってそんな事を考えていると、瑠璃が俺の手を取り、

「ご飯」

 と、短く催促した。

 今考えても仕方がない、という俺の考えを汲み取ってくれたのか。それとも、ただ単に自分の作った夕食を食べて欲しいだけか。……ま、とにかくメシだな。

「今日のメニューは何だ?」

「麻婆豆腐作ってみたの。花椒を効かせて、本場風に」

「そうか……楽しみだな」

「その前に、ちゃんと手を洗ってね」

「はいはい」

 今は、食欲。何よりも。

 自分の目の前のことをきちんと見て、自分の出来ることをやっていく。ただそれだけだ。

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