「ほんとう」のきもち
遠くで、誰かが俺を呼んでいる。
いつか見た光景だったが、その時は確か……誰が呼んでいるのかハッキリしなかった。しかし今日は、影のように真っ暗だった姿が徐々に鮮明になって行き、そしていつしか……
「お兄ちゃん」
夢の中の影が瑠璃と重なったところで目が覚めた。もう、朝らしい。部屋中に朝日が満ち溢れ、そしてベッドの傍らには、東和吉中学の制服の上にエプロンを付けた瑠璃が微笑んで立っていた。
「お兄ちゃん、おはよっ」
にこやかに笑って……
「早く起きないと、遅刻しちゃうよー」
といいつつ、しゃーっとカーテンを全開にした。
「眩しっ」
予想に違わず、今日もいい天気だ。思いの通じた美少女に起こされる幸福だけとしたって、その日がどんな天候でも心がうきうき、弾みだしてしてしまうというものだが、自分が雨具の店でも開いていない限り、天気は晴れに限る。
「ほーら、早く」
瑠璃が布団を引き剥がそうとする……お〜いっ!そういうことをすると、決してお目に掛けたくはない『ああいうご無体なもの』が目に入ってしまうのが分からないのか!頼むから、若い男の朝の事を少しは考えてくれ。
「分かった分かった、すぐに起きるから」
「それじゃ、早く着替えて来てね。パンを焼いておくから」
「ああ……」
頭を引っかいて、起きようとしたところで
「瑠璃」
「なあに?」
部屋を出かけていた瑠璃を呼び止めた。訝しげにこちらを見ているが、手招きして催促する。
「どうし……」
瑠璃が射程距離にまで近寄った瞬間、その小さな顔をささえてやり、オデコにキスをした。不意を突かれた瑠璃は、一瞬……何が起こったのか分からないというように、大きな瞳をぱちくりさせていたが……
「もぅっ」
「いでっ」
瞬間、顔を真っ赤にして、俺の腕をびしっと叩き、部屋から走り去っていった。ははは、ちょっと調子に乗りすぎたかな。
……さて。
こうして調子に乗ったのにも、実は理由がある。こうして……瑠璃との間柄を再認識した上で、自分を追い詰めているのだ。俺たちが幸せな時を享受出来る裏で、確実に傷つけてしまう人たちがいる。
具体的に言えば……
龍志だ。
その気持ちを応援してしておきながら、結果的に瑠璃を奪う形になってしまった。これは……どうやっても言い訳が立たない。もとより、言い訳などするつもりもないけど……
瑠璃と思いを通じあえた代わりに、龍志という唯一無二の親友を失うことになってしまうかも知れなかった。でも……それも全ては俺が招いた結果なのだ。殴られる位は覚悟の上。どんなことが起こっても、俺は……それを受け入れるだけだ。考えようによっては、開き直っているとも取られかねないけど……それ以外に、どうしろというのだ。
愛菜ちゃんにも筋を通しておく必要があるな。俺に具体的に好意を示してくれただけに、こちらもきちんと報告しておかなければならない。
あと……色々と瑠璃の面倒を見てくれた、遠藤にも紹介しておいた方がいいのかも。今まで、散々兄妹愛のようなことを見せつけておきながら、実は男女の関係に踏み込んでしまった事実……軽蔑されても、不思議じゃない。
そもそも、血が繋がっていようがいまいが、世間体的にはタブー(るび)の関係なのだ。その辺りにも配慮しなければいけないところだが……
配慮といえば、親父にもきちんと言っておかなければ……なにしろ、親父の友人の大切な忘れ形見に、半ば手を付けてしまったのだから……それこそ半殺しの目にあっても文句が言えないな。
こうして考えると、障害が多いな……でも、きちんと向き合い、俺の本音をぶつけていけば、きっと分かってもらえると思う。……思わなければ、とてもやってられない。
着替えを済ませて階段を降りてゆくと、瑠璃がフライパンからベーコンエッグを皿に移しているところだった。足音を聞きつけ、振り向いて俺と視線が合うと……恥ずかしそうに微笑んで、しかし平静を装うように、妙に元気に
「今日はパンで良かった?」
と、別に気にしようも無いことを言った。
「いや、別にいいんだけど」
「そ。さ、早く食べよ。遅刻しちゃうよ」
そんな時間かと思って時計を見ると、確かに俺にとってはそれ程余裕のある時間ではない。でも、東和吉中学は高遠高校よりもずっと近場にあるから、俺の朝食を待たずに、先に出れば済む話ではないのか……と考えて、
(ひょっとして、俺と一緒に家を出たいから……なのか?)
と、思い当たった。いや、多分そうだ。瑠璃の性格から言って、やはり一人で家を出るのは寂しいのだろう。
「分かった、ゆっくりはしないから……あ、コーヒー取ってくれ」
「はい」
そう考えたら、その急かす理由も何となく悪くないと思い、せめて途中まで一緒に……瑠璃と別れる辺りまでは……ゆっくり歩きたくて、食パン二枚程度をカフェオレで流し込んでしまうことにした。
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川縁の遊歩道をゆっくりと歩く。傍らには瑠璃が、紅葉に目をやりながら同じくゆっくりと歩いている。俺の『ゆっくり』は、瑠璃の普通の歩調に合わせて丁度良いくらいだ。
「もう……冬も近いね」
「……ああ」
その紅葉ももう終わりに近い。これでは、さくらの前に備える花を探すのも一苦労かもしれない。
落葉樹の木々は、枝が丸裸になるまでにそう時間はかからないだろう。瑠璃は受験が近くなる……といっても、瑠璃の成績なら遊んでいたって高遠には受かるだろうし……あとは、周囲の猛勉強している奴らの神経をどれだけ逆なでせずに居られるか、だな。瑠璃ほどの成績の奴が高遠を受験するなどと言ったら、その神経を疑われるだろうが……要するに、高遠の偏差値はその程度なんだ。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
俺を呼んだはいいが、俯いて黙ってしまった。
「何だよ、どうした?」
「その……私たち、本当に……その……いいなかな、って思って」
何が……と言いかけて、すぐにその意味を悟った。
……俺たちが結ばれて良かったのかな……ってことだな。
「そう決めたんだ。誰にも、邪魔させないこの気持ちは……冗談でも、半端なんかじゃない。俺が一生を掛けに足ると思ったからこそ、そう、お前に打ち明けたんだぞ」
「……うん、そうだよね」
「……」
瑠璃も、龍志に告白されている。つまり……龍志に対して、後ろめたい気持ちを抱いてしまっても不思議ではない。というより、兄妹で龍志を裏切ったことになるんだな……こりゃ……参ったな。
「今日、龍志に報告しようと思う」
「えっ!?」
「俺達二人が、恋人として付き合うって事を、だよ」
いずれ避けては通れぬ道。ならば、すぐにでもの方がいい。多分、時間をおけば置くほど打ち明けにくくなると思う。第一、その間に龍志と顔をあわせるのが辛い。絶交されるにしろ、許してくれるにしろ……こちらの可能性は少ないが……時間を置いた分だけ、龍志を傷つる度合いも大きくなるだろう。
「うん……そうだね……」
その事を思うと、二人して気が重くなるが……
「よし、そろそろ急がないと遅刻するぞ」
「あ、待ってよぅ」
踏ん切りを付けるため、頭を切り換え、そして……龍志への言葉を考えつつ、遊歩道を駆け足で進む。
……本当は、まだ少しだけ時間があったのだが、瑠璃との関係を打ち明けたときの龍志の反応を考えたら……居ても立ってもいられなくなってしまったのだ。駆け出して、そのやるせない思いを少しでも誤魔化したかった。
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いつものホームルーム前、いつもの教室内の喧噪。
でも……今日はちょっとだけ緊張する。
自分の席に着くと、鞄を下ろして一つ、タメ息を付く。どうしても……これからのことを考えると気が重い。ここに来る前にも、頭の中で『気が重くなる→早く告白して楽になる→でもやっぱり気が重くなる』の堂々巡りを何度繰り返したことか。
「おはよ、矢島くん」
そして、いつもの通り遠藤が挨拶をしてきた。……瑠璃とのことがあるから、今は遠藤に対してもちょっとだけ後ろめたい気持ちを持っている。
「ああ、おはよう」
とにかく、そんな気持ちを悟られないためにも、きちんと挨拶を返しておいた。遠藤はそれを見て、安心したように微笑む。さくらの件で、俺自身は特に後を引きずっていない事は分かったものの、やはり瑠璃の事は気になるらしく、
「瑠璃ちゃん、あれからどうだった?」
と、俺に顔を寄せ、耳打ちした。そう聞かれた瞬間、心臓が凍り付きそうになったが……辛うじて、それを抑える。俺は……別に何も疚しいことは……してるか、少しだけ。でも、まさか『キスして抱き締め、一生守ると告白して落ち着かせた』などと言えるはずもなく、
「ん、ああ……大丈夫だったよ。あいつも……中心はしっかりしてるから」
と、言葉を濁し気味に答えるしかない。
遠藤は、そんな俺の言葉に、少し釈然としない顔をしながらも……結局は納得したらしく、それ以上は何も言わなかった。
……ふう。
遠藤に対してこれなんだからな。さて、龍志は……朝のホームルームの時間も近いというのに、珍しく姿が見えない。遅刻するようなヤツじゃないから、もう登校していて、トイレにでも籠もってるんだろうか……と思って、席を見ているが、鞄も見えない。登校すらしていないのか。
「今日は龍志は休みなのかな……」
別に遠藤に尋ねたわけではないが、何となく気勢をそがれた感じだ。今日のシミュレーションとしては、今日一番に龍志が視線に入った瞬間、『放課後に重要な話がある』と切り出すつもりでいたのに。
「そうねぇ……榊原くんが遅刻した事なんてないだろうし、ひょっとしたらそうなのかも」
少しだけ気がかりそうに遠藤は言うが……実のところ、龍志は見た目よりずっと頑丈に出来てるんだよな……なまじ外見がああ細いだけに、ともすれば薄幸・病弱そうにも見えるのだが。その龍志が休みとは……よっぽど重い病気にでも罹ったのか?と、余計な心配をしてしまったり……
その内に担任のユウさんがやって来て、ホームルームが始まってしまった。
「えーと、今日の休みは……田代に屋敷に高木(由)に……榊原か。全員風邪らしいな。寒くなってきて、風邪も流行りだしてるから注意するよーに。おい矢島」
やっぱり……龍志は休みなのか。こうやって覚悟をしてきた以上、龍志の家まで見舞いに行きがてら……でも、風邪を引いてるんだったら、ストレスを与えたくないしな……と、都合良く回避するようなことを考えてしまうけど……だめだだめだ。何としても、今日中に言いたいんだけれど……
「矢島っ」
それにしても、龍志が休むほどの風邪だ。取りあえず見舞いに行って、そう重くなさそうならひと思いに……
「矢島っ!聞いとるのかっ!?」
「ひゅわいっ」
ユウさんの一声で、自分が呼ばれていたことに気が付いた。クラスメイトから、くすくすと笑い声が漏れる。くそー、そんなに笑わなくてもいいじゃないか。誰にだってぼーっとする時くらいあるだろうに。
「珍しいな……いや、お前がぼーっとしてるのはいつもの事か」
おいおい。
「それより、今日は細々としたお知らせプリントが多いんだ。お前は榊原と仲が良かったよな?だから、家まで届けてやってくれんか」
「ああ、いいッスよ」
プリントは、とユウさんから渡されたものを見ると……本当に細々とした、これくらい一枚に纏められないのかと思う程度のバラバラな内容だ。しかも内容的に届ける価値の無いようなものばかりだが……かといって、自分の机にねじ込んでいて良い訳があるまい。ここはしっかりと……直接、言っておく方が良いだろう、やはり。
……それから。
授業中も、龍志にどうやって切り出せばいいか考え、時はあっという間に過ぎて……すぐに放課後。ここまで、本当にあっという間だった。良く考え事をしながら勉強が出来るものだと自分に感心しそうになるが、要するに授業の内容が右耳から入って左耳から出て行くだけのいつもの事だった。
「ねえ、矢島くん……」
「ん?」
放課後を告げるチャイムと共に頭が臨戦態勢に入ったところで、遠藤が俺を呼び止めた。
「今日、ずぅっとぼ〜っとしてたけど、どうしたの?いえ、今日だけじゃなくて、最近どうも『心ここにあらず』って感じで……」
遠藤には、それが原因で一回怒られたばかりだが……
「ま、色々なことが引っかかってるっていうのは分かるけどさ。元気……出してよ」
一応、遠藤の方からも気には掛けてくれているらしい。……そんな遠藤にも、きちんと向き合って話さなければならない時が来るのか……
「……ありがとう」
今は、それだけ。それだけしか……言う事が出来ない。遠藤も……それ以上、特に突っ込んでは来なかった。その心遣いは嬉しいけど……余計に罪悪感を感じることもまた事実な訳で。
校門を出て、龍志の家に向かおうとしたところで……ふと気がついた。
(瑠璃も……一緒に連れて行こうか?)
それは龍志にしてみれば残酷な事実を告げることに他ならないが、そうした方が……良いような気がする。二人の真面目な気持ちを伝えるには、やはり二人できちんと報告した方が良いんじゃないだろうか……
そう思い、早速携帯から自宅に掛けると、やっぱり瑠璃が出た。
「ああ、瑠璃か。今日、龍志が風邪で休みだから見舞いついでに……俺たちのことを話してこようと思う。だから、お前も一緒に来てくれ」
俺一人で話しに行くのが……恐かったのかも知れない。だから、瑠璃を道連れにしたとも取れるが……俺の偽らざる心境でもある。
「うん……私も、はっきりしておいた方が良いと思うから……行く」
覚悟を決めたようだ。いずれ避けられぬ道だと分かっているのは、瑠璃も同じだ。取りあえず駅前で待ち合わせをして、喫茶館で御土産を買って行くことにする。店内にはいると……響子さんがせわしなく働いていた。俺と瑠璃、二人寄り添っている姿を見ると……困ったような苦笑いをして、出迎えてくれた。
「……お出かけ?瑠璃ちゃん」
響子さんが何かを悟ってしまったような表情で、そう尋ねた。見れば……俺の右手をしっかりと握っている瑠璃がいる。この手は……瑠璃の決意の表れだろう。開き直るでもない、調子に乗っているでもない……この街に暮らしている限り、こうして手を握っていれば必ず人に見られる。見られても構わない、自分とこの人とは『こういう関係なのだ』と自分に言い聞かせる覚悟なのだ。
「はい」
短く、しかしはっきりと答えた瑠璃。その姿を見た響子さんは……一度顔を下げて、しばらく俯き……しかし再び顔を上げたときには、それまでの表情がウソのように晴れやかな笑顔になっていた。
「で、どうしたの?お茶を飲みに来たんじゃないみたいだけど」
席に座ろうとしない俺たちを見て、少しだけ不思議そうに言った。確かにここに来るときはいつも珈琲を飲みに来てるからな。
「友達が風邪で寝込んでるらしくてさ。二人でプリンでも持って行ってやろうかと思って。ここの美味いからさ。四つ、包んでくれないかな」
喫茶館はケーキもイケるが、実はプリンも絶品だ。下手なケーキ屋が裸足で逃げ出すくらいの丁寧な作りで、一口含めば、舌の上で絶妙な甘さを伴って蕩けてゆく……そして後にかすかに残るバニラビーンズの香もしつこすぎず、何個でもお代わりが出来てしまう、正に隠れた逸品と呼べる。
「そう、プリンなら食べやすいものね。ちょっと待てて、すぐに用意するから」
そう言うと、響子さんは何かを振り払うようにカウンターへと消えていった。
……響子さん、確か俺のことを……『惚れた男』と言ってくれた。それは本心だったんだろうか……でも、今の俺にはどうしようもないことだ。俺は……瑠璃を選んだ。その時点で、何人かの悲しい顔を見ることは確定していたというのに……いざこうしてその機微を見ると、自分の選択が正しかったのか否か、その自信が揺らいでしまう。いや……それこそが俺の驕りなんだ。
しばらくして、プリン4個入りの箱を受け取り、1000円也を支払い、喫茶館を後にする。お金を払っているときも、響子さんは……始終にこやかだった。まるで、何かを吹っ切ってしまったかのような……そんな微妙な空気を瑠璃も察していたらしく、それからは一切喋らなかった。ひょっとして……瑠璃にとっては、響子さんもライバルと見なしていたのだろうか。
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それから商店街の中を少しだけ歩くと、品の良い……この店自体がアンティークかと勘違いしてしまうほど……アンティークショップ・『ウンテル・デン・リンデン』に着く。商店街のやや外れに位置していて、駐車場スペースも何台分か確保してあるから、遠くからわざわざ自動車でやって来て、そのまま気に入ったものを運んで帰る客が多いというのも頷ける。
二人して頷き合い、店の中に足を踏み入れると、龍志の親父さん・龍雄さんが並べられている家具の間から俺たちを認め、手を挙げながら満面の笑みで出迎えてくれた。
「やあ、亮くんに……こちらは?」
俺の隣の小柄な美少女が気になったらしい。
「あの……初めまして、矢島瑠璃と言います」
ぺこ、といささか緊張した面持ちで頭を下げる。
「ああそうかそうか、龍志から話は聞いているよ。その様子だと、兄妹でお見舞いに来てくれたんだね?龍志なら大分良くなったから、早く顔を見せてあげておいで」
龍雄さんは、俺たちがこれから龍志に何を告白するのか知る術もないだけに、その笑顔に余計に申し訳なさを感じてしまう……
案内されるがままに二階へ上がり、龍志の部屋をノックした。
「どうぞ、開いてます」
聞いた話だが、家族は部屋のドアを開ける際にノックなど一切しないらしい。プライバシーも何もあったものじゃないと思っても、それが榊原家の流儀なんだそうだ。つまり、こうしてノックすると言うことは、龍志に『俺たちは客だ』ど言っていると同じことだ。
ドアを開けるとそこには、パジャマ姿でベッドの上に上半身を起こしている龍志がいた。龍雄さんの言ったとおり、特に顔色も悪くなく、苦しそうに咳き込む素振りもない。
「元気……そうだな」
「うん……少し調子が悪いと思っただけなんだけど、意外に熱があって……大事を取って休んじゃった」
ぺろ、とイタズラっぽく舌をだす。その仕草があまりにも男っぽくなく……小学生の女の子がやっている仕草にさえ見えた。
「瑠璃ちゃんまで来てくれたの?」
俺の後ろに付いてきた瑠璃を見た瞬間、龍志は飛び跳ねんばかりに喜んだが……それも一瞬。沈んだ瑠璃の顔を見て、すぐに素の顔に戻った。……感づいたのか、否か。
「あ、そうだそうだ、折角買ってきたんだから、これを食おう」
いたたまれなくなった俺は、場の空気をごまかすように喫茶館のプリンの箱を掲げた。龍志は妙な空気を察したようだが、自分から突っ込むことはせずに、素直にプラスチックの容器入りのプリンを受け取った。
「これ、『喫茶館』の……美味しいんだよね、これ」
どうやら龍志も大好物だったらしく、ぱくぱくと無心に口に入れている。ひとまず危機は脱したが……脱したからどうだと言うんだ。問題はこれからだ。
ひとまず龍志が食べ終わるのを待ち、落ち着いてから……と思ったが、龍志はあっという間に一個を片付けてしまった。あまりの食べっぷりに呆然としていると……
「ごめんごめん……今日は昼食をあんまり……食後の薬を飲む時に無理矢理お腹に詰め込んだ程度で、お腹が空いてて……」
お陰で、考えを纏める時間すらなかった。いや……龍志の方がわざと与えてくれなかったのではないだろうか。
「亮……瑠璃ちゃん……僕に、何か言うことがあるんじゃないの?」
ごく穏やかに言っているのだが、その言葉を聞いた瞬間、俺たち二人は飛び上がらんばかりに驚いた。その飛び上がり方までシンクロしてしまっていたものだから、それを見た龍志はただ苦笑い……。もう、見透かされているのか。
「いいよ、僕は。今は体調もいいし……」
何も言わなくても、殆ど通じてしまっているのか。
瑠璃と顔を見合わせ……頷き合い、覚悟を決めた。何が起ころうとも、二人で決めた道なのだから。龍志に見えないように、どちらからともなく……堂々とやるだけの勇気はない……手を握りあった。
「俺と瑠璃は……」
「……」
「男女として、付き合うことに決めた」
きっぱりと言った。自分でももっと口ごもるかと思っていたが……以外と、すんなりと口から出た。龍志のあくまで優しい笑顔が……そうさせてくれたんだろう。これも……龍志がそうなるように導いてくれた結果だ。
その龍志は、穏やかな笑顔を、崩さない。いっそのこと、殴ってくれた方が余程すっきりしただろうに。
「ごめん、龍志……俺、俺……」
それ以上、言葉が見つからなかった。いや、もともと……弁解する言葉などあろう筈がない。
……それから、しばらく沈黙が続いた。
俺たちも、龍志も、互いが互いの瞳を見つめ合っているだけなのだが、龍志はその澄んだ瞳で、俺たちのその想いの強さを計っているようだった。そう感じたからこそ、精一杯の気持ちを、今までの、そしてこれからの想いを託し、見つめ返す。
どの位そうしていただろう……そろそろ龍志の無言の尋問に耐えきれなくなってきた頃……
「ふふっ」
龍志が、急に苦笑いをした。呆気に取られていると、
「そっか……僕にしてみれば、ようやく収まるところに収まったかぁ、っていう感じだけどね……いささか気付くのが遅すぎたきらいはあるけれど」
「……え?」
龍志は……笑っている。それこそ、プリンを食べる前と同じ時のように、にこやかに。
「僕から見てみればね、二人がお互い惹かれあってるのなんかすぐ分かったよ。だって、二人ともとっても自然な姿なんだから。どちらからどちらを取っても成立しない、そこまで踏み込んだ関係に見えていたんだよ、既に」
「そんな……半年でそんなことが分かるものなのか?」
「時間は関係ないだろ?それとも、亮は時間を掛けなければ恋愛は成立しないっていう主義なのかい?」
「まさか!」
「そうだろう?なら……何も問題はないじゃないか」
「……」
龍志……
「僕には、すぐに分かったよ……この前、僕が瑠璃ちゃんと二人きりになったことがあったろう?あの時、瑠璃ちゃんは亮のことしか話さないんだもの……もう、彼女には亮しかいないんだな、って。話題が続かないから、とかそんなレベルじゃなくて……もう、亮無しでは居られない、そんな瑠璃ちゃんに見えたんだ。瑠璃ちゃん、自分では分からないだろうけど……そうなんだよ」
「龍志さん、私……」
兄妹して、それ以上言葉が続かない。瑠璃にも……龍志に言うべき言葉はない。
「もういい、もういいんだ、亮、瑠璃ちゃん……これはね、最初から決まっていたことなんだよ。二人が出会った、その日から……」
そこまで言って、龍志は目をつぶった。固く、固く。まるで……溢れるものを必死で堪えるように。
「僕はね、瑠璃ちゃんが一番好きだ。でもね、困ったことに……僕は、亮と一緒に居る時の瑠璃ちゃんが一番好きなんだよ……そんな人から亮を取り上げてまで、悲しい思いをさせてまで自分のものにしたくない。人によっては、他人に譲れる程度のものでしかなかったということもあるだろうけど……考えてもご覧よ。瑠璃ちゃんはとっても綺麗な紫水晶だけど、それを輝かせる、亮という光を奪い去ったら……ね?分かるでしょう?」
……悔しいな。こんな場面でキザなセリフを吐いてもサマになってる。龍志自身の美しさもあるけど、心からの、その例え話が、心に染みた。
そして、龍志は、涙に濡れた瞳を開いた。その瞳は……悲しみよりも、もっと別の……何かを映し出している。少なくともそれは……保護者の内の一人として、瑠璃を俺に託す惜別の瞳だったのかも知れない。
「残念だけど、僕は……瑠璃ちゃんを輝かせることは出来ない」
「龍志……!」
再び、見つめ合って……龍志の方が目を逸らした。
「一つだけ……僕からお願いがあるんだけど、いいかな?」
「ああ……何でも言ってくれ」
……どんな無茶を言われようとも、甘んじて受け入れる覚悟だった。龍志の願いだからこそ、とんでもないことを言われないという安心も多分にあったのだが。
「必ず、瑠璃ちゃんを幸せにしてやってね。万が一、不幸にするようなことがあったら……」
「あったら?」
「すぐに奪いに行くから、それだけは覚えておいてよね」
茶化そうとしたのか、それとも強がりなのか……どっちにしろ、相当無理をして言った言葉であることは、龍志の目尻に浮かぶ透明な雫からも分かる。
「任せておけ」
「……僕が心配するまでもないだろうけどね……一応」
とか何とか言った後、龍志はベッドに横になり、頭から掛け布団を引っ被った。
「それじゃ、僕はまた寝るよ。また……明日、学校でね。プリン有り難う」
布団の中からの声は、少し震えているようにも。でも……『二度と顔も見たくない』でもない、『僕の前から消えてくれ』でもない……『また明日、学校でね』。それはつまり、俺等は許されたんだ。大親友にウソを付き、挙げ句の果てに彼の想い人まで奪ってしまったというのに、俺はこの大親友を失わずに済んだ。こんな嬉しいことがあるんだろうか。龍志には、幾ら感謝してもし足りなかった。
傍らで一言も発せずに事の成り行きを見守っていた瑠璃はというと……やはり、泣いていた。自分の存在が人を傷つける経験なんて、初めてしたんだろうな……でも、それもこれも俺が悪い。瑠璃は……悪くないんだ。
「行こう、瑠璃」
「……はい」
部屋を出がけにちらりとベッドを見やると、こんもりとした布団が小刻みに揺れている。その布団の小山に向かって一言、
「ありがとう」
と声を掛けてからドアを閉めると……
中から、嗚咽のような……しかしそれを押し殺したような声が、かすかに漏れていた。せめて……もっとわんわん泣いてくれるか、全く声を出さないかで居てくれた方が、楽だったのに……しかしそれも、友人を失わずに済んだ代償と考えれば、全く何でもない、耐えて当たり前の事なのだった。
想い人に、その想いが叶わなかった人間と比べてみれば。
・
・
・
帰り道、商店街の中の道すがら。
二人して、どんなことを話し合って良いか分からず……龍志に許しを得た事がただ信じられなくて……ただただ無言で歩いていた。
許しを得た筈なのに、安堵よりも罪悪感の方が強くて……龍志の事だから、明日になって心変わりなどと言うことはないから安心なんだが……いや、人を傷付けておいて安心などと言ってはいられないか。
ふと気付くと、瑠璃が正面を見ながら、硬く、固く俺の右手を握りしめている。こんな人目に付く場所で大胆だな、と思ったが……それが瑠璃にとっての覚悟であることはすぐに分かった。この小さな身体で、それなりの覚悟を持って俺の手を握っている。それが……この小さな手に込められた、覚悟。誰に見られても、もう引かない、ごまかさない。そんな、心意気なんだろう。
龍志に申し訳ない気持ちを抱きつつも、ほんの少しだけ晴れやかな気持ちで……しかし問題は山積みだが……俺も瑠璃の顔を見て、精一杯の気持ちを込めて、微笑んで……左手を握り返した。瑠璃は、そんな微笑みの意味を解したのか、微笑み返して、俺の右腕を引き寄せた。ちょっと恥ずかしかったが、そのままにしておいた。だって、ほら……もう寒いから、こうして身を寄せ合っていると温かいんだ。
俺と瑠璃、端から見れば何とも脈絡のない二人だろうが、それでも……お互い、自分の信念を貫く事を確認し合うように見つめ合い、歩き出した。俺の右腕を抱え込む瑠璃の体温が、肌寒い空の下、心地良かった。
……もう、迷わない。
……もう、離さない。
……しかし、その信念を試すような事態がいきなり訪れる。
「や、矢島くんっ!?」
俺たちの正面でそう叫び、凍り付いたのは、遠藤葵その人だった。




