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Weight of life

 季節がそろそろ冬に移り変わろうかという頃。澄み渡った空、

 その下で猫のさくらが逝った。

 矢島家に拾われてきてから、僅かにひと月程度。

 朝起きて、トイレに行こうとしたら……部屋の隅っこでうずくまっているさくらがいた。その日は朝から冷え込んでいて、そろそろ本格的に冬支度をしなきゃな、そう思っっていた矢先の出来事だった。

 瑠璃が目覚める前だっただけに、俺が最初に見つけたんだ。あれだけ俺から距離を置きたがっていたあの猫が、俺の足音を聞いても逃げも隠れもしない。ただ、リビングの片隅でじっとしていたのだ。普段ならとっくに逃げ出しているにもかかわらず、そこにうずくまっているさくらを見たが、よもや死んでいたとは思わなかった。

 幾ら臆病で用心深い猫とはいえど、たまには熟睡してることもあるだろうと、気にも留めなかった。その時は……時計は6時10分前を差してたところだったかな。それから二度寝をして……さくらの変調を感じ取った瑠璃が俺の部屋に駆け込んで来たのが6時半……

「お兄ちゃん!さくらが変なの、来てっ!」

 瑠璃の悲鳴にも近い声は、しかしその最悪の内容を予感しているようなものでもあった。急いで下に降りて行くと、さっきトイレに起きたときと全く同じ格好、全く同じ位置で、物言わぬさくらがそこにいた。

 信じられない思いでさくらの身体を触ってみるが……既に冷たい。硬直もしていた。俺たちの与り知らぬ夜の内に息を引き取っていたようだ。

 戸惑う瑠璃の顔を見る。

 ……酷く困惑しているな……それも当たり前か。さくらは昨日まで取りあえず全く異常が無い様に見えたのだから。しっかりと瑠璃の目を見て、軽く首を振る。すると……見る間にその大きな瞳が潤む。……そんな顔をしないでくれ。もう、どうすることも出来ないんだ……

「死んじゃったの?」

 どんなに困惑していても、目の前の事実を受け止めようとする瑠璃は、立派だ。

「ああ……死後硬直もしてる。死んでから……結構時間が経ってるな」

「……」

 瑠璃が俯いた。俺も立ち上がり、そのか細い肩を抱いてやる。涙は……無い。

「助けられなかった?」

「……分からない」

 正直を言ってしまえば……引っかかれようがなんだろうが、強引にでも医者に連れて行くべきだった。それを出来なかったのは……俺のミスなんだ。でも……それを今更論じたところでさくらが生き返るわけでもないんだ。

 そう……思い込んだ。

 これからどうするか……それがちょっと問題だった。今日は平日だから当然学校へ行かなければならないんだが……さくらをこのまま放っておくのも気が引けるな。完全に硬直しているから、心臓マッサージをしようとか、獣医に駆け込もうという気すら起きなかった。全ては手遅れだ。さくらは……完全に死んでいる。そう自分に言い聞かせるのがどれほど辛いか……そして瑠璃は。自分が死の淵から救い出してきた、そのさくらがあっさり逝ってしまった瑠璃はどうなのか。

「取りあえず……学校行かなくちゃね」

「ん?おお、そうだな」

 奇妙なくらいに落ち着いていた。事実を受け止めたとはいえ、それが完全に自分の中で真実として認識されるにはまだまだ遠いらしい。その言い方もどことなく上の空だ。

 とにかく落ち着く為にも飯を食おうと、取りあえず食パンを焼き、向かい合って食卓に着く。そして無言でパンを口に運ぼうとするが……上手く口が動かない。食欲が出ない。無理矢理にカフェオレで二枚流し込むと、ようやく落ち着いた心地になった。

 瑠璃はというと……やはり、口が動いていなかった。涙を流してもいないし、悲嘆に暮れてもいない。やはり……相当ショックなんだろうな。俺には……掛ける言葉がない。駆けてやるとすれば、瑠璃が全てを受け入れてからだ。

 それにしても、無言の食卓がこれ程までに味気ないものだとは思わなかった……。ほんの半年ほど前まで、ずっと一人で食事をしていたのにも関わらず。瑠璃が来てからは、今日は何をするんだとか、どんな授業があるんだとか、放課後の過ごし方、夕食の献立の希望……それは楽しい語らいの時間だった。しかし、それは今はここにはない。短いとはいえ、さくらと過ごした時間がここで潰えてしまったのだ。その思い出を紡いでゆく程家族として過ごした時間が長い訳でもないが……それにしても辛い。

 脳に糖分が入り、食器を片付け終わってから、ようやく冷静に頭が働き始めた。食卓に着いたままうなだれている瑠璃を尻目に、まずはさくらを毛布に包んでから、夏休みに瑠璃の実父・岩戸教授の墓参りをする際に残った線香を茶箪笥から探し出し、火を点けて適当な皿の上に横に置いた。

 ……どうにも空虚だ。現実感がない。身近な存在の死が、これほどまでに現実として感じられないものだとは……いや、思ったことはある。じいちゃんの時もそうだった。あの時は……葬式が恙なく終わって、翌朝目覚めたときに、初めてじいちゃんがこの世にもう居ないという事実がようやく実感を伴って襲ってきたんだ。いつも朝は俺が起こしに行かなきゃならなかったんだが、いつものように寝ぼけ眼でじいちゃんの部屋に行ってみると……そこには……線香の匂いが立ち籠める中、昨日までじいちゃんだった亡骸が白装束で横たわっているだけだった。……泣いたよ。それまでは、今までの事が全て夢だったんじゃないかと思い込みたかった……目が覚めれば、いつものようにじいちゃんがむっくりと起き上がってくるものだと。この場合も……きっと、学校から帰ってきたら現実感が湧いてくるんだろうな……

 瑠璃は……まだ、ぼーっとしたまま……ようやく食パンを一枚もそもそと食べ終わったばかり。

「瑠璃……早く食わないと、遅刻するぞ」

「うん……」

 果たして、人の話を聞く余裕が残っているかどうか不安だったが、耳はこちらに向いているらしい……しかし大丈夫かな……心配だ。

 瑠璃は食パン一枚だけで済ます様だ。そのまま……片付けずに椅子から降りる。片付けないと言っても、俺もぼーっとしていたから、ベーコンエッグの一つもない、パンを乗せた皿とカフェオレのコップだけなんだが……もう今日はそれでいいや。

「お兄ちゃん……そのままでいいの?」

 玄関で、瑠璃がローファーを履きながらがリビングの方をちらりと振り返りながら言った。無論、さくらの亡骸の事を言っている。

「仕方がない……気になる事はなるが、まさか学校を休む訳にも行かないだろう?」

「うん……」

 放っておいたら休みかねないからな……もしグズっていたら、首に縄付けてでも引っ張って行こうかと思ったんだけど、取りあえず素直に玄関を出ようとしたから安心したんだが、玄関のドアを占める前に急に立ち止まった。まさか、気が変わってやっぱり休むとか言い出さないだろうかと気を揉んでいると……

 「行ってきます」

 と、『いつものように』ある方向に声を掛けた。その方向には、昨日までなら、人には馴れないクセにその動向だけは気になるらしいさくらが、行儀良くお座りして、一応は二人を見送ってくれていたんだ。瑠璃には既に習慣になっていたのか、それとも……別のものが見えてしまっていたのか……後者は少々どころではなく問題アリだが……ともかく、声を掛けてしまうそのいじらしさに、やるせない気持ちで一杯になった。

 ……しばらく二人は無言で歩き、やがて、瑠璃と別れる分かれ道に差し掛かる。

「瑠璃……一人で大丈夫か?」

「……うん。とにかく今は……自分のするべき事をしなくちゃね。後は全部帰ってから」

「分かってるなら、いいんだ」

 しかし、そう言う瑠璃の表情も、心ここにあらずという感じで……心配だ。元気に手を振り、曲がり角に消えるその小さな姿は、あまりにも儚い。

「……くん…………」

 やはり落ち着かない。こうして、休み時間に他のことをするのももどかしい。

「やじ……ん……」

 耳から入ったものが頭まで到達しない。まるで、右の耳から入ったものがスムーズに左から出て行くかのような……

「矢島くん、ってばっ!」

「どぅあっ」

 意識の外から急に大声を出され、危うく椅子から滑り落ちそうになるところだったぞ。俺を呼ぶ大きな声と、俺自身の叫び声が見事な相乗効果を産みだして、教室中の注目がこっちに注がれた。声の主は、案の定遠藤だった。何事かと、龍志もこっちにやって来た。

「ん、もう……そんなにびっくりされたらこっちが驚くでしょう?」

「だって……」

 そこまで言いかけて、はあ、とタメ息を付く。これ以上、言い返す気力がない。確かに、ぼーっとしていたのは俺の方なんだから。多分……目に余ったんだろうな。

「矢島くん、一体どうしちゃったの?」

 心配そうに上半身を屈める遠藤だが……ハッキリ言って、そういう姿勢を取ると胸元が丸見えになるぞ……しかし、今の俺はそんな素晴らしい光景を見ても、さっぱり胸が躍らない……きちんと認識はしているところが我ながら恨めしいが。

「そうだよ、亮。今日は朝からおかしかったし……登校してくるときに、校門の前で声を掛けたの覚えてないでしょう?」

「マジか……?ごめん、ちょっと考え事してて……」

「んもう、何をそんなに考えていたの?私たちに相談できないようなこと?」

 ……そうだな、この二人になら話しても構わないかも。今俺が気を揉んでいるのは、俺自身のさくらの死に対する動揺ではなく、瑠璃のさくらの死に対しての動揺なんだ。魂の抜けたようなあの顔は……瑠璃を泣かせてしまった時よりももっと……空虚な顔だ。何も感情のこもっていない……いっそのこと泣いてくれればどんなに楽だったか。おおよそ『表情』というものか感じられないものだから、慰めてやればいいのかそれとも静かに見守ってやればいいのか……

「実は……猫がさ、死んじゃったんだ、今日の朝、急に」

「え……」

 遠藤は、さくらを心配して見に来てくれた事もあるから、ハッキリ言ってしまえば関係者も同然だ。いち早く獣医で診察を受けさせてやった方が良いというアドバイスを、とうとう実行に移せなかった。

「僕は近寄ってきてももらえなかったけど、結構元気そうだったよね……そんなに急になん……」

 そうだった、本村さん……じゃなかった、おふくろの個展を遠藤と見に行ったとき、龍志は瑠璃と二人っきりだったんだっけ。それも気になるが、今はどうでも良い。龍志にとっても、一応は面識のある相手が急に居なくなったと聞けば、何かしらの感情を抱くのは当たり前だ。

「昨日までは元気だったのにな……そう思ったから、まだまだ時間はあるとばかり……獣医に連れて行こうと、どうやって捕まえるか思案してて、結局そダメになっちまった。これ……俺が悪いんだよな、きっと」

「そうね……命を預かるって事は、その命に責任を持つって事だもんね。特に、出自の分からない猫をもらってきたんだから、どんな手を使ってでも獣医に見せに行くべきだったと思うわ……」

 分かっているが、実際に言われてみるとかなり落ち込む。キズになるのは俺の身体だけで、ひょっとするとさくらの命は助かったかも知れない。それはつまり……自分の身の安全と、生き物の命を天秤に掛けてしまった結果だ。

「……」

「……」

「……」

 三人分の沈黙。そりゃそうだ、いきなりこんな話をして、他にどんな反応をすりゃいいと言うんだ。

「取りあえず、二人とも……家に来て、線香の一つでもあげてやってくれないか。さくらと知り合った数少ない人間として、せめてものはなむけに」

「……亮……」

 言葉があまりにも物悲しすぎるのは分かっていた。でも、さくらは……人間の優しさに十分に触れる前に逝ってしまった。いや、ひょっとしてそれが一番の勘違いなのかも知れない。人間に飼われて幸せな動物などこの世にいない、と誰かがうそぶいていたが、そんな考え……真実にしろ、やるせないじゃないか。

「……分かったわ、今日寄らせてもらう。しかし、心配なのは瑠璃ちゃんね……」

「うん……僕もそう思う。瑠璃ちゃん、自分が拾ってきた猫だから、すっごく楽しみなんだって言ってた。いつか馴れて、気軽に触らせてくれるようになったら……毛をとかしてあげたり、オモチャで遊んであげたり……いっぱい、いっぱい可愛がってあげるんだって……言ってた……」

 瑠璃の奴、龍志の前ではそんな事を言ってたのか。……確かに、家を出る前の瑠璃は、どこか危なっかしいところがあった。見えないさくらに「行ってきます」の挨拶をしたように、どこか精神の安定を欠いている。そう考えると……居ても立ってもいられなくなった。

「矢島くん……?」

「亮」?

 二人が俺を呼んでいるが、もうそれは耳に入らない。

「悪ィ、俺、今日は早退するから、よろしく言っておいてくれ。じゃあ、家で待ってるぜ」

 いきなり鞄をひっつかみ、唖然とする二人を尻目に教室を飛び出した。何故か……嫌な予感がする。やっぱり、あのまま瑠璃を放っておいてはいけなかった。あいつの、さくらに対する想いをもっと考えてやらなければいけなかったんだ……

 とにかく、閉まっている校門を問答無用で飛び越え、走る、走る。瑠璃の中学校までは、このスピードで走って約10分。俺の気のせいであるのが一番だが、人間の第六感というのもなかなかバカには出来ないものだ。もちろん、この場合は単なる気のせいで終わってくれるのが一番だけど……しかし、その願いは、携帯電話のメール着信音に砕かれた。

 メールの内容を見た瞬間、心臓が止まるかと思った。それは愛菜ちゃんからのメールで、瑠璃が授業中に倒れて保健室に運ばれた、という内容だったもんだから、もう何も考えずに全力疾走だ。勝手知ったる自分の出身校だけに、迷うこともなく、誰の制止も聞かずに保健室へと走る。そして、保健室のドアを勢いよく引き開けた瞬間!

 ……養護教諭・足島さんの冷たい視線と共に、瑠璃の鞄などを纏めて持っている愛菜ちゃんが目に入った。

「瑠璃っ」

「何ですか、貴方は」

「愛菜ちゃん、瑠璃はっ!?」

「お兄さんっ!」

 狭い保健室中に、三人の混乱した声が響き渡った。必死に、泳ぐ視線でベッドを見るが、カーテンが閉められていて誰が寝ているかは全く分からない。

「だから何ですか貴方はっ!」

「瑠璃は、どうなったんだ!」

「落ち着いてください、お兄さんっ!」

 愛菜ちゃんが俺の襟を掴み、強く揺さぶったところでようやく目が覚めた。

「まさかお兄さんがここまで来るとは思わなかったですよ……」

 呆れた様子でそういう愛菜ちゃん。手には、自分の携帯電話を持っている。

「だって、瑠璃が……」

「お兄さん、きちんとメールを読みましたか?」

「……え?」

「やっぱり……」

 愛菜ちゃんは、思いっきりタメ息を一つ付いた。

「お兄さんがこんなに取り乱すのなんて初めて見ましたよ……いいですか?私は、『瑠璃ちゃんが倒れたけど、只の脳震盪だから心配ない、大事を取って早退させます』とメールしたんですよ?」

「でも、脳震盪って……」

「瑠璃ちゃん、今日は朝からおかしくって……心ここにあらずというか、話しかけても上の空でしたし、どうしたのかな、と思ったら、体育のバレーボールで顔面に思いっきりスパイクを受けちゃったんです。……それで倒れ込んで……私が肩を貸してここまで来たんです。倒れ方も頭からじゃ無いから良かったようなものの、取り合えず大丈夫そうなので、こうして寝かせておいたんですよ」

「そうか……」

 取りあえず『悪い予感』は当ってしまったんだな。しかし、真っ正面のボールに反応出来ないとは……元々、瑠璃は球技全般が得意じゃないことは分かっているが、単純な危機を回避できないくらいとは……どう考えても異常だ。

「貴方……どこかで見たことがあると思ったら、ウチの卒業生の」

 足島さんが、ようやく俺の正体に気がついたらしい。一応、この学校では名前が売れてるし、確かこのおばちゃん先生は、俺が二年の時にこの学校に赴任してきたんじゃなかったかな?保健室とはまるで縁の無かった俺だけど、そんな養護教諭にまで名前と顔を覚えられていて光栄だ。

「そうです。瑠璃を迎えに来ました」

「全く……どこの部外者が乱入してきたのかと思ったわよ……」

「はは、すいません」

「でも、保護者が来たのなら心配は要らないわね。さっき水上さんが言ったとおり、脳震盪だと思うわ。本人はすぐに立ち上がろうとしたんだけど、念のために寝かせておいたのよ。心配なら、病院にCTスキャンでも受けに行ってくる?」

「いえ、ボールが当っただけって言うんなら、倒れるときに頭を打っていなければ平気だと思います……」

 足島さんはベッドに歩み寄り、カーテンを静かに開けた。そこには、瑠璃が静かに仰向けになっている。さくらの事もあるし、これで安らかな寝息を立てていなければ、またもやあらぬ勘違いをしてしまうところだ。俺も相当精神をやれているらしい……

 瑠璃の顔に掛かっていた髪を指先で払う足島さん。……あまり、顔色が良くないな。頬に触れると、体温が低かった。オマケに眼帯までしてるし……青タンでも作ってるのか?それでは美少女が台無しだな。

「取りあえず、家に連れて行って寝かせよう」

「起こしちゃうんですか?」

「保健室に寝かせておくわけにも行かないだろう?……瑠璃、瑠璃、大丈夫か?」

 耳元で呼ぶと、瑠璃は長い睫を振るわせ、眼を開いた。だが、その瞳はとろんとしていて……まだ状況が良く飲み込めていないらしい。それとも、まだ頭を打った影響が残ってるのか!?

「あ……お兄ちゃん?」

「瑠璃……どこも痛まないか?」

「うん……あれ?私……どうしたんだろ……」

 未だに頭をふりふり保健室の中を見回すと、ようやく状況を掴みかけて来たようだが……

「そうだ、私、頭に……」

「それで倒れて、愛菜ちゃんがここまで肩を貸してくれたんだとよ」

「そうなんだ……有り難う、愛菜ちゃん」

 ベッドに半身を起こしたまま、ふらふらと頭を垂れるが……どうにも頼りがいがないな。

「もう起き上がれるなら、今日はもう家に帰ろう。そんな状態のままだったら、みんなに迷惑が掛かるからな」

「……うん」

 自分の状態をわきまえているのか、今朝のような強がりは言わず、素直に頷いてベッドから降りた。が、

「あ……」

 足下がおぼつかない。ふらっとバランスを崩しかけたところを、俺がしっかりと受け止めた。まだまだ足が利かないようだ。

「無理するな。やっぱり、今日は休ませれば良かった……お前がこんなに苦しんでるなんて、朝は分からなかった」

「……うん」

 聞いている愛菜ちゃんと足島さんは、一体何が何のことだか分からないだろうな……

「とにかく帰るぞ」

「……はい」

「あ、お兄さん、私も付き添います。心配だから……」

「いいのか?じゃあ、悪いんだけど瑠璃の鞄を頼む」

「はい。……あれ?お兄さんの鞄は?」

「あはは……高校に置き忘れたまんまだ」

「よっぽど慌ててたんですね。本当に……今日は二人でどうしちゃったんですか?」

「それは……道すがら話すよ」

 とにかく、瑠璃の持ち物を愛菜ちゃんを預けて、俺はベッドの前に、瑠璃偽を向けてしゃがみ込む。

「……お兄ちゃん?」

「おんぶ」

 そう言ってやると、後ろを向いていても瑠璃の顔が真っ赤に染まってゆくのが、手に取るように分かる。ま、あの歳でおんぶされるのも恥ずかしいだろうが、俺としては、おぼつかない足取りで歩かれる方がよっぽど困る。しばらく待った後、そんな意図が伝わったのか、素直に俺に身体を預ける。

「よし……ちゃんと捉まってろよ」

「……うん」

「それじゃ、どうもご迷惑を」

「ん……きちんと休んでね」

 足島さんは、それ以上何も言わず……ただ微笑んで俺たちを見送ってくれた。何か言われるより、そっちの方が余程有り難い。

 校舎を出ると、おびただしい数の視線を感じる、瑠璃をおぶっているのだから当たり前だが、相当注目を浴びてしまっているんだろうな……男どもが「矢島(瑠璃)には兄貴が付いているから、そう簡単には手が出せない」と思ってくれれば、それでいい。愛菜ちゃんも、苦笑いするだけだ。

 東和吉中学の校門を出、河原沿いの遊歩道を歩いて家へと向かう。今日は本当に良い天気だな……見上げれば、どこまでも晩秋の澄み渡る青い空。この空を、さくらの魂はどこまで登っていったのか。こうして落ち着いて、瑠璃を手元に引き寄せた状態で考えてみると……不幸だらけで、常に脅えたような瞳をしていたさくらのことを思い出す。

 ……気付いてはいたけれど、人間が自分の関わるもの全てを幸福にしようとするなんて事、絵空事なんだよな……

「お兄さん、瑠璃ちゃん、教えてください。今日は何があったんですか?」

 愛菜ちゃんは、本当に心配そうに……そう小さく聞いた。瑠璃の大親友だし、それに……俺に対して好意を……持ってくれている。その二人がこれほど落ち込んでいるのだから、心配するのは無理もない。いや、心配するなという方がウソだし、彼女にはできっこない話だ。

 朝、家であった事のあらましを全て話すと、愛菜ちゃんは納得したようで……そして、何も掛ける言葉が見つからないようだった。彼女もかなり過酷な境遇の生い立ちだけど、それでも……やはり、身近な存在の死というものがどれだけ堪えるか……

「瑠璃ちゃん、私は……間違ってなかったと思うよ。……それ以外に言いようもないけど、そう思ってなくちゃ……やってられないじゃない」

「うん……」

 俺の背中から聞こえる瑠璃の声は、……聞いているだけで涙が出てくるくらい、深い悲しみを湛えていた。自分の力が及ばなかっただけではなく、純粋に命が消えることの重さに耐えかねているのか。

 ……確かに、瑠璃の情操教育にはもってこいと思っていたけど、ロクに触れ合う記憶もなかったのに、いきなり別れの記憶になってしまうなんて計算外だった。いずれは別れがくるとは分かっていても、それがこんなに早いとは……

 ……それ以降、重苦しい雰囲気の中、河原を歩いている三人の内、誰一人として口を開かない。背中に感じる瑠璃の体温を確かに感じ、瑠璃が確かに生きていると分かっていても、それすら疑ってしまいそうになるほどだった。

 一緒に付いてきてくれた愛菜ちゃんは、さくらの為に線香を上げていってくれた。流石に、タオルにくるまれたさくらの変わり果てた姿を見たときは絶句してたけどな。愛菜ちゃんも何度か遊びに来てくれたけど、やっぱりさくらはまともに姿を見せなかった。とはいえ、それでもう十分に関係者だし……

 自分も手伝うという瑠璃をなだめ、遠藤と龍志が来てくれたときのために留守番を言いつけた。そもそも、瑠璃は身体を休めておかなきゃならないんだから。

 さくらの亡骸を適当な段ボールに入れ、軽く封をしようとしたところで……手を止める。いくら何でも、このままじゃさくらが可哀想だ。せめてものはなむけとして、キッチンのテーブルの上に生けてあった花と、折り紙で作った皿にエサを入れたものを段ボールの空いた場所に置く。そして、いざガムテープで封をしようとしたが……そこで、段ボールの上に水滴が落ちた。

「あれ……?」

 雨も降ってないし、雨漏りじゃないよな?と思って上を向くと、涙を流していたのは俺だった。……なんで、俺が泣いてるんだ。泣かなきゃならないのは瑠璃なのに。そうか、これは『さくらを助けられなかった自分』『さくらの死に際し、悲しみに暮れる瑠璃を見ることが悲しい』だから涙しているんだ。

「お兄ちゃん?」

 肩を振るわせる俺の後ろ姿を見て、瑠璃がソファから立ち上がって俺の傍まで来ようとした。

「来るな」

 だから、俺はそれを鋭く制した。涙なんて、見られたくない。しかも、何故流れたか分からない涙なんて。

「いいから、お前はそこで横になってろ。俺が帰ってくるまでに遠藤と龍志が来たら、相手をしてやってくれ」

 なるべく瑠璃に顔を見せないように、そっと頬を手の甲で拭う。この行為だけで泣いているのがバレバレだったが。瑠璃もそれ以上追求しようとはせず、ただ……黙っていた。

 タクシーを呼び、予め調べておいた、動物も供養してくれる寺に行き、全てを託す。係員に段ボールを預ける時に、一言だけ

「ごめん」

 つい、言葉が出た。さくらは……俺たちを許してくれるだろうか。まさか、あのまま保健所で処置されてしまっていた方が良かった、とか言わないよな?

 家に帰ると、丁度遠藤と龍志が線香を上げている途中だった。家を出た時はまだ昼前だったから、どこをどう帰ってきたのやら……タクシーを拾って帰って来たのは覚えてるんだけど。

 骨もまだないし、写真すら撮っていないから、あるものといえば本当に即席の仏壇のみ。それでも……さくらがここで暮らしていた証拠は、俺たちの胸の中にある。

「矢島くん……どこに行ってたの?」

「……寺に、合葬を頼んできた」

「……そう」

 遠藤も猫好きなら、その供養の仕方が正しいことを知っているだろう。……いや、他に方法があっても、今の俺たちにはこれくらいしか出来ることがない。

「瑠璃ちゃん」

 遠藤は、また放心状態になってしまった瑠璃に向き直り、「聞いて」と短く、そして瑠璃の眼を正面から見据えて言った。

「瑠璃ちゃん、確かにさくらくんは残念だったけど、貴方がそれを気に病む必要はないの。これは……仕方がなかったことなのよ」

「仕方がない……?」

「そう。貴方が救ってあげたことで、さくらくんは短い間だけど、その生命を長らえることが出来た……そう、考えるしかないのよ、私たちは人間なんだから」

「人間……?」

 ……人間なんだから。

 さくらが本当はどう思っていたかなんて、そもそも人間に分かるはずがない。さくらを助けたのが人間としての偽善だったとしたなら、それを貫き通さないと精神を病む。もともと、人間は矛盾の塊なのだから。

 瑠璃も、その意味が分かるだろう。今は分からなくとも良いけど、きっといつか……分かって欲しい。

「じゃあ、私たちはこれで失礼するわ。……瑠璃ちゃん、じゃあね」

「亮……僕からは何も言えないけど、その……元気、出して」

 二人とも短い挨拶を残し、帰って行った。

 リビングには、再び俺と瑠璃の二人だけとなった。夕暮れの時間帯も終わって、そろそろ部屋中が夜の帳に包まれるまで、俺たちはじっと無言のままでいた。昨日まで、あれだけ温もりに満ちていたリビングが、今日は一転して葬式の場そのものに一変してしまっている。

 深い悲しみ。それを乗り越えようとすることを、これほどまでに肝に銘じたことはなかった。このままでは、俺達二人は……いや、瑠璃はきっとダメになる。自分に罰を背負わせて生きる、卑屈な人間になってしまうかもしれない。

 それだけは……避けなければ。

「瑠璃」

 日も完全にくれ、肌寒くなってきたリビング。その名を呼ぶ声までもが寒々しく響くような気がした。

「さっき、遠藤が言ったとおり、これは事故だ。事故……」

「そんなこと、思えるわけないじゃない!」

 瑠璃が、叫んだ。

「私、さくらに何もしてあげられなかった……もっと、もっとしてあげられることはあったはずなのに……私、こんなに小さな人間だっだんだ、こんなにも無力だったんだ!」

 身を震わせて、そう声を上げた。悲鳴に近かった。完全に錯乱している。何が瑠璃をそこまで追い詰めたんだ。

 俺は、行動に出ることにした。

 瑠璃を、思い切り抱きしめた。きつく、瑠璃の身体が壊れてしまう程に。

「お、お兄ちゃんっ!?」

「瑠璃、お前が無力だなんて誰が決めた?それを決めるのはお前じゃない。いや、そんなものは誰にだって決められる事じゃないんだ」

「お兄ちゃん……」

「だから……思い詰めるなよ。全部……その想いを、俺が受け止めてやる」

 俺の胸の中に抱かれた瑠璃から、力が徐々に抜けてゆく。瑠璃自身だって、そんなことは……この一件はどうしようもないことは分かっていたはずだ。しかし瑠璃の性格が、その罰を一身に受けることを望んでいてしまったんだ。良い子すぎるのも……この世には辛すぎる。それを、俺が少しでも受け止めて、和らげてやれれば……それが俺の幸せだ。

「泣いて……いいんだぞ」

「泣かないもん」

「泣いていいって」

「泣かないもん!……ひっく、ぐす……」

「ほれ」

「うぐ、うああああああああああん」

 ようやく、泣いた。こういう場合は、泣いてしまうに限る。涙と共に、ため込んだ想いを洗い流して、そして……新たな気持ちを入れ替えていけばいいんだ。

 瑠璃の嗚咽は、それから長い間続き……それが止んだ頃には、瑠璃は俺の胸の中で泣き疲れて眠っていた。その長さは、瑠璃の悲しみの大きさを表わしてもいたのだろう……

 在り来たりな言葉かも知れないけど……これから二人で、さくらの分も……楽しく生きてやるしか、ないんだ。それ以外に……自らに都合のいい贖罪の方法など。

 瑠璃が、静かな寝息を立てて膝の上で眠っている。まだ少しだけ涙に濡れた、長い睫に縁取られた瞳が閉じられている。その顔を見ると、胸の中で不思議な気持ちが……いや、これは……今まで封じ込ようとしたり、戸惑ったり、覚悟を決めようと思ったり……自分で持て余していた気持ちの正体に向き合う踏ん切りが、今再び付いた。一度は迷わないと決めたのに、何回迷えば気が済むのだろう……それだけ、この気持ちへの向き合い方が難しいということでもあるんだが、俺はもう迷わない。勝手に強いと決めつけていた瑠璃。その弱さともろさが分かった以上、他の誰にも任せてはおけない。他人任せにするくらいなら、最後の最後まで自分が責任を取ってやる。そう、例え龍志にだって任せてはおれない。龍志を信頼してないというわけではないが、俺は瑠璃を……その脆い所も含めて、人間的に愛してしまったのだ。

 よく眠っている瑠璃のおでこの髪をかき分け、そっと唇を付けた。ごめんな、瑠璃。こんな風にしかキスしてやれなくて。……俺も臆病なんだよ……。

 相当疲れたのか、瑠璃を抱え上げても、部屋のベッドに寝かせてやっても目を覚ます気配がない。

 暗闇の中、窓から入ってた月の光に照らされている瑠璃の寝顔は、例えようもなく美しかった。こんな瑠璃が、例えば澄んだ水を湛えた湖の側に立っていたら、多くの人間が伝説のウンディーネと見間違えてしまうだろう。

 只でさえ白い肌の色が、柔らかな月の光を受け、さらに浮き立つように滑らかに光っている。頬の辺りなんて、ニキビなどの突起物がいささかも見られない程になだらかで、こんなにも上質の表皮がこの世に存在するのかと疑いたくなってしまうほどだった。目の前に居るはずの瑠璃に現実感を感じにくいのは、その美しさ故だろうか。そんな寝顔を見ていると、またキスしたくなってしまった。俺という人間は、一度覚悟が出来てしまうとどんな大胆なこともしでかしてしまう質らしい。

 瑠璃の口元に耳を寄せ、規則正しく寝息が繰り返されているのを確認してから、今度は頬に口づけを……

 と思った瞬間。

(………………!!)

 情けないけど、叫び声が口から飛び出しそうになった。しかし、その叫びはどのみち漏れることがない。何故なら、

「ぷは……」

 ごく短い間だけだけど、瑠璃の唇で塞がれていたから。

「瑠璃、お前……」

 自分の唇に指で触れてみると、その瞬間がウソでない証拠に、俺のものではない唾液で僅かに湿っていた。何故なら、自分の唇は、瑠璃の寝息を確かめる時点で、緊張からカサカサに乾いていたから。

「……ごめんね、お兄ちゃん……だけど私、どうしても……もう、妹として見て欲しくない」

「……」

「おかしいかな?『一応』は兄妹だし……普通なら許されないことだよね。でも、『一応』しか兄妹でないことも確かなの」

 月夜に浮かぶ瑠璃の姿が、熱を帯びて見える。勿論陽炎なんか出ている訳じゃないけど、感覚として瑠璃の体温が高くなっているのが、まるで直に身体を重ねている時のように、自分の体温を通して感じられるかのようだ。

「でも、瑠璃……」

「もうダメなの。幾ら『兄妹だから』って思い込んで、龍志さんと接してみても、いつも浮かんでくるのはお兄ちゃんの事だけ。実はね、この前龍志さんが遊びに来てくれた時、告白されちゃった。でも、断った。好きな人が居るからって」

 そんなこと……龍志はおくびにも出してなかった。いたって普通に、いつもと変わりなく、俺と接していた。あいつなりの、配慮、なのか。

「それでね、聞かれたの。『その好きな人って、亮でしょう?』って」

 (………………)

「『それならいいんだ。亮が例え瑠璃ちゃんと正式にお付き合いする事になっても、僕は亮を非難したりはしない。だって、亮にも色々と苦労があるのは分かってるし、明かせない思いだってあるんだろうしね。むしろ、そうなったらそうなったで、“やっと収まるところに収まったな”っていう感想しかないなあ』とも言ってた」

 それのどこまでがお前の本心なんだ、龍志。それらの言葉が、例え本心からでなく、俺との関係を最大限に思いやったつもりでも、例え俺を暗に非難しているのだとしても、もう退くつもりはない。むしろ……正面切って罵られた方がよっぽど気分がいい。

「変かな、こんな気持ち。でも、私は本気。だって、お兄ちゃんは、私のことをずうーーーーーっと気に掛けてくれたもの。色んな世界を見せてくれたし、色々諭してくれたし……それで血が繋がっていないなんて、好きになるなって言う方が無理だよ……」

「……」

「今キスしてくれようとしてたの、『そういう感情』じゃなかったの?」

「……」

「答えてよ、お兄ちゃん」

 しばらく、言葉が続かなかった。でもそれは、単に言葉に詰まったのではなく、言おうとしている言葉の意味を正確に吟味しているからだ。でも、結局出た答えは単純そのもの。飾り気のない言葉こそ、誤魔化しが利かず、最も正直に伝わるのだから。

「……好きだ」

 口にした瞬間、俺の身体の中心を、痺れのような、心地よい刺激が高速で駆けめぐった。言葉にする事によって、いよいよ逃げも誤魔化しも出来ない、俺の覚悟が頭の中心、全身全霊余すところなく認めたようだ。

「!!」

「好きだ、瑠璃。女性として、お前を愛している。一生を賭して、お前を愛し、守って行きたい。だから、お前も俺の力になってくれないか?」

 見る間に、瑠璃の瞳に再び透明な雫が溢れた。さっきまでの悲しい涙とは違う、歓喜の、この世で最も美しい涙だ。

「はい、私も……お兄ちゃんの力になりたいです。だからもう……離さないでね」

「分かってる」

 誓いの言葉は、それだけ。一緒に過ごした時間は短いけれど、それがどうしたといわんばかりの充実感が、俺等の誓いの証しだ。本当に……出会えて良かった。そして……言えて良かった。気付いて良かった。

 さくら、ひょっとして、お前が背中を押してくれたのか?こんなキッカケでもなければ、とても口に出せそうに、そして認めそうになかった。実際、こういう意味合いで瑠璃と抱き締め合っているなど、昨日の就寝前まではとても考えられなかった事だ。さくらが矢島家に居た時間も僅かだったが、さくら自身も濃密な時間を過ごしたと思った、せめてもの礼だったのか。人間の勝手な解釈だが、そう思いたい。ありがとう、さくら。

 それからどれだけ抱き合っていただろうか、俺の胸の中で瑠璃が顔を上げた。瑠璃は言うまでもなく小柄だから、こうやって両手でその身体を包んでしまうと、殆ど首だけしか出ていない。本当に小っこくて華奢な人形みたいだ。

「ん」

 ただ抱き締め合うだけの行為に飽きたのか、目を閉じ、唇を差し出して『それから先』を求めてきた。少しだけ微笑んで、それに応える。今度こそ、本当の口づけ。

 徐々に唇同志の距離を縮めていき、ちょっとだけ鼻がこすれ合ってから……そして柔らかい部分が触れ合う。その瞬間自体は、ほんの一瞬だった。やはり照れがあるのか、すぐに顔を離したのは瑠璃の方だ。目を開けると、何だか嬉しそうな、残念そうな顔だ。何だろうと思っていると……

「鼻、ぶつかっちゃたね」

 と苦笑いしながら、薄暗い中でも分かるくらいに顔中を紅く染めて言った。何かの文学の中で、ファーストキスをするのに鼻と鼻がぶつからないかヒロインが心配するという初々しいシーンを思い出す。

「ぶつからないほうが良かったのか?」

「だって……いかにも不器用って感じなんだもん」

 少しだけ拗ねて言ったところで、ようやくそれが照れ隠しの一言だと気付いた。ヤバい、女心はここまで複雑だったのか。こりゃ、気をつけないとな。

「ぶつからないキスってのはな」

 言うなり、瑠璃の顎を片手で支え、そちらはほんの少しだけ、俺自身は、それとは逆方向に思いっきり傾けて、再びキスをした。最初のキスよりは大分長い時間経ってから顔を離す。

「こうやるんだよ。分かったか?」

「……キザ」

 瑠璃も、それにお返しするかのように、俺の両頬を両手で挟み、俺のマネをして顔を傾ける……までは良かったのだが、勢いが良すぎ、歯と歯が『かちん』とみっともない音をしてぶつかった。

「うう〜」

 自分主導のキスが果たせなかった瑠璃は、恨めしそうな眼をしている。

「慌てるなよ、いずれ上手くなるさ」

 それより先の問答を許さず、三度口を塞いだ。何も言わず、それを享受する瑠璃。どうやら、今回は全て俺任せにしてくれるらしい。もちろん、そっちの方が有り難い。

 しかし後で考えると、その時の俺は、滾る想いの方が先走り過ぎていた。

「んん!?」

 唇付近で生じた違和感に、瑠璃が頭を離そうとするが、それを許さない。瑠璃の小さな唇を分け入り、俺の舌が……

「ぷは、待って、お兄ちゃんっ」

 完全に口腔を犯す前に、瑠璃が俺を突き飛ばした。

「あ……ご、ごめん」

 明らかに調子に乗りすぎた。ちょっと……恥ずかしい。本当なら、俺が思いやってやらなければいけないのに。確かに、随分と御無沙汰だけど……性欲を一方的に吐き出すだけなら、恋人は右手だけでいい。俺には、瑠璃の良い思い出を作ってやる義務がある。

「……ごめんね、お兄ちゃん。ちょっとびっくりしちゃって……」

 瑠璃は、垣間見てしまった『大人の世界』に戸惑いつつも、まんざらでもない様子に見えるのは……俺の都合の良い解釈だろうか。

「俺こそ、ごめん……」

 ただそれしか言えずに、気まずい思いをした。しかしそれは、瑠璃のことを考えてやれなかった、当然の報いでもある。でも、いい機会だった。俺にはまだ、ケリを付けていないことが残っている。それを果たさないままに欲に流されてしまっては、俺が俺である証拠だと思い、大事にしている『ケジメ』にツバを吐くことになるんだ。続きをするのは、ケジメを付ける……つまり、『彼らに全てを打ち明け』てからでも全く遅くはない。むしろ、そうしなければならない。

「今日はこれくらいにして、メシでも食いに行こうか。腹……減っちまったし」

 おどけて、食欲で性欲をごまかしてしまう事にした。

「うん」

 瑠璃もそれを察してくれたのかは定かではないが、苦笑いして頷く。乱れた裾を直しながらのその一言は、それだけで格別の味わいを持つ。

 1階へ下りてゆくと、味気ない即席の仏壇が目に入った。しおれた花を他のものと取り替え、線香を再び備えてから二人で合掌。俺と瑠璃の距離を縮めてくれたさくらには、ひょっとして一番頭が上がらないのかも。

 外に出れば、朝の快晴に違わぬ星空。これだけ星が綺麗に見えるのは、冬も間近な証拠だ。その星の中に、星となったさくらは居るのだろうか。

 瑠璃と俺は肩を寄せ合い、家を出た後もしばらくは空を見つめて歩き続けた。

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