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i wanted call 'mom'

 ……瑠璃は今、何を考えているだろう。

 ……瑠璃は今、幸せだろうか。

 そんなことを考えながら、遠藤と下校していた。隣では遠藤が何か話してくれているけど、俺の耳には殆ど入ってきていない。

 それに加え、

 ……俺の母親は、一体どんな人間だったんだろう。

 ……俺の母親は、現在何をやっている人なんだろうか?

 という、つい最近になって沸々とわき出してきた疑問が、俺の正常な思考の一端を常に占拠するに至った。

 正直に告白して、この歳になって母親への慕情が強くなるとは思わなかった。それまで気にも留めていなかったファクターだけに、その想いへの戸惑いと渇望は、俺の心を掻き乱すに十二分だ。

「矢島くん、聞いてるの?」

「え?」

 不機嫌そうな声に我に返ると、傍らでは遠藤が明らかにムっとした顔でこっちを睨んでいた。美人なだけに、こうした表情の迫力と言ったら……

「さっきから『うん、うん』ばっかり。明らかに人の話を聞いてないでしょ?」

「……ごめん。ちょっと考え事してて、さ」

 ここは俺に完全なる非がある。素直に頭を垂れるが、今回ばかりはそれだけでは許してはくれなかった。

「……いつもの矢島くんなら、人の話を聞くときは必ず耳を傾けてくれるのに。一体どうしちゃったの?何か悩み事でもあるの?」

 追求が厳しい。心配してくれるのは嬉しいが、内容が内容だけに相談しにくい。

「……本村さんってさ」

「うんうん、なに?」

 流石に、自分の認めている絵描きの話題には食い付きが良いが、それだけに言ってから後悔した。何故なら、その後の言葉を全く用意していなかったから。

「……」

「本村さんがどうしたのよ」

「な……」

「な?」

「何歳なんだろうな、って」

 がく、と目に見えて遠藤の脚の力が抜けた。昭和の薫りがするボケ方だ。

「なにそれ……そんなことで悩んでたの?」

「仕方がないだろう?気になったんだから……遠藤だって、どうしてあんなに若々しいか興味が湧かないか?」

「そりゃ湧くけど……若々しいのも当たり前よ。本村さん、確かまだ40は行ってないはずよ。30……7、8じゃなかったかな」

「ほう……」

 そりゃ若いよな。子供ともすぐに別れたような事を言っていたし、それからずっと芸術方面に打ち込んでいたのか。

「で」

 遠藤はずずい、と顔を近づけて来た。不機嫌な顔だから余計に迫力があるな。

「矢島くんはどうしてそんなに本村さんの事が気になるのかな〜?ひょっとして、気に入っちゃったのかな〜?それとも惚れちゃったのかな〜?」

 わざと間延びさせた口調が、余計にからかわれている気分を盛り上げるな……しかしそこは認めざるを得ない。本村さんへの感情は、ごまかして良いような気がしなかったから。

「ああ……気になるな、かなり」

「へえ……この前から思ってたんだけど、矢島くんってやっぱり年上趣味?」

「どうしてそこに直結するんだよ……そうじゃなくて、その……全体の雰囲気を見てもらえれば分かるだろうけど、憧れるのはムリもないというか……同じ女性として、遠藤だってそう思うだろ?」

「確かに……ね」

 遠藤は、納得したかしないのか、とにかく、そこで追求を止めた。勿論俺には有り難かったけど、あっさり引いたのが少し……気味が悪いでもない。

「それにしても、さ……」

「ん?」

 遠藤は少しだけ躊躇った後、

「本村さんと矢島くんって似てるよね、どことなく」

 と、しかし軽く言った。本人には、『芸能人の誰々に似てる』というのと殆ど同じような感覚で言ったのかも知れない。

「そうかぁ?俺って、あんなに飄々とした性格なのか?まぁ自分じゃ分からないが」

「そうじゃなくって……顔全体の作りが、かな」

 ……その言葉を聞いた瞬間、本村さんの顔を見てから抱いていた違和感の正体に気がついた。……俺も、本村さんをどこかで見たような気がして、ずーっと記憶から人々の顔を拾い続けてきたのだけど……盲点だった。自分の顔を比較対象に挙げていなかった。

「ちょ、ちょっと……どうしちゃったの?一体。あこがれの本村さんに似てるって言われたんだから、少しは喜んだ方がいいんじゃないの?」

「……そ、そうだよな、あはは、は」

「……??」

 乾いた笑いを返すのが精一杯だ。何故なら、俺の脳裏に引っかかっている疑問の、点と点が繋がりそうになってしまったから。……でも、それは今のところ荒唐無稽な仮説に過ぎない。何から何まで状況証拠が不足している。しかしそれ以上に、その仮説を否定したかった。

「ごめん遠藤、俺、先に帰るわ。ちょっと用事があったのを忘れちゃってて」

「あ!何?そのいかにも急に作ったような言い訳!」

「本当にごめん。じゃあ」

「あ、ちょっと!」

 遠藤が制止するのも聞かず、駆け出した。きっと、明日は遠藤にあれこれ問い詰められるだろうが……今はそれどころじゃない。親父にどうしても確認しておきたい事があった。『ある仮説』を否定したいのは山々だったけど、それ以上に……俺の生い立ち、産みの親の正体への探求心……真実を知る事への恐怖よりも、真実を知る事への好奇心の方が勝っていた。

 しかし、急いで家に帰り着いたところで、親父に連絡のしようもないことに気がついた。予め教えられている連絡先は、恐らく携帯電話だろうが……今は海外にいるであろう親父に通じるとは思えない。

 それでも……親父が偶然国内にいることを期待して、ダイヤルした。これで繋がったら奇跡だよな……と待っていると、

「おう、ワシだ。どうした?」

 何と、繋がってしまった。

「親父!?今どこに居るんだ?」

「質問しているのはこっちの方だぞ?何か事件でも起こったのか?」

「いや、事件と言うほどの事ではないんだけど……」

「何だ、それならあまり掛けてくるな。料金がバカにならないんだぞ」

「だから、親父はどこに居るんだ?」

「……南米だ」

「へ?」

 と言うことは……これは

「衛星電話!?」

「その通り。いざというときのために……もっとはっきり言えば、瑠璃に何かあった時用に購入して置いたんだ」

 用意周到というか……取りあえず、俺たちの為にそこまでの気を払っているとは思わなかった。衛星携帯の端末って、ウン十万もするモンだぞ?それにもちろん通話料だって、普通の携帯などとは比べものにならないくらいだ。

「だから、この電話は本来ならば瑠璃専用ホットラインなんだが……まあいい。用件を言え」

「……じゃあ、訊きたい事がある」

 ……本当に、聞いても良いのだろうか。親父はあの時『一度しか言わない』と確かに口にしたが、それをよもや忘れてはいるまい。

「……俺の母さんの名前なんだけど」

「またその話か。一度しか言わないと言ったろう?」

「だけど、『名前を』二度と聞くなとは言わなかったぜ」

 どう考えても屁理屈だが、親父には効果的だろう。何故なら、親父は徹底的に筋を通す男だから。俺の言葉の意味もきちんと理解している筈だ。

「……お前も、父親の盲点を……いや、弱点を突くようになったか……年々人間としてエグくなってゆくな」

「ごまかすなよ。俺は本気で聞いてるんだ」

 そうそう、親父は筋は通すクセに、こうして追求をはぐらかす術にも長けている。油断すると、電話を切ってしばらくしてから何も話を聞き出せていない!と唖然とするハメになる。

「……だ」

「え?」

「……それを聞き出したいという事は……お前の周辺に何かが起きた、ということなんだろうな」

「親父?」

「そして、その心当たりを確信に変えるために、名前を知っておきたい、と」

 確かにその通りだが、何故親父はそんなことまで分かるんだろう。如何に推察力に優れた人間といえど、不自然だ。しかし、そんな疑問は……次の親父の一言で全て吹き飛んだ。

「電話があったんだよ……誰からこの番号を聞いたか知らないが……丁度、お前の掛けてくる少し前にな」

「な……」

「呆れた奴だよ、ワシをあっさり見限っておいて、何年も……十数年か、音沙汰無しでいたクセに、急に連絡を寄越すんだからな……ま、あっちがワシの事をどう思っていようと、こっちはちょくちょく調べてはいたんだが……嬉しくも悔しい事に、ワシの見立て通りに名を上げている」

「親父……」

 親父の言葉には、……嫉妬、軽蔑、敬愛、尊敬、畏怖、……述べることが出来ないほどの、一個人が一個人に対する、この世のあらゆる感情を表現する単語を網羅したかのような重さが感じられた。

「事もあろうに、お前の住んでいる街で個展を開く、などとわざわざ教えてきおった。ワシに知らせてどうしようというんだ。個展を見に来いとでも言うのか?」

「……して、親父をここまで苛む人物の名は」

 親父の話のお陰で、俺の頭の中の、おふくろを巡るジグソーパズルのピースが全て当てはまっていた。もう、この期に及んで及び腰にはならない。俺には、それを聞く権利がある。

「あきこ」

 親父は、短くそう言って……

「あきこ、だ」

 繰り返した後、大きく息を吐き出した。

 まるで、一仕事が終わったかとでも言うように。


 それから……冷却期間を置くこと約2時間。意を決し、とうとう事の決着を期すべく電話を掛け、彼女をある場所へ呼び出した。電話口からの様子だと、俺が全てを知ってしまった事を勘づいているのかいないのか……イマイチ分からなかったが、とにかく俺の中での一つの区切りを付けるべく、現実と対峙し、現実を自分のモノにする必要があった。

 場所は、街中のチェーン店の居酒屋・青木屋。高校生である俺が何とか入り込める場所などタカが知れているから、結局こんな所に落ち着いた。話を聞くのが本題だから、別に場所などどこでも良いのだろうけど。何となく……ガキならガキなりに、そう言った話には酒のある場所が合うのではないかと考えたが……廻りの喧噪から鑑みるに、正解でもなかったか。少なくとも、落ち着いて話を出来る環境ではないかな……

 席に着き、取りあえずウーロン茶を頼んで待つことしばし。約束の時間の8時……急な連絡にも関わらずに快く招きに応じた彼女は、果たして姿を現した。今日の服装は、場末の安居酒屋に似つかない、こないだの作務衣姿とはかけ離れた、いかにもキャリアウーマン……死語か……といった、アップにした髪に黒のパンツスーツというあまりにも格好良すぎる姿だった。やや背が高めで痩せ型という辺りも、そのスタイルの良さに拍車を掛けている。

「……個室じゃなくてすいません」

「いいのよ、こういう場所も結構好きよ。最近名前が売れてきたといっても、そう儲かってる訳じゃないのよ」

 そう話しながら俺の対面に座る。

「お話、あるんですってね。お酒が入る前に聞いておくわ」

「……」

「あら、何だか恐い顔してる。どうしたの?」

「聞きたいことがあるんだけど……時間は?」

「……勿論あるわ」

 彼女が、今自分がどんな状況に置かれていると思っているのかは知らないが、ともかく、ぎしっと椅子を軋ませて座り直した。話が長くなることを予想し、そしてその話に身構えるために座り直したんだろう……俺の『聞きたいこと』は察しが付いているようだ。なのにこれほど改めて聞く姿勢を取らなければいけないと言うのは、彼女にとってもこの会話が大きな意味を持つことを理解したからに他ならない。

「さ、聞きたいことはなあに?今恋人がいるかどうか、なんてのはナシよ」

「茶化さないでくれ。……大体分かってるんだろう?どこで調べたか知らないけど、わざわざ俺の住んでいる街で個展をやるくらいなんだから」

「……」

 言い訳を考えてでもいるのか、無言の時間が過ぎた。居酒屋の喧噪がその間のBGMだ。耳障りなことに代わりはないが、もはや今はそれどころでは無かった。どう言い逃れをしようと、俺は全てを知るまでは追求の手を緩めないつもりだ。……しかし、

「そう言うことなら仕方がないわね。そう、私が……」

 ごく。その言葉の続きが分かっていても緊張する。生唾を飲み込む音は、向こうにも聞こえたろう。

「私が、貴方の母親です。ほんの僅かな間だけ『矢島あきこ』だった人間、そして貴方と貴方の父親を捨て、自分の趣味の道に走った非常識極まりない女よ」

「自虐的に言えば少しは同情してもらえる、と思ったら大間違いなのは分かってるよな」

「……ええ。許してもらおうなんて思ってないわ」

 ……見つめ合った。いや、睨み合っていたという方が正しいか。どれくらいそうしていたのだろうか……

「もういいよ」

 先に折れたのは俺だった。

「最初からどうしようかなんて考えてなかった。ただ……俺の母親がどんな人間だったのか、直に確認してみたくなっただけさ。だって考えてみてよ、この世に自分の母親の名前と顔を知らない人間がどれだけいるのか。それを考えたら……こうして知ることの出来た俺はどれだけ幸せなんだろうか、って」

 ウソだった。

 本当なら……

 問い詰めたいことは山ほどあった。

 何故そこまでして芸術家の道へ進みたかったのか。

 そう考えていたなら、何故親父と結婚したのか。

 俺を産んだなら、せめて手が掛からなくなるくらい待てなかったのか。

 ……どれもこれも、納得の行く回答が欲しかった。恐らく、どんな理由でも俺を納得させることは出来なかったろうけど。

 ……でも、聞かなかった。何より一番大切なことは……全ては過去の事だと言うこと。俺はたかだか17歳だけど、例えば俺が17年前にやらかした事にツッコミを入れられても困るように、今の本村さん……いや、目の前のおふくろだって困ってしまうだろう。

 ……そう、その頃はおふくろだって若かったのだ。これから、俺が若さに任せてどんな突拍子も無いことを思いつき、決行するかするかなんて俺自身にだって分からない。この人は、その時に立ち上がらなければ後悔するときっと思ったんだろう。この人にとっては、子育てよりも自分の興味の方が需要だったんだ。……社会通念上はとんでもないことは確かだろうが、実際に捨て置かれた親父も、そして俺も……それで良いという気になっている。 仮におふくろが普通の主婦をやっていて、自分の夢を諦めて家庭に入ったという話を聞いてしまったら、俺はどんな思いをすればいいのか。きっと、可哀想だと思うに違いないが、その代わりに自分の夢を追わないでいてくれて良かったと思うのも確かだろう。俺を預かることになったじいちゃんは、内心とても穏やかじゃなかったろうけど、今のおふくろの成功を見れば納得する……かなあ。

 ……そう、俺がこの場を引けば良いだけの話なんだ。蟠りはあるけれど……きっと、普通の人間には理解されない思考だろうな。でも、いいんだ。何と言っても……おふくろは俺のことを完全に忘れのではなく、こうして様子を見に来てくれたのだから。俺が有名人になっていたら、その名声を利用しにノコノコ出てくる、という少々人間不信的な想像もしなくはないが、幸いにも今の俺は只の高校生だ。それに、親父には個展を開くという情報をリークもしていたようだし……

「……本当に、いいのね?今だったら、何をされても文句は言わないわ」

「……いや、いい。俺が決めたことだ」

 そう言って、全ての想いを断ち切ることにした。男に二言はない、こう言い切ってしまえば、後での言い訳がましいことは全て自分を裏切ることになる。……そうして、自分を厳しく律していないと……やっぱり、情に負けそうになるんだよな。

「……本当に、いい男に育ったわね。親は無くとも子は育つ、かな」

 おふくろは、そう言って少しだけ寂しげに微笑んだ。

「実はね、少しくらいすねたり怒ったりするのかと思ったから、身構えて来てたのよ。拍子抜けしちゃったわぁ」

「怒って欲しかった?」

「そりゃね、少しは母親らしい体験をしてみたかった事は認めるけど、無理よね、私に今更母親ヅラする資格なんて無いんだもの。それに、いざそんな立場になるなんて想像も出来ないわ。なにしろ息子とのケンカなんて経験がないんだものね」

 くす、っと思わず笑ってしまった。そんなこと、いちいち言わなくても良いのに。こういうところ、俺も少しは血を引いてるのかな。

「あ、今笑ったでしょ」

「少しだけ」

「あはは、本当に素直ねぇ。やっぱり、お爺ちゃんの教育が良かったのかしら」

「多分。親父に育てられるよりはよっぽどマシだったと思うよ」

 アルコールも入っていないのに、妙に饒舌になった二人。和解したという事実が、いきおい口を滑らかにしている。つい先日まで、顔も知らなかった母親と、今こうして笑顔で笑いあっている……時間は離れていえど、根底は同じ血が流れているんだ。……そう考えるしか、この心地よさの説明にはならなかった。

 それから、酒を入れつつ(無論おふくろだけだ)、お互いの色々様々を報告しあった。何しろ、ブランクは俺の生きていたまるまる17年間とあって、話は尽きずに……気が付けば、居酒屋の閉店時間になっていた。

「いけね、もう5時ぃ?」

「あら……本当ね、朝帰りになっちゃう」

 俺は素面だったけど、話をするのに夢中になっていたから、時間の経過が全く分からなかった。後にも先にも、時計の針を確認しようと考えもしなかったのはこの時間だけだ。

「……そろそろ帰るの?」

「ええ。明日には個展も引けるしね。朝から忙しくなりそうだわ。……もっとも、もう朝だけど」

 まだまだ話し足りないことはあったけど、時間が来たのならそれでいい。何しろ、また会える口実になるかもしれないから。

「また……会えるんだよね?」

「……初めて、慕っている様なこと言ってくれたね」

「そりゃ、あるさ。母親と知らなかった時から、さっぱりしてて面白い人だなとは思ってたんだぜ?」

「そうなんだ……もし惚れられてたら何て言い訳しようかとびくびくしてたのよ?」

 くす、と笑うおふくろは……まるで、年端もいかない、俺よりもあどけない少女のように見えた。

「それじゃあ……また、気が向いたら連絡して。携帯の番号は当分変えないから、安心して」

「うん」

 名残惜しいけど、また会える。そう思うと、気が楽になった。顔も知らない母親は、俺の中にはもう居ない。居るのは、顔も声も職業もきちんと知っている、一人の本村あきこという女性だ。

 店を出ぎわ、

「あ、一つ聞くのを忘れてたわ」

「何?」

 そとはまだ薄暗い。その中に、今までの微笑みとは全く違う貌をしたおふくろが立っている。こうして少しだけ距離を置いて全身を見てみると、その存在感からは不釣り合いなほどに小柄だった。身体の線だけでなく、背丈そのものも低かった。

「……」

「??」

 しばらく俺を見つめたおふくろは、しかし俺を見てはいない。

「あの人は……なんて言ってた?」

 親父を見ていたのだ。

 その時、押さえつけていた俺の心の中が一瞬騒ぐ。

(そんな顔をして聞くくらいなら、始めから気にしなければ良かったのに)

 でも……言えなかった。言えるはず無い。おふくろも、直接親父と接するのが憚られるからこそ、俺に聞いたんだ。それはつまり……些細な事だが、生まれて初めて母親から頼られているというのと同義でもある。そういう時は、

「そんなに……気にしてなかったぜ」

 ウソをつこう。後で、二人がきちんと向き合えるように。ここで『何といっていいか分からないような恐い顔してた』と言ってしまったら、きっと萎縮してしまうだろう。只でさえ、おふくろには引け目があるのだから。

「だから、落ち着いたら……顔を見せてやっても良いんじゃないかな。その時には、俺が仲介してもいい」

「うん……ありがとね、多分、力を借りる事になると思うから」

「よしよし」

 そして……どちらからともなく笑いがこみ上げてきて……

「あははは……」

「うはははっ……」

 きっかり1分笑い続けた。人の居ない、退廃的なムード漂う夜明けの街中に、全くそぐわない明るい声が良く響いた。

「じゃあね、……亮」

「それじゃ、……その……おっかさん」

 一回ぐらいは『お母さん』と呼んでみたかったが……照れちまって、上手く口が動かない。おふくろは、そんな俺の心境もすっかり見透かしているように苦笑いした後、珍しく朝靄の立ちこめる駅方面へ歩いていった。

 そんなおふくろの後ろ姿を、角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、俺も帰路についた。

 ……そう、これでいい。それだけで……今は満足だ。

 不思議な充実感が身体に満ちている。眠っていないにも関わらず足取りが軽くなり、終いには駆け出してしまうほどだった。

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