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ははおや

 美術展を見に行った、その次の日。俺は自室のベッドの上で携帯電話を弄びながら、躊躇していた。そして左手には……女流画家・本村あきこさんの電話番号のメモ。

 昨日は何とか自重したが……やはり、こういうものは貰ったらすぐに電話を掛けた方がいいのか?あんまり時間を置いて、

「え?貴方誰?」

 とか言われたら立ち直れないよ……だ・か・ら!昨日はお茶をご馳走になりました、とか口実をつけて、取り合えず連絡はしておきたい。

 そもそも、何故俺がこれほどまでに本村さんの事が気になるかというと……自分でも分からない。いや、最近は自分でも分からない事が多すぎるから、強引にその理由を分析してみても……ただ『興味がある』としか言えない。子供がいてもおかしくないような歳なのに、あの奔放そうな雰囲気が、妙に俺の気を引いたんだよな……

 とにかく、思い切って連絡してみる事にする。遠藤に黙っているのは気が引けるが……今更打ち明けられない。

 丁寧に、一文字一文字確認しながらダイヤル。緊張から二度三度打ち間違え、四度目でようやく正確にダイヤルする事が出来た。番号からいって、携帯電話の番号のようだが……

 しばらく経っても呼び出し音だけで繋がらない。今は9時だから……個展の後片付けで忙しいのかも。もう数回コールしたら切ろうと思っていると、その最後の猶予で

「はいはい、どちらさまですかー」

 と、至極親しみ易い声で、本村さんが出た。俺……こういうはきはきした声、スキだな。何でも相談できそうな気がする。「お母さん」というよりは、「お姉さん」という感じかな。

「あ、あの……昨日、個展でお会いした」

「あー、亮太郎くん!どーもどーも、昨日はお世話になりましたー」

「……お世話になったのはこっちなんですけど……」

「え?あー、そうだったわね!あははー」

 ……テンションが妙に高いな……ひょっとしてアルコールが入ってないか?それにしても、本村さんの声は若々しい。インターホン越しに「お母さんは留守です」と言えば、しつこいセールスマンも、ああそうですか、お嬢ちゃん留守番偉いねー、とか言って一発で退散するような声だ。

「それよりどうしたの?私の声が聞きたくなっちゃったとか?」

「……否定はしません」

「あら、素直ね。親の教育が行き届いてるのかしら?」

「さあ。少なくとも俺の場合、親父よりは祖父の影響の方が大きいですけど」

「あら、そうなの?」

 何故か、本村さんと話をする事が楽しい。年上と話しているような感じを受けるだけで、恐らくは俺と倍も違うだろう人と会話しているという気が全くしないんだ。

「でも嬉しいわぁ、本当に電話してきてくれるとは思っていなかったもの」

「……ひょっとして、迷惑でしたか?」

「まさか。その逆よ、いつ電話が掛かって来るか楽しみだったんだから」

「そうだったんですか……」

「なあに?もしかして、『連絡先を教えてもらってすぐに電話するのは格好悪い』とか思ったの?」

「……図星でございます、はい」

 素直に認めると、あはははは、と盛大な笑い声が電話口から響く。……昨日直接会ったときの雰囲気と比べてみても、今日は間違いなくアルコールが入ってるな。

「ごめんごめん、ちょっとうるさかったかな?今知り合いと打ち上げやっててさ、お酒飲んじゃってるから、会話がマトモじゃないでしょー」

「え、あ、まあ」

「本当に素直なんだから。そういう時は、少年らしく年上を気遣って、否定してみるものよぉ」

 正直に申し上げて、酔っ払いと話をするのは骨が折れまする。

「酔っ払いの相手をするのも疲れるでしょう?」

「……お見通し、ですか」

「やっぱりそう思ってたんだぁ」

「……お願いです、もう勘弁してください」

 再び、高らかな笑い声。飲み場にしては回りが騒がしくないから、一応店の外に出て迷惑を掛けないようにしているようだ。そこら辺は大人の気遣い……ってやつかな。……よく考えたら、そんな事は誰でもやるか……自分が話を聞き取りづらいし。

「ごめんごめん、嫌なオバサンでしょ?」

「オバサンだなんて、そんな……」

「いいのよ、自分だってそこまで若いとは思ってないから」

「はぁ……」

 アルコールが入っているとはいえ、冷静な部分を失うほどではないらしい。前後不覚になるほど飲むような人でもないだろう。

「今日はこのとおりだから、またこっちから連絡するわ。折角電話してくれたのに悪いわね」

「いえ……こちらこそ、忙しいところをお邪魔して申し訳ありませんでした」

「……ふふ」

「?」

「礼儀正しいのね。お爺ちゃんの教育の賜物かな?」

「多分、そうだろうと思います。そういうところ、結構厳しかった人ですから」

「そう……」

 本村さんは僅かな間だけ言葉に詰まった様に黙ってしまい……

「それじゃ」

 短く挨拶すると、さっさと切ってしまった。……なんだろう、今の間は。常に喋りまくりな本村さんが言葉に詰まったあの僅かな時間、ほんの一瞬だけど、しかしたったそれだけで、本村さんの過去に触れてしまったような気がする。

 リビングに戻ると、瑠璃がさくらと可愛らしいにらめっこをしていた。瑠璃がどんなに警戒をほぐしてやろうとしても、さくらには全く通じない。余程大きな心の傷を負ったんだろうか、その猫は哀れなほどに人間をから遠ざかりたいらしかった。

 それを横目で見ながら、コーヒー豆の入った缶を開けようとして……今日は緑茶にするかと思い直し、茶漉しなどを用意する。

 お茶請けは何がいいかなと戸棚を漁ると、丁度良い具合に、封を開けていない買い置きの外国産クッキーがあった。銘柄は……てぃむ……たむ?甘そうだし、コーヒーの方が合いそうだが、もうお茶を用意しちまったからしょうがなくそいつを持ってリビングに……

「……何やってるんだ、お前は」

 瑠璃は、テーブルの下頭を潜り込ませ、ケツをこちらに突き出す様な格好をしていた。 割と短めのプリーツスカートを履きながら、こんな無防備な格好を晒しているって事は、俺の事を『オトコ』としては見ていないのと同義だな。寂しくもあり、そして嬉しくもあり。

「こうやって……んしょ……目線をさくらと同じにすれば、少しは安心してくれるかなーと思って……」

 仮にさくらが安心したとしても、今度は俺が不安に駆られるぞ、その格好は。

「取りあえず、お茶にしよう」

「うん……」

 テーブルの下に未練を残しながら、ソファに腰を下ろした。

「あ、今日は緑茶なんだ」

「ああ。たまにはいいだろう?このクッキーに合うかどうか分からないが……こんなもの、何処で買ってきたんだ?」

「街の少し外れに輸入食料品のお店があるの。店先に色々と珍しいものが置いてあったから目を引かれちゃって……」

「なるほど……そんな店があるとは知らなかったな」

「今度行ってみる?」

「面白そうだな。たまにはそういう所に行ってみるのも、発見が出来ていいかも」

 瑠璃がこの街にやって来てから、もう半年以上。随分と溶け込んで、自分で新しい店を発見するまでになった。本当に……良いことだよな。一目で魅入られる可憐な容姿に加えてこの慎み深い性格だから、中学校でもかなり人気があるんだろうな……男子中学生なんてサルと一緒だから、こっちが心配になるくらいだ。

「瑠璃」

「なあに?」

 チョコレートでコーティングされているクッキーを、如何に手を汚さずに食べようかと苦心している瑠璃の仕草があまりに可愛くて……何とも言えぬ保護欲を醸し出している。

「……お前、母親の記憶があるか?」

「お母……さん?」

 言ってから、即座に失敗したと思った。

 だって……瑠璃の表情が途端に沈んだから。俺が二度と見たくないと思ったはずのあの顔に。

「私……お母さんの事……全然知らないの。お母さんは、私が産まれてすぐに……」

 そこまで辛うじて言葉を紡いで……俯き、絶句した。

「そうか、悪かったな、急にこんな話をして」

「ううん……お兄ちゃんにだったら、聞いて欲しかったから……」

「……」

 母親。その存在が瑠璃にとってどれだけ大きいものなのか……そりゃ、俺だって母親の顔を見たことはないけど、今更それが寂しいと思わない。しかし瑠璃は……父親が無くなっている以上、他に肉親の思い出がないんだ。そういう意味では……俺など問題にならないくらいに過酷な生い立ちだ。

「それじゃあ、お父さんに母親の話を聞いたことはあるか?」

 この質問も外してしまったら……と躊躇ったけど、一か八かに掛けてみる。俺に聞いて欲しかったと思っているなら……聞いてあげたい。今のこの雰囲気を逃すと、この先ずっと瑠璃の記憶の一端に触れることが出来なくなりそうな気がしたから。

「……すっごく、綺麗な人だって言ってた。お父さんが大学の教授、お母さんがその講義を受けていた生徒。お母さんが大学を卒業したらすぐに結婚したんだって」

 思わず胸を撫で下ろした。この話を、瑠璃の実父である岩戸教授がしてくれていなかったらと思うと……

「お父さんが一目惚れしたかと思ったら、実はお母さんの一目惚れだったんだって。急に『教授、私とお付き合いしてみませんか?』ってあっけらかんと言われて、かなり面食らったってお話よ」

 ほう……瑠璃のお母さんだから、もっと大人しい人だったのかと思ったが、かなり積極的で突拍子もない行動をする人だったんだな。瑠璃は、どちらかというとお父さん似なのかも。……それにしても、この話をするときの瑠璃は……楽しそうで、それでいてちょっと寂しそうで……そして、やや伏しがちの大きな瞳を縁取る、長く艶やかな睫がほんの少しだけ濡れて光っていた。

「……そうか、仲……良かったんだろうな」

「うん……お父さんはお仕事で海外で過ごす日が多かったけど、お母さんは全然寂しくなかったって言ってたんだって。どうして寂しくないのか?って聞いたら、『だって、いつも心は貴方と共にあるんだもの。寂しくなんてないわ』……だって。もう恥ずかしいくらいに仲が良かったらしいの」

 涙が……零れた。亡き両親を思って話をしている……悲しく、寂しくもあるが、同時にそんな記憶を語れることが嬉しい、のか。しかし……そんな思い出があるなんて、心底羨ましいと思う。俺は勿論父親が健在だが、母親の話がその口から出てきた事など一度もないな……だからこそ、夏に「漣」へ遊びに行ったときの、水上のおばさんと瑠璃とのやりとりが印象に残ったんだ。

「そうか……良い夫婦だったんだな」

「うん」

 涙で瞳を無理矢理笑みに変える瑠璃。やっぱり、瑠璃も相当強い人間なんだな。強いが故に、その小さい身体に詰め込んでいる悲しみの量が半端ではない。満杯まで水を湛えたダムには放流が必要なように、こうして……俺がたまにその水門を開いてやらなければいけないのだ。そして、その悲しみを受け止めてやれるくらいに俺が強くなることも更に重要だ。

 それからしばらく……実父の、そして実母の話をしていた瑠璃は、憑きものが落ちたかのように晴れ晴れとした顔で、

「ありがとう、お兄ちゃん」

 と、礼を言ってよこす。

「……何言ってるんだよ、俺は何もやってないだろ?」

「ううん……こんな事、誰にでもお話しできる事じゃないから……嬉しかった。お父さんとお母さんが生きていた証拠を、大切なお兄ちゃんに聞いて貰ったの、とても嬉しかった」

「……そうか」

 俺もほっとして、思わず微笑んでしまう。それを見た瑠璃は立ち上がって……

「お、おい……」

「……」

 俺の隣りに座り、そして頭を肩に預けた。

「しばらく、このままで居ていい……?」

 何かを訴えかけるような視線。その視線に抗うことが出来ず、身を任せる。しばらくは身動きも出来なかったが、この行動の意味が俺に対する全幅の信頼と解釈して良いのなら、それはそれでとても良いことではあるんだろう。

 ちらりと横目で瑠璃を見ると、目を閉じ、うっとりとした顔で俺に寄り掛かっていた(・・・・・・・・)。

(……んん??)

 そーーーっと顔をずらし、その可愛らしい小さな唇へ耳を寄せると……


 くー、くー、くー……


 寝息を立てていた。元々眠かったのか、それとも張り詰めていた糸が切れたのか(そもそも、それだけ気を張っていなければいけない話をしていたのか)……とにかく、今は夢の世界の住人だ。

(しょうがないヤツだな……)

 苦笑いしながら、瑠璃を動かさないように努力しながら……かなり大変な作業だったが……いわゆる『お姫様抱っこ』の形で抱え上げ……うお、寝てるから重い!瑠璃の名誉のために言っておくが、あくまで寝ているから重いんだからな、重心の関係で。

 しかし、いざ抱きかかえてみると……やっぱり、人間の体重としては存外に軽かった。身長が約145Cmで、体重は……ひょっとして40を切っているかも知らん。その外見からも一目瞭然だが、瑠璃の『小柄』というのはただ単に身長が低いだけでなく、肉が付いてないんだ……必要なところにもそうでないところにも……こんな事を言ったら殴られるかも。

 瑠璃の安らかな寝顔を堪能しつつ、二階の階段をそろそろと登る。身体の上下動無しで一段一段階段を踏みしめるのって、結構脚の力を使うんだ。

 (しかし……)

 再び瑠璃の顔を見ると……幸せそうだ。確かに睡眠は至福のヒトトキだが……ふああ、俺まで眠気を催してくるではないか。それにしても無邪気な寝顔だな……まるで赤ん坊のようだ。

 両手が塞がっているから、瑠璃の部屋のドアをどうやって開けようかと思っていたら……半分開いていた。いくら何でも無防備すぎやしないか。それだけ俺が信頼されているという証と考えることも出来なくはないが……

 とにかく脚でドアを開け、部屋の主の性格を表わしているかのように、きちんとベッドメイクされた上に瑠璃をそーーーっと横たわらせる。

 ……ここまでしても未だに目を覚まさないという事は、既に熟睡してるのか。常に規則正しい寝息を崩さないところからすると、熟睡を通り越して爆睡の粋か。

 ……柔らかそうだな……

 俺の目に止まったのは、すべすべの頬。

 思わず手を伸ばし、中指の腹でなぞってみる。

 ……驚いた。世の中にこれ程滑らかなマテリアルがあるのかと思ったほど、敏感な筈の指の腹に引っかかりが無い。良く比喩に使われる、『絹のような』という表現が陳腐化するほどの感触だった。

「ん……」

 瑠璃が寝返りを打った。

 仰向けから、長い足を折りたたんで右肩が下になる体勢を取ると、スカートの裾がまくれて太股と……はっきり言ってしまえばその奥……が露わになって、慌てて目を逸らした。いかんいかん……淡い桜色の布切れには目もくれず、そっと直す。

 どうせ後で風呂に入るため起きるだろうが、ひとまず毛布を掛けてやってから、部屋を何気なく見渡す。瑠璃がやってくる前のここは空き部屋で、どんよりと暗くて倉庫のように変わり果てていたのだが……今は見事に可愛らしく飾られている。飾られているといっても『装飾』ではない。品良く生活感が出されている程度ということだ。やはり、家は人が住んでいないと荒れてしまうものなんだな。

 ぱちり、と証明を消して階段を下りると、丁度リビングで電話が鳴った。

「はい、もしもし矢島ですが」

「おう、亮か」

「何だ、親父か」

「何だとは何だ、仮にも父親に向かって」

「自分で仮って言うか?普通……」

「では聞くが、お前の父親は普通か?」

「……明らかに普通じゃないな。忘れるところだった」

「何だと!?」

 こういうおかしな人間を父親に持って、俺は心底幸せだ、あ〜幸せだ。

「それより、どうしたんだよ今日は」

「父親が何の理由もなしにわざわざ電話すると思ったのか?」

「じゃあ何か理由があるんだな?そう言うことは、前例を作ってから言えよ」

「……言うようになったな。実は何も理由がない」

「……やっぱり」

「あえて理由を付けるとするなら……たまには可愛い娘と息子の声を聞きたくなった、って所かな」

 こんな親父だけど、一応は俺等の事を気にはかけてくれている。過干渉をしないそのの姿勢が、いかにも口下手で照れ屋の親父らしい。

「そっか、そうやってもっと電話してきてくれればいいのに」

「……気味が悪いな、もっと引かれると思ったのに」

 ……瑠璃と親の事を話した後だからかな、こんなに俺の心が素直なのは。親父の言うとおり、いつもだったら冗談で切り返しているところだけれど。

「ちょっと……ね。親父、少し聞きたいことがあるんだが……」

「カネの問題以外なら相談に乗るぞ」

「息子相手にそれは洒落にならねぇよ……そうじゃなくて!……聞きたいのは、俺の……産みの母親の事だよ」

「……」

 母親の事を切り出した途端、親父が電話口で絶句したのがはっきりと分かった。

「あのさ……俺の母親って、どんな人だったんだ?」

「……」

「今までは考えることもなかったんだけど……まあ色々あって、さ。少し興味が出てきたんだ」

「……そうか」

 親父は多くを喋らない。まあ、別れた女房の話なんて、どんな男でもあまりしたくはないのかも知れないが……そもそも、どちらから別れ話を切り出したのかすら知らないけど。

「……」

「親父?」

「ん?あ、ああ、何だ?」

「親父、さっきからおかしいぞ」

「何も……おかしくなど無い」

「……いいや、やっぱりおかしいぞ」

「そんな事より、瑠璃は元気にしてるか?」

「寝込んでる」

「何ッ!?何故それを早く言わない!ど、どんな病気なんだ!」

「眠くて」

「……やはり、ワシの育て方に問題があったようだな」

「今更気づいたのか」

「……く、口ばかり達者になりおって……」

「止めて欲しくば、少しくらい母親の事を教えろ」

「ぐ、卑怯な!言質を取るとは……」

 やれやれ……親父のノリがいいのは結構なんだが、本格的に相手をしていると疲れるんだよな……

「……分かった、話してやる。何が聞きたいんだ」

「そうだな……どんな人間だったのか、どんな馴れ初めだったのか位は知りたいな」

「……自分にとっても、そろそろ区切りを付けた方がいいと思っていたからな。一度しか言わないから、よーく覚えておけよ」

「……ああ」

 親父にとっての『区切り』とは何を意味するのか。ひとまずそれは置いておいて、話に耳を傾ける事に集中する。俺の親父というのは、「一度しか言わない」と言ったらそれを貫き通す人間だから。

 親父がどこから電話をしているのかは知らないが、あとで電話代が心配になる程長い話になった。

 要約するとこうだ。

 一、おふくろは、親父が大学で教鞭を執っていたときの教え子。ここまでは俺も知ってる。馴れ初めはというと、妙に人懐っこくて質問ばかりしてくる女生徒が、あの親父の何処をどう気に入ったものか、積極的に押し倒しちまったらしい。

 二、そして、おふくろは自身の卒業若いという理由で相当反対された模様。それらを強引に説き伏せたのが親父。

 三、別れた理由。これについては親父も相当言葉を濁していたが、どうやら母親の方から三行半が突きつけられたらしい。ともあれ、俺を産んですぐに別れたそうだ……何だかなぁ。親父のおイタが原因でないことを祈るばかりだが……その公算は残念ながら大と言わざるを得ないな、親父の性格を見るに。

「とまあ、こんなところだ……満足したか?」

「もう一つ聞きたいことがある。何かこう……おふくろ……との、心に残る交流の話みたいなものはないのか?」

「……無い。あいつは……ワシの想像を超えた人間だったから、凡人のワシが理解できる筈が無かったんだ。勢いで籍を入れ、勢いで子供を作ってはみたけれど、それで収まる器じゃなかったんだよ」

「何だよ、それ……」

 あの親父が観念したような台詞を吐いている。こんな弱気な親父を見る(正確には聞く、だが)のは初めてだ。

「それが分かっていたからこそ、アイツの口から別れ話が出ても素直に応じたんだ。アイツを縛り付けていては、必ず大きな損失になると、な」

「親父……話が繋がらないんだけど」

「もうこの辺でいいだろう。その辺りの事は些細な物だ。お前の父親は、母親の才能に負けたんだよ。その事を知っていれば……それでいい」

 卑屈な親父の発言に次第にイライラしてきた。イライラは、勝手に三行半を突きつけたおふくろにも向けられている。そんなにあっさりと離縁を迫るなら、何故そもそも親父に身体を許した。何故籍を入れるまでした。

「良くねぇよ!何だよそれ!意味分かんねぇよ!」

 肝心な所を端折ったままの親父の物言いに、思わず声を荒げてしまった。自分では気付かなかったが、相当大きい声でまくし立ててしまったらしく、視界の片隅に、眠っていたはずの瑠璃が脅えた瞳で立ちすくんでいる姿が入った。

「……お前が何と言おうと、それしか……」

 俺の大声を咎めるでもなく、只弱々しく呟くだけの親父に益々怒りは募るが……

「……あ」

 瑠璃が、困った顔で着ていたシャツの裾を引っ張っていたのを見て、一気に冷めた。

「……分かったよ、もういい。つまり、おふくろの何に負けたかは知らないが……はいそうですか、と離婚して、親父はそれで良かったのか?」

「今更……良いも悪いもないだろう。しかし確実に言える事は」

「……」

「あの時はそれがベストだと思っただけだ」

「……親父がそう思ったんなら、もうこれ以上聞かない。その代わり、一つだけ教えてくれ」

「……何だ?」

「おふくろは、一体どんな風に親父の想像を超えていたんだ?」

 これが理解できれば、百万分の一くらいはおふくろと親父を理解できるかもしれない。

「……その作品の奥の深さが、さ」

 作品の……奥の深さ?つまりおふくろは、何らかの物を自分で生み出す立場の人間だったのか。

「ささ、もういいだろう。瑠璃が寝ているんじゃあ仕方がない。また別の日に電話するからな」

 瑠璃は傍にいるぞ、と言うが早いか、親父は逃げるように電話を切ってしまった。……そんなにおふくろの事が苦手だったとは……馴れ初めの話を聞く限りでは、それほどギクシャクした仲では無かったようだが。

 諦めて受話器を置くと、

「お義父(とう)さんとお話してたの?」

 瑠璃が恐る恐る尋ねた。未だに怯えの色を見せる瞳に、反省の念が募る。

「ああ……」

「それにしては随分と……」

「何でもない、何でもないよ、瑠璃。それより大きな声を出してごめん。起こしちゃったな」

「ううん……それはいいんだけど……」

 他にも何か言いたそうにしている瑠璃だった。その内容は分かってる。どうして声を荒げているような会話をしたのか、だろ?でも、瑠璃はあえて聞かなかった。

「たまにはケンカくらいするさ。親子だからこその、な」

 ウィンクしてやると、ようやく納得がいったらしい。

「……ん。分かった。……それから、部屋まで運んでくれて……ありがと」

「いや……」

 照れながら礼を言う瑠璃。何をそんなに照れているんだ、こっちまで恥ずかしくなるだろ?……ひょっとして、抱きかかえて部屋に運んだことを想像しているのか?

「私、重かった?」

 ……やっぱり。女の子だし、気になるんだろうな。

「重いと言えば重いが、軽いと言えば軽いな」

「どっちなのよぅ」

「考えなされ」

「もーう」

 唇をとんがらせる瑠璃の姿もまた可憐。美少女はどんな(かお)をしてもステキにしかならないな。

 それにしても。

 親父ほどの人間が自分の限界を悟ってしまう程のおふくろという人間は……一体どんな人物なのか、親父の半端な物言いの所為で余計に興味が湧いてきてしまったのだった。


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