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おもかげ

 翌日。

 家を出る前に、瑠璃に一言掛けておこうか迷っていた。「今日は遅くなるかもしれないから、もし遅くなったらメシは先に食っててくれ」と。その理由は……

 遠藤との約束があるからだ。昨日言われたとおり、「竹屋」の美術展を見に行くからだ。その事は瑠璃も承知しているが、何となく……躊躇する。どうにも、「遅くなる」という言葉にネガティヴイメージを受けるからだ。俺の考えすぎだろうけど……

「はい、お弁当」

 考えている内に、瑠璃が弁当を手渡してくれる。制服の上からのエプロン姿が眩しい。

「あのさ、今日……」

「ん、分かってる。あんまり遅くなるようだったら、電話してね」

「あ、ああ」

 わざわざ言うまでもなかったか……

 微笑んでエプロンを外す瑠璃。しかし……どこか影のある、寂しい微笑みだった。……何だか、瑠璃に悪いことをしている様な気になるな。

 玄関で靴紐を結んでいる短い間、身体を捻ってさくらの姿を探してみるが……居るわけがないか。これで「いってらっしゃい」若しくは、「お出かけしちゃうの?」とでも言いたげに玄関に座っていてくれたら可愛いんだけどな……まだまだ、猫との蜜月には程遠い。

「おはよう、矢島くんっ」

「おお、遠藤。おはよ」

 遠藤が後ろから声を掛けてきて、小走りに俺の横に並んだ。

「どう?さくらくんの具合は。きちんと捕まえてあげられた?」

 弾むような口調に、眩しい笑顔だから、こっちまで明るくなる。今日は、どちらかというと沈みがちな気分だから。

「昨日の今日じゃないかよ……見送りに玄関に出ても来ないよ」

「それもそうよね。慣れるまで辛抱強く待てって言ったのは私の方なのにね」

 肩をすくめる遠藤。割とクールな外見だけど、実際に接してみるとなかなか表情が豊かなので見飽きない。毎日新しい発見がある人間と付き合いがあるのは、同時に毎日新たな発見を出来る喜びを与えてくれる事でもある。……俺は、どうなんだろう?

「でも、なるべく早く病院に連れて行かなきゃダメよ?場合によっては、誰かさんがひっかき傷作っても、ね」

「うむむ……仕方がない、覚悟を決めるか」

「そうそう、あの様子じゃ、予防接種みたいなものも受けていないだろうし」

 全く、手の掛かる……しかし、そこがまた可愛い……のか?

「ところで、今日の放課後……覚えてるでしょ?一人で帰っちゃイヤよ」

「分かってるから心配するな。念を押す程楽しみだったのか?」

「もちろん」

 俺としてはからかい半分で言ったつもりだったのに、遠藤は照れも悪びれもせず、あっさりと認めてしまった。

「それとも何?矢島くんは楽しみじゃないの?」

「いや……楽しみ……でないことはないけど」

「回りくどい言い方ねぇ。興味がないんだったら、ムリには誘わないけど……」

「いや、そう聞こえたんなら謝るよ。でも、そうじゃなくて……」

「そうじゃなくて?」

「なんて言うのか、さ。遠藤は美術とか、デザインとか、編集とか、そういう進路にするって言ってただろ?まだ高2なのに、将来のヴィジョンをきちんと考えてるなんて凄いなって思ったり、な。今日の美術展なんて、そういった眼を養う為でもあるんだろ?正直、未来が見えてて羨ましいな、なんて思ったり」

 朝っぱらからこんな話を振られて迷惑かもしれないが、遠藤や龍志の明確な意志を見るに付け、自分の立場の不安定さが一層際だって感じるんよな……

「そんな……」

「ん?」

 見ると、遠藤は唇を噛みしめているようだ。俯いていて、表情はよく見えないけれど……すぐに笑って顔を上げた。

「そんな引け目を感じるような理由じゃないわ、私のは。言うなれば……ちょっとした復讐なのよ、私なりの」

「復……讐」

 急に物騒な言葉が出たから驚いたが……この様子だと、そんなに深い意味はないのかも。でも……一瞬だけ唇を噛みしめていたのが非常に気になるな……あれには、俺などには到底推し量れない何かが出ていた。

「やあね、そんなに困った顔しないでよ。言った私の方も困っちゃうじゃない」

 ぽんぽん、と俺の肩を叩き、

「早く行こっ。遅刻しちゃうわよ」

 と、今度は俺を追い抜いて言った。

「もうそんな時間なのか……げ、いつの間に」

 立ち話をしている訳でもなかったのに、時計はいつの間にかギリギリの線を指している。俺も遠藤に続いて駆け出した。

 ガラっ、と引き戸を思い切り開けると、想像以上に大きな音がして、俺達二人は教室中の生徒の視線を独り占めしてしまった。何で今日に限って扉が閉まっていて、しかもクラス全員が揃っているんだ。バツの悪さを感じながら、遠藤と別れて席に座る。別れると言っても……遠藤とは隣りの席どうしだったりするんだが……そういえば席替えはやらないのか?このクラスの担任は……

「おはよう、亮」

「おはようっす、龍志サン」

 すぐに龍志がやって来た。遠藤は……HRが始まるのも近いというのに、他の友達のところへ行って……何事か談笑している、というよりは冷やかされているようだ。

「最近、亮と遠藤さんって仲がいいよね」

 龍志は、楽しそうにお喋りしている遠藤や川村らを見ながら言う。

「……そう見えるのか?第三者からは」

「うん。だって、窓から二人が校門を潜って来るのが見えたけど、結構楽しそうだったじゃない。教室に入ってくる瞬間だって」

「良く見てるな……ま、『仲が良い』という表面上の言葉だけなら、否定はしないぜ」

「……ふうん……なるほど」

「何を納得してるのかは知らないが、とにかくそれ以上でもそれ以下でもないからな」

 いったい、俺は何故に、そして何に対してこれほどまで否定をしなければならないのか。

程なくして担任がやって来、HRが始まっても、また自問自答の繰り返し。ここ最近の俺はずっとこんな感じだ。

 放課後。帰りのHRが終わるや、

「亮、今日遊びに行っても良い?」

「今日か?今日は俺がちょっと用事があって……家にいないんだ」

「……それでも、お邪魔しちゃダメかな」

 ……俺がいないのを承知で、矢島家に遊びに来ようとする。それはつまり、瑠璃が目当てだと言うことだ。龍志のことだから、『そっちの心配』は一切要らないが……ま、俺が断る理由もないな。

「いいぜ……ちょっと待ってろ、瑠璃に電話してやるから」

 ホッとしたような……よく分からない感情が渦巻く。龍志が瑠璃に興味を示した時点で、こうなることを予想し、また望んでいたはずなのに……

携帯を取り出し、自宅に掛ける。瑠璃の方は、今日は確か5時間で学校が引けるから、寄り道してなければ家にいるはずだ。数回のコールで、予想通り瑠璃が出た。

「ああ瑠璃か?」

「うん。どうしたの?今日は遅くなるの?それともやっぱり早く帰ってくるとか……」

「いや、予定通りだ。それより、今日はそっちに龍志が遊びに行くから……さくらの相手でもさせてやれ」

「え?龍志さんが……」

 ……瑠璃は、龍志の事を憎からず思っているだろうし、人間的に信頼もしているだろう。しかし、いざ家で二人きりになるのは流石に抵抗があるんじゃないのか?と思いきや……

「龍志さんは、今そばにいるの?」

「あ、ああ……替わろうか?」

「うん、お願い」

 意外な言葉に面食らいながら、訝しむ龍志に携帯を渡す。このまま会話を聞いていて良いかどうか迷ったけど……いちいち聞こえない場所に行くのも不自然だし……というわけで、龍志の言葉に思わず耳を傾ける。……常々思っていることだけど、俺はひょっとして出歯亀の素養があるんじゃないか?

「あ、えーと、瑠璃ちゃん?」

(はい)

「その……今日遊びに行って良いかな?」

(はい)

「……そう。じゃ、何か甘い物を買っていくから、お茶でも淹れておいてよ」

(そんな、気を遣わなくても)

「ううん、僕も食べたかったから。じゃ、今からお邪魔するね」

(……はい、待ってます)

 ぴっ。

 携帯を俺に返した龍志の顔は、何故か満たされているような……ニヤニヤしてるって感じではないけど、……嬉しいんだろうな。

「ところで亮、今何かブツブツ言ってなかった?」

「いや、勝手に想像してただけだ、会話を」

「…………????」

「そうだ、最近猫を飼い始めたんだよ。ま、今人間に近寄ってくるとは思えないけど……万が一慣れたら遊んでやってくれ」

 そこまで言うと、遠藤が友達と話し終わって、俺の側へやって来た。

「お話は済んだの、矢島くん?じゃあ、行こっか」

 すると……龍志が眼を白黒させている。

「え?用事って……遠藤さんと?」

「ああ……『竹屋』で美術展があるんで、一緒に見に行くんだ」

「へえ……亮ってそういうものに興味があったんだ……」

 以外そうに言われたけど……そんなに俺のイメージに合ってないかな?……俺の金髪頭を見てしまえば納得か。

「違うわよ、榊原くん。私がムリに誘っただけ」

「いや、俺もそこそこ興味があったことは否定できないからな……結構有名な人なんだろ?美術展を開く人って。だったら、見に行っても損ははしないだろうし、何かしら吸収できればな、と……」

「矢島くんはこうしてフォローしてくれちゃうんだから、優しいよねー」

「本当に……同意するよ、遠藤さん」

 二人して俺を持ち上げて……俺は至極当たり前のことを言っているだけなんだけどな。

「じゃあ龍志、瑠璃の相手でもしてやってくれ。くれぐれも……」

「……くれぐれも、何?」

「いや、何でもない。それじゃあな」

 純真な龍志に、わざわざ『オオカミにならないように』なんて下世話なジョークを飛ばしても、何の意味も面白味もないか。ハナから龍志はそんな事を考えないだろうし、な。

「女流画家、かぁ……」

「そ、だから余計に興味が出ちゃってね」

 街中、しかも駅からは目と鼻の先という、立地条件に非常に恵まれたデパート・『竹屋』。その最上階の7階の特設展示場で、その美術展は開催されていた。


 『新進気鋭の、女流画家にして彫刻家《本村あきこ》の魅力が一堂に会す!美術展開催中』


 と、大々的にポスターが貼られていて、かなり力の入ったイベントであるらしいことが分かった。

「しかし、何でそんな有名な芸術家がこの街で個展を……?」

「さあ……何かゆかりでもあるんじゃない?」

 そうとしか思えないな。もっと人目を引きたければ、東京なりの大都市でやった方が明らかに目立つし。少なくとも、地方都市で個展を開くレベルの芸術家ではないらしいな、地元の浮かれ具合からすると。

「見てみよっ」

「あ、ああ」

 弾んだ足取りの遠藤は、受付でパンフレットを手に取り、中に入って……ある人物を見て足を止めた。

「どうした……?」

 その遠藤の横顔を見てみると……明らかに緊張している。だって、あの遠藤が、真一文字に結んだ唇の端を振るわせてるんだぜ?

 そんな珍しい姿の彼女が見つめている人物は、何人かのオヤジ連中と楽しそうに話をしている。愛想笑いかもしれないけど、ね。さて、肝心のその人物は。

 一言で表わすと、『キャリアウーマン』なんて死語とは無縁な、何と作務衣を着た女性だった。化粧っ気がまるでなくて、髪型も、長めの髪を無造作に背中に垂らして、ゴムで一纏めにしているだけ。足下まで雪駄という念の入れようだ。

 化粧っ気がないから、それ程目立たないけど……よく見れば結構美人な部類に属するだろう。しかしこの格好だ、本人にとっては、自分の容姿などどうでも良いのかもしれない。そして、誰かに似ているな、とも強く思った。

 オッサンらと話を終えたその女性がこっちを見た。始めに遠藤をちら、と見やってから、その次には俺をじっくりと。一発でその視線の強さに射すくめられた。……射すくめられたという表現は可笑しいかも知れないけど……例えるなら、身体中の神経回路じゅうに彼女の視線が走り回り、一瞬で支配され拘束された……そんな感じだ。これほどまでに『眼力』をという言葉を身近に感じた事はない。

 しばらく俺と見つめ合った形になったその女性は、突然、にこっ、と一点の曇りもない、不思議な無邪気さの笑みを返してきた。これには俺もどう返して良いか分からないが、取りあえず日本人の悲しいサガで、愛想笑いを返すのが精一杯だ。そもそも俺の顔が引きつっていたのを自覚していたから、きちんと笑顔になっていたかどうかは分からないけど。

「どう?私の作品は」

 しかも困った事に、その人が声を掛けてきた。はっきり言って、響子さんよりも年上の女性と話したことがないから、焦ってしまった。

「いえ、今入ったばかりですから……」

「ああ、そうなんだ。じゃ、一通り見て回ったら、感想を聞かせてね」

 踵を返すと、再びあの無邪気な笑み。年相応の深みと、同年代の女の子と同じくらい……ひょっとするとそれ以上に……純粋なそれに、急に俺の心臓がみっともないくらいどくどく脈打ちだした。おかしいな、俺に年上好きの“ケ”なんてあったっけ……?でも、どうやらそれは、異性を感じたという意味のどきどきではなく、もっと別の理由らしい。その証拠……として良いのか分からないが、頭の中は冷静だ。今まで、少しでも異性として意識したことのある女性の前では、こうは行かなかった。舞い上がちまって、頭の中がぼーっとして……

「ちょっと矢島くん、本村さんと知り合いなの?いきなり声掛けられちゃって……」

 見れば、遠藤が頬を膨らませて責めている。ということは、やはりあの女性が『本村あきこ』さんなのか……道理で、身体中からにじみ出る感覚が違うと思った。そう言われてみれば、あの格好……芸術家でもなければ、よほどの変わり者でしかないもんな。

「いや……向こうが急に話しかけてきただけさ。それにしても……」

 少し離れたところで、この街のお偉いさんと思しきハゲオヤジと……おそらくは社交辞令的な会話を交わしている本村さんを見る。

「どこかで見たことがあるというか、誰かに似てるんだよな……」

「他人のそら似でしょ?早く見ようよ」

 遠藤に引っ張られ、会場の奥へ。

 掲げられている画は、主に人物画。それも、好んで老人ばかりを描いている。それも、非常に緻密に、ではなくあくまで本人の筆の能力に任せた、力強い画ばかりだ。どの画の老人も、モチーフとなった人物の歴史・人格などが一目で推察できるものばかり。まるで、筆でその人の略歴を描いているかのようだ。なるほど、これほどの画なら有名になるのも頷けるというものだ。

 彫刻の方はというと……俺の芸術的範疇の理解からはみ出ている……要するに、理解できない抽象的な作品ばかりだ。これだって、見る人が見れば『おお、これこれここが素晴らしい』と感心するのだろうけど……取りあえず、画の方に深く心を打たれた。ここに描かれている老人達のように、人生の重みを身体からにじみ出させるような歳の取り方をできるだろうか。そして成長できるだろうか。

 遠藤は、俺よりもずっと熱心に画に見入っている。それこそ、声を掛けることすら躊躇われる程だ。仕方がないんで、俺ももう一度画をざっと見直す。ふんふん、と分かったような振りをして、画から目を離さずにカニ歩きをすると……

 どん、と人にぶつかってしまった。

「あ、すみま……せ……」

 本村さんだった。

「さて、感想はどうだったかな?」

「あ、は……えーと、凄く良かったです、画は。まるで、人物が生きているような……」

 折角本人を目の前にしているのに、当たり障りのない感想しか言えないのがもどかしいけど、知ったかぶりをするのも愚かしいしな。しかし、本村さんは

「“画はすごくいい”、ねぇ。ということは、彫刻の方は全くダメだったって事ね」

 大げさなくらいに肩を落とす。結構ノリの良い人物でもあるようだ。芸術家ってくらいだから、もっと気難しいのかと思った。

「あ、いや、俺が理解できなかっただけですから、そんなに気にしないで下さいよ」

 慌ててフォローを入れると、

「まあ、そうよね。彫刻の方は、私が遊びで作った奴を誰かが勝手に作品に仕立て上げて展示しちゃってるんだもの。本人が何を意図して作っているか分からないものを、他人に理解されたらショックよね」

 あはは、は、はと豪快に笑ったのだった。あまりの声に、周りの客とお偉いさんと客が何事かとこっちに注目する。遠藤だけは画とにらめっこを続けていたけど。とにかく、人気芸術家にも色々と“大人の事情”があるんだな、と。

「君、名前は?」

「や、矢島亮太郎です」

 思わずあっさりと口を割った。黙秘するつもりもなかったが。すると、本村さんは少しだけ驚いたように眼を見開き、

「そう、良い名前ね」

 と、眩しげに眼を細めた。その表情が寂しそうで切なそうで……俺の方が泣きたくなってくる。

「ねぇ亮太郎くん、もし良かったら、この後時間ある?」

「え……はあ、ありますけど」

「それじゃあ、彼女も一緒にお茶しない?私、朝から挨拶回りでロクに休憩してないのよ。ね?キマリ、キマリ」

 俺が良いとも言ってないのに、遠藤の方へ行ったぞ……あ、遠藤が固まってる。そりゃ、自分が尊敬してたらしい人にいきなりお茶に誘われればオドロキもするよな。しかし、この強引さにも何処か既視観を覚えるなぁ……

「へえー、じゃあ葵ちゃんは、そんなに前から私のことを知っていてくれたんだ」

「はいっ!4年くらい前にたまたま縁があって画を拝見したんですけど、それから虜になってしまって……」

「4年前からかー。じゃ、ファンとしては古株の方だよね。嬉しいなー、こうして直接感想が聞けるっていうのは」

 ……『竹屋』の屋上にある見晴らしの良い喫茶店……殆どファミリーレストランだけど……に入店して以来、遠藤と本村さんはずうっと話し込んでいる。同じ『創作するもの同士』、フィーリングがあるのだろうか……『創作するもの』なんて随分と大きな括りだが、消費するだけで何も生み出さない人間が大多数を占めるこの世間だ、それで半分位には分けられるだろ。

「矢島くん、本村さんが折角貴重な話をしてくれてるんだから、もっと色々と聞いたらどう?」

「そんな事言われてもな……遠藤が一方的に質問して、本村さんが返答しているようにしか聞こえないのは俺の気のせいか?」

「うん、気のせい」

 こうもはっきり言い切られたら、俺はどうすればいいんだ。

「まあまあ葵ちゃん、仕方がないわよ……亮太郎くんの方は、私の作品初めてなんでしょう?」

 そう言えば、本村さんは気軽に「葵ちゃん」と呼んでいるな。彼女のの年齢が幾つくらいかは知らないが、ほぼノーメイクだというのにこの肌の張り具合から察すると……三十代半ばか。ともすれば俺たちの母親でもおかしくないくらいの年齢だけど、その気さくな雰囲気は、まるで数歳上なだけのお姉さん程度にしか感じない。きっと、芸術家ということで、色々吸収することがあるから、気が若いんだろうな……

「それでも、本村さんの画の良さは一発で分かります!ね?矢島くん」

「あ?ああ、はい。そう思います」

「もっと気の利いた事は言えないの?」

「無茶言うなぁ……言葉が見つからないんだよ、画が良すぎて」

「あら、おだててくれるわね」

 本村さんが、くす、っと笑った。その様子の美しさがあまりに実年齢とかけ離れているから、再び俺の胸が騒ぎ出す。

「どうしたの?矢島くん……」

「いや、何でもない」

 ごほん、とわざとらしく咳払いをした。しかし、問題なのはその次の本村さんの一言だ。

「いいなあ……貴方たちみたいな初々しいカップル。私の学生の頃を思い出すわぁ」

 さらり、と言ったその一言が大変だった。

「ななな、かかかカップルだなんて」

「そそそ、わわわ私たちそんなんじゃないんですっ!彼には只付き合ってもらっただけで……」

 その俺たちの慌てようもまた、本村さんにとっては、昔を懐かしむ良い機会であるようだ。彼女は、さもおかしそうに口を押え、吹き出さないように必死だ。

「ごめんなさいね、口では否定してるのに、息がぴったりなんだもの」

「……」

「……」

 俺と遠藤は一瞬顔を見合わせ……俯くしかなかった。

「私も学生の頃はこんなに純情だったかしらね?高校を卒業してすぐに結婚しちゃったから、そんなには純情じゃなかったのかも」

「え、そんなに早かったんですか、ご結婚」

 やはり、こういう話題には女の子の方が食い付きがいいというか、遠藤がすぐに反応した。俺としては、あの気まずい空気を払拭してくれるだけ有り難い本村さんの言葉だった。

「ええ、まあ……ぶっちゃけちゃうと出来ちゃった結婚よ。流石に早まったかなぁとは思うけど、当時はそんなこと考えていられなかったものね」

「はぁ……」

 それにしても意外だ。今の本村さんからは、所帯じみた雰囲気は全く感じられない。旦那が余程芸術に理解のある人なのか、それとも……

「でも、やっぱり早まったといって間違いないかな。子供を産んでちょっとしたら別れちゃったし」

「そ、そうなんですか」

 しかし、人によっては言いにくいかも知れないことを、いともあっけらかんと話すなぁ。

「親権は向こうだし、今は子供は何をしているやら……ま、多分、というか絶対に学生でしょうけど」

 何を根拠に言っているのかは分からないけど、連絡先も分からないくらい執着がないものなのか……

「やだ、私ったら。こんな事、貴方たちに話しても仕方がないわね。もっと別の話をしましょうか」

 俺たちが呆然として話を聞いているのに気づき、本村さんは頭を掻きながら苦笑い。ま、こっちとしては助かるけど……

 それから……本村さんは遠藤に質問攻めに遭っていた。成功する秘訣とか、どんな時にインスピレーションや創作意欲が湧くのか、とか……結構長い時間話し込んでいたにも関わらず、彼女は面倒臭がりもせずに遠藤の質問に答えていた。

 俺はといえば、大人の余裕を見せながら質問に応える本村さんの顔をちらちら見ながら、誰に似ているのか必死で脳内のメモリーを検索していた。

「矢島くん、せっかくのチャンスだって言うのに、殆ど本村さんと話していなかったじゃない」

「……遠藤、その台詞に対する俺の返答をもう一度聞きたいのか?」

 ……結局、あんまり引き留めていると邪魔だから、キリのいいところでお暇しようという俺の意見に散々渋り、ようやく引き剥がしてきたのがついさっき、時間にして軽く3時間。お陰で、周りはすっかり夜の帳に包まれている、と。

「それよりお前、門限は平気なのか?」

「ん?あー、急いで帰ればギリギリって所かな」

 時計を見、ちょっとだけ顔をしかめる。

「送っていこうか?」

「ううん、平気。走って帰るから……今日は付き合ってもらっちゃってどうも有り難う。正直に言って……退屈だったでしょ?私も勝手に長話しちゃったし……」

「いや、そんなことはないぜ。俺にも色々と吸収するところとか……それなりに利点はあったからな」

 遠藤はふっと柔らかく、そして切なげに、酷く頼りなく微笑んで……

「そう言ってくれると、嬉しい……じゃあ、また明日ね!」

 一瞬俯いた後に手を振って、あとはこちらを振り返りもせずに駆け出した。

 ……はあ。

 遠藤にはああ言ったが、実は……「それなりの利点」どころでは済まない、遠藤に知られたらエラい事になる物が、制服のポケットの中にある。“それ”を受け取った瞬間、動揺してポケットの中に無造作に突っ込んでしまったんだが……コンビニ店から漏れる明かりの下で、シワを丁寧に伸ばしてみると、それはたまたま本村さんが持っていたレシートに書かれた、彼女の携帯電話の番号だった。

 け、

 携帯電話の、番号。

 ななな、これは!何なんだ、これは!

 だから携帯の番号だってーの。

 いかんいかん、混乱してるぞ、俺。

 店から出る前に本村さんが化粧室の方へ行ったから……そこで書いたんだな。しっかりと遠藤に見つからないように渡してくれた、ということは……“それなりの意味”を持って連絡先を教えてくれた、ということなのか。

 ……ああもう、俺にどうしろというんだ!第一、こういう物を渡されると、自分を試されているようで複雑な気分になるんだよな……今日帰った後にいきなり電話をしてしまったら、やっぱり……(あらあら、こらえ性のないボウヤねぇ)とか思われてしまうんだろう。かといって、そのまま放っておいたら……(人が折角チャンスをくれてやったのに!ぷんぷん!)と、プライドやその他を傷つけてしまったり……やっかいだなぁ。

 とにもかくにも、今はただ……彼女が誰かに似ている事実が、のどに刺さった小魚の骨のように、いつまでもすっきりせずに頭の中にこびりついているのだった。






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