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理由の理由(わけ)

「ほら……平気だから、こっちにおいで」

 ……瑠璃がしゃがんで、台所のテーブルの下に隠れた「さくら」に、猫じゃらしのオモチャを振ってやっている。人為的に見えないように、努めて緩急をつけ、いかにも独立した生物のように動かしてはいるが……ただただ空しいだけだ。

 あの三毛猫がやって来てからというものの、ああして粘り強く構って、構われようとしているが……

 さてその三毛猫・矢島さくらは、俺たちに恩義を感じているのかどうかは、全く俺たちの知るところではないが……俺たちに身体を触らせてくれたりくれなかったりで、どうにもこうにも掴み所がない。

 ま、大体においては……今の瑠璃の奮闘を見ても分かるように、どんなオモチャを投げてやっても、猫じゃらしの様な物を振ってやっても、ちっとも反応しない。そのオモチャ自身を見ずに、オモチャを動かしている人間を注意深く見つめるだけ。ここまで反応が薄いと寂しくなるな。

「慣れねぇなあ」

「うん……」

 慣れないその理由は……保健所で見かけた瞬間に察することが出来る。むしろ、家まで付いてきてくれただけでも奇跡だと言わんばかりだ。

「ま、しょうがない。元々猫は気まぐれなもんだし……まだウチの環境にも慣れてないのかも知れないし。さて、俺はもう出るぞ。お前もさくらに構ってばかりで遅刻するなよ」

「分かってます。もう少ししたら私も出るから……」

 何が分かってるだ。この前、思い切り遅刻したって言ってたクセに。ロクに相手にされないのに、よく飽きないよな、瑠璃も。猫好きにも度があるぞ。

 と、言いつつ……一度矢島家に来た者は、すべからく家族である。そう言いきってしまうと、愛菜ちゃんも遠藤も矢島家の一員と言うことになるが……いや、「矢島ファミリーの一員」と言い換えた方がしっくり来るな、なんとなく。

 玄関を出たところで、大きく伸びを一つ。

 猫への構い疲れというわけでもないけど、このところ生活が猫中心に回ってる気がするからな……ついでにぐりぐり首を回すと、ついでに天地もぐりぐり回転……

 ごき。

「痛っ」

 調子に乗って回しすぎたか……そう言えば最近、龍志との決着が終わってからランニングをサボってるな。折角始めたんだし、長続きさせたいんだが……単純に走るだけというのもなかなかに厳しい。マラソンランナーは、どんなモチベーションで日々走っているんだろう……尊敬するな。

 


 高遠の丘まであと少しというところで、

「おはよ、矢島君」

 遠藤葵と出会った。

「おはよう、遠藤」

 ありがちな挨拶を交わしてから……再び遠藤を見る。

「ど、どうしたの?」

「いや……なんでもない」

 口ではそう言ったが、改めて遠藤を見ると……やっぱり、かなり可愛いよな。何を今更改まる必要があるんだと分かっているが、最近……瑠璃とばかり一緒にいたからかな……自分のあやふやな気持ちを振り払おうと脳が指令したのか、大きなアクビをまた一つ。

「眠そうね」

 くす、と遠藤が笑いながら言う。その眩しいような、羨ましいような……高校二年生よりは少しだけ大人びて、そして寂しく見える表情が、彼女をより美しく魅せていた。

「ああ……最近、ウチに家族が増えてな。ちょっと忙しいんだ」

 さくらが来てからというものの、さくらが起きている間中は、俺も瑠璃も……いや、瑠璃の方がより積極的に、さくらと遊ぼうとしている。もちろん、瑠璃が一方的に構われようとしているだけだが。

「え?ひょっとして矢島君……悪さ、しちゃったの?」

 何処をどう曲解したのかは分からないが、というより分かりやすいが、遠藤はわざとらしく身体をくねらせて……要するに、只の冗談だ。

「そうそう、悪さしちゃったんだよ……そうしたらコレがコレもんでさ……ってなんでやねん!」

「お、ノリが良いわね」

 むぅ……思わずノリツッコミとは、俺も遠藤との会話が楽しいと思っているのか。

「ごほん……それはともかく、だ。遠藤、家で動物を何か飼ってるか?」

「ペットを?飼ってるわ、猫を二匹」

「そうか!この前、瑠璃が猫を引き取ってきたんだよ……仔猫じゃないんだが、まあそのちょっと……訳ありでな。だから、飼い方のアドバイスをしてやってくれよ、瑠璃に」

「うん……そうね、どんな子なのかも興味があるけど、久し振りに瑠璃ちゃんともお話がしたいから、今日……お邪魔しちゃってもいいかな?」

「え」

「ちょっと急すぎるからダメかな?」

 小首を傾げ、俺の顔を覗く遠藤は、その大きな瞳を、俺の反応を楽しむかのように悪戯っぽく動かす。その仕草がとても可愛らしくて、普段は割と大人っぽく見える遠藤だけに、新たな遠藤を知った気がして、少しだけ嬉しい。

「あ、いや、助かるよ、すっごく」

「そう、良かった」

 それにしても、意外にあっさりと承諾してくれた。てっきり渋られるかと思ったが……とにかく、アドバイスは聞きたいから、有り難いことこの上ない。

 その後は、とりとめの無い話をしながら高遠の丘を登る。

「……?」

 妙な視線を感じて振り返る。が、後ろには数人の高遠の女生徒が、楽しそうにお喋りしているだけだ。

「どうしたの?」

「いや……何だか、誰かの視線を感じた……様な気がしたんだけど」

「ふーん……」

 ……遠藤はあまり興味はなさそうだ。ま、気にしすぎだろう。

 ……そう思ってはいたが……

 校門の前まで来ると、大多数の生徒が確実に……というか、あからさまに俺と遠藤を見ながら、ひそひそ話をしていやがる。

「何だって言うんだ、一体?俺が何かしたってのか?」

「気にしなくて良いよ、人間って言うのは噂好きなもんなんだから。ほら、根拠のない噂が尾ヒレついて泳ぎ回る、なんて話、よくある事じゃない?」

「よ、よくあったらたまらないが……そんなもんかね」

 校内でも影響力のある遠藤が言うからこそ、信じられる言葉ではある。彼女がいい加減な事を言う人間でないのは確かだしな。

 取りあえず気にせずに、遠藤と共に教室へ入るが……そこでも、女子達の反応は大方同じようなもんだった。俺にはその反応の理由を全く察する事が出来ないから、かなり気分が悪い。少なくとも、自分自身に覚えがないから、尚更だ。

 それでも、ホームルーム前の喧噪が、教室中の微妙な空気を和らげてくれる。やっぱり……噂はうわさ、か。しかし、それがどんな噂なのかは……かなり気になるぞ。遠藤に、俺のどんな噂が流布してるのか聞きに行こうと思ったが、今あからさまに接触すれば、余計に面倒なことになると思い直し、結局放課後になるまで待つこととなった。俺は自分の忍耐力は強い方でもないと思ってるから、かなり悶々としたスクールライフを送らせてもらったよ、ホントに。



 放課後、遠藤は気を利かせてくれたのか、校門を出てしばらくは距離を置いて歩いてくれた。一緒に教室を出ようとしたら、ごく短く「先に行くから、ついてきて」と囁いたんだ。その囁いた声がちょっとだけハスキーで、色っぽくて……胸から不可解なものが騒ぎ立つのを押さえるのに大変だったけど。

 高遠の丘を降り、街も近くなってから、俺達は並んで歩き始めた。周りの目を気にしながら歩くという行為が、これほどまでに神経を使うとは……どうしようもないところで、指名手配犯の心境を体験することになっちまった。

 なあ遠藤、『噂』ってなんなんだ?

 そう聞きたいけど……隣りを歩く遠藤の涼しげな横顔を見ると、それを聞いた俺の方が小者になりかねない雰囲気があった。遠藤が気のせいだと言うのなら、それでいい。

「そうだ、手ぶらじゃアレだから、ケーキでも買っていこうかな」

「いや、そんなに気を遣わなくても」

「というより、私も食べたいだけなんだけどね」

 ぺろ、と舌を出す。その子供っぽい仕草も、遠藤にかかれば『少女の心を忘れない、可愛らしい仕草』という事になるんだろうか。

 遠藤は、街中のありとあらゆる店をチェックしているらしく、『ケーキの美味しい店』を即座に4店程あげてみせた。俺はどちらかというと、気に入った店をずっと利用するタイプだし、知らない店に入るのにも躊躇してしまい、新しい世界を開拓する事を殆どしないから、素直に遠藤の物怖じしない性格を尊敬する。

 その四つの店の中でも、特に美味しいと推薦された、商店街の端っこにある喫茶店・「LIPS」に寄ることに。

「へえ、この店、外から眺めたことはあるけど、そんなにケーキがイケるとは知らなかったな」

「そうでしょ?マスターの奥さんが趣味も兼ねて出してるらしいの」

 「LIPS」は、「喫茶館」よりずっと大きく近代的な店構えで、従業員の数もそこそこ。そんな外見だから、てっきりファミレスチックな、何事も杓子定規なマニュアルに縛られた店だとばかり思っていた。レジでケーキを箱詰めしてもらっている遠藤を見つつ、ガラス越しに見える客席を見ると、そこそこ埋まっていて、ウェイトレスの女の子が忙しそうにせわしなく働いている。商店街の外れの方に位置するとはいえ、割と流行っているらしい。きっと、ケーキが美味しいから客が来る=コーヒー紅茶が欲しくなる=注文が増える=儲かる、といった図式だろう。正直なところ、「喫茶館」がそれほど繁盛していない理由も分かる。二つの店の距離は、売り上げに影響があるといえば納得できるくらいの場所にあるし。「喫茶館」のマスターも、どんな心境で商売してるんだろうな……

 

「ただいまー」

「お邪魔しまーす」

 玄関に鍵は掛かっていなかったし、ローファーもあったから、瑠璃が先に帰ってきていたのは分かっていたが、一応は声を掛けておく。すると、ぱたぱたというスリッパの音を響かせながら、瑠璃が玄関まで駆けてきた。瑠璃が先に帰宅している時は、こうして聞こえるように声を掛ければ、必ず瑠璃が玄関まで出迎えに来てくれる。これが何となく嬉しくて、ついつい声を大きめにしてしまうのだ。瑠璃が何処にいても聞こえるように……な。

「お帰りなさい、お兄……」

 遠藤の姿を認め、一瞬言葉を止める瑠璃。どうやら、「お邪魔しまーす」は聞こえていなかったようだ。そんな瑠璃を見て、遠藤は苦笑いをして

「お邪魔します、瑠璃ちゃん。これ、みんなで食べましょ」

 と、手に持ったケーキ入りの箱を差し出す。瑠璃はそれを受け取り、すぐにいつもの笑顔に戻って、

「いらっしゃい、葵さん。それじゃ、早速お茶を淹れてきますね」

 と、台所へ駆けて行った。

 ……しかし、さっきの……遠藤を見た瞬間の瑠璃の反応が気になるな。そんなに……遠藤に気になる点があったのかといえば……

「どうしたの?」

「いや、何でもない」

 いつもの遠藤だ。

「それより、上がらないの?私より先に矢島君が上がってくれないと、上がりづらくてちょっと困るんだけどな……」

「あ、ああ、悪い」

 せっせと靴を脱いで上がり、ふと遠藤を見ると、ブラウンのローファーを片方脱ぎかけたところで

「危ない」

 バランスを崩した。とっさに駆け寄り、身体を支える。

「おっと……大丈夫か?」

「う、うん……」

 危なかった。倒れる方向からいって、俺が支えていなければ大怪我するところだったかも知れない。上がり框に頭をぶつけるか、あるいは横へ倒れて……

「矢島……くん」

「ん?何だ?」

 遠藤が、俺の腕の中から頬を染め、呟く。うう、こうして見ると……彼女はかなりの美人だ。時には、憎らしいと思えるくらい強気な視線をする事すらあるのに、今は……「只の可愛い女の子」だ。

「放して」

 言われて、遠藤を抱きしめる形になっていることに気がついた。

「うわわっ、ごめん」

 慌てて遠藤の身体を解放すると、彼女は乱れた襟元とボウ・タイを直した。襟元から覗く、真っ白とは言い難いが健康的に色づいた肌が、ちょっとだけ上気した桜色になっている。つまり、色っぽい。

「何……やってるの?」

 振り向くと、瑠璃が呆然とした顔で立ちつくしていた。まるで、今見たものが信じられない、今見たものの意味が分からない、といった風に。

「る、瑠璃」

 そんな顔をされると、今俺がした事がとてつもなく悪い事のような気がしてしまう。いや、実際に全くやましいことはないのだから、即座に否定しようと思ったのだが……自分の心に疚しい気持ちが微塵もなかったとは、胸を張って答えにくい。特に、助ける課程でではなく、形だけでも遠藤をこの胸に抱いてしまった後では。

 俺が何も言い返さないのを、悪い方へ悪い方へ取っているのか、瑠璃の顔が見る間に真っ青になっていき、唇の端が震えだした。

「瑠璃」

「違うわ」

 俺の脳裏には全く対処法が見つからない中で、遠藤が首を振りながら一歩進み出、小刻みに震える瑠璃の両肩に手を置いた上で、

「違うのよ、瑠璃ちゃん」

 諭すように、瑠璃の瞳をしっかりと見つめながらそう言った。ご丁寧に、瑠璃の目線にまで腰を屈めて。こうしてみると……結構二人には身長差が有ることが分かる。瑠璃は約145センチ、遠藤は……割と高い方で、160以上は有るだろう。現在の状況とその身長差が、二人を何だか姉妹のように見せていた。もちろん、容貌的に共通点が有るという意味ではなくて、……この二人には、どことなく共通点が有るような気がしてならないんだ……

「お兄さんはね、私が転びそうになっていたのを支えてくれただけ。きっと、瑠璃ちゃんには“そういう風に”見えちゃったのね。でも、心配しなくて良いから。貴方のお兄さんは、とっても優しい人であることは分かっているでしょう?」

 ゆっくりと瑠璃の心に浸透するような落ち着いた口調。こんな状況なら、慌てふためいてもおかしくはないのに……事実俺など、瑠璃のあの凍り付いた表情を見たとたん、何か恐ろしいことになるんじゃないかと思いつつも、身体が動かなかったわけだから。やっぱり、遠藤は頼りになる。そして、彼女と比べると、俺という人間がどれだけ頼りないかも分かるな。

「だから、ね?」

 遠藤の言葉に、徐々に落ち着きを取り戻す瑠璃。しかし……大体が、どうしてそこまで大仰に驚いたのかな……遠藤を図らずも抱きかかえるという行為が、俺のイメージからかけ離れていたからとか?

 落ち着いた瑠璃を従え、リビングに入る。

「ね……肝心の猫ちゃんは?」

 遠藤が耳打ちする。……そういえば、姿が見えない。ソファーの下やテレビの後ろなどを見てみたが、どこに居るのやら……

「瑠璃、さくらは何処に行った?」

 台所でお茶の準備をしている瑠璃に声を掛ける。瑠璃はだいぶ落ち着いたようだが……心なしか、まだ上の空のようだ。

「え?さっきまでテーブルの下にいたけど……」

「さっき見たしな……本当に分からない奴だ」

 取りあえず遠藤に座るように勧め、瑠璃を手伝って皿を用意する。

「熱っ」

 いきなり、瑠璃が薬罐を取り落とした。派手な音がキッチン中に響く。幸いなことに、ほぼ湯を入れ終わった後だから、それ以上の被害は出なかった。

「大丈夫か?」

「うん……」

 と言いつつも、右手をさすっている。しきりに遠慮する瑠璃を制して、その小さな手を取った。人差し指と中指の辺りが赤くなっている。確かに心配するほどではないようだ。でも、火傷は火傷だ。

 肌のあまりの白さ故に火傷が目立ち、それが痛々しいと共に、俺の胸に不思議なほどの高揚感をも湧き上がらせる。

「お兄ちゃん……?」

「ほ、ほら、早く水で冷やせ」

 瑠璃の疑問の顔には答えず、水を出して手に掛けてやる。

「しばらくそのままにしてろな。遠藤、ちょっと猫を探してるから、お茶が冷めないうちに飲んでてくれ」

 遠藤の前にティーセット一式を置き、さくらを探しに廊下に出た。客人にセルフで茶を飲ませるのも気が引けたが……何となく、遠藤からの視線が厳しい様な気がして……いたたまれずに逃げ出してしまった。

 さて、どうしたものかと辺りを見回し……

「……」

 脱衣場に備え付けてある棚の前で視線を止めた。

「お前、そんな狭いところで何やってるんだ」

 さくらは、洗濯機の上に有る、タオルなどを収納してある棚の中、そのタオルの中に身体をねじこみ、俺の動きに目を光らせていた。

「ほら、お前に会わせたい客が来てるんだ、こっちに来いあ痛っ!」

 脅える猫に不用意に手を出したのだから、手を引っかかれるのも当然の報いなのだろうが……とほほ。あーあ、本気で引っかきやがって。手の甲がパックリ裂け、血がにじんでいる。

 当のさくらは一目散に棚から飛び降り、リビングの方へ逃げ去った。ま、結果オーライ……なのか?

 リビングに戻ると、既に瑠璃と遠藤がお茶を飲んでいた。……楽しげに会話をしながら。さくらは……と見ると、お茶一式が置かれているテーブルの下にうずくまっている。気を許していない証拠に、いわゆる“香箱を組む”事をしていない。しかし、わざわざ人の居る方に逃げてくるとは……少しはうち解けた証拠か。

「遠藤、足下を見てみろよ」

「うん?あ、あら、こんにちは、初めまして」

 自分の足下に潜り込んだことに気づかなかったのか、猫に対しては丁寧すぎる挨拶をした。

 丁寧な挨拶を受けたさくらは……やっぱり、警戒を解かない。ここまでされるともの悲しくなるな……

「それにしても……ちょっと栄養状態が良くないみたいね」

「そう見えるか?」

「うん……かなり痩せてるし、毛の艶も良くないわね……一度、病院に連れて行ってあげた方がいいんじゃないかな」

 そういえば、俺たちに慣れてもらう事ばかり考えていて、検査を受けさせることを失念していた。

「そうだな……慣れてもらうのは先にして、まずは医者に連れて行こう。話はそれからだ」

「そうそう」

「ところで……どうやって連れて行くんだ?」

「……え?」

 遠藤が何を言ってるんだと言う目で俺を見た。ま、事情を知らなければ、意味を考えてしまうような俺の発言だろう。きちんと説明してやると、納得はしたが……

「それは困ったわね……暴れられない程弱っていれば話は簡単なんだけど……」

「お兄ちゃん、私が何とか捕まえてみようか?」

「ダメだ、お前にそんな危険な事をさせられるか」

「っていう事は、さくらちゃんを捕まえるのは危険な行為って事になるわけね」

「……今までのさくらの反応を見る限り、そうなるな。あとコイツは男だ、オスだ」

 ……となると。

 遠藤にも捕獲を手伝ってもらう訳にはいかない。

 ……となると。

「結局、俺がやるしかないんだな」

「そう言うことになるわね」

 はぁ、とタメ息を一つつく。こりゃ、業務用の革手袋が必要になりそうだな。

「分かったよ、取りあえず何が何でも医者には連れて行く。話はそれからだな……他に何か注意する事はないか?」

「そうね……基本的に猫は干渉を好まないから……さくらくんが慣れてくれるまで辛抱強く待つしかないんじゃない?お役に立てなくて悪いんだけど……」

「いや、医者に連れて行く踏ん切りがついただけでも良しとしなきゃな」

 しきりに恐縮する遠藤だが、何しろ俺らは全く猫と接した経験がないわけだからな……頼りにさせてもらうか。

 それから、三人でケーキを食いながら雑談を交わしていると、あっという間に夕方も過ぎた時間になっていた。外を見ると、夕焼けを通り越して暗闇だ。さいきん、めっきり陽が短くなった。いよいよ冬が近づいてくる……雪国育ちの俺としては、少々気が滅入るな。

 飯を食っていけと勧めたが、今日は帰ると言ってきかない遠藤を送ってやる。瑠璃には夕食の準備をさせておいたから、家に帰る頃にはちょうどメシ時だろう。

「矢島君……」

「何だ?」

 俺と歩調を合わせて歩く遠藤。そのショートカットが揺れ、その度に少しだけ真っ白なうなじが見え隠れする。

「……瑠璃ちゃんとは、上手くやってるの?」

「……上手く、とは?」

「だから、“上手く”よ」

 イマイチ当を得ない質問ではあるが、それが何を指していようと、俺と瑠璃の間に上手く行っていない箇所などない。おそらく。多分。自身はないが。少なくとも俺が思いつく限りでは。

「万事オーライさ……なーんにも不安なところなんて……」

 不安なところなんて何もない、そう続けようとしたところで、俺を見上げる遠藤の瞳が、何かを責めている様に感じた。

「本当にないの?」

「な、無い」

 歯切れ悪く、且つ自信ありげに言ってやったが……責める視線は変わらない。しばらくそのままでいて、俺の息が詰まりそうになったところで、

「はぁ」

 遠藤が珍しく大きなタメ息をついた。

「まあいいわ。とにかく、さくらくんをあんまりいじめないでね」

「いじめてるように見えるのか?心外だな……それよりさ、お前が飼ってる猫、人懐こいか?」

「うん、とーっても。どこかに潜ったり隠れていて姿が見えなくても、ちょっと呼べばすぐに飛んでくるわ」

 へぇ……犬ならまだしも、猫でそれだけ懐っこければそりゃ可愛いだろうな。

「名前は?」

「ミケ」

「へー……じゃ、ウチのと同じ三毛なのか」

「ううん、シルバーマッカレルタビー……要するにサバトラね」

「そ、そうか。なあ、もし良かったら……一度お宅のミケちゃんと遊ばせてくれないか?実は俺……猫が苦手でさ。ここらで正しい猫とのスキンシップを教えてもらいたいな、なんて思ったり」

 遠藤は、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに首を振った。

「ご、ごめんね、今ミケは親戚に預けちゃってるんだ。ちょっと訳ありで」

「そうか……ならいいんだけど」

 ちょっと引っかかるところもあるけど……訳ありって言うんなら仕方がない。

「本当にごめんね」

「いいって」

 それきり……無口になった遠藤と、彼女の家の近くで別れた。別れ際だけ、

「それじゃ、また明日ねっ」

 と元気良く手を振る遠藤の姿が、いつもの様でいていつもの様に見えなかったのは……度々起こる俺の気のせいなのか、全く……分からなかった。

 時折、木枯らしのような、骨にまで染みる寒さの風に吹かれながら、家の玄関を開ける。すると……上がり框にそっと座っていたらしいさくらが、俺の姿を見るなり一目散に飛んで逃げた。俺を待っていてくれたのか、それとも単なる気まぐれでそこにいたのか……猫の気持ちを察することなど出来ないが。

 既に玄関にまで良い匂いが漂って来ていた。これは……恐らく、デミグラスソースを使った料理だな。

「ただいま」

「お帰りなさい、お兄ちゃん」

「さっきさくらが走っていったけど……」

「うん、葵さんもああ言ってる事だし、しばらくは放っておこうと思うの……でも、医者に連れて行くには、無理にでも捕まえなきゃいけないんだよね」

「そうなんだよなぁ……どうすりゃいいんだ、全く」

 瑠璃がかき回している鍋の中身を見ると、案の定、ハヤシを煮込んでいるらしい。

「今からハヤシを煮込むのか、時間がかかりそうだな」

「うん……たまには、ね」

 瑠璃はそう言ってコンロの火を緩めると、エプロンを外した。

「お兄ちゃん、先にお風呂入っちゃいたいんだけど、たまにかき混ぜてくれない?」

「かき混ぜるだけで良いのか……今日は後で用事でもあるのか?」

「今日は後で見たいテレビがあるの。もう他のものは出来てるから……お腹が空いてたら、先に食べてても良いよ」

「まあいいや、じゃあ火は俺が見てるから入って来いよ」

「ありがと、お兄ちゃん」

 瑠璃はにこっと極上の笑みをよこして、風呂場の方へ向かった。時計を見ると、既に8時を回っている。ま、たまには遅い夕食も良いだろう。

 ふと見ると、側にさくらが座っていた。いつもと違って、俺を警戒していないような……それに釣られ、ついつい手を出してしまうと……

「あ、痛っ!」

 やっぱり引っかいてくれやがった。また右手の傷が増えるな。やっぱりそっとしておくべきだったか……本当にどうやって捕らえてくれようか。見る間に右手のひっかき傷から赤い玉が膨れだす。意外と傷が深かったか……幸いなことに、自分の血を見るのは全く平気だ。洗面所に行って傷口を水で清めようと思ったら……


 しゃああぁぁぁ……シャワーの音が。考えるまでもないが、今は瑠璃が風呂に入っているのだ。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

 バスルームにこだまする声。俺の気配に気づいたらしい。

「ちょっとさくらに引っかかれた」

「え」

 シャワーが止まり、扉を少しだけ開けて瑠璃が顔を出した。

「大丈夫?」

 心配そうに声を掛ける。瑠璃の気遣いより、その濡れた髪の毛がやけに色っぽい事の方が気になった。瑠璃は顔だけを扉のスキマから覗かせているつもりなのかも知れないが、なだらかな鎖骨のラインの辺りまでがはっきりと見える。

「ぜーんぜん平気だ。しかし俺も学習能力がないなぁ……」

「大丈夫ならいいんだけど……ちゃんと消毒しておいてね」

 がちゃん、と扉が閉まって、再びシャワーの音がする。ふう、と一息ついて、血を水で流しつつ、要らないタオルで拭おうかと洗面所兼脱衣所を見回すと、

(んんっ!?)

 洗濯機の蓋の上、バスタオルが置いてある更にその上に、小さく、くしゃくしゃっとした、淡い水色の布きれが置いてあった。

(おいおい……幾らなんでも無防備すぎだろ……)

 なるべくそれを見ないようにしようと思っても、ついつい目が行ってしまう。この布きれは、何故こうも男の心を惹きつけるのだろう。……くれぐれも言っておくが、これが誰のモノでもなく、自分の気に入った人間のものだからこそ惹きつけられるんだぞ。……もっと悪いか。少々自己嫌悪に陥りながら、鍋をかき回しに戻った。

 リビングに戻ると……ソファの上にさくらが居座っている。さっきまで逃げまどっていた猫とはとても思えないくつろぎ様だ……何処までも自由なやつめ。……先が思いやられるな。


 極上ハヤシを食い終えると、瑠璃はそそくさと片付け終え、二階の自分の部屋へと戻ってゆく。いつもは二人一緒にリビングでテレビを見ながらくつろぐのに……今日はどうしたというんだろう。茶でも持って行ってやろうと、キッチンに入りさっき遠藤に出した茶葉を捨てたところで、電話のベルが鳴った。

「はい、矢島ですがどちら様でしょうか」

 しばらくの沈黙の後。

「……遠藤です」

「おお、遠藤か。どうした?」

「さっき、言いそびれた事があって」

「言いそびれた事?」

 コードレスの子機をアゴに挟みながら、お茶の準備をする。ええと……茶葉入れは何処だったかな……

「ええと……矢島君、明日の放課後、暇?」

「ああ」

「今、街中の“竹屋”で美術展が開催されてるの、知ってる?」

 “竹屋”とは、市内でも一番大きなデパートだ。その竹屋が結構有名な画家の作品を集めた美術展を開くというので、結構話題に上っていたな。……主に市の広報紙とかで。 

「それを一緒に見に行ってみない?」

 画、か。自分では全く自覚がないが、遠藤が褒めてくれるところによると、俺には美術的センスがあるらしい。俺を誘った遠藤自身は、そういった方面に興味がある……というよりもっと積極的に、自分の未来を覧ているらしい。

「いいぜ」

「良かった……それだけ聞きたかったんだ。それじゃ、また明日」

「おう、また明日」

 短い会話だったけど、電話で聞く遠藤の声もまた新鮮だな。子機を置くと、ちょうど瑠璃がキッチンへと顔を出したところだった。

「お茶飲むだろ?今入れるから、部屋へ持って行ってやるよ」

「……」

 電話、誰からだったの?と聞きたいのが顔に書いてあるが、瑠璃の性格からいって、直接言葉に出すことはしないだろう。

「遠藤とさ、明日“竹屋”でやってる美術展に行く事になったから。悪いけど、明日の夕食当番も頼むよ」

「……うん、分かった」

 何故だか……悲しげに微笑み、部屋に戻ってゆく瑠璃。一体何をしに来たんだろう……

 それにしても美術展か……そういえば、これってデートになるのか?世間一般から見れば、まあ間違いなくデートなんだろうが……俺は、それを否定したかった。あくまで、これは興味が有るから見に行くんだぞ、と自らを納得させる。……そして、納得した瞬間、どうしてそこまでして納得しなければならないのか、という事実に気づき、愕然とした。一体俺は、何に対して“納得する理由”を用意しているんだろう。


 延々と自問自答を繰り返している間に、コンロに掛けた薬罐は、とうに猛り狂って蒸気を吐き出していた。

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