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COME-COME-CAT

 最近……俺は瑠璃の事ばかりを見ているようになった。

 瑠璃のあらゆる仕草を盗み見、そしてそこから目が離せなくなってきている。

 ……ダメだな、俺は、もう。

 何がダメかって……自分の心に整理が付けられないのはもちろんだけど、ここでこうして……一緒にリビングでテレビを見ている瑠璃の美しい横顔を見ているだけなんだから。考えてみれば……俺が自分から行動を起こした事など何回あるだろう。以外に俺と言う人間は意気地なしなんだ。過去に女の子と付き合ったときも、自分から気持ちを伝えたことなど一度も無い。

 ただ、向こうから声を掛けてくれるのを待つだけ。

 俺はこんなにも臆病だったんだ。


 こうして……瑠璃の前で平然を装ってはいても、内心いつ気付かれるかとドキドキもの。瑠璃は……俺の前ではいつもと変わらない。 今までと同じように笑い、首をかしげ、そして……少しだけ陰のある表情もいつもの通りだ。瑠璃は……俺の事を、どう思っているのか?……真正面から聞いたって、「兄だ」と言われてそれまでだろう。他にどんな思惑があろうがなかろうが、それだけは間違い無いし、変えようの無い事実だ。


 今、瑠璃は……上品にソファに腰掛け、テレビを見ている。何がそんなに面白いのかは知らないが、少し微笑んだような、これぞ美少女の鑑とも言うべき慈しみが溢れた

「お兄ちゃん」

「ん、あい?」

 虚を突かれた。いかんいかん、あんまり見とれているのも不審がられるな。それならば、と横目で瑠璃を眺める。

「わあ、可愛いなぁ」

 瑠璃が、テレビの画面を見ながらそう呟いた。画面を見てみると、丁度動物番組を放送している。タレントが椅子に座っている後ろのセットに、長毛種の猫……多分メインクーンかなんかだろう……が優美に寝そべっていた。確かに……"動物として"は可愛い。そりゃ、こんなふさふさの毛をした動物が可愛くない訳が無い……性格が良ければな。もっとも、人間からどう思われようとも、動物にとってはいい面の皮なんだろうけど。

「本当に可愛いな」

「ほんとよねー」

 喫茶店での会話を聞いてしまった手前、こうした瑠璃の言葉も、なんとなく「猫を飼いたい」というアピールに聞こえてしまう俺は……心が汚れているのか。

 半ばうっとりとした表情で画面内の猫に見とれる瑠璃。その陰で、俺は瑠璃をじっくり観察できるのだから有り難い。

 ふと視線を下に移動させた。他意はない。全く他意はない。無意識の内に眼球が動く、あくまでその微動の範囲内だ。でも……俺の目には、瑠璃の成長を如実に示すものが映っていた。

 それは、瑠璃の太腿の中ほど辺りからのなだらかなライン。いつもはゆったりとしたロングスカートを好む瑠璃が、今日は珍しくデニム地のミニを穿いている。裾のあたりに小さなフリルがあしらわれていて、それが可愛らしさとして花を添えている。

 問題はその脚全体の肉付きだ。

 瑠璃と出会ってまだ半年。その頃と比べて……身長はあまり伸びていない。もとより、一人で寂しそうに玄関先に立っていた頃から小柄だとは思ったが……そうだな、大体145Cmは超えてないだろう。その外見から、年齢よりも大分幼く見えると思ったのはもう昔の話だ……昔と言ってもたった半年前だが。

 でも……その半年間、瑠璃は随分と成長した。別に人生の先輩風を吹かすわけじゃないけど、実に人間らしくなったと思う。あの時、玄関に立っていた瑠璃は……表情というものが無かった。普通の人間なら、例え無表情でも何かしらの感情の機微を見出せる筈なのに……

 身長の伸びとは裏腹に、瑠璃の身体は確実に成長している。たった半年なのに、明らかに身体全体の肉付きが“女性らしく”なっている。そりゃ、知識の上では、女性は思春期を迎える頃に、ホルモンバランスが変化し、子を産み、育てる為の身体に変化する事ぐらいは知ってる。子供と大人の身体つきの違いも勿論分かる。だけど……

「お兄ちゃん?」

「んっ?な、何だ?」

「何か飲もうと思うんだけど、珈琲と紅茶、どっちがいい?」

「ああ……やっぱり珈琲かな」

「じゃあちょっと待っててね」

 瑠璃が席を立った、その後ろ姿を密かに見送る。太腿から膝の裏、そしてふくらはぎに至るラインなんかはもう……いよいよ“女性”そのもの。つまり俺は、“少女”が“女性に”に変化する過程を見た事がなかった。成長前と成長途中のギャップがあるからこそ、こうして気になったりもするわけであって。

 こんな可愛い子を、あらゆる意味で血気盛んな男子中学生の目に触れさせておくのも末恐ろしい。が、だからといってラプンツェルのように幽閉しておく訳にも行くまい。その場合、俺の声のみによって長い髪をたらし、俺だけを塔の上に招き入れてくれるのだろうか。それとも……他の男の声と判別が付かずに、そいつが塔から連れ出してしまうのか。「お待たせ」

「ああ、悪いな」

 目の前で珈琲を淹れてくれる瑠璃。目の前を横切る瑠璃の髪の香りが、ふっと鼻腔をくすぐる。甘い、シャンプーとリンスの香りだ。幾ら瑠璃に飾り気がないとは言っても、人体のベースとなる髪と肌には気を使っているらしい。それでも、風呂場に置いてある石鹸の類がどれもこれもありふれたブランド・メーカーというのも実に瑠璃らしいか。

「やっぱり美味しいね、この珈琲」

「ん、ああ……」

 思わずそっけない返事をしてしまった……この豆は、瑠璃が「喫茶館」のマスターに無理を言って分けてもらったものだというのに。しかし、今の俺は正直に言って、冷静に珈琲の濃厚且つ芳醇な香りを鼻の奥で噛み締めている余裕などない。

「どんなブレンドにしてるんだろ……それだけは企業秘密だって言ってたから、自分の味覚に覚えこませるしかないのかな?」

 そう呟きながらどちらかというと猫舌な瑠璃が、ず、と珈琲を熱そうに啜る。その小さく可憐な唇を窄ませている様は……曲解すれば大変卑猥ではある。

 俺も珈琲をじっくり味わうフリをしながら……その唇の動きを盗み見た。……分かってる、いい趣味じゃないのは。でも……最近の俺は、自分で自分の行動を律せないほど、悩んでいる……らしい。らしいというのも、自分手ここまで悩んだ経験がないからだ。

「お兄ちゃん……」

「ん、ん?」

 そして、これも俺の最近のクセとなってしまったのだが……考え事をしている最中、瑠璃に突然呼びかけられると、自分でも情けなくなるくらいに動揺してしまう。あからさまにおかしい態度だったが、瑠璃はそれについて何も言及しなかった……今までは。

「お兄ちゃん、最近……ちょっと変だよ?」

「そうか?別に何も変じゃないぞ」

 俺という人間は基本的にウソをつき慣れていないから、務めて知らないフリをしても、どんなに口調に気をつけても、一発で見破られてしまう程度のシロモノでしかないらしい。その証拠に、

「ウソ」

 瑠璃がちょっとだけ厳しい表情になった。

「お兄ちゃん、私が気付かないとでも思ってるの?日曜日あたりからからどうもおかしいな、とは感じてたんだけど」

「だから、何もないって」

 否定すれば否定するだけ自分を追い込む結果になるのは分かってるけど、だったらどうやって切れ返せばいいというんだ。

「……」

 瑠璃は不審そうな表情を変えないが……どうやらそれ以上は突っ込む気はないらしい。俺の隠し事をしているという不満はあるだろうが、それよりも俺が喋りたくないという意志の方を尊重してくれるらしい。

「そうだ、瑠璃……龍志とは何処に遊びに行ったんだ?」

 その場しのぎに、咄嗟の一言。我ながら、尾行までしていたクセによく言うよ、とは思うけど……今はこの雰囲気を変えられればそれでいい。

「うん……えっとね、最初は映画を見ようと思ったんだけど、見たい映画が上映されてなかったし、それに……もっと龍志さんとお話もしたかったから、総合公園までお散歩しにいったの」

「それだけ?」

「ううん……その後、喫茶館にお茶しに行って……それから家まで送ってもらっただけ」

 俺が喫茶館に留まった後は、もう帰りか……イマドキの10代のデートにしては、ちょっと色気の無さ過ぎる時間帯の帰宅だとは思うが……まあ龍志と瑠璃だからな。

「そうか……それで楽しめたのか?」

 一番聞いてみたいのはここだった。あの龍志が相当に意気込んで、七五三紛いの一張羅まで着込んでのデートだったのだから、奴はそれなりに盛り上げようと頑張っていた事は認める。

「……うん、楽しかった。あんまりお喋りは出来なかったけど」

「……そっか」

 瑠璃がウソを言っているようには見えない。楽しかった、のか。ハタ目にはあまり盛り上がっているようには見えなかったが、それは会話が良く聞こえていなかっただけか。胸を撫で下ろしたと同時に……ちょっと悔しくもあるのは何故だろう。

 会話が途切れたところで、テレビ画面を見ると……さっき瑠璃が大層気に入ったらしいメインクーンが伸びをしていた。

「猫、可愛いよな」

「え?」

 呟くと、瑠璃の瞳が輝いた。

「いや、俺さ、猫って苦手だったんだよ……小さい頃、顔を思いっきり引っかかれた事があってさ」

 今度は激しく落胆の瞳。

「でも、まぁ、今もう一度猫に接してみれば、好きになるかもなぁ」

 喫茶館で盗み聞きした、瑠璃が猫好きという情報を、なるべく不自然でない形で臭わせてみたんだけど……

「そうそう、猫って可愛いんだよ?引っかかれたのはたまたま猫の虫の居所が悪かっただけなのかも知れないし……飼ってみれば、きっと良さが分かると思うんだけどなぁ……」

 上目遣いで何かを訴える瑠璃。はっきりと「猫を飼ってみたい」と言えば良いのに……今まで我慢していたなんて。

「そうだな、じゃあ……飼うか」

「ほんと???」

 瑠璃が身を乗り出す。うう、そんなに顔を近づけないでくれ。しかし……こんなに喜ぶとはな。

「ああ……その代わり、基本的にお前が世話をするんだぞ?」

「はい」

 ……一抹の不安はあるが、子供じゃあるまいし、飼う時だけの口約束という心配は要らないだろう。

「じゃあ、今度の休みにペットショップでも覗きに行くか?」

「うん……あの、その事なんだけど……」

「ん?」

 突然、瑠璃の顔が曇った。

「ペットショップがダメなら、ブリーダーに掛け合ってみるとか?」

「ううん、そういうんじゃないの。それとは別に行きたい所があって……」

 確かに、仔猫を譲り受ける方法は、その二つに限った事ではないだろうが……何故そこまで顔を曇らせるのかが分からない。

「じゃあ、どこだ?」

「あの……ね……」

 確かに……ペットショップなんてものは、動物愛護の精神が進んでいる欧米では考えられないだろうがてん、今、俺たちがいる場所から比べたらまだマシだ。

 正直に言って、ここは、どんなに輝かしい希望を待っていようが、今現在全く不安のない幸福な人生を送っていようが、すぐさま人間をやっているのを恥じ、止めたくなるような場所だ。

 ここは、保健所の一室。人間達の勝手な理由から、何の罪もない動物達が哀れな最後を迎える場所。見ると、檻にスシ詰めにされた元飼い犬達が、これからの自身の運命を薄々感づいているのか、尻尾を下げ、がたがた震え、怯えた瞳で俺たちを見ていた。俺はそんな姿をまともに受け止める事も出来ずに、ただ俯くだけだ。今俺が生きているのは、多大なる生命の犠牲の上に成り立っていると頭では分かっていても……やるせない。

 瑠璃は、隣の部屋の係員と、何事か交渉していたが……やがてこちらにやってきた。

「お兄ちゃん、猫……一匹だけ里親になっていいって」

「……そうか」

 どんな交渉をしたものか……あまり詮索しようとは思わないが、念の為に、瑠璃にはペットショップで高めの仔犬や仔猫が一匹買える位の金額を渡してある。それを使ったか使わなかったか、もし使ったのなら、どんな風に幾ら使ったのか……は知らない。これから先、訊く事もないだろう。

 それにしても、瑠璃の思惑は分かるが、これだけの救われない動物を前にしては、たった一匹に救いを与えたところでなんの慰めにもならないし、なんの解決にもならない。……単なる、自己満足だ。そんな事は分かってる、分かってるんだ……瑠璃曰く、

「ペットショップにいる子達にはまだ未来があるけど、保健所に引き取られてしまった子達には……未来がないから」

 なんだそうだ。 

 犬達の恨めしげな瞳の前を通り過ぎて、ケージの中にやっぱりスシ詰めにされている猫達の前に立つ瑠璃。

 一体……これほどの数の中から、どの猫を選ぶんだろうか。そもそも、途中から突然飼い主の変わった猫が、俺達に懐いてくれるのだろうか。

 瑠璃の瞳は、迷っていない。この中から一匹だけを選ばなければいけない矛盾と無意味さ、そして失われる筈の命を救うという重大さを、きちんと受け止めているらしい。

 ……しかし、どの猫もやっぱり只ならぬ雰囲気に飲まれ、不安そうに四つんばいになっている。聞くだけで胸が張り裂けそうな、寂しい泣き声を挙げているのもいる。

 瑠璃は……ケージの中の猫をしばらく見つめた後……

「あの子にする」

 と、ケージの一番奥の方でうずくまっていた、小柄な猫を示した。瑠璃が隣の部屋に告げに行くと、係員が面倒臭そうにやってきてケージを開け……どうでも良さそうに瑠璃の眼に適った猫を摘み上げてきた。このオッサン……もう少し動物の扱い方を知らないものか。……考えようによっては、こうして“鬼”に徹する事によって、自分の精神を保っているのかも知れないが。

 瑠璃はその猫を優しく抱くと、係員のオッサンに一礼し、やはり俯いて……部屋から出て行く。俺もそれに続くが……背中からの恨めしげな視線が痛い。この部屋の中では、どんな聖人君子でも咎人に変わり果てちまうな……。

 用意してきた猫用バスケットに、新たに我が家の一員となる猫を入れる……が、どうにも元気がない。暴れるなり懐くなりしてくれれば、まだまだ救いようがあるんだが……中を覗いてみると、未だにがくがく震えていて……その姿がまた、俺達人間のしでかした罪の大きさをイヤでも思い知らされた。



 家に帰ってから、猫をバスケットから出し、自由にしてやる。これだけ怯えた奴が相手では、猫が苦手という感情も起きない。……だが猫は、自分が自由の身になった事をまだ実感していないのか、それともまだ動ける気力が無いのか……床の上で身を固くし、姿勢を低くしているだけだ。

 取り合えず、瑠璃が身体中の汚れをウェットティッシュで拭いてやる。拭いてやっている間も、猫はぶるぶる震えていた。コイツがどんな仕打ちを受けてきたか知らないが……察するに余りあるな。

 腹は減っていないかと、途中の大型スーパーで買った動物用ミルクを温め、餌皿に入れてやると……猫は目の色を変えて飛びつき、無心に飲み始めた。

「お腹……空いてたみたいね」

「ああ……」

 それ以外の感想を告げる気にならない。

 よく見ると、猫はなかなか可愛い顔立ちをしている。毛色から言ってミックスだろうが、怯えた瞳さえなければ、愛嬌のある方だろう。毛は、三毛の長毛。長い毛のお陰でふくよかに見えるが、持ち上げた感触と、これだけの勢いでミルクを飲んでいる事から言って、かなり痩せているとみて間違いないだろうな。全く、前の飼い主は何を考えて……何も考えてなかったんだろうな……顔も名も知らぬ人間に言い知れぬ怒りを覚えながら、ミルクを一心不乱に胃に収める猫を見つめる。……そんな猫を見つめる瑠璃も、またどこか寂しそうだ。

「瑠璃、お茶でも淹れるか」

「うん……ね、お兄ちゃん、この子の名前、何にする?」

 俺に訊く瑠璃の顔は……まさしく慈母、と言う以外に形容し難い。これから全ての責任を自分で持ち、育てて行く母の顔をしている。一度は握りつぶされる運命にあった小さな命を、再び手繰り寄せる責任は……重い。

「お前の好きにしたらいい。新しい命だ……この猫が前の飼い主の事を忘れちまうよう位可愛がるんだから、それに負けないぐらい可愛い名前を付けてやれよ」

「うんっ!」

 力強く頷き、ミルクを啜る猫の背中を撫でた……瞬間!猫がびくっと反応し、横っ飛びに身を逸らして俺達を注視した。おいおい……さすがにそこまで警戒されると悲しいぞ。瑠璃と顔を見合わせ、苦笑いした。

 

 さて、瑠璃が智恵を振り絞って名前を考えている間、珈琲を念入りに淹れる。今日の豆も「喫茶館」特製ブレンド。更に言うなら、どちらかというと瑠璃好みの、苦味を抑えたブレンドだ。今の……偽善・独善とはいえ……一つの命を救ったという満足感には、あんまりほろ苦いのも似合わないだろうからな。

 キッチンから珈琲を持っていってやると、瑠璃は未だに首を捻っていた。猫はとっくにミルクを飲み終え、瑠璃から離れた場所で毛づくろいをしている。人間には警戒していても、毛づくろいだけは欠かさないんだな……しかし、本当に首を傾けている瑠璃の姿は、いかにも熟考しているといった画で、非情に微笑ましい。これが他の女だったら、ワザとらしくて殴ってやりたくなる所だろうが。


「ほれ」

「ありがとう」

 かちゃ、とテーブルの上に珈琲の入ったカップを置く。その音が響くくらい、妙に静まり返っている。そうだ、テレビを点けていないからだ。

 珈琲をすすりながら猫に目をやると……やっぱりまだまだ、どこか不審そうな瞳で、隅っこで固まっていた。こりゃ、慣れるまでに時間が掛かるかも知れないな。

「名前、決まったか?」

「うん……」

 瑠璃は一旦ソファに腰掛け、ふっと小さく溜め息をついた。瑠璃も、元より即日馴れ馴れしくしてくれるとは思ってなかっただろうが……

「……さくら」

「ん?」

「平仮名で“さくら”なんてどう?」

「さくら……桜、か。いいかも……な」

「私ね、まだお兄ちゃんと出会ったばかりの頃、お花見に行ったでしょ?」

 総合公園の、あの時の花見、か。たった半年前の事なのに、やけに淡い、絵で表したらセピア調になってしまうような思い出に感じる。その分だけ、今の俺が過ごしている時間が濃密という事なんだろう。

「あの時の……すごく綺麗な桜を、お父さんにも見せてあげたかった。その桜を、この子にも見せてあげたいな、なんて……猫なのにね。えへ、結局あんまり深い意味、ないね」

 ぺろ、と小さな舌を出しておどける。瑠璃はそう言うが……俺に取っては何よりも深い理由に聞こえた。瑠璃にとって桜が大切な思い出であるように、この猫が俺達にとって大切な、掛け替えのない存在になるように……

「いや、いいよ。さくら、お前は今日からさくらだからな。お前を見限った飼い主が付けた名前なんて、今日を限りに捨てちまえ」

 本来なら、抱き上げて言い聞かせる所だろうが……生憎、猫……さくらは、俺の手の届かない場所、キッチンのテーブルの下にいる。その距離が……もどかしい。

「よろしくね、さくらちゃん」

 現金な事に、瑠璃が声を掛けた時だけ反応が違うんだ。根本的に人間の善さの違いを嗅ぎ分けているんだな。……いや、ちょっと待てよ?

「さくらちゃん……どんな色の首輪が似合うかな……女の子だもん、綺麗なのがいいよね?」

 取り敢えずは家飼いするが、念の為に連絡先を明記した首輪をさせるのはいいとして……

「瑠璃、コイツ男だぞ」

「えっ……あ、ほんとだ……」

 毛繕いをしているさくらの一箇所を凝視して、"あるモノ"を確認した瑠璃は、ちょっとだけ頬を染めてそう呟いた。今まで、メスと信じて疑わなかったらしい。確かに……外見からはどちらとも取れるよな。人間みたいに、外見でおおよその判別が付くわけでもなし。

「まあいいか、さくらは日本の心だからな。お前も日本男児なんだから、名前くらいでゴタゴタ言わないだろう?」

 さくらに向けて、そう問いかける。無論言葉を返してくれる訳ではないが、いずれ心を開いてくれる事を願って……。

「瑠璃、俺達もメシにするか」

「あ、もうそんな時間なんだね……」

 時計を見れば、もう6時過ぎだ。猫に構いっきりで、全く時間を気にしていなかった。最近はめっきり日が短くなってきたから、周りはすでに真っ暗なのに、だ。こんなところからでも、時間の流れの速さを否応なく痛感する。

「取り合えず、有り合わせで何か作るか」

「うん」

 猫は環境の変化に敏感だというから、2・3日はこれ以上構わずにいてやろう。いろいろと親交を深めるのはそれからだ。

 



 願わくば、さくらが俺達にとっての招き猫になってくれる事を願って。招くものが何であってもいいから……あ、顕著な不幸は困るが……もっと、瑠璃が色々な事に触れ合ってくれますように、そして、俺達を成長させてくれますように。



 さくらは、そんな俺の願いを知る由もなく、ただ目を光らせて、俺達の動きに目を光らせていた。

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