Side by side ≦ Tail to nose
……そして、その日はやってきた。朝から校内はどことなく気だるい雰囲気に包まれていたが、一部の人間達……特に運動部系に所属している生徒は、自らの成績が如実に数字として表れてしまうだけあって、ハタから見ていて暑苦しいくらいに気合が漲っている。
部活に所属していない俺と龍志だが、その暑苦しい輪の中に半ば溶け込んでいる。
そう、今日はマラソン大会の日。夏休みから果し合いを誓い合っていた、龍志との対決の日だ。
本来なら休みの筈の土曜日、午前中一杯を使って、前半は女子、女子が粗方ゴールした後、引き続き男子がゴールするという手筈になっている。
そんな訳で、男子連中は未だ教室で待機しているが、女子は既にスタートしている。一時間半ほど経過した所で男子がスタンバイするんだが……去年はかなり適当に走ったから、緊張なんてものとは無縁だったが……今は、明らかに緊張している。
対する龍志は、と教室中を見回すが……あれ、居ない。どこへ行ったんだ、あいつは。ただ単に用を足しに行っているだけかも知れんが。
しかし……こうして待っているのも何だか落ち着かないし、かといって外に出ても誰も居ないが……取り敢えず、入念に柔軟体操でもしておこうかと、グラウンドに出ようとすると……人気の無い昇降口の辺りで、龍志とバッタリ出会った。出会ったと言うより、一人で佇んでいる龍志の姿を俺が認めただけ、ではあるけど。
「りゅ……」
声を掛けようとして、思いとどまった。
龍志の纏っている雰囲気が違う。
龍志は、目を閉じて何かを祈っていた。正確に言えば、目を閉じたまま空を見ているようにしか見えないが……その雰囲気をムリヤリ表現するなら、「気迫」とでも言おうか。とにかく、ちょっと控えめな、物腰の柔らかい美少年はそこには居ない。居るのは、只勝負を掛けた「漢」がひとり。
……あくまで龍志は戦闘モードに入っている。ここで俺が顔を合わせたからどうにかなるというものではないだろうけど……俺は教室へと戻った。
龍志があれ程までに真剣になっている。今までは心のどこかで、龍志の本気が冗談なんじゃないか、という期待があった……ここでは、期待というより願望か……。だって、今まで仲良くやってきた俺達が、いきなり真剣勝負をするなんて……勝負をするという事は、文字通り勝者と敗者を生み出す。俺達の間にその二つが跨って、果たして今までのように笑顔で居られるのか?
いや、ひょっとしたら、この勝負だけは別物、普段の付き合いは普段のままで、と割り切れる方がプロフェッショナルなのかも知れない。俺には無理そうだが……何のプロかは置いといて。
結局、人目につかない音楽室の方の廊下で入念なストレッチを施す。今日の為に練習して、今日の為に休養を取ったからか、身体の調子はすこぶる良い。何と表現したらいいんだろうか……そう、手足の指の隅々にまで自分の意思が、力が伝わっているような、そんな感覚。少なくとも体調的には申し分ない。これで龍志にあっさり負けるようだったら……正直に言って申し訳ないな。その時は……素直に俺の負けを認めるしかないが。
やがて時間は過ぎ……
男子のスタート時間が近いという放送が入り、全員が校庭のスタートラインに着く。その間にも、女子のビリに近い子らがゴールしてゆくが……殆どさらし者だな、これは。
予定通り、特別に遅い……はっきり言えば、これ以降走っている子は先生らによって強制終了されてしまう……人間を切り捨てて、いよいよスタート時間だ。無気力といわれて久しい俺達高校生だが、こうしてスタートラインに立ってしまえば、イヤでもスイッチを入れざるを得ない。その証拠に、全員が引き締まった顔をしている。先頭には、本職である陸上部の精鋭達が並ぶが、その後ろには、俺達のような非陸上部が並んでいる。非陸上部と言っても、大体はサッカー部やバスケ部などの、始終走り回る部活に所属している生徒達だ。彼らも、自分の限界を試すんだか何だか知らないが、とにかく鼻息が荒い。
「用意」
の掛け声で一斉にスタート姿勢になる。この俺ともあろうものが、走る前から心臓がドキドキしてやがる。救いなのは、一発勝負の短距離や何かと違い、長距離は補正が効く、というところか。
ぱんっ
号砲と共に、火蓋は切られた。まずは陸上部系を先に行かせる所までは予定通りで、その後に続く、表面上は2位集団の中からは少し外れて走る。さて龍志は、と見ると……俺と同じ集団の中で走っている。俺も龍志のペースについて走ろうかとも思ったが、その龍志は全く周囲に視線を払わない。少なくとも、俺の姿を探そうとはしていないように見える。
(龍志の奴……最初から“俺に勝つ”だけじゃなくて、“自分に勝つ”事も念頭に置いているんじゃなかろうか?)
その瞬間、今まで俺の頭にあった「龍志に勝てばそれでいい」という考えは、完全に払拭された。例えそれで勝っても、龍志との勝負に勝った事にはならない。
覚悟を決め、龍志から視線を外し、今まで練習してきたペースで、改めて自分の中でのスタートを切る。すると、龍志も同じように2位集団から離れだし、俺と2人で単独2位コンビが出来上がった。それを見た球技系部活の生徒もペースを上げ出すが、あっという間に俺達について来れなくなった。……俺等って、結構速い方なんだな……。
しばらくそのままのペースを維持して走る。足の疲れ具合、心臓の鼓動の状態共に全く不安なし。俺にやや先行している龍志を見ると、いわゆるピッチ走法である事が分かる。つまり、歩幅を余り開けずに、その分小刻みに足を回転させる、小柄な日本人に適した走法だ。しかも龍志は、体格が小さいだけに体重も軽く……半年前、2年になったばかりの時の健康診断では、確か50キロに届いていないと嘆いていた……、その分身体にかかる負担も軽いから、長距離には有利なのかも知れない。
事実、坂道が頻繁になりだした辺りで、俺との距離を広げつつある。何とか追いかけたい気持ちを抑えて、ひたすらマイペースを維持するのは辛かった。何の事は無い、俺も負けず嫌いだからだ。マラソンは一時の勝負ではないとはいえ、これほどターゲットの背中を見ているのも面白くない。といって、ここで無理をしては、全ての計算が台無しになる……。
難しい所だったが、“ペースを上げるのは、下り坂が連続する地帯まで待つ”と自らを律する。その間にも、龍志は俺から視認が難しくなるほどまで距離を広げている。幾らなんでも、これ以上離されては、精神的にも物理的にも巻き返しが難しくなる……そう思った直後、ようやく上り坂地域を抜け、今度は高度を下げる道のりに変化した。
(いざ)
と、重力に任せ、スピードを上げ始める。狙いは他の部活動系の奴らも一緒だったみたいだが、俺の速力はその更に上を行っていた。見る間に龍志との距離が詰まる!!……と思ったのも束の間、龍志もペースを上げやがった。くそ、やっぱり体格的に奴の方が有利だ。良く考えると、ピッチ走法もヤケにサマになっているような……タレントが、ドラマかなんかでマラソンランナーの役を演じている時のような、いい加減なもんじゃない。龍志め、ただ単に走りこみをしただけじゃなく、マラソンの修行をしやがったな?
……どうやら、今度の今度こそ本格的に覚悟を決めるしかないらしい。龍志が、俺だけでなく自分にも勝負を挑んでいるなら、俺も受けて立とう。ちょうどいいじゃないか、最近、自分の限界を試す事なんて無きに等しかったからな。
俺も2位集団……いや、龍志が抜け出したから3位集団か……を抜け出す。これで4位集団になった輩は、驚き半分と疑惑半分の目……そんなに飛ばして大丈夫かいな、という余計なお世話な……で見送ったのみだった。
・
・
・
全長10キロのコース、闘いは中盤戦へ。これまでにも何度か体育の授業でコースの下見(兼試走)をしているから、どこが勝負どころかは分かる。
さてこの辺りは、アップダウンの比較的ゆるい、田んぼや畑の眺めが非常に長閑な地点だ。後ろから追いかけてくる影は無いが、前方を見ても龍志以外に人はいない。俺と龍志、男と男のサシの勝負を繰り広げるには申し分ないだろう。
しかし……龍志の奴、一向にペースをゆるめる気配が無い。というより、後ろを一回たりとも振り向かないという事から見て、これだけのスピードなのに、あくまで自分のペースを守っているらしい。
自分ではペースアップを果たしたつもりなのに、その差が詰まらないもんだから、焦りがそろそろ鎌首をもたげてきた。だがまだまだ忍の一文字。ここはまだマイペースをキープしつつ、終盤に向けての作戦を練る。
しかし龍志の奴……いい走りだな。女の子みたいな外見とは裏腹に、覚悟を決めた漢というものはこれ程までに行動に表れるもんなのか……
おっと、感心している暇は無かった。しかし、今のまま龍志の後塵を拝し続けるのも面白くない。とにかく、差が開かないという事は、俺と龍志とのスピードは変わらない訳だから、取り合えず一回は龍志に並んで、五分の状態には戻しておきたかった。
ややペースを上げ、龍志に並びかける。龍志にも確実に俺の足音が聞こえている筈なのに、振り返る素振りすら見せない。完全に自分の走りに没入してしまっているのか……あえて俺の方に注意を払わないようにしているのか……いずれにしても凄い集中力ではある。
今の今まで、それこそこうして走る前までは、龍志を女の子のような顔をした、どちらかというと情けないイメージしか持っていなかった自分を恥じた。人間の本当の顔は極限状態にこそ現れる。となれば、今龍志は……
並びかけたところで、そっと横顔を見やる。
そこには、闘っている漢“おとこ”の顔があった。一途に、自分の全力を賭して、俺と自らに闘いを挑んでいる、凛々しい龍志の顔。
いつもは、柔らかで、どちらかというと幼い顔つきが、今は何歳かずっと大人びて見えた。ちょうど、龍志のお兄さんの龍爾さんに似ている。
龍志は、たまに「ずっとこのままの顔だったらどうしよう」などと冗談めかして言う事もあるが、成長すればきっと、お兄さん似のいい男になるんだろうな。
とと、今はそれどころじゃないな。一先ず、龍志と並んだ時点で、同じペースに落とす。しかし、それまでに上げたピッチの分だけでも、かなりスタミナを浪費してしまった。この先、果たして自分の身体が持つかどうかは、もはや誰にも分からない。
・
・
・
コースは中盤から後半に差し掛かり、車道を走るようになった。この辺りから、車の排ガスをモロに吸う事になるわけだから、スタミナのロスが激しい。
俺と龍志は、相変わらず付かず離れずの距離を保っている。
外から見る限りでは、龍志はスタート時と変わらぬ平静を保ち続けていた。俺は、この数十分で、榊原龍志という漢を、親友から、この世でまたと合まみえぬ程の存在として認識しつつある。そんな漢とサシで勝負を付ける楽しさといったら、何にも代えがたいものだ。最初は、大親友と白黒付けるなんて、その後の友情にヒビが入りやしないか、なんて心配してたけど、俺と龍志に限って、そんなことがあるはずないじゃないか。
心配事が無くなれば、後は目の前の目的に邁進するのみ。願わくば、笑顔でお互いの健闘を讃え合わん事を。
ふと見ると、龍志の呼吸が、目に見えるほど大きく速くなっている。流石の龍志といえど、ここまで相当に飛ばしてきた代償は払っているようだ。もちろん……それと同じくらい、いや、ひょっとしてそれ以上のスピードで心臓がビートを刻んでいるぜ、イエイ!!
……
…………
………………
はぁはぁ、これくらいの虚勢を張らない事には、龍志に付いて行く事なぞ叶わない。もはや、俺が今までに体験してきたどんな長距離走よりもハイペースで飛ばしていた。今までの練習で築き上げた、余裕分のスタミナなどとうに使い果たしている。俺の脚を忙しく動かしているのは、酸素でもグリコーゲンでもなく、今なら真顔で「根性だけ」と言ってのける自信がある。
高遠高校の鎮座する丘が見えてきた。いよいよ勝負は待ったなし。残り2キロ、といったところか。ここで初めて龍志が後ろを振り返った。ケツに張り付いている俺の姿を認めても、意外な表情を見せるでもなく、むしろ当然、戦いはこれからだとでも言いたい様に、再び前を向き、それ以降一切振り返らない。
そろそろ、脚も効かなくなってきた。肺が新たな酸素を求め、心臓が激しく鼓動する。だが、弱音を吐くことなど……出来ない。きっと、今の俺の表情を正面から見てみたら、仏のような顔で微笑んでいる赤ん坊を一瞬で泣き叫ばせる事だろう。ひいひいひいと喉の置くで奇妙な風切り音が鳴っている。未だかつて、こんな音は聞いた事が無い。俺の中ではとっくに限界を超えている筈なんだが……以外に、人間の体というものは頑丈に出来ているようだ。
先を走る龍志のペースは……未だに落ちない。こうして、自分のペースを崩してまでも差を詰められない以上、龍志の方の失速を待つ他無いのだが……
残り1キロ。もはや高遠の丘は目の前。男子生徒の帰還を待つ女生徒たちの黄色い歓声が聞こえるようだ……もちろん、この距離で聞こえたらただの幻聴だが。今の状態では、その可能性すら否定できないのが恐い。これがいわゆるランナーズ・ハイという奴か……それこそ只の気の所為か。
そして高遠の丘に至る坂道を駆け上り、勝負はとうとう校内のグラウンド一周へ。ここまで来て、まだ距離が残っている事を半分恨めしく思いつつ、それでも坂道を走らなくていいことに半分安堵したが……何の慰めにもならないな。
龍志との距離は……僅かに10メートル。その差が何とももどかしい。俺だって、死ぬ気で足を動かしている筈なんだが、その脚が空回りしているようにしか感じない。もはや、脚が地面を捉えている感覚が無いんだ。周りでも、見物人の女生徒達の歓声が上がっているのかも知れないが、頭の中身はそれらを全てスルーし、走る事だけに身体の全機能が費やされている感じさえする。
身体を前方に傾けていなければ、その場で倒れ込みそうだ。あと約400メートル……いや、300メートル。
これで苦難の道のりが最後だと思うと、俄然力が湧きだしてきた。霞のかかったような頭で前方を見ると……龍志は、半ば全力疾走といった速度でトラックを回っている。考える事は同じ、か。俺も負けじと、最後の力を振り絞って走る、走る、走る!
見る間に龍志とのさが縮まるが……同時に、ゴールまでの距離も迫る。
あと200メートル。差は5メートル。全力で逃げる、その小さな身体が恨めしい。
あと100メートル。手を伸ばせば届く距離。
あと50メートル。並んだ。
心臓が破裂しそうだ。だが、ここまで来て脚は止まらない。
あと25メートル。
あと10。
5。
3、
2、
1メートル。
トラックを回っている間は、酸素不足が記憶回路を焼き切っていたせいか、時間の経過がごく速く感じたが、ゴールラインを跨ぐ瞬間だけは……やけにゆっくりと流れたような気がした。
・
・
・
「龍志、はあはあ……お前、はあはあ……凄い奴だったんだな」
息も絶え絶えに、しかし、そう賞賛せずにはいられなかった。闘いが終わってノーサイド。あれだけ手こずっていた相手だが、その相手が、自分の大親友であったのだから、これ程喜ばしく、嬉しい事はない。
「そういう亮だって……ぜいぜい……僕、ほんの少しだけ、ぜいぜい、亮が鍛えるのを怠けてくるかと思っちゃったけど……甘かったね……げほげほ」
龍志も、荒い息をつきながら、俺の走りに驚いていたようだった。
「でも……負けは負けだ」
「……」
「表面上はいい勝負に見えたかも知れないが……俺の完敗だ、龍志」
そう、俺の負けだ。
ゴールの瞬間の時だけは、俺が勝っているか、或いは少なくとも同着だろうと思ったのだが……ゴールした後、係員から渡された俺の番号札には「8」、龍志のものには「7」と、明確な結果が示されていたのだった。
校庭からは離れた人目に付きにくい場所……校舎の隅っこの方……で、2人でしばらく息が整うのを待つ。地面に座り込んだまま、龍志を「ちら」と見やると、なんだか憑き物が取れた様な、すっきりとした表情をしていた。2ヶ月以上……ひょっとしたらそれ以上、俺をライバルと認識して、そして努力を重ね、討ち破った気分はどうだろう。俺はというと、敗れた悔しさよりも、龍志という人間がここまでやってくれたという事実だけで、胸がいっぱいだった。
どのくらいそうしていただろう……
とっくに帰りのホームルームが始まっている時間だった。だけど、ここで龍志と過ごす充実した時間が何にも代え難くて、生徒が校庭から教室に引き上げた後も、2人で地べたに座り込んでいた。
まだまだ夏の陽気を残した10月だから、流れ落ちる汗の量も半端じゃない。上半身のTシャツを脱いでタオル代わりに、汗を拭いていた、その時だった。
「亮」
「ん?」
龍志が、Tシャツをまるで雑巾でも扱っているかのように絞りながら、俺を呼んだ。しかし、返事をしても、それっきり何も言わない。
「何だよ、龍志」
「……」
それまでの充実した表情から、妙に硬いものに急に変わっている。
「龍志……」
「僕ね、亮に勝ったら、言いたい事があったんだ」
「え……」
そこで始めて龍志が振り向いた。今度は、覚悟を決めた日本男児の……サムライの瞳だ。
「だから、今まで頑張ってきた。こんな事でって言われるかも知れないけど……とにかく、何か自分で目標を決めないと踏ん切りがつかなかった……」
「だから、今、亮という壁を越える事で、言う踏ん切りがついたよ」
身体をこちらに向けなおし、正座をした。
「僕……」
ごくり。ツバを飲み込む時の音が、やけに大きく聞こえたような気がした。
「僕ね……」
「早く、言えよ」
急かしたってどうにかなるものでもないが……それ程、言い難い事なんだろう。
「はっきり言うよ。僕……」
「……」
その逡巡で、俺に取って良くない告白である事を瞬時に察する事が出来た。でも、俺にはそれを聞かねばならない義理がある。今まで、散々引っ込み思案だと思っていた龍志が、恐らく初めてといっていいほど積極的に行動をしたのだから。耳を塞いで逃げる事こそ、龍志に対する不義理に値する。だから、ここはきちんと聞く。……例え、それを聞いて、これからの俺の身の振り方を熟考する事になろうとも。
「僕、」
龍志は拳を握り締めた。俺も、いつの間にかその口から漏れる言葉が恐くなってきていた。
「瑠璃ちゃんが好きだ」
瞬間、俺の心臓を素手で掴まれたかのような……鋭い痛みが差した。
「最初に亮に言っておこうと思って……今まで黙っていてごめん。でも……もう、この気持ちを隠しておくなんて事、出来そうになかったから……」
「な、何で謝るんだよ……はは、そうか、お前が瑠璃をねぇ……へーえ、ふーん」
おどけた反応をしてみるフリをしてみても、息が整った筈の心臓が再びバクバク動くのを律する事は難しかった。
瑠璃が……好き。その言葉は、俺の心の中に、つるりと、妙に滑らかに滑り込んできたクセに、突き刺さりやがる。
「以外だった?」
「いや……そうでもない……と言ったら嘘になるかな」
そう……瑠璃と龍志は、落ち着いた性格同士で、結構お似合いなんじゃないか、と思った事はある。だけど……いざこうしてその言葉を聞き、動揺するって事は……やはり自分でも、意外な印象はあったという事に他ならない。
「で、亮、いいかな?」
「……」
龍志の顔が直視できない。この前気付いたばかりの、俺の気持ち。今、龍志の気持ちを聞かされて、いかに自分の想いが半端なものなのかを思い知らされた。
「亮、まさか……亮も瑠璃ちゃんの事を……」
「な、何言ってやがる。俺と瑠璃は義理とはいえ兄妹だぞ?守ってやりこそすれ……」
一番、言ってはいけない事を言った様な気がした。自分の気持ちを抑え、龍志に譲るような形。でも……今は、その場凌ぎの方向にしか口が動かない。
「……亮……それ、本心だよね?」
「……」
「良かった……もし亮も瑠璃ちゃんを好きだったら、どうしようかと思ったよ。絶対に勝ち目なんてないからさ……お兄さん、ふつつかな義弟ですが、どうか宜しくお願い致します」
「誰がお兄さんだ、誰の義弟だ」
妙におどけたその口調に、少しだけ救われた思いがした。
「明日、早速2人で遊びに誘ってみようかな」
俺を試すような瞳で、合えてそう宣言した龍志の意図は何だろう。そんな事、いちいち俺に聞かせる事じゃないはずだ。
「いいんじゃないか?あいつをもっと遊びに連れて行ってくれよ。俺とだけ遊びに行くんじゃ、場所が限られちまうかも知れないからな」
「……そうだね。今日の夜、電話してみようかな」
「そうしてやってくれ」
額の汗を拭うフリをして、実は掌にかいた汗を短パンで拭った。自分が全く意識していなかった部分を突かれるだけで、人はこれ程までに動揺するとは。龍志には気付かれてはいないようだが……もしかすると薄々感づかれている気もする。
「さ、そろそろ行こうぜ」
それ以上龍志に詮索されるのが恐くて、適当な理屈を付けた。
「このままじゃ風邪引くかもしれないからな。でも……」
腰を浮かしかけたところで、周りを見回す。
「もうホームルームは終わっているような気がしますな、これは」
何故なら……
「あ……みんな着替えてる……」
生徒がやれやれ、といったお疲れの表情で下校していたからだ。途中で授業をすっぽかした形にならなければいいが。……マラソン大会のお陰で、出席を取るまでもなくウヤムヤの内に下校になったのを期待するしかない、か。
「行こう、亮」
「ああ」
俺の動揺を確認する訳でもなく、龍志はにっこりと微笑んでそう言った……。
……ひょっとして、俺は取り返しの付かない事をしたんじゃなかろうか?いや、帰りのホームルームをすっぽかした事ではなくて……これから、龍志と、瑠璃と、俺との関係をやっていくに関して、の……。
・
・
・
家に帰ると、瑠璃が妙に優しく労ってくれた。俺のひと勝負が激烈なものだったのを感じたかららしいが、今はそれよりも……瑠璃にばかり視線が着いて行ってしまう。疲れた身体と頭に美少女の姿は無論癒しになるが、それ以上に……龍志に「瑠璃が好き」と言われただけで、自分の意識が変わってしまうのに、我ながら驚いた。
夜、今日は俺の当番のはずの風呂掃除まで、瑠璃が自主的に代わってくれていた……その分、明日も明後日も俺が掃除当番になるだけなんじゃないだろうな……
深く浴槽に身を沈め、午前中の疲れを癒す。極楽極楽、なんていうオヤジが言いそうなフレーズも、今だけは勘弁して欲しい。
……こうして湯に浸かっていると、疲れと共に悩みまで湯に溶け出していってしまいそうだ……むしろそうしてくれた方がどれだけ有り難いか。
入る前はスッキリしていたのに、考え事をしだしてからは、余計に悶々とした気分になってしまっていた。
しかし、疲労の前にはどんな悩みも無抵抗、うつらうつらと船をこぎ始めたのが自分でも分かったが……
ぷるるるる。ぷるるるる。
電話のベルで一気に覚醒した。ぱたぱた……と、瑠璃の軽快なスリッパの音が聞こえた。そういえば、龍志が電話をよこすと言っていたっけ……流石に瑠璃の喋っている内容までは聞こえなかったが、その内容に興味は津々だ。
その後はロクに湯に浸かりもせず、急いで風呂から上がると、ちょうど瑠璃が受話器を置いた所だった。誰からかかってきたのか聞くか聞くまいか悩む前に、
「龍志さんから。明日……一緒に遊びに行かないか、って」
と、バツが悪そうに自ら白状した。
「そ、そうか……」
「うん……でね、その……」
歯切れが悪い。なんだか、そわそわしているというか……
「お兄ちゃんは?って聞いたら、2人で遊びに行きたいって言われて……」
やっぱり、龍志はその気らしい。
「どう思う?」
「どう思うも何も……行ったらいいじゃないか。龍志と遊びに行くんだって、楽しいぞ、多分。お前だって、龍志となら安心だろう?」
「…………」
瑠璃は、下を向いてしまった。今の俺の台詞は、自分の望んだ回答ではなかったとでも言いたいかのように。
「本当に……」
「何?」
「本当に、お兄ちゃんはそれでいいの?」
「だから、何の事だよ」
俺はあくまで気付かないフリをしていた。今……結論を出すのは早すぎる。でも、俺に何かを訴えかけるような瑠璃の表情を見つめていると、一旦は決めた心積もりが簡単に変わってしまうような気がした。増してや……相手は龍志だ。
「……うん、そうだよね、私、龍志さんと遊びに行く。龍志さん、どんな所に連れて行ってくれるのかな。静かで優しいから、美術館とか、そういう落ち着いたところかな。それとも、意外と人の集まる所かも。とにかく、OKの電話しなきゃ」
大袈裟にはしゃいでみせる瑠璃の姿は、白々しいと共に、俺の心を乱していた。瑠璃、お前、本当に楽しみなのか。
でも……今は、龍志の前であんな事を言った手前、どうする事も出来ない……自分の言った言葉を後悔するなんて、今までで殆ど経験がない。それだけに、どうしていいか分からず……瑠璃がダイヤルしている内に、駆け足で自分の部屋へと戻り、頭から布団を被った。




