ちちおや
夏休みも後三日で終わろうかと言うある日。俺と瑠璃は、上越新幹線に乗り込み、一泊二日の予定で、とある場所へと向かっていた。
瑠璃と遠出するなんて、瑠璃と出会ってから半年、勿論初めての事だ。年頃の男女が泊まりで旅行なんて……と言う向きもあろうが、俺たちはあくまで兄妹だから、何も問題は無い。……とは言っても、現地でもう一人と合流する手はずになっているのだが。
で、車窓に流れる景色はそろそろ緑が濃くなっている。この分だと、到着にはまだ時間がかかりそうだ。それを察してか、俺の隣、通路側に座っている瑠璃は、こころもち頭を俺の肩に乗せ、すやすやと寝息を立てている。なにしろ、昨日の夕方に急に決まった旅行だけに、準備が色々とあって慌しい事この上なく、2人して床に付いたのが午前3時は過ぎていたかな……たかが一泊二日と言っても、なかなか荷物がかさばるものだ。
「んん……」
瑠璃が目を覚ましたようだ。エアコンが効きすぎるくらいに効いているから、身体が迂闊に寝る事を拒否しているのかも知れない。
「起きたか?」
「うん……今、どこを通った所?」
「確か……浦佐っていう駅を出て間もないかな」
「じゃ、もうそろそろかな……でも、あと少しだけ寝かせて」
そう短く答えると、瑠璃は再び目を閉じた。風邪引くぞ、と言いたい所だが、早くも規則正しい寝息を立てるその小さな姿を居ていると、何となく起こすのが躊躇われる。
俺も椅子に深く座り直して、息をついた。
それにしても、山形から出てきてこの方、修学旅行以外で県外に出るのは初めてだな。まあ、県外にそう用も無いけど。そのお陰で、旅行に何を持ち出したらいいかさっぱり分からなかったから、荷物は取り合えず一日分の着替えだけ。対する瑠璃は、一泊二日の泊まりにあれだけ遅くまで準備していたにも拘らず、結局俺と似たような荷物に。一時は、ヨーロッパに旅行にでも行くかのような大荷物を纏めようとしていたから、慌てて止めたっけ。瑠璃も、あまり遠出をした事はないようだ。
隣の瑠璃を見る。相変わらず、寝てても覚めても美しい。これから向かう先は、実は瑠璃が俺の家に来るまで育った場所らしい。らしいというのも、瑠璃はそれについてあまり詳しく話してくれないからだ。俺と暮らす前の思い出は、余り芳しくない物ばかりらしい。それでも……瑠璃の故郷が知れた事でも、俺に取っては大前進だった。
……そう、俺は未だに瑠璃の事を何も知らない。一緒に暮らしているのに、兄をやっているのに。そんな愚かしい事は、もうお終いにしたかった。これを機会にもっと瑠璃の事を理解したい。いや、しなけりゃならない。そんな俺の決意を知る筈もない瑠璃は、ただ安らかな寝息を立てているだけだった。
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そろそろ目的地の駅が近くなってきた。といっても、多くの客は、そのもう一つ先の駅で降りるようだから、いそいそと荷造りをしているのは俺たちぐらいのものだ。車窓からの景色がゆっくりと減速していき、ようやく到着。
ここは、新潟一つ手前の燕三条駅。といっても、俺がその名前を聞いたのは、今回が初めてだ。なにしろ、俺が生まれて初めて降り立つ駅だけに、どこをどう歩いたのかもさっぱり分からず、ただ瑠璃の後をついてゆく。そして、駅の外に出ると……
「おーい、ここだここだ」
歳の割には体格のいいヒゲヅラの男が、俺たちに向かって手を振っていた。俺たちもそれを認め、歩み寄っていく。歩を進めるたびに、胸の中に何とも形容しがたい感情が湧きあがる。恥ずかしいような、懐かしいような……しかし、その中には確実に「肉親への慕情」があった。
その男は、一見取っ付きにくそうなヒゲヅラを歪めて、俺に笑いかけた。
「久し振りだな、元気そうで良かった」
それは、長い間を海外で過ごし、幾多の発掘に立ち会ってきた人間のみが発する威厳を有しながら、それでいて底なしの優しさを湛えた声だった。
「……そっちこそ」
俺も、その複雑な気持ちを上手く纏めきれてはいなかったが、自分の成長を少しでも示したくて、努めて平静を装い、それでいて少しは再開が嬉しそうに見えるように取り繕い、ようやくそれだけを口に出す事が出来た。
でも……親父は、俺のそんな気持ちを見透かしたかの様に、苦笑いして、頷いた。
矢島亮清。
俺の、親父。俺を幼い頃からじいちゃんの元へ預けっぱなしにし、世界各地へ飛び回り、色んな場所で色んな事をしてきた、俺の親父だ。
「こ、こんにちは……」
瑠璃は、緊張しつつも俺の影から一歩出て、ぺこりと頭を下げた。いかにもぎこちないその姿に、親父は俺に向けたものよりも数百倍は優しい笑顔を作り、
「こら、瑠璃。お父さんに向かって「こんにちは」はないだろう?」
「あ、は、はい」
「……そういっても、すぐには無理だろうけどな。とにかく瑠璃、久し振り」
「はい、お、お父さん」
瑠璃も、他人行儀な言い方をされた親父が寂しそうな顔に一瞬だけなったのを察したのか、なんとか、そこまで言葉を振り絞った。
「……うん」
親父は満足げな顔で俺たちに背を向け、用意してあったレンタカーに乗り込んだ。俺と親父が顔を合わせるのは、おおよそ一年半ぶり。俺が高遠高校入学の折に、半日だけ顔を見せて以来だ。それ程の時間が空いていて、感動の再開を果たしてもたった一言二言で済ませてしまう。いかにも照れ屋で傲岸不遜な親父だった。
車に乗り込み、走る事しばらく。結構な時間を走っている筈だが、俺は初めて見る風景に時間を忘れて目を奪われ続けていたため、気が付いたときには、もう目的地に着くところだった。
その目的地とは、ある墓地。小高い丘の上に作られたその霊園は、お盆を少し過ぎているせいか、特に目立った人出もなく、静まり返っている。まぁ、賑やかな墓地ってのも想像するだけで気味が悪いが。
俺たちの目的とする墓は、この丘のやや上の方にあるから、かなりの急な上り坂を登っていかなければならない。まだまだ暑いから、さぞや汗をかくのかと思ったら、以外や以外。額に汗が浮かぶ程度で済んだ。そろそろマラソン大会用のトレーニングが効いているのか、新潟が涼しいのか。ふと後ろを見ると、瑠璃が遅れかけていて、ちょっとしんどそうだ。親父は流石に世界中を飛びまわっているだけあって、世の腹の突き出た同世代が見たら溜め息が出そうなほどキビキビと坂を登っていた。
俺は少し歩調を緩め、瑠璃を待った。
「はぁ、はぁ……」
いかにも運動が得意そうではない瑠璃は、肩で息をついて俺に追いついた。
「はぁはぁ、お兄ちゃん……?」
俺は何も言わずに手を差し出すと、その手と俺の顔とを見比べた後、微笑んで……手を握った。俺の手と比べて、いかにも小さな手。それはいかにも儚く、脆く、そして暖かい。俺も微笑みを返して、力強くその手を引き、歩き出した。前方では、それを見ていた親父が、かすかに目を細めたような気がした。
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結局、目的のお墓は霊園の一番高い所にあった。小ぢんまりとしたつくりで、墓石も真新しい。そこには、おはぎが入っていたと思しき空の皿と、日本酒の一升瓶が供えられていた。昨日までに誰かがここを訪れていたらしい。と思ったら……
「おお、やっぱり甘い物はあっという間に平らげられてしまうな。烏か猫か」
「親父……昨日も来たのか?」
「ああ……昨日は親友同士、水入らずでな。今日は、こうして娘の無事な姿を見てもらおうという訳だ。その娘を預かる、ワシの不肖の息子もついでに、な」
親父は、持ってきた桶の水を掛け始めた。俺は、燃え残った線香を片付け、新たに燃やした物を差し、途中で買ってきた花を生けた。瑠璃は、水を流し終わった後、布で無心に墓石を磨く。まだ建ってからそう間もないから、余り汚れてはいないのだが、それも心掛けだろう。だって、この墓碑には……
「岩戸 光央」
と刻まれている。
言うまでもない、瑠璃の本当の父親、親父の大親友・岩戸教授の墓なのだから。
一通りの儀式……さっきも言ったとおり、まだ真新しい墓だから、墓の掃除なんてそんな意味合いしかない……を終えた後、改めて俺たち三人が横一列に並んだ。
「さ、ご挨拶だ。盆を過ぎたのは、まぁ勘弁してもらうとしよう」
親父が促す。死者の魂は、その者の一番愛しい場所へと帰ってゆく……これは親父の持論だ。多くの人の場合なら、こんな寒々しい場所に魂までしまい込まないだろうけど、岩戸教授は、この地を、自分の生まれた街をこよなく愛し、そして最後はここの土に還る事を望んでいたという。なれば、教授の舎利のみならず、魂もここに帰って来ていても不思議はない。
先ずは瑠璃が一歩前に出た。ごく久し振りの再会がこの様な形になってしまうとは、一年前の瑠璃自身想像も出来なかったろうに……そう考えると、瑠璃の悲しみがどこまで深かったのか、想像するたびに背中が孤独で寒くなる。
瑠璃は、しばらくの間何を言っていいか分からず、黙っていたが……
「お久し振りです、お父さん」
と、それだけ言葉を紡いだ後、また沈黙した。本当に……この時ほど、瑠璃と気持ちを入れ替えてやりたいと思った事はない。
瑠璃が話してくれたところによると、彼女は幼い頃からこの新潟で育ったんだそうだ。普段から長い間家を空けている岩戸教授の帰りを待ちながら。たまの再会を心から喜ぶ瑠璃の姿が思い浮かぶようではないか。
しかも、岩戸教授がなくなる直前、一年振りに親子水入らずの時を過ごそうと約束していたらしい。その悲報を聞いた時の瑠璃のショックの大きさなんて……想像なんて出来るシロモノではない。
そして教授が亡くなってから約半月、瑠璃はこの新潟で一人で過ごし、進級するのを見計らって俺の元へやってきたんだそうな。初めて知った瑠璃の生い立ち。それを語る瑠璃が余りにも淡々としていたから、ついその時の思いは吹っ切れたのかと思っていたが、それは大きな間違いだった。そういう風に冷めたフリをして、他人事のように振舞っていないと、未だに自分を見失うくらい辛かったんだと思う。
それでも瑠璃は、
「私は……元気です。だから……もう、大丈夫です」
短く、笑顔で、それだけを。
その短い言葉の中に、全ての思いが詰まっていた。教授を安心させる為のウソではなく、心から俺を信頼してくれている証と受け止めさせてもらおう。それも俺の、お前を守るための勇気になるのだから。
瑠璃は一歩下がって、元の位置に戻る。顔は精一杯の笑顔でも、こみ上げてくる物は押さえきれずに、手の甲で目元を拭う。その震える細い肩を、親父が優しく抱いた。でも、粗方の涙は、あの時夜桜の下で流し尽くしたから、それ以上涙の雫がこぼれる事はなかった。
さて、次は俺の番……だな。
俺は一歩進み出て、ごほん、と一つ咳払いをする。科学的には、ここには俺達三人以外誰もいないと分かっていても、やっぱり緊張する。俺は親父の影響からか、割とオカルトを信じる方だし、そうじゃなくても、親父や瑠璃の前で決意表明をするのだから、滅多な事を言えるはずもない。
「え、と……初めまして、俺、いや、僕は矢島亮太郎と申します、以後宜しくお見知りおきください」
ようやくここまで言葉を搾り出した所で、背後から笑いを噛み殺すような声が。俺はムッとしてそっちを睨む。
「いや亮太郎、そんなに硬っ苦しくなくていいんだ。なにしろ、ワシと馬が合った人間だからな。自分の言葉でいいんだ、自分の言葉で」
案の定、親父が目に涙を浮かべ、身体をよじりながら有り難いアドバイスを送ってくれる。瑠璃も、親父の言う事が正しいとばかりに頷いていた。……ま、実の娘がそれで良しと言ってくれているなら、それでいいんだろう。でも、それで吹っ切れた。しなくてもいい余計な緊張が解れた。
「改めて、初めまして、教授。……他にどんな呼び方をしていいか分からないから、きっと呼ばれ慣れていたこれで行かせて貰います。俺、矢島亮太郎と言います。今は、娘さんの瑠璃さんを預かって、兄妹をやっています。俺は……瑠璃さんの兄貴としても、そして教授の代わりの父親役としても力不足で、見ていて歯がゆいだろうとは思います。だけど……」
そこで瑠璃を見る。瑠璃は、次に俺が何を言うか、興味津々といった風だ。
「力不足なりに、俺はこの命を懸けて、瑠璃さんを守る。彼女がいつか誰かの……俺が許すに足る男の元へ行くまで」
短いかもしれないが、ここで雄弁に語るなんて無意味だ。だから、ただ今の俺のありったけの気持ちを込めて、そう宣言した。これには、自分の決意を固める意味合いもある。
今まで、幾多の悲しい思いを味わってきた瑠璃を、幸せにしてやりたい。正直に言って、俺は今の今まで、あの日瑠璃に出会うまで、生きる意味を見出せなかった。だけど、その孤独な心と触れ合い、凍りついた心を暖め、溶かしてやる事が俺の人生の最重要課題となった。俺に生きる意味を教えてくれた瑠璃。そんな瑠璃に対する、この半年で蓄えた自らの想い。それを今、初めて本人の前で告白した。
この想いがどれだけ伝わったか、本物であると受け止められたかは、振り返って、瑠璃と親父の反応を見た瞬間に分かる。だから、少しだけ振り返るのが恐い。でも、振り向かなきゃならない。
恐る恐る、瑠璃を見ると、
泣いていた。
それも、笑顔で。
親父も頷いている。
その二つで、俺の主張が受け入れられた事が分かった。確かに、言葉は短かったのかもしれない。ただ、俺の気持ちを正直に、素直にぶつける事は出来たと思う。
「ま、不肖の息子ながら、ワシの自慢の息子でもある。一つ、草葉の陰から暖かく見守ってやってくれないか」
親父は一升瓶の蓋を捻る。きゅぽん、という小気味の良い音と共に、日本酒の甘い芳香も辺りに振りまかれた。そして、湯飲み茶碗に中身をとくとく注ぐ。
「昨日飲みまくったばかりだが、今日のはまた別の酒だ。言ってみれば、兄弟杯ならぬ親子杯かな」
そう言って、墓の上に湯飲みを置き、そして俺にも湯飲みを寄こした。
「お、おい、俺は未成年……」
「硬い事言うな。何も浴びるほど飲むわけじゃなし、父親のこのワシが許すんだから、一口ぐらい付き合え。それとも何だ?最近の高校生は、酒の一つも飲めねぇってのか?」
「親父、言いたい事は分かるが、言ってる事が無茶苦茶だぞ……」
「と・に・か・く・!!ほらほら!!ほらほら!!」
なおも親父は湯飲みを押し付けてくるので、仕方なく置け取る。全く、このオッサンの社会通念はどうなってるんだ?とは言いつつ、中身は湯飲みに半分程度しか入っていない。これくらいなら薬だ、薬。
見れば、瑠璃にもお猪口を渡している。どこまでも用意周到なんだろう。
「では光央。俺達を見守っていてくれ。その代わり、これからお前の分まで幸せになってやるからな」
俺と瑠璃を交互に見て、そして
「乾杯」
湯飲みを掲げた。矢島兄妹もそれに倣い、湯飲みとお猪口を捧げ、一気に口をつけた。全く、形式も宗教も何もあったもんじゃないが、とにかくそれが教授と一番親しかった人間のやり方だというのならしょうがない。教授もそう物事にはこだわらない方だったんだろうか。瑠璃の躾の行き届き方を見ていると、何事にもけじめをつけなければ気の済まない、生真面目な人間をイメージしていたが。
「ぷぁ」
俺と親父は何ともないが、飲み終わって一番反応のあったのが瑠璃だった。酒など飲み慣れてはいないのは勿論だろうし、只でさえ日本酒は弱い酒じゃないからな。
「大丈夫か?」
「けほっ……うん、平気。お酒って、結構美味しいね」
などと背伸びしてみせる瑠璃。そんな微笑ましい姿も、俺達にとっては宝石のようなものだ。
そして、別れの時がやってきた。
「言い残した事はないか?」
親父が教授の墓にタバコを手向けながら、言った。
「無いよ……」
「私も」
さっきの短いヤツで、言葉としての誓いは全てだ。あとは、行動で示すのみ、瑠璃もそう思っている。
「じゃ、行くか」
「はい」
墓に背を向け、歩き出す。来年も来るからね、とは誰も口に出さない。何故って、何も言わなくても、全員がそう思っているからだ。それほど、ここに来る事は有意義だった。 俺達家族がうまくやっている姿を教授に見てもらい、安心してもらう。俺達にとっては、確実に家族が顔を合わせる機会となる。
そんな場所を、教授に提供してもらったような気がした。
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その後、俺達は親父が予約していた温泉旅館で、旨いものを食い、温泉に浸かりながら、近況報告をしあった。親父もやっぱり忙しいらしく、明日になればその足で、海外の発掘現場へ舞い戻るんだとか。ちゃんと仕事はしているようで、少し安心。
でも俺はその前に、親父と話さないといけない事がある。でも、この楽しさに……久し振りに親父と会い、軽口を叩きあったりするうちに、どんどん機会を逸して……結局、眠る時間になってしまった。
こんなチャンス滅多にないのだから、と、親父は三人一部屋しか予約していなかった。瑠璃はどうするんだ、と思ったが、瑠璃自身は以外に楽しそうだった。三人以上で眠るのなんて、今までは修学旅行の時ぐらいしかなかっただろうから、それも頷ける。キャンプを例に挙げるまでも無く、眠るという行為を大勢と共有する行為は、その目的に反して昂ぶってしまうものだ。
おまけに、三人で川の字になって眠ろうと言うのだからどうかしている。でも、瑠璃は疲れていたのか、早々と床につき、すやすやと寝入ってしまった。親父も、酒が入っていたせいもあるのか、すぐにイビキを掻き始める。こんなイビキの中で眠れるんだから、瑠璃は相当疲れていたんだろうな……昨日は寝不足、今日は墓参りだから当然か。
で俺はというと……障子を開け、窓際にお約束のように置かれた椅子に座り、月明かりが眩しいくらいの夜空を見ていた。住み慣れた我が家とは違う環境だからなのだろうか、なかなか寝付けない。自分では、そこまで神経が細い人間だとは思わないんだが。
すると、親父がもぞもぞ、出来るだけ瑠璃を起こさないように寝床から這い出して、俺と目が合った。
「なんだ、眠れないのか」
「まあ……ね」
瑠璃は熟睡しているようだから、普段どおりの話し声でも起きる心配はないだろうが、それでも心使いとして、声をひそめる。
「あの……さ」
「ん?」
俺の対面に座り、俺と同じく夜空を見上げる親父を見て、はっとした。
月明かりに照らされた親父の顔。年齢相応に刻まれたシワが影を作り、親父の表情を彩っている。そこには、人生の酸いも甘いも噛み分け、しかもそれらを楽しみ、自らの誇りとしている立派な男の顔があった。俺の2.5倍は生きて、様々な経験が親父の味わい深い顔を形成しているのだと気付いた時、俺は今を、しっかりと悔いなく生きているだろうかという疑問を感じずにはいられなかった。俺が親父と同じくらいの歳になった時、同じようにシワで人生を語れるような人間になれるのかどうか、と。
「俺、進路……どうしようかって思ってるんだ」
漠然と感じていた様々な不安。その最もたるものは、今はそれだ。龍志は既に国大受験を決め、遠藤は出版関係か。今まで知り合ってきた親しい人間が、未来のビジョンを抱きつつある事を知る。焦りを覚えないと言えば大嘘になるな。そういえば、瑠璃は高校どうするすもりなんだろう……
「進路?お前まだ2年だったよな?それだったら、取り合えず大学に行く為に勉強してればいいんじゃないか?」
「そうじゃないんだよ……上手く言えないけど、俺の未来はそっちにないような気がする。それこそ、今決め付けるのもどうかと思うけど」
「………………そうかも知れないな。お前のそばにはなかなか居てやれなかったけど、本当のところ、お前が大学のキャンパスで真面目に講義を聞き、普通の会社に入社して普通に働く所なんて想像した事もなかったからな。お前はもっとアクティヴに……人から何かを授かる仕事じゃなく、自分から何かを積極的に生み出す事の方が向いてるように思う」
「そう……かな」
そういえば、遠藤と修学旅行のしおりを作っている時、俺にはデザインのセンスがあると言われたっけ……この場合、何のデザインセンスと捉えればいいんだろうか?デザインって一口に言ったって、それこそ建築から服飾デザイナーまで、何でもあるぞ。でも、本当に遠藤が言いたかった事は、俺には「モノをデザインする力」そのものが備わっているという事かもしれない。世の中には、一方的に生み出されたものを消化するだけの人間の方が圧倒的に多いのは事実だ。……って事は、俺は「そっち方面」も考えていいのかな?
「ま、取り合えず言える事は、まず勉強して……この場合、文字通りの学校の勉強だけの事じゃないぞ……自分の世界を広げ、自分の進路の選択肢を増やす事を考えたらどうだ?きっと、それだけで人間に厚みが出るぞ」
なるほど……な。様々な失敗をして勉強で済まされるなんて、今のうちだけかもしれないし。
「それでも、卒業が近くなって、自分の見の振り方に迷っているようだったら……」
親父はそこで、俺の瞳を真正面から見据えた。40ン祭にはとても見えない、済んだ輝きの瞳が、俺の心の底まで見透かされているような気さえする。
幼い頃は、滅多に顔を出さない親父を憎んだ事もあったし、今でも少しだけその気持ちはあるけれど、人間的にとても太刀打ちなど出来ない、太い男である事は疑いようがなかった。
「ワシの傍に来てみないか?」
「え……」
「つまり、ワシの仕事を手伝ってみんか、という事さ」
……そんな事、考えた事もなかった。俺が親父と一緒に、海外の遺跡で発掘調査をして、世紀の大発見物に興奮している……それでも、そんな光景が咄嗟に浮かんだのは、親父に対するどんな感情が見せたものだったろうか。
「でも……そういうのって、やっぱり博士号とか取ってから従事するものなんじゃ……」
「いんや、そんなのはオマケというか飾りみたいなもんさ。本当に必要なのは、研究室に閉じこもりっぱなしで理論だけ先行してるデスクワーカーじゃない。足で経験と知識を稼いだ本当の意味での考古学者さ。それでも将来、号が必要になったらどうにでも都合をつけてやる。肝心なのは、若いうちから経験を積んどく事だからな」
「……」
「今すぐ決めろとはもちろん言わないし、高校卒業の後で迷ってからでもいい。ワシが元気な内ならな」
俺が動揺しているのに気付いたからか、親父は優しくそう言ってくれた。何だか、初めて親父らしく優しい所を見せたような気が……
「ま、そういう選択肢もアリ、と考えていれば、気楽になるだろう?あ、それから断っておくが、決して「逃げ道」ではないからな、説明するまでもなく分かっているだろうが」
あっちがキツいだから親父の元へ行く、というほど甘い世界じゃない、という事か?それなら分かりきった事だ。この世に甘い道なんて存在しない。
「有難う親父、ちょこっとだけ楽になった」
「ちょこっとだけ!?ワシの言葉なんてそんなもんだったのか……」
「ウソウソ、すごくいいアドバイスだったよ」
「ほんとか?ま、いいがな」
親父はそれきり何も言わず、トイレに行った後すぐに布団に潜り込み、再び豪快なイビキを掻き始めたのだった。
そう……今は、自分の出来ると思ったことに全力でぶつかり、悔いのないようにすればいいだけだ。今はもう、全ての事をやったと自分に言えるくらいで、将来後悔するのに丁度いいくらいなのだろうから。
今の俺にとって重要な事は……瑠璃を守る事と、さらにもっと身近では、龍志とのマラソン勝負に全力でぶつかる事だ。
なに、難しい事じゃない。今までの俺を貫き通せばいいだけじゃないか……そう割り切った瞬間、胸の中が一気に軽くなったような気がして、そして一気に眠気が押し寄せて、床に入る。床の中は、瑠璃の甘い香りと親父のタバコ臭が入り混じって、説明の仕様のない状態になっていた。親父はヘビースモーカーだけど、俺たちの前では気遣って一本も吸っていない。そんな密かな優しさをひけらかさない親父が、俺はやっぱり大きく見えた。
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翌朝、早いうちに旅館を出た俺らは、その足で新潟に向かい、飛行機に乗るという親父を駅で見送った。
短い間ではあったが、瑠璃は親父の人柄に惹かれたらしく、随分と打ち解けていた。昨日、会ったばかりのころのぎこちなさがウソのようだ。
親父が新幹線に乗り込み、ドアが閉まると、それまで笑顔で雑談をしていた筈の瑠璃の表情が一変した。
(泣くな泣くな、また来年会おう)
と、親父がドアの中から、口の動きだけでそう伝える。瑠璃は頷きつつも、溢れる涙を止められない。一日で随分懐かれたもんだな、親父。
そして車体が動き出すと……親父はカッコつけて敬礼までしやがった。肘を畳む海軍風だ。
ドラマみたいに新幹線を追いかけるなんて事まではしなかったけど、そうしたい衝動には駆られそうになった。
俺は、瑠璃の肩に両手を置き、
「また、来年元気な顔を見せてやろうな」
耳元でささやくと、瑠璃は無言で、しかし力強く頷くのだった。




