Fireworks
夏休みも残り後わずかになったある日の午前。俺はリビングのソファで、残りの余りに多い宿題をどう片付けようと思案に暮れていた。……思案している暇があったら、その間に少しでも手を付ければ良さそうなものだが。
時計はもう10時を指している。相も変わらずの猛暑で、エアコンを付けなければやっていられない。こう暑くては、秋のマラソン大会に向けての練習など、とてもじゃないが出来ない。今日の夜辺りから、本格的にジョギングを再開しようかと蕩けた頭で考えていると……
ぴんぽーん♪
と、玄関でチャイムの音がした。その直後、俺の遅い朝食の後片付けを終えた瑠璃が、エプロンで手を拭き拭き、小走りに廊下を走ってゆく。
しかし不思議なもので、チャイムの長さ……チャイムのボタンを押してから離すまでの時間……で、来客が誰なのか分かるようになって来た。勿論、家に度々来る人じゃないと分からないけど……ボタンの押し方一つにも、注意を払っていれば個性が滲み出るものなんだな。
ちなみに、今のチャイムの押し方だと……
「お兄さん、お邪魔します」
リビングに顔を出したのは、やっぱり愛菜ちゃんだった。そういえば、夏休みの宿題を一緒にウチでやるって、昨日瑠璃が言ってたっけ……推理もクソもないな。それにしても、他の友達を連れてこない所を見ると、本当に瑠璃と愛菜ちゃんは仲が良いんだな……愛菜ちゃんの性格から言って、瑠璃だけしか友達が居ないって事は無いだろうし。
「いらっしゃい、愛菜ちゃん」
俺がそう言ったきり、彼女は顔を真っ赤っかにして、俯き……
「る、瑠璃ちゃん、早く行こう」
何か飲み物を、と言う瑠璃を制し、その背中を押してそそくさと2階へと上がっていってしまった。
「お兄ちゃん、良かったら、後でお勉強見てくれる?」
と、既に階段を登り終え、見えなくなったところで、瑠璃の言葉だけが聞こえた。
余りの愛菜ちゃんの勢いに、俺も一瞬呆気に取られていたが……温泉で、彼女に、キス、されたんだよな……という事実を思い出して、俺まで顔が熱くなる。あの時は、話の続きを俺が強引に断ち切ったけど、
「もし、おじいちゃん、おばあちゃんと呼べて、正二さんとも分かりあえたら……その時は……」
その後の言葉は……容易に想像がつく。いくら俺が鈍いと言っても、ね。
取り合えずお茶の用意をして、2階へ上がる。いつもなら喫茶館で買って来るスペシャルブレンドをアイスにして出す所だが、豆は丁度切らしているし、部屋の中はクーラーが良く効いているだろうから、たまにはホットの紅茶を出す事にした。お茶請けは……と冷蔵庫を探すと、昨日買ってきたばかりのレアチーズケーキが三つおあつらえ向きにあったので、それを出す。二人は勉強しに来たのだから、一緒に食おうかどうか迷ったのだが……結局、お邪魔する事にする。一応、勉強を見てくれと言われた事でもあるし。無碍に断るのも、何だかわざと距離を置いているようでイヤだからな……しかし、顔を合わせにくい……しからば、どうするか。
……
…………
………………
無い智恵を振り絞って導き出した答えが、
「遠藤と龍志を呼ぶ」
という事だった。
なるほど、親しい人間と夏休みの宿題を片付けるという事にもなるし、これだけ人数が居れば、様々な意味でのサポートにもなろう。しかも、成績が上から数えた方が早い遠藤と龍志なら、勉強を教える側としての俺のサポートとしてはうってつけだ。
我ながら完璧な答えだ。……そこまでして、愛菜ちゃんと顔を合わせるのが恥ずかしいのか、俺は。
取り合えず、お茶が冷める前に瑠璃の部屋へ入る。すると、二人は既に真剣な表情で、山のような宿題に取り掛かっていた。……そういえば、瑠璃も愛菜ちゃんも3年生なんだっけ……受験生があんなに遊んでいて平気なのかと聞いてみたくなったが、俺が彼女らと同じ時期はどうだったか、を思い出せば……何も言えはしない。
「お茶が入りましたよ、お嬢さんたち」
ポットからお湯がこぼれない様に、慎重にトレイを床に置く。カップの類をテーブルに移し変える途中、ちらりと二人が取り掛かっている課題を盗み見た。
「ぅえ」
思わず吐き気を催す、数字の羅列。そう、俺は数学が大嫌いだ。
「お兄さん、数学は嫌いなんですか?」
「ああ……この凶悪な教科の成績が悪かったお陰で、志望校のランクを一つ落とさなけりゃならなかったんだから。憎んでも憎みきれない」
思えば、中一の一学期の中間、要するに中学生活初っ端の数学のテストで、10点という素敵な成績を収めてしまったものだから、それ以降はやる気が出なくなってしまった。幸い、その他の教科には割りと気が向いたから、この高遠高校に入学できた様なモンなんだが。
「私は、結構好きなんです。何だか、パズルを解いているみたいで。教わった公式とかを自分の頭の中で組み立てて、回答を出して、それが正解だった時の達成感みたいなものが好きなんです」
へぇ……そういうもんなのかな。俺には、単調でつまらない、普段の生活には全く関係のない、試験に通るための学問と言う気がしてならないが。しかし思えば、あのテストの結果がよければ、俺も数学好きになっていたかも知れない。大体において、きっかけなんてそんなもんだろう。
「それよりさ、これから俺の友達も呼んで宿題を片付けようと思うんだけど、呼んでいいかな?二人とも成績はいい方だから、勉強を見てもらえるかもしれない」
「構いませんけど……お勉強は、お兄さんが教えてくれるんじゃなかったんですか?」
愛菜ちゃんが意地悪く言う。
「そ、それは、ほ、ほら……」
どんな言い訳をしても、「お勉強は俺の専門外です」と告白するに等しいので、ムダな言葉はざっくりカットし、
「僕には無理でごぜいやす」
素直に白状した。
愛菜ちゃんはけらけらと笑い転げ、瑠璃はというと……
「はぁ……」
俺の成績を暗に悟ってしまっているのか、何ともいえない溜め息をついた。反論してやりたかったが、この前、世の親御さんなら泣いて喜びそうな、瑠璃の一学期の成績表を見たばかりだから、結局は口を噤むしかないのであった。
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それから程なくして、龍志と遠藤がやってきた。二人とも丁度良く宿題を片付けようとしていた所だったらしく、電話先では二つ返事。確か、愛菜ちゃんと遠藤は初対面だったが、面倒見のいいお姉さん的存在の遠藤と、人懐っこい愛菜ちゃんは相性もぴったりらしく、話が弾むのにそう時間はかからなかった……って、一応勉強しに来てるんだがな。
瑠璃はといえば、文系の得意な龍志と楽しそうにやっているし、愛菜ちゃんも遠藤と、これまた理系同士で意気投合したらしい。で、置いてけぼりにされたのは俺一人。一人で黙々と課題をこなすが、さっぱり進まない。こんな事で疎外感を味わうなど、普段から勉強はやっておくものだ、とヘンな所で後悔をしてしまった。
そんな二組を横目に見つつ、密かに立ち上がってキッチンへと向かう。
人数が多くなって、勉強会会場をリビングに移したから、瑠璃の部屋で勉強するよりは広くていいだろう。そこで、俺はみんなの分の夕食を準備する事とした。あの輪の中に俺の居場所が無い以上、それは自分で切り開くものだ……そんなに大したことでもないが。
さて、時刻はもう午後5時近く。窓から差し込む西日が、この時間だとそろそろ眩しくなってきた。いよいよ夏も終盤戦だ。あと一週間の休みをどう有意義に過ごそうか、大いに迷う。
さて、メニューはと言うと……五人も居るんだから、カレーにでもするか。一旦リビングに戻ると、皆もそろそろ自分の課題の残りに目処を付けたところらしく、教科書やらプリントやらをあらかた片付け始めていた。みんなは、一旦集中してしまうとムダ話一つせずに集中する力がある。特に、遠藤のそれは、修学旅行のパンフレット作成の作業で実証済みだ。そんな遠藤の毅然とした態度が、周りをも引き締める程凛々しいものであるという事も先刻承知である。
俺の家に集まった人間には、俺の作った飯を食って帰ってもらう事は必定。例えイヤだといわれても、首に縄付けてでも食ってもらおうか!!ふははは!!
………………
皆に辛いものが大丈夫かどうか確認し、全員の耐性ありを認めたところで、いよいよ準備へと取り掛かる。カレーといっても、皆が普通に考えるインド風、ついでに言うなら海軍伝来のカレー、では無い。ココナッツミルクの香りとコクの豊かなタイ風カレーだ。
このときの為に、わざわざタイ米まで買ってきたんだから、気合を入れて作らなければ。先ず、米を磨いで固めに炊飯。その後、大根、茄子、鶏肉などを炒めた後に、水、と購入してきたタイカレーペーストとを混ぜ、煮込んだところにココナッツミルクを加え、一煮立ちしたらナムプラーで味付けし、
「でっき上がりぃ、と」
平たい皿に飯を盛り、カレー本体を取り分けて完成。カレーを煮込んでいる間に切って野菜を彩り良くボウルに盛り付け、
「おーい瑠璃、運ぶの手伝ってくれー」
お手伝いを呼べば、それで俺の仕事は終了。ふと気付くと、自分の手際に全くムダが無い。慣れというのは恐ろしいもので、じいちゃんと暮らしている時は、じいちゃんが殆ど料理をしてくれていたから、自分は包丁を持つ事などなかったけど、実際にこっちに来てからは、結局自炊をするしかないのだから、料理の腕前が上がるのは当然だった。
全員で食卓を囲み、手を合わせて
「頂きます」
をする。みんなが、ノリ良く同じようにしてくれるから、こっちまで嬉しくなる。
ややクセのある料理だったにも関わらず、みんなの箸は進んでいる(スプーンだけど)。こういったクセのある料理は、個人個人の好みや、慣れに左右される事はあるけれど、何の感動もない万人向けの料理より、その味を理解できるようになった時の喜びは大きい。
気が付けば、6合炊いた筈の飯は、全て無くなってしまった。予想以上の好評だったな。こうして自分の作ったものを、美味しい美味しいといって食べてもらえる幸せ。俺、料理人になるって事、本気で考えてもいいのかな?
みんなが膨れた腹をさすっている間、とっとと洗い物を済ませる。うーん、俺の手際は本当に完璧だ。我ながら惚れ惚れするぜ。
「お兄ちゃん、何か手伝う事、無い?」
「亮、何か手伝おうか?」
「矢島君」
「お兄さん」
手際は完璧だが、俺一人に後片付けをさせるほど、みんなは薄情ではない。食器を流しに運ぶ事は最早当たり前。でも、瑠璃以外はお客様なんだから、丁重にお断り申し上げ、瑠璃にのみ手伝わせる。
「お兄ちゃん、今日のカレー、とっても美味しかったよ。みんなも、凄く美味しいっていってた」
「そっか。本当は、ちょこっと不安だったんだけどな、辛いし」
「ううん、そんなには辛くなかったよ。私でも食べられたくらいなんだから」
「そういえば……龍志もそんなには辛いもの得意じゃなかったって言ってたな……その龍志の食があれだけ進んでたんだから、まあ成功なんだろ」
瑠璃は、俺の隣で皿を拭きつつ、何が楽しいのか、ニコニコしていた。この場の出来事ではなく、今までの……色々な事を思い出しているのかな。もしそうだとしたら、そこに俺との思い出はあるのか、瑠璃?
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洗い物を片付け終わって時計を見ると、まだ8時。遠藤の門限にはまだ時間があるから、ここは一つ、過ぎ去りし夏を惜しんで……買い置きしておいた「あるモノ」を手に、リビングへと赴いた。そして、その「あるモノ」を見せ……
「みんな、夏の夜といえば、やっぱりこれでしょう」
「亮、わざわざ買ってきたの?」
「いや、瑠璃とやる用に買ってきたんだけどな。あんまりにも大きいパックを買いすぎて……ちょっと欲張っちまったからな……」
「それくらいだったら、この人数には丁度いいわね。やりましょ」
そう、「あるモノ」とは花火。近場のディスカウント店で売っているのを見て立ち止まり、浴衣姿の瑠璃が線香花火をしている、とっても画になる場面を想像したら歯止めが利かなくなり、折角だからとどんどん大容量のパックに目が移っていき、レジを通して気が付いてみれば……一体何人用のお徳用パックだったのか、と思うほどの大きなヤツを購入してしまっていた。己の計画性の無さには呆れる事もあるが、まあ結果オーライということで。
しかし、ウチは住宅街のど真ん中にあるから、実際に花火をするには、少し離れて河原まで行く必要がある。みんなを直帰できるように勧め、空のバケツとローソクとライターを持って準備完了。こうして5人で歩いていけば、河原までの5分の道のりも瞬く間。先客も居ないようだし、バケツに水を汲み、ローソクに火を点していざ開始!!それぞれが思い思いの花火を手に取り、薄暗い河原を照らし出す。愛菜ちゃんと遠藤は実に仲良く、まるで姉妹のように手を取り合って駆け回っていた。こうしてみると……遠藤にはカリスマ、というか、無条件で人に好かれる能力が備わっているような気がしてならない。それは、きっと彼女の17年という短いながらも、恐らくは非常に濃密な経験をしてきただろう事から来る、深みのある優しさから来るものなのは間違いない。
瑠璃は瑠璃で、龍志と火の付け合いっこをしている。共に身体の小さい二人だから、それを眺めていると微笑ましくもあり、胸が……丁度心臓の辺りが、きゅっと縮まるように痛むのも確かなのだった。
……なんなんだ、この感情は。今まで、こんな気持ちは経験した事が無い。未知の感情は恐怖にも似た感覚で俺を苛み始めた。きっと、俺はその気持ちの理由に気付いている。気付いた上で気付かないように、脳がスイッチを強引に切っているのだ。そう、これは気付いてはいけない。出来るなら、この後もずっと封印しておいた方がいい。そうすれば、お互い……いや、最低でも俺だけが傷つくだけで済む。自分の立場を考えれば尚更だ。
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殆ど全ての花火を片付け終わり、最後に残るは勿論線香花火。ある意味で主役のクセに、自分からその存在を主張しない、奥ゆかしい奴だ。そもそも、コイツを開幕に持ってくる人間が居るものか。最後に小さな火の玉を地面に落として、夏の夜が過ぎ去るのを惜しむものだ。そう考えれば、他の花火とは扱いの違う、リリーフエースとして居場所が決まっている憎い奴だとは言えまいか!!
そんなくだらない事を考えているうちに、全員の火の玉が落ちる。予想はしていた事だが、その瞬間、場を何とも言えない沈んだ空気が包む。ほら、やっぱり線香花火は偉大なり。本来、花火は派手なものなのに、人をここまでセンチな気分にさせる花火は他に存在しないのだ。
それから、何となくしんみりとした空気の後、矢島兄妹を除く三人は帰っていった。俺達も送っていこうかと言ったんだが、それには及ばないらしい。先に遠藤と龍志で愛菜ちゃんを送っていき、次に龍志が遠藤を、という事のようだ。まぁ、問題ないだろう。
家に帰ってから……俺は一抹の寂しさを覚えずにはいられなかった。みんなが帰ってから、家の中が静まり返っている。これが普段の情景だというのに、さっきまでの宴は幻だとでも言うように、リビングがムダに広く感じた。広い家なんて、所詮は人数が多い家族のためのものだ。そもそも、親父が帰ってくることすら滅多に無いのに、どうしてこんな広い家を建てたんだろう?
気が付くと、一緒に家に入った筈の瑠璃が居ない。縁側に出てみると、廊下に座り、脚を外に投げ出してぶらぶらさせていた。瑠璃も、この寂しさを感じているのか。いや、むしろ瑠璃の方が、孤独には弱いかもしれない。俺は平気だ。だが、実の父親とそれまで二人暮しだった上に、その唯一の肉親を失ってしまった彼女の孤独は、想像するだけで身体と心が凍える。
「どうしたの?お兄ちゃん」
俺を振り返り、小首を傾げるその顔は、微笑みを浮かべてはいてもやはり寂しそうだ。龍志なら……瑠璃に寂しい思いをさせずにしてやれるのかな?いや、大丈夫だろう。あいつは、ああ見えて芯から強い奴だ。きっと、あいつも幼少の頃に何かしら悲しい思いをしたに違いない。俺の周りには、そんな人間ばかりが集まるな……全員に共通しているのは、全員が心が強いという事。だからこそ、お互いの寂しさを埋めるために惹かれあうのではないか。悪く言えば傷を嘗めあっているとも取れるけど、今までの俺達の関係を思い返してみれば、それは否定できるだろう。
「お兄ちゃん?」
「ん?ああ、ぼーっとしてた」
「変なお兄ちゃん」
くすくす、と屈託無く笑う瑠璃。それは、神々しいまでに美しい、15歳という年齢が放つものなのかもしれない。俺より二つ下なのに、どこかそれより大人びて見えたり、もっと歳下に見えたりするのは、大人でも子供でもないこの年齢の特権だ。
その笑顔を見て、思わずどぎまぎしてしまった俺は、所在無くポケットをまさぐった。と、そこで手に触れたものがある。そっと取り出してみると、残った数本の線香花火だった。
「瑠璃、折角だから、これを片付けちまうか」
「そうね……それだったら、ご近所にも迷惑が掛からないし」
瑠璃に数本を手渡し、直接ライターで火をつける。
「どっちが長く玉を落とさずにいられるか競争しよ」
運任せでどうにも競争になりそうもないお約束事を言ってから、それでもなるべく振動を与えないように、慎重に線香花火を垂らす。
ばちばちばち。
最初は激しく燃えていた花火も、
じじじじじ。
徐々に勢いが弱まっていき、
ぽとり。
とオレンジ色の玉が落ちる。
再び点火するまでの僅かな時間ですら、夏の終わりの寂しさを感じるには十分だ。そして花火に火を点けている間だけ、寂しさを紛らわせる事が出来るが、それとてあと一本ずつ。
顔を見合わせ、お互い最後の一本に火を点ける。しゃがんで花火を垂れている瑠璃の顔が、オレンジ色の火花によって照らし出された。あまりに幻想的な光景に、自分の玉が落ちる事も忘れて、ただ瑠璃を見続ける。
可愛い子っていうのは、何にも代えがたい、無敵の存在なのだな、と実感する。季節ごとに姿を変えるこの日本の四季と同じように、瑠璃の存在も、今の夏の妖精からあと一ヶ月もすれば、秋の妖精となるのだ。
「お兄ちゃん、もう終わっちゃったの?」
瑠璃の声で気付く。顔はこちらを向いていない。俺の花火の音がしなくなったので気付いたようだ。お陰で、瑠璃を見つめ続けていた事を悟られないで済んだ。
「ああ……お前のは随分長いな」
「えへへ、最後だからサービスしてくれたのかな?」
確かに、今までの物よりも随分と玉の持ちがいいな……しかし、それもあと僅か。火花が勢いを失い、地面に落ちた時点で、夏の宴は終わる。
ぽとり。
その瞬間、現実に否応なく引き戻される。ここからは、現実が支配する時間だ。
「瑠璃、お前、進路はどうするんだ」
極めて現実的な問題。瑠璃も秋からは、そろそろ受験勉強に集中する時期に入る。現場の保護者として、聞いておくのが遅かったと思うけど、基本的には瑠璃の考えを尊重する立場でいたいと思ったから、十分に考える時間をあげたかったんだ。
「私……高遠に行きたい」
「な……高遠に?」
瑠璃の成績は、高遠どころのレベルじゃない。偏差値が高い高校に無理して入って、成績が中ほどを行き来するより、偏差値低めの高校にすんなり入って主席を張る、というレベルでもない。
くやしいが、要するに市内一番の公立校に平気で入れる、というとてつもないレベルなのだ。なにしろ、成績表に体育以外は9と10がゴロゴロしてるというのだから。瑠璃の性格なら、内申も特には問題は無いだろうしな……羨ましい限りだ。俺の場合は……まぁ、教師と揉め事を起こして(カンニング疑惑に食って掛かった事件だ)ロクな内申が付くわけ無いよな。教師は、自分の管理しやすい生徒にこそ高得点をつけるものだし。いや、俺の担任はあの物分りのいいヨっさんだからこそ、まともな内申になったのかもしれない。
「うん……でも、私立はお金が掛かるし」
「その点は問題ないと思うけど……それにしても高遠とはな。なんで高遠なんだ?」
「……怒らない?」
「……怒るような事を言わなければな」
「意地悪……実はね……」
そこまで言って、瑠璃は口ごもった。本当に怒られる様な事を言うつもりなのか?
「……お兄ちゃんと、一緒の学校に通ってみたかったから……」
「バカやろ、そんな事の為に、わざわざ高遠を受験る事ないだろ?お前の成績だったら、公立の江奈だって余裕だろうし、私立だったらそれこそ選び放題……」
「でも!!」
瑠璃は、俺の言葉を遮った。……こんな瑠璃は、初めてだ。今まで半年間一緒に暮らしていて、自分の感情を直に表した瑠璃に接するのが初めてなら、その対応をするのも初めてに決まっている。要するに、どうしたらいいか分からない。
「私……どうしてもお兄ちゃんと一緒の学校に通いたい」
「な……何でだよ」
「……私がこっちに来たばっかりの頃、一緒に和泉中学に挨拶に行ったでしょ?その時、込小村先生が言ってた事……ほら、お兄ちゃんがカンニングで疑われて、それを晴らすために闘ったっていうお話」
「ああ……覚えてたのか」
「うん……もし私がそんな立場だったら、きっと泣き寝入りしてたと思うの。それから、お兄ちゃんは学校の中まで改革したって言ってたでしょ?そんなお兄ちゃんと一緒の学校に行ったら、楽しいんじゃないかって……」
「楽しいって、それだけの理由で……」
「お願い」
「……」
瑠璃は普段、これほどまでに自分の主張をする人間ではない。そんな瑠璃なんだから、その我儘にも、ひょっとしたら俺が考えも付かないほどの意味が込められているんじゃないか?甘い考えかもしれないが、俺だって、瑠璃がなるべく俺の目に届く所に居た方がいいとは思う。
「駄目?」
「……」
「お兄ちゃん」
「……一緒に通うって言っても、多分一年だけなんだぞ?」
「はい」
「……後悔、しないな?」
「はい」
「お前がそれ程までに言うのなら、俺が反対できる理由はない。その代わり、親父にもちゃんと言っとけよ。わざわざ私立に通うんだからな」
「はい。……ありがとう、お兄ちゃん」
「別に礼を言うような事じゃないけど、な」
後片付けを嬉々としてこなす瑠璃を見ながら、縁側に腰掛ける。瑠璃の手前、表面上は平静を装ってはいるが、内心は、瑠璃が俺と同じ高校に来るかもしれないという事実に、様々な考えが頭の中を巡っていた。
まず、瑠璃が入学してきた時点で、男どもの話題を掻っ攫うことになり、しかもその子が俺の義妹であるという事で事態を収拾する事になるだろう。そして瑠璃が何かしらの部活に入らない限り一緒に登下校する事になるだろうし、そうしたらそうしたで色々と道草を食って楽しく……楽しく?
……俺、楽しみにしてるのか?
……いや、隠し様が無い。俺は楽しみにしているんだ。そう自覚すると、自分の心の中に封じると誓ったばかりのあの事が、再びその封を破って飛び出してきそうになるのを堪えるのが難しくなりそうだった。
本当に瑠璃の事を考えるなら、頑としてこの話には首を縦に振る訳には行かないのだが……
ああ、もう!!でももう一度約束してしまった物は仕方が無い。そう思い込むことにして、俺は瑠璃の、薄暗い中でも浮かび上がる白い姿を見つめ続けた。
しばらくの後、俺はトレーニングウェアに身を固め、やや速めのペースのロードワークに出かけた。モヤモヤした頭をスッキリさせるには、根本的な解決にはならなくとも、身体を動かすのが一番だ。取り合えず今は、マラソン大会での龍志との対決に向け、身体を鍛えておく事が最重要課題なのだった。
……瑠璃。本当に、それでいいんだな?
頭をすっきりさせるどころか、走っている間中、頭はその事で一杯だった。




